ムルヒス『煙草』 口から出た灰色の煙が灰色の空へと吸い込まれていく。
バスからちょっと離れた先にある広場で見つけたベンチへ、ムルソーは腰を下ろしては長い足を組み、背もたれ部分に片腕をかけながら喫煙していた。
人差し指と中指の間に挟んだ一本の煙草を咥えては吸い、吸った分だけ吐く。
次の街へいつ降りれるかは案内人次第のうえ、好みの銘柄を必ずしも調達できるとは限らないのは承知のうえである。
だからこそスパスパと気軽に消費すべきではないと頭では理解しているが、いざ吸い始めるとなかなか止まらないものだとムルソーは空高く立ち上る煙を無言で眺める。
そこで、散歩から戻ってきたらしきヒースクリフが覗き込むようにムルソーの横にやってきた。
特に挨拶らしき言葉は交わさず、視線だけで互いの存在を確認し合う。
「なんだ、吸う方だったのか」
「…習慣までとはいかないが」
グレゴールや良秀みたいに日課にしてるまでとはいかず、なんだか吸いたい気分だと思い出したようなそんな気分になる時がある。
かつては手持ち無沙汰になる度に一本吸っては、また一本と灰皿を吸殻で埋め尽くすぐらいの愛煙家だったが、とある理由で強制的な禁煙を課された経験を経てからは衝動的に吸いたくなる気持ちにはそこまで駆られなくなった。
それは寂しいようで、実はそうでもないかもしれない。
ムルソーの返答にふーんと適当な反応を返したヒースクリフは空いてる席にドカッと腰掛けた。
どうやら煙草の煙が気にならないタイプらしい。
自分へ向けた加害行為に反応しやすいだけで意外に区別がついてるヒースクリフは、ムルソーの喫煙についてこれ以上の言及することはなかった。
一時の休憩を邪魔してこないことは有難いことだとムルソーも彼の行動に渋ったりはせず、引き続き煙草を吸う。
そのままぼんやりと空を見上げていたと思いきや、彼の紫色の瞳が時々こちらへ向いているのにふと気づく。
「どうした、何か気になることでも」
「いや、何でもねぇ」
と言いながらヒースクリフは相変わらず好奇心に満ちた目をチラチラと向けてくる。
そこまで物珍しそうに見つめてくるのは煙草が欲しいからか、と解釈したムルソーは懐から小箱を取り出し、相手に見せるも断られた。
好奇心旺盛な彼が紫色の瞳を光らせながら見つめてくる時は大体が『気になるから触ってみたい』だったりするので、今回もだろうの予想があっさりと外れたのにムルソーは少しだけ驚いた。
「吸わないのか」
「いや…吸う気分じゃないというか……」
反応を見るに、非喫煙者ではないらしい。
裏路地の大人が吸ってるのをたまに分けてもらっていた程度で、ヒースクリフも頻繁に吸う方ではないそう。
どちらかといえば誰かが吸ってるのを見てるほうが楽しいという、いかにも彼らしい楽しみ方なのにムルソーは納得した。
そうか、と短く返し、吸殻を携帯灰皿に押し付けてから新しい煙草に火を点ける。
まだ休憩の時間は続く。二人は特に会話をすることなく、それぞれくつろいでいた。
肺いっぱいに煙が溜まるまで息を吸うと葉の詰まった部分が数センチほど燃えていく。
じわじわと燃えていく経過を目で追うヒースクリフの表情がなんとなくあどけなく見えた瞬間、ムルソーの頭にある考えが浮かんだ。
ゆっくりと唇から煙草を外しながら見つめ返しては、肺に溜めた分だけの煙を相手の顔に吹きかけた。
彼の褐色肌が一瞬だけ灰色に染まる。
「うわっ!…ぶっ!げほっ!てめっ…ごほっ!」
教科書通りの見事なリアクションを披露し、ヒースクリフは何回も咳き込んだ。そんな様子をムルソーは無言で眺める。
「てめぇ…近くにいたからって吹きかけたな?」
「正解であり、半分は違うな」
「あぁ?」
言ってることが分からなかったヒースクリフはドスの効いた声で聞き返す。
「君だからやった」
「…そうか、馬鹿にしてるってとってもいいんだな」
ピキッとこめかみに血管を浮かべたヒースクリフに対し、ムルソーは首を横に振る。
「貶める目的でやったといえばそれも違う。むしろ好ましいと思っているからこその行動だ」
「……?」
いきなり持論を述べだした相手にヒースクリフはポカンと口を半開きにさせる。
「前に聞いたことがある程度だが、煙草の煙を顔にかける行為は一夜を過ごしたいという誘いの暗喩らしい」
「君の顔を見ているうちに、その噂を試してみたくなった。つまり君を抱きたい」
「……」
ヒースクリフは引き続き、ポカンとした表情を見せる。
決して理解できなかったからではなく、今の言葉で全ての意味を理解してしまったがために脳が理解を拒否しているのだ。
しばらく固まった後、ヒースクリフは己の額に指を当てながら、あーあーあーと単語にならない呻き声をあげだした。
「分かった、ムルソーにも悪戯心ってのがあるってのは分かった」
「悪戯ではない、誘いだ」
「同じだよ馬鹿野郎」
いきなり罵倒されてムッと顔をしかめるムルソーの隣でヒースクリフは肩を落とすように項垂れては頬を赤らめる。
「咄嗟の思いつきとはいえ、俺を抱きたいとかそんなことを言い出すなんて…えぇ?」
「咄嗟の思いつきなのは否定しないな」
混乱を招いた本人はいつものポーカーフェイスで煙草をふかしている。
いかにも余裕ありげな態度に癇に障るも、前髪を下ろした顔で距離を詰めてくる彼の姿を思い出したヒースクリフは罵倒するのも忘れて、今度は自分の顔を両手で覆い悶える。
噂を思い出したからといって、当たり前のように抱きたいと宣言してくる相手の思考回路が全く分からない。性欲のスイッチってこんなにガバガバだったけ。
「ところで、先ほど誘いに対する返事を私は待っているが」
「……仮に断ったって、それらしい理由がねぇとお前は納得しないだろ」
「よく分かっているな」
相手に否定の意がないことを読み取ったムルソーは、ゆっくりと背もたれ部分に背を預けては煙草を咥えたまま大きく息を吸った。
ふと深緑色の瞳を横へ向けると、何かを察したらしき彼が慌てて両腕で自分の顔を庇った。
どこまでも分かりやすい反応を見せてくるからこそ好ましい、とムルソーは固く口を閉ざしながらヒースクリフへ向けた。