もう一度、恋をするside 深津
まだ少しだけ陽の光が周りを照らしていた場所は、既に照明の光へと姿を変えている。予定の時刻は遥か昔に過ぎ去っていて、スマホの画面とにらみ合うのは既に別の目的へと変わっていた。電話をかけても留守電にすらならない。思い当たる場所にかけてみたが、いい返事は返ってこなかった。コツコツと動く針が、外と同じ光の色を示している。
『分かってます?時計をプレゼントするって事は、時間を束縛するって事っすよ!俺はそういう意味で渡すんです。だから、受け取るなら…そんな想い全部、ちゃんと貰ってくれないと困るんです』
受け取って欲しい、でも軽くみられたくない。そんな想いが綯い交ぜになって、怒りたいのか、泣きたいのか、照れてるのか、その全部を混ぜたような、なんとも言えない表情で、おずおずと差し出された手の平の箱。その中に入っていた時計は、あれからもう三年の月日を刻んで、今の俺の腕に収まっている。その針が約束の時間より更に一回りして、先の見えない時間を刻んでいく。
今日は朝から満面の笑みで「夜、デートしましょう」と誘われて、そのなんだか嬉しそうな顔に、心まで吸い込まれそうになり、抱きついて了解のキスをした。
「じゃあ、六時にいつものところで。深津さんの一番好きな服、着てきてね」
玄関で行ってらっしゃいのハグをして、耳元で囁かれる。んっ、と擽ったく肩をすくめると、顎を引かれてキスをされた。
「行ってきます」
いつもの笑顔で手を振ってドアが閉まる。引退して沢北と同じチームでスタッフとして働いている俺より、ロードワークを日課にしている沢北はいつも俺より先に行く。俺は出勤前までに、洗い物や洗濯を済ませてから家を出る。それがお互いのルーティン。でも今日は、沢北からのリクエストがある。俺が一番好きな服なんて、沢北がコーディネートした服しかない。今日はそれを着て出勤する。いつもとはちょっと違う、照れくささとふわふわな気持ちが交差して自然と心が弾んでいくような、そんな気持ちで家を出た。
ピッピッピッ、と心電図の音が静かに響く。
頭に巻かれた包帯が事の深刻さを表していた。
◇◆◇◆
夕方六時に、いつも二人が待ち合わせをするベンチに行く。クラブハウスから1キロほど離れたその公園はかなり大きく、散歩やジョギングができて、芝生に座ってゆったりできるスペースがある。ベンチもそれなりに置かれていて、カップルや老人が景色を見たり休んだりして、それぞれに楽しんでいる。俺達二人は道路に近い人気のスペースより、少し坂を上がった木々が連なる高台がお気に入り。目の前にはバスケットコートがあり、背の高い俺達が誘われるのはいつものこと。それから二人がそこによくいる事はバスケをする子ども達には周知されていき、一緒に遊んだりアドバイスをしたりと、常に囲まれていつも賑やかに過ごしていた。本当に楽しくて幸せな場所。俺達はそこから沈む夕日を見るのが好きだった。約束した“いつものところ”というのは、その高台のベンチだ。帰りは沢北の方が早く、俺を待つのが日課で、コートにいる子ども達とバスケをし、いない時はベンチに座り、俺が来るまで周りの風景や人の動きをメールしてきて、もう直ぐ会えるのに、着く前にもそうやってやり取りをする。でも、今日はそれはなく、バスケをしている姿もなかった。いつもと違って「デートしましょう」と宣言されれば、そこに姿がなくても、おかしいとは思わない。沢北のことだから何かしらのサプライズを仕掛けてくるかもと少しだけワクワクしながら、どんなふうに現れるのか期待して待っていた。多少遅れたって気にしない。そこまで余裕のない人間じゃない。ただ、遅れる時は必ず連絡をしてくるのに今日はない。時間を守る人間だから、十五分過ぎても姿が見えない事にさすがにおかしいと思い始めた。嫌な汗がじわりと流れる。電話をしたけど電源が入っていないとアナウンスが流れる。留守電にすらならない状況にふと焦りが湧いた。クラブハウスに電話をしても、やはりもういないと言われ、共通の知り合いに何人かかけても、クラブハウスで別れてからは分からないと言われた。周りが暗くなる程待ってはみたが、音沙汰がない。もしかしたら家に帰ってるのかもしれないと、ベンチから腰を上げた時、クラブハウスから着信があった。
「沢北が事故に遭ったって。すぐに病院に向かって」
焦りの中にあった嫌な予感というやつが的中して、ドバッと冷や汗が噴き出す。電話を切った時には、もう足が動いていた。早く早くと焦る気持ちを押しとめて、言われた病院へ向かう。受け付けで名前を言えば、既に処置は終わっていて、病室にいるという。セキュリティチェックを受け、バクバクと鳴り響く心臓の音を無視してどうにか病室へ辿り着く。ドアを開けるのに一瞬躊躇し、一度深呼吸する。随分と前の、高校時代キャプテンをしていた時を思い浮かべる。あの時みたいにどんな状況でも冷静に受け止めれる自分でないといけない。「何があっても焦らない」と儀式のように呟いてドアを開けた。
「深津君…」
先に来ていたスタッフが、深津の顔を見て安堵の表情になる。ベッドに横たわっている沢北は眠っている状態で、心拍数の表示の音がリアルに響いていて、生きいるという証をちゃんと伝えていた。
「体は擦りむいただけで大きな怪我はしてないみたいだよ。ただ、頭を強く打ったみたいで」
横たわる沢北の頭には包帯が巻かれている。頭と言われて、目を覚ました沢北がちゃんとそのままの沢北でいられるのか心配になった。沢北はクラブハウスを出た後、車にひかれそうになった女性を助け、その時に頭を強く打った。出血は外傷だけでCTでは脳に異常はみられなかった。今は意識が戻ることが最優先で、それからどんな状態なのか調べることになる。入れ替わり立ち替わりいろんな人間が病室に来て、今後の事を話し合った。でも、意識が戻るまではこれといった事が決めれるわけもなく、いつ目覚めるか分からない。今日のところは俺一人が残ると決め、みんなを帰らせた。俺達の関係を知っているみんなは当たり前のように納得して病室を後にした。でも、パートナーだからとか、そんな理由で残ったんじゃない。本当は目覚めた時に一番に顔を見たいだけだった。だから、ずっと側にいた。なるべく寝ないように頑張ってずっと顔を見ていた。早く笑って「行けなくてごめんね」と言って欲しかった。
だから、目覚めた時のその一言は俺を絶望へといざなった。
◇◆◇◆
部屋を見渡し、何も残していないか再度チェックする。何年も住んだこの部屋にもう来る事はないと思うと、玄関に歩を進める事が容易ではなかった。それでも自分は出ていくと決めた。
『あの、…ごめんなさい。…その、…あなたの名前が、…分からなくて…』
この言葉を聞いた時、目の前が真っ暗になった。意識が戻った沢北は俺のことを覚えていなかった。それから先生が来ていろんな質問をして、分かったことは、俺のことだけ覚えていないという事だった。本当に俺のことだけ。それでも俺は沢北の側にいた。いつか俺のことを思い出して「忘れてごめんね」と笑ってくれる。そう思って、入院している沢北の世話をした。しばらくして現れたのは、沢北が助けた女性とその両親。彼らは沢北に助けられて運命を感じたのか、それから毎日沢北の病室を訪れた。交流が増えれば、いつしかいろんな事が当たり前になっていく。俺のやっていた事を彼女もするようになり、仕事の合間に来る俺に変わって彼女は沢北の世話を始めた。彼女の献身的な行動は誰が見ても微笑ましい。それと同時になんとなく二人の間に入れなくなって、周りも気を使うようになった。その居心地の悪さは俺自身にも伝わり、俺の方が世話をする為に病室に来る事が不自然になってきた。それでも、思い出したらこの状況も変わるはず。そんな思いで病室を訪れていたが、彼女と仲良く話している姿は見たくない。だから部屋に入る前に一瞬躊躇するようになった。その行動が当たり前になってきた頃、いつものようにドアに手をかけ一瞬躊躇し少しだけ開けた瞬間に「大好きです」という沢北の声が耳を突いて、それ以上開ける事ができなくなった。体は入る事を拒否してるのに、その隙間からは二人の様子を覗いてしまう。見なければ傷つく事はなかったのに、それも後の祭り。そこで見たのは満面の笑顔を浮かべた沢北と、それに応えるような彼女の笑顔だった。次第にドアノブを握る手の感覚がなくなっていく。恐れていた事がついに来た。こうなる事は、なんとなく分かっていた。遅かれ早かれこうなる事は決まっていた。俺の前では未だに他人行儀で硬い表情しか見せない沢北。知らない人間に世話をされる事に違和感を感じてるんだろう。パートナーと分かっている周りの人間は、俺だけの記憶がないにも関わらず、俺が世話をする事を許してくれた。でも、沢北本人は何故俺なのかと思ってるに違いない。そもそも記憶のない沢北に今の俺は必要ない。高校の時から既にこういう仲になっていたから、沢北の中では男との恋愛なんて俺しかない。その俺を忘れてしまったら、女性を好きになるのは自然な事。こうやって近づいてお互いを知って、それはいつか恋愛へとつながっていく。いつかこういう日が来るかもしれない。心の奥底では、ずっと、ずっと、そう思っていた。
こうなったら、もう…
希望から絶望へと変貌した心は、諦めのように重くズキリと壊れていく。手に力が入らないまま少しだけ開けたドアをどうにか閉める。今すぐにでも逃げ去ってしまいたい足を力いっぱい踏ん張り、足音が聞こえないようにそっと向きを変える。泣きたくなる唇をグッと噛んで、俯いたままその場を立ち去った。
◇◆◇◆
靴を履き、扉を開けてドアを閉める。鍵を回して、ガチッと鍵のかかる音がして、持っている鍵を見つめる。このままドアのポストに入れてしまえば、自分からは開ける事は不可能だ。でも、最初から一緒に住んでいない事にするには、この鍵がポストの中に入っているのは不自然になる。仕方なくズボンのポケットに突っ込こんで、二度と開けることのないドアを目に焼き付ける。何年も二人で住んだ山のように思い出が詰まった場所。これは前に進む為の第一歩。自分の中で一つ一つをクリアにして、前を見なければならない。散々悩んで自分が決めた事。まずは家をどうにかできた。次は仕事をどうするか。今のところ、周りのスタッフが気を遣って会わないようにしてくれているけど、それもいつか限界がくる。今でさえ会わないようにしてるのに、嫌でもあの二人の情報は入ってきて、みんな俺に対して、同情と哀れみの目で接して、常に気を遣われている状態になっている。沢北が復帰したら、更に周りに気を使わせてしまう。この状況でずっと仕事をするには無理があった。ただ、ここを辞めても、またバスケ関係の仕事に就けばいつか会うかもしれない。かと言って、全然違う仕事をするには、自分のスキルが全くない。
これから、どうすれば…
まだ何も頭の整理がついていない。でも、まずは第一歩。仕事は沢北が復帰する前にどうにかしよう。俺はドアから視線を外し、外の通路をまっすぐ見る。ここを進めば全ては終わり。もうここには来ることはない。大好きだけど、離れないといけない場所。
「よしっ」
声を出せばそこから力が湧いてくる。俺はたった一言そうつぶやいて、この部屋を後にした。
◇◆◇◆
「師匠、エイジって結婚すんの?」
いつものベンチでバスケをしている子ども達を眺めていると、一人の男の子が話しかけてきた。子ども特有の悪意のない問いが、俺の言葉を詰まらせる。
「なんでそう思うピョン?」
「だって、指輪買ってたって話題になってる」
世間では既に話題となっている話を、改めて言われると、どう答えていいのか分からなくなる。
「知らないピョン」
「えー、知らないの?あんなに仲良しだったのに」
俺とその子の周りをざわざわと他の子達が集まってくる。俺と同様、忘れられてしまった事に絶望した子ども達。沢北は俺とここで一緒に遊んできたこの子達の事も記憶から消してしまった。
「何言ってんだよ。俺らの事も忘れてんのに、仲良しも何もだろ」
一人の男の子が嫌味のように文句を言う。忘れられてしまった事が悲しくて寂しいのだ。沢北はここ一年この場所には来なかった。それでも近くで生活していると街で偶然沢北と会ってしまう。記憶のことを何も知らないこの子達は、今までと同じような態度で沢北に話しかけた。それに驚いた沢北はやんわりと断りの対応をして、その後ろにいた女性は近寄るなと怒って、みんな唖然としてしまった。沢北が怒っている女性を宥めたごめんねと言ってその場から立ち去った。今までの沢北じゃないと思ったみんなは、俺に沢北の事を聞いてきて、隠せないと思った俺は、正直に記憶を無くしてる事をみんなに話した。
「師匠もあんな奴、もう、どうでもいいよね?あんなに遊んだのに、忘れちゃうなんてひどい奴」
「…そのうち思い出すかもしれないピョン。あんまり嫌わないでやってほしいピョン」
「師匠は優しいな。でも俺は師匠がいればいいからね」
ガバッと抱きつかれて、他の子達も俺に抱きつく。みんな同じように忘れられている事が寂しいのだ。だから俺は忘れないでと。こんな悲しい思いをするのは俺だけで十分なのに、なんでこの子達まで忘れてしまったんだろう。それだけは、沢北に少しの苛立ちとやるせなさを感じずにはいられなかった。
「師匠がコーチになってくれるの楽しみ」
俺はあれから沢北と会わないように、クラブを辞めることを決めた。俺の決めた事はどうやらわかっていたようで、クラブ側は他の提案をしてきた。それはこのクラブのジュニアのコーチだった。この子達はまだ小さいけど、俺と沢北が一緒に遊んでいたから、そこら辺の小学生よりプレーは格段に上手い。今度できるジュニアチームにみんな所属することになって、俺はこの子達のコーチにする事になった。これはクラブ側が俺を大事にしてくれてる証拠。働く場所が違うとはいえ、同じクラブにいる事は不安だけど、こうやって俺に持ち場を与えてくれたことが嬉しい。本当に信頼できる職場で感謝しかない。
「俺も楽しみピョン」
沢北がいない世界で。絶望しかなくなった世界で、少しずつ俺の世界は動いていく。今はまだ沢北の何かを見たり、何かを聞く事は怖くて仕方がないけど、この子達がいれば。
「師匠、大好き」
この子達の声や態度でいつも励まされる。
これが積み重なって、この絶望的な気持ちを乗り越えて、彼を完璧に忘れる事ができて、いつか新しい自分になれるような気を起こさせてくれる。
今の自分には、この子達と接してるこの時間だけが、唯一の救いだった。
side沢北
目を開けて初めて見たのは、目を見開いて驚いた表情。その後はふにゃりと崩れ、泣きそうになったとびきりの笑顔。なんだこの美人はと、見惚れてしまってしばらく見つめ続けていた。「栄治」と呼ぶ声で、咄嗟に現実に戻されて、名前を呼ばれた事を把握した。この人の声で俺の名前が刻まれる。
「…あ、の、…俺、…」
「覚えてないピョン?」
ピョンなんて言われて、さっきまで超絶美人に見えたこの人が、今度はなんだか凄く可愛く見える。
「車にひかれて、ずっと意識なかったピョン。今、先生呼ぶピョン」
交通事故…。まさか、自分に起こるとは。じゃあ、こうやって親身になってくれるこの人は、おそらく俺の知り合いなんだろう。でも、俺はこの人が誰なのか、全く分からない。
「あの、…ごめんなさい。…その、…あなたの名前が、…分からなくて…」
ああ、失敗した。なんとなくこの言葉を口にすると、ダメな気はしてた。でも、名前を呼びたいのに、分からないから聞くしかなかった。どうしようもなかった。でも言ったらやっぱり彼の顔はみるみる曇り、もうあの素敵な笑顔を見せることはなかった。それからいろんな人が入ってきて、状況を説明され、記憶障害があることを告げられた。どこまでが分かっていて、どこまでが分からないのか。バスケをやっていた事は覚えている。その後に入ってきた人間は知ってる顔ばかりだった。ただ、最初に見たあの人だけは、…どうしても、思い出せない。あんな顔をしてくれる人を俺は忘れてる。それが、凄く気持ち悪くて、思い出せない自分が嫌になった。それでも彼は俺が入院している間、ずっと俺の世話をしにきてくれた。俺が覚えてないだけで、彼は俺と凄く親しかったのが感覚でわかる。深津一成と名前を聞いて、この人に凄く合ってると、くすぐったい気持ちになった。俺の事を知っているのは同じクラブのスタッフをしているからだった。この人の事が知れて凄く嬉しかった。もっともっと知りたくて、いろんな事を聞いた。毎日、仕事が終わった後、病室に来てくれる。それが楽しみで楽しみでしかたなかった。俺の心をワクワクさせる人。語尾がピョンって言って可愛い人。ふとした瞬間の仕草がゾクっとする程綺麗な人。話す声が心地よくて、布越しに伝わる熱にドキドキさせられて、思わず触れたいと思ってしまう人。会いたくて会いたくて、どんどん夢中になっていく。なんで俺はこの人を忘れてるんだろう。どうしても思い出したい。なのに思い出せない。そんな時に現れたのが俺が助けた女性だった。最初は両親と現れ、凄く感謝され、それからずっと病室に来るようになった。彼女が来ることで、彼の姿が少しずつ減っていった。彼に会いたい、恋しい。そんな想いがどんどん溢れてきて、自分でもはっきりと自覚するほど彼を好きになっていた。一度彼女に「好きな人はいるんですか?」と聞かれ、頭の中が彼一色になり、彼の素敵なところを全部伝えた。どれくらい話していたのかわからない。無我夢中で喋り続けたら、笑われながら「大好きなんですね」と返ってきたので、迷わず「大好きです」と満面の笑みで答えた。でも、それから彼は来なくなった。何故だかパタリと姿を消した。同じクラブに所属してるから、たまに病室に来る他の関係者にどうしているか聞いてみると、返ってくる答えはみんな「忙しい人だから…」と、奥歯に何か詰まったような言い方をされて、会話を避けられる。察しの悪い俺でも分かるほどに言いにくそうに言われて、これ以上聞いても無駄だと悟った。ここに居てもちゃんとした答えは返ってこない。記憶障害を起こすほど頭をぶつけたのだから、なかなか出れないのは理解してるけど、会いたくて 会いたくて、でもまだこの病室から出れなくて、自然とイライラが募っていった。先生がそのイライラに気づいたのか、頭の傷は残ってるけど、日常生活は送れそうだからと、予定より早く退院の許可を出してくれた。でもあんなに帰る事を望んでいた家は、こんなにも殺風景だったのかと思うほど何もなかった。分かってる、記憶だってある。でも何故俺は一人暮らしなのに3LDKなんて広い部屋に住んでいる?無駄にでかいベッド。自主トレができる部屋にはそれほど多くない器具。パソコンデスクしか置かれていない部屋。この間取りを覚えてるのに何故か違和感を覚えて、久々に帰った我が家は、物凄く寂しい。こんなに綺麗でオシャレな部屋なのに、なんだか今までとは違う気がして全く落ち着かなかった。それでもクラブに行けばあの人に会える。住む家なんてどうでもいい。あの人に会えればそんな事も気にならなくなるほど全てが楽しい。そう思ってクラブハウスに向かえば、そこに彼の姿は見つけられなかった。聞けば移動が命じられ、暫くクラブには顔を出さないと。昔は選手としてプレーをしてたけど、今は裏方に回った彼の仕事は、俺が把握できる範囲を超えていた。周りに聞いても、彼が今どういう仕事をしてるのか知らなかった。同じクラブに所属しながら、彼の所在が全く分からず、一度事務方に聞いたけど、今はプライバシーが尊重され、仕事以外の目的で教えることはできないと言われた。助けた彼女はしょっちゅう俺に会いに来た。俺が会いたいのは君じゃない。そう言いたいけど、彼が来なくなってから、俺の世話をしていたのは実質彼女だ。ただ、それも俺が頼んだわけじゃない。彼女が毎日来るから、病院の人達は世話係が彼から彼女に変わっただけだと思っていて、彼女に伝えておけばいいと思い込んで、なんでも言うしなんでも頼んでしまう。そう思われるのが、周りに彼女を認知されるのが、どうにも嫌だった。それから彼女は退院してからも俺に会いに来る。仕事先まで来られるとは思ってもみなかった。彼女が来ると周りは遠慮して俺に近づいてこない。遠くで怪訝そうな顔をしてこっちを見ている。それが嫌でやんわりと来るのを断るのに、彼女が鈍いのか、それともわざとなのか、全然伝わらなかった。だから、帰りはよく後をついて来られた。一度、クラブハウスの帰りに小学生の子ども達に声をかけられて、その子達は俺のことを知っていたみたいで「えいじ」と気さくに名前を呼んできた。俺がそれに戸惑って、ぎこちない態度をとってしまうと、途端に後ろにいた彼女がその子達に怒り出した。ヒステリックに怒る彼女にびっくりして、その子達は何も言わなくなり、俺が慌てて「ごめんね」と言いながら彼女の背中を押してその場を立ち去った。明らかに小学校だと分かる子ども達に、あんなに怒る意味が分からない。一緒にいることがしんどいと思っている彼女に、この出来事が重なって、心底嫌気がさした。会いたいと思う彼には会えなくて、会いたくもない彼女がずっと来る。俺は少しずつ神経をすり減らした。恐らくそういう事への不安や苛々が態度に出ていたんだろう。もう限界が来ていて、彼を知ってるであろうスタッフに、頼むから会えるようにセッティングしてくれと懇願した。何人かには断られ、何人かには困った顔される。周りの態度を見て意図的に会えないようにされているように感じて、とうとう俺の精神は崩壊した。周りが俺に何かを隠しているようで、人のことが信じられない。クラブハウスに行くのも嫌になって、体調を理由に徐々に休むようになっていった。とうとう家から出れなくなった俺のところに、心配したスタッフが家に来た。このままだと俺はクラブを辞めることになる。そうなる位ならはっきりと思ってる事をこの人達に伝えて、それで何も変わらないならもう辞めよう、そう思ってスタッフを家に入れた。俺が何かを言う前に先に彼らに言われたのは「俺達の口からは何も言えない」という事だった。言っている意味が分からなくて、怒りで何しに来たんだと叫べば、これは俺自身が答えを見つけないといけないと真剣な顔で言われた。俺自身が?何で?教えてくれれば何もかもスムーズにいくのに。頭の中がこんがらがって、人目とか気にせずに泣かずにはいられなかった。
「お前は、深津を知りたいのか?」
「過去を知ってそれが嫌だと思っても、ちゃんと受け止めれるのか?」
「そもそもお前は過去を思い出す努力をしたのか?」
「お前自身がちゃんと記憶を取り戻して、それと向き合う覚悟がないと、こっちは何も言えないんだ」
「俺達だって元に戻ってほしいんだよ」
泣いている俺に彼等が言った言葉。彼等が知ってる俺と深津さんとの関係。言えないと言った理由が、深津さんから口止めをされてるんだと何となく悟った。それでもこうやって俺のことを心配して家を訪ねて、言えないけれど伝えたいと、必死になってくれている。彼等がここまでやる理由。最後に言われた「俺達だって元に戻ってほしいんだよ」という言葉。俺が記憶をなくしたせいで彼等にも辛い思わさせている。それは俺に、ふと今まで考えたことのない考えを芽生えさせた。
もし、俺と深津さんが恋人同士だったら…
それは最高に幸せで、想像するだけで気分が高鳴った。でもそれは逆を言えば、忘れてしまっている俺は最低な人間で。もし、もしそうだとしたら、深津さんのことを忘れてしまったから、深津さんは俺から離れたのかもしれない。そんな都合の良い妄想を思い描いて、でも、そうじゃなかったとしても、今までの流れや周りの態度で、深津さんと俺は絶対に何かあると確信した。そう思えば自然と涙消え、どうにかその答えを見つけたいと思ってきた。あいにく壊れたスマホは俺の手元に戻った。そのスマホを修理に出す提案もされた。基盤が破損してなかったら壊れたスマホのデータを復元できる。バックアップをとっていればデータは保存されてるはず。それが復活すれば今までの自分の行動や交友関係が分かるかもしれない。彼らは決して口に出さないけど、深津さんと俺の関係がデータを見る事によってはっきりする。俺は修理に出すことを決めた。
「まずは自分の意思で過去を見つけてみろ」
このアドバイスが俺の今後の行動を決定づけた。俺は会いたい会いたいとばかり考えて、深津さんが俺のことを知ってるのになぜ知ってるのかと言う理由を見つけなかった。分からなければ探せばいい。そんな簡単なことに気づけないほど俺はどうやら深い沼にハマってしまっていた。これを気づかれてくれた同僚に感謝して、俺は自分を見つける事に専念した。
◇◆◇◆
沼から抜ければスイスイと何をすればいいのか分かってくる。まずは退院してから一度も開いてないパソコンを見ることにした。おそらくこれにも何かヒントがある。最初のパスワードはすんなりとわかり、立ち上げることができた。中は主にメール、契約関連がメインで、写真といったデータはなかった。でもパスワードを入れないと開けないフォルダが一つだけあった。パスワードを保存するアプリを入れていたけど、そのフォルダに名前がなく保存されていなかった。ならこれは、誰にも見られてはいけない何か。これを開くには自分で思い出すしかない。でも、思い出せないものは無理だ。俺はさっさとそれを諦めて、次は不動産の契約書を見た。自分の中で違和感のある部屋。どうしてもこの部屋に住んでいる事に納得がいかない。もしかしたら誰かと住んでいたのかも。そう感じずにはいられない広い部屋。契約書の中身を見れば名義は自分で、部屋の構造が防音という事がわかった。何故防音?と、一人でいる時に大きい音を出すような事がないのにと不思議に思った。でもこれも、仮説を立てれば納得がいく。ここを二人で借りていて、俺が音を出さなくても相手が音を出す人だったら。それなら3LDKで防音なのにも納得がいく。そしてそれは、そうあって欲しいという希望に変わっていった。その痕跡を掴むために俺はクレジットカードの明細を確認した。大きい買い物はカードで買ってるだろうし、どういうものを買っているかで、どんな生活をしていたのかがある程度は分かる。そしてそれは的中した。事故に遭う前の一ヶ月以内に俺は物凄く高額な買い物をしていた。明細だけだと何を買ったのか分からなくて、そこに載っている店名を調べたら、それはジュエリー店だった。何となく、自分が何を買ったのか分かったが、やっぱり確信が欲しい。多分、こんなでかい男の事なら、店員さんは覚えてくれてるはず。分からなくても理由を話して、明細を見せれば何を買ったのか教えてくれるはず。迷いなく俺はそのジュエリー店に向かった。
◇◆◇◆
店のドアを開けると、店員の驚いた顔が目に入った。驚きと同時に真剣な顔をして、接客とは思えないほど足早に、こっちに近づいてきた。
「結婚されるって、本当ですか?」
他の客がいればこっちに注目されそうなほどの音量で、少し尖った声で話かけられる。
「あの人とは別れたんですか?」
あまりにも勢いよく詰め寄られて、圧倒された俺は、何も言えないまま後ずさると、すいませんと謝られて、それでもなんとも含みのある複雑な顔で見つめられた。
「心配してたんです、ずっと」
明らかに気が動転している店員さんをどうにか落ち着かせて、この店に来た理由を話す。事故のことは知っていたみたいで、記憶がない事を話した。それにはまた心配されて、もう大丈夫だと伝える。俺が初めて店に来た時の事を知りたいと頼んだら、やっと笑顔に戻り、あの時の事を嬉しそうに話し出した。最初、俺はこの店の前で入ろうかどうしようかと、うろうろしていたらしい。それを見兼ねて店員さんが外に出て声をかけた。声をかけられて安心したのか、俺はお揃いの指輪が欲しいと言って、でもセンスがないからアドバイスを求めた。相手の事を嬉しそうに話しながら指輪を選ぶ俺は、すごく幸せそうな顔をしてて、大好きなのが伝わってきた。指輪のサイズ聞いて、その相手が男性だと気づいて最初は驚いたけど、俺の話すその人は聞いてるだけで本当に素敵な人で、彼の話をする俺も本当に幸せそうで、お似合いなんだなぁと思った。指輪が出来上がって受け取りに来た日に、今日渡すんですと、俺は照れながら言って、一緒になって喜んで、頑張って下さいと言って見送ったけど、その後すぐに事故の事を聞いて、ずっと大丈夫なんだろうかと気になっていた。それから日が経って週刊誌で助けた彼女が病院に通って俺の世話をしていた事や、退院してもクラブにきていた事が記事になっているのを見る事が増えて、二人でいる写真もかなり載っていたらしい。最近では結婚間近と書かれていたみたいで、運命の二人とか奇跡の愛とかそんな大層な言葉が並べられて報道されていた。指輪を買いに来たのを知ってるだけに、なんでこんな事になってしまったんだろうって落ち込んでたところに俺が来た。彼女とは何も関係がないと伝えると、ほっとした顔をしてよかったと微笑まれた。俺はその時店員さんに何を話していたのか。色々と聞いて、俺自身の様子も聞かされ、俺の知らない俺達の事を店員さんから教えてもらった。
「もう一度、一緒に指輪を選んでもらえますか?」
「はいっ!是非!」
破顔しながら笑う店員さんの笑顔が、これからの希望を表してるようで、少し前に進んだような晴々とした気持ちになった。指輪を買ったのは、どうしても気持ちを伝えたいから。前の自分はプロポーズするために買ったに違いない。俺はもう一度好きだと伝える為。でも、それと同時に結婚もしたい。あの人の心を掴みたい。その為のアイテム。内側にはあの人と俺の名前を入れて。離れていてもそばにいれるように。
「前も名前を入れてましたよ」
ふふふと笑う店員さんは楽しそうだ。
記憶がなくなっても、やっぱり俺は俺であった。
◇◆◇◆
店から出た俺は、記憶を失って深津さんと会えなくなって以来沈んでいた心が、久々にときめいてるのを感じる。記憶をなくす前の俺は、取りに行ったその日にいつも会う公園のベンチでプロポーズすると言っていたらしい。あれから一年近く経って、あの事故の日が近づいてくる。その日までに指輪が完成するらしく、俺は同じ日にまた深津さんに告白しようと思った。これを渡す日が待ち遠しい。ウキウキと跳ねるように進んでいた足が止まる。あっと、思うのと同時に、はぁ、っとため息が出る。この気持ちを一気に突き落とす、あの彼女の姿が目に入った。
「この店に寄られていたんですか?」
不気味な笑顔で話しかけてくる彼女が怖い。あんなに避けてたのに、ストーカーのようについてきていた。でもこれはいいチャンス。
「そうなんです。恋人にあげるプレゼントを選んでました」
“恋人”と聞いて、途端に顔を赤くして、嬉しがる彼女。その笑顔は俺の全身に鳥肌を立たせ、背中から嫌な汗を流した。まだ入院していた時に好きな人の話をしたのに、なぜか彼女はそのプレゼントが自分だと思っている。ここで言い間違えれば、絶対に大変なことになる。この人がもう俺に付き纏わないようにしなければ。
「今、遠くにいて俺が事故をしても帰って来れなかったんです。すっごく心配してくれてたのに、その間に週刊誌に何故か貴方との事を書かれてしまって、更に心配させて。だから、俺の愛を形にして伝えようと思って」
今まで蒸気して喜んでいた顔がどんどん青ざめていく。これをもらえるのは自分ではない。やっと俺がその気がないことに気づいたみたいだ。そもそも俺はこの人にそんな気なんてなくて、愛想すら振りまいてないのに。なんでこの人はこんなに勘違いをしてるんだろう。でも、この人はもう一撃ぐらい加えないと、多分また付き纏ってくる。
「週刊誌も困ったもんですよね。ただ一緒にいただけなのに、こうやって変なこと書かれて。あなたも迷惑だったでしょ」
「…いや、そんな…」
「俺はその人のこと大好きなんで、ホント迷惑でした。いつも愛は伝えてるつもりなんですけど、こんな週刊誌のせいで万が一にも別れるなんて事があったら嫌なんで、ついでにプロポーズもしようと思ってます」
とっくに血の気の引いた体が、今度は震え出している。勘違いした人が真実を知らされた時はこういう感じになるんだなって、本当なら心配するところを他人事のように見つめてしまう。
「病院では色々とお世話になりました。あなたを助けたのは俺の意思で、あなたが俺に気を遣う事はないんで、怪我も治ったことだし、もうクラブの方にも来てもらわなくて大丈夫です」
「で、も…」
「というか、あなたが来ることで、俺の好きな人が不安になっちゃうんで、もう来ないでください」
はっきりとした拒絶は、ちゃんと彼女に一撃をくらわせた。青い顔できっと睨み、そのまま漫画から抜け出たかのようにフンっと横に顔を背けて、全身から憎悪と嫌悪を現したような雰囲気を醸し出して、何も言わずに立ち去っていった。
「言い過ぎたかなぁ…」
もしかしたら恨みを買われて生き霊として憑かれるかもしれない。それくらいの形相だった。だとしたら、めんどくさいなぁと思いつつ、それでもこれで障害となるものがなくなったことにほっとする。多分深津さんは、彼女が現れたことで俺から離れることを決めた。それならまず彼女を排除しないといけない。まさかこの場に彼女が現れるとは思わなかったが、はっきりと言う場にはちょうどよかった。やっと彼女を排除することができた。これで何の後ろめたさもなく、深津さんに会える。
「受け取って欲しいなぁ」
さっきは、せっかくのウキウキした気持ちを邪魔されたけど、こうやって邪魔者がいなくなってスッキリすると、今度は指輪を受け取ってくれた時のことを想像してすごくワクワクしてきた。後は、もっともっと確信的に、深津さんと自分のことを知りたい。事故をしてから随分時が経ってしまって、もしかしたら深津さんの心も離れてしまうかもしれない。それは困る。絶対にそうなる前に、もう一度深津さんを俺のものにしないと。ウキウキ、ワクワクしていた気持ちが急に不安に駆られて、この間にもいろいろやるべきことがあると俺は動き出した。
◇◆◇◆
暫くして、スマホの修理が完了したと連絡があった。基盤は壊れてなくて、初期化状態だけどクラウドにデータは残ってると言われた。震えそうになる手に力を込めて画面をタップしダウンロードする。この写真を見れば、過去の自分が分かる。恋人がいたのかも分かる。ドキドキしながらタップして最初に見た写真は、俺を歓喜させるものだった。そこに写っていたのは、俺が求めていたあの素敵な笑顔の深津さん。もう、本当に、めちゃくちゃ可愛い。視線はちゃんとこっちを向いていて、決して隠し撮りとかではない。どれもこれも全部可愛くて素敵な深津さんで、俺より深津さんを撮ってる方が多い。景色が変わってもずっと深津さんが映っていて、俺と深津さんはいろんなところに行ってるのがわかる。その中には俺に声をかけてきた子ども達もよく写っている。知ってる公園で、バスケのコートがあって、そこで撮っている写真ばかり。あの子達と俺には交流があった。声をかけてくれたのにあんな形で別れてしまった。でも、今ならちゃんと会って謝ることもできる。そしてこの場所は、…きっとあそこだ。最新の写真から上にスクロールしていって日付が古くなっていく写真も全て、ほぼ深津さんの写真だった。その中には俺と顔を近づけて撮っていたり、俺が後ろから抱きしめて撮ったり、誰が見ても恋人同士だとわかる写真もあって、こうやって写っている自分がすごく羨ましく思った。それから俺はアプリをダウンロードした。何故かどのアプリを入れていたかは感覚で覚えている。パスワードを保存する用のアプリも使用していた事に気づいてからは早かった。それを入れてしまえば、あとはどんなアプリを入れていたかは明白だった。通話アプリの中で見たトークのやり取り。俺と深津さんのトークにはハートマークが大量だった。遠征行ってる時は会いたいとか、好きとか、愛してるって。深津さんも寂しいピョンとか泣きの可愛いスタンプを送ってくれている。トークで分かる二人の親密さ。俺の知らない深津さんとの世界はこんなにもキラキラしていて、俺の視界から見てる深津さんは、こんなにも笑ってる。これではっきりした。俺は深津さんと付き合っていた。勿論、この部屋も写っていた。一人だとこんなにも広いなのに、写っている部屋は二人のもので溢れていた。俺は深津さんと一緒にこの部屋に住んでいた。今と比べ物にならないくらい素敵な部屋だ。こんなに素敵なのに、俺が記憶をなくしてしまったせいで、深津さんはここから出て行かなければいけなくなった。そりゃそうだ。多分俺が逆の立場だったとしてもそうする。自分のことを知らないのに恋人だといっても変な奴と思われるだけだ。知らないのに一緒に住んでいたからと言って、同じように一緒に住むには抵抗がある。だから、深津さんの行動は正しい。実際今だって俺は深津さんの事を思い出せない。いや、深津さんの事だけ思い出せない。どんな思いでここから出ていったんだろう。深津さんの事を思うと胸が苦しい。俺が会えなくて悩んでいた気持ちよりも、遥かに辛い思いをしている。多分、もう二度と会わないと決めてここを出ていった。俺はなんで深津さんだけ忘れてしまったんだろう。こんなにも愛してるのに。でもなんとなく、答えが出ている。深津さんと過ごした時間が大切すぎて、危機に晒された時、それだけを大事にしまっておこうと俺の脳が勝手に判断した。大好きで大切だから、誰からも奪われないように。それでも俺は結局、深津さんに恋をした。どんなに忘れても深津さんが大好きだから。多分俺は何度でも何度でも深津さんに恋をする。それくらい愛してる。でもその度に深津さんを悲しませてしまうのはだめだ。そのせいで深津さんを逃してしまうなんて本末転倒だ。絶対にあり得ない。俺の為に深津さんが離れることを決めたのなら、俺の為にもう一度そばにいてほしいと言えばいい。結局俺には深津さんが必要で、深津さんがいないと生きていけないから。
あぁ、早くこの腕に抱きしめたい…
俺が事故にあった日がもうすぐ近づいてくる。それまでに、指輪が出来上がって渡すことができるなら、俺はもう一度あの場所で深津さんに告白する。
もし断られても、ずっとずっと追いかけて、絶対落としてみせる。
もう、悲しい思いなんてさせないから。
だから、どうか、怖がらないで。
俺の胸に飛び込んできて。
side 深津
夕暮れのいつも見渡すベンチ。そこに座り、落ちていく夕陽を眺める。沢北がああなってたまにしか来なくなったこの場所。最後に子ども達に会って一ヶ月近く経った。それからここにはきてなかったけど、最後のけじめ、というのだろうか。沢北の病室に行かなくなって、家を出て、仕事を移動して、会わないようにしてきたけど、どうやらその間、沢北は助けた彼女とうまくいったようで結婚するらしい。もう、そうなってしまえば、彼は一生俺を思い出すことはないだろう。俺はもう彼の中でいない存在。だから、俺はもう、この思い出の詰まったこの場所には二度と来ない。でもその前に、最後にもう一度、この場所で夕陽が沈むこの景色を見たかった。
「綺麗だなぁ」
思っていた事が言葉として認識されて、ドクンと心臓が弾く。今この場には誰もいないのに、忘れもしない大好きなあの声が、間違いなく聞こえた。心臓は既に激しく波打って、全身の体温が上昇する。ゆっくりと後ろを振り向けば、もう何ヶ月も見ていない愛しい人の姿があった。
「この景色を見たかったんだよね」
ゆっくりと沈む夕日から、目線をこちらに合わせて目元を緩ませる。
「あなたと二人で」
最高に愛しいその人は、ゆっくりとこっちに歩いてきて、俺の隣に座る。
「この夕日を見ながらさ、プロポーズする気だったの。あの時の俺は」
もう話す事はないと思っていたのに、今、彼は隣に座っている。心臓がバクバクと音を立てて彼に気づかれそうな程、鳴り響く。
「行けなくてごめん」
ああ、ほんとに。
本当に俺は…
彼がいつか俺を思い出して、こうやってごめんねって言ってくれるの待っていた。ずっとずっと待っていた。本当は離れるなんてしたくなかった。彼女なんかより俺の方がずっとずっと一緒にいて、恋人だったって言いたかった。でも俺は思い出してもらえない恐怖に襲われて、自分から逃げることを選んだ。それなのに気持ちを断ち切る事ができなくて、離れる勇気が持てなくて、一年経った今、またここに来てしまった。未練がましく、あの時と同じ服を着て。それでも、明日からはその全てを捨てて前に進もうと思った。そのけじめをつける為に、ここに来たのに。
なのに、なのに、…それなのに彼が現れた。
「正直、まだあなたのこと思い出せないんです」
あぁ、そっかと、てっぺんまで浮上した心が一気に落ちていく。
じゃあなんでここに来た?
なんでこの場所を知ってる?
いろんな気持ちが交差したけど、最終的に出た答えは、彼もけじめをつける為に来たということ。おそらく自分達の関係を誰かから聞いて、申し訳なく思ったんだろう。この場所を知って、結婚する前に身の回りの整理をする為にここに来た。俺はもうここを離れるから、ここで言うのがちょうどいい。二度もそうやって、追い討ちをかけるなんてひどいなぁと思いつつ、でもこれで完璧にあきらめがつくなと、自分に良いように解釈をする。顔を見ると何か言ってしまいそうで、振るならさっさと振ってくれと、ただ夕日を見つめ続ける。
好きでも、…もう一緒にいたくなかった。
「でも、目が覚めた瞬間からあなたのことを好きになりました」
は?
信じられないと思わず振り返ってしまい、目と目がぶつかる。一年振りの美丈夫は満面の笑みで俺を見ていた。
なんでそんなに見つめる?
なんでそんなに笑顔になれる?
なんで俺のことを好きになってる?
見ていられなくてすぐに目線をそらすと、離れていた距離が近づいて、俺の膝に膝がぶつかる。
「深津さん、こっち向いて」
甘えるように言ってくるそれは、ずっとずっと聞いていた、懐かしい声。この声を聞くと、どうしても言われた通りにしてしまう。自然と顔が上に流れれば、昔と変わらない優しい眼差しとかち合う。無防備に放り出されていた手をとられて、ぎゅっと握られる。触れられた部分が熱すぎて、同時に目の前がぼやけてくる。
「今の状態でさ、プロポーズするのは、ちょっとおかしいかもしれないから」
そう言いながら握ってる手を持ち上げて、指にキスをする。
「だから、まずは…、結婚を前提に付き合ってください」
キスをした薬指にリングが嵌められ、じぃっと返事を待つように、見つめられた。
「返事を聞くまでは離しません」
今まで自分が考えていた事と正反対な出来事に、頭がついていかなかった。ただ心臓は壊れるんじゃないかと思うほどに震えて、心臓の音と同じリズムで、ぽろぽろと涙が溢れた。
「あっ、泣かせたいわけじゃなくて!いきなりでびっくりするよね?ほんとごめんなさい。でも、本気です。本気で大好きなんです。目覚めた時に深津さん見て一瞬で一目惚れして。で、世話してくれてる時から、嬉しくて、幸せで、会えるのが楽しみで。深津さんが来なくなってからも、ずっと深津さんの事しか考えられなくて。会いたくて、会いたくて、バスケもできないくらいおかしくなる程あなたの事しか考えられなくて。って、あー、ほんと、もう泣かないでっ」
とめどなく流れる涙は、止まる事を知らない。だって、大好きな人が自分のことを忘れてるのに、それでも好きだって言ってくれてる。今の彼は、ほんのちょっとしか俺のことを知らないのに。それでも、それでも俺のことが好きだって。指輪を買って、結婚まで考えて。てっきり彼女に対してのものだと思っていたのが、全部自分の為に用意されたもので。こんな、こんな事って、あるんだろうか。こんなふうに、記憶を無くしても、また俺のことを好きになってくれる事が…
「一生大事にするんで」
釣り上がってる眉毛を下げて、うるうると目を潤ませながら、指輪が嵌っている俺の手を両手で握る。ぎゅっと口を引き締めて、答えを待つ視線が徐々に近くなる。気づけば体が触れそうなほどの距離で、ぐいっと瞳を見つめられる。この綺麗な顔を間近で見ると堪らない。思わず目線を下に逸せば、俺を拘束する腕時計と嵌められた指輪が目に入る。過去の彼と今の彼。昔だって反対されて心配されて、どんなに障害があっても、俺がどんなに不安になっても、まっすぐに愛をぶつけてきてくれた。そしてそれは、今も変わらず、まっすぐに愛をくれる。
「あと、その服すごく似合ってます」
ああ、やっぱり…
俺が好きな沢北だ…
俺が惚れた沢北は、俺の事を忘れても俺を好きになってくれた。だから、だから忘れたままでも。この瞳が、この腕が、いつも俺だけ見てくれて、ぎゅっと抱きしめてくれたら、もうそれでいい。そう思わせてくれた事が本当に嬉しくて、思わず首元のシャツを引っ張る。目を閉じる前に驚きの顔が見えて、この顔も大好きだと、斜めに傾いたその顔に、一年振りのキスをした。
「末長くよろしくピョン」