つくづく つくづく、と譲介は思った。
目の前の師と、師が支度してきた化粧道具を見て思った。つくづく、師の考えはわからない。
目の前に口紅が一つ、置いてある。正確には、やや四角張った、黒い円筒形のものが、ダイニングテーブルの上にちんまりと佇んでいる。円筒の表面はあまり艶がなく、しれっとしている。
蓋もしっかと閉まっていて中身も見えないが、こういう手のひらほどの円筒形のもので、そこから微かに化粧品の香りが漏れているとなれば、これは口紅であり、疑いの余地はないように譲介は思った。
疑わしいのは、師の考えの方だった。何を思ってこんなものを、この自分の前へ突き出してきたものか。
師は、医師である。それも、およそ日当たるところを闊歩するのには不適当な種類の、闇医者と謗られて当然のことを生業にする方の、医師である。
彼は黒髪ゆたかな壮年の男で、ある時から譲介を手元に置いて暮らし、いろいろのことを譲介に教え、吹き込み、学ばせる。医術であったり、社会のことであったりだ。それで譲介は、男のことを師であると思うことにしている。
師は、ドクターTETSUは、たしかに譲介にものを教える。教えると決めたのなら、その分野のどんな小さなことでも段階を踏んで、うるさいくらいに聞かせてくる。しかしその実、ドクターTETSUは譲介に対して明け透けというわけでもない。むしろ、秘密の多い男だった。
教えまいと決めたことは、何一つ漏らしてはくれない。そういう面では、抜け目なく自制心の堅牢な人間と言えた。
譲介のことは何でも知り、調べ、時には譲介の口から聞き出しにかかるが、自分の手札は伏せる。それでいて、急なことを思いついたように譲介にいろいろのことを申し付けもする。
意思堅牢で我欲に自覚的で、突拍子のない人物。
いまこの事態も、ドクターTETSUのそうした突拍子のなさの発露ではないか。譲介は思った。口紅のことだった。
ドクターTETSUは昨夜遅くから出かけていた。戻ったのは今朝方で、早々に自室に引きあげ、ずいぶん静かにしていた。かと思えば、昼も過ぎてから、譲介の背後に現れて「おい」などと言った。
譲介はその時、窓から外を眺めていた。振り返った先に、己の師が影のように立ちそびえているのを見て、驚きに眉をひそめもした。
ドクターTETSUは譲介に「座れ」と指図した。そして、思わずその場の床に膝をつこうかとした譲介を叱った。
座れと言ったのなら、それは椅子に腰掛けろという意味だとドクターTETSUはぶちぶち言った。譲介は言われるがまま、食卓の椅子についた。
そこで、ことり、とテーブル上へ黒く小さな円筒が転がり出てきた。ドクターTETSUの手の中からそれは出てきた。
口紅。譲介は声に出さずにそう呟いた。
正面に腰掛けた師は、テーブルに対して体を斜めにして、脚を組み、節の立った爪短き指先で、口紅
を垂直に立て、すぐ隣を、こつんと打った。
これを一体どうする気であるのか、譲介には分からない。つくづく、よく分からない師だった。
ドクターTETSUは、ゆっくりした手つきで口紅の蓋を開け、円筒の底を摘んで、譲介へ差し出してきた。
昼の光が窓から差し込んで、ドクターTETSUの指先をあわく輝かせている。
円筒の内を覗き込むと、中の紅の色が見えた。同時に、甘いような化粧品の香りがより濃くなって
鼻に届く。
赤色の紅だ。「紅」の名が最も似つかわしいような色。八重の椿の花弁にも似ている。
譲介は目を上げ、ドクターTETSUの顔つきを伺った。
頬高く、目の光の強い、大人の顔立ちがある。もはや見慣れた師の顔。父と偽るには歳が過ぎていて、しかし祖父などというのはもっと不自然な、己の師の顔。
そこから感情を読むのは困難だった。その目に嘲りやはかりごとや、悪意がないことだけが分かった。
譲介は師の指先から口紅を受け取り、たどたどしく中身を繰り出してみた。
てろりと赤いものが、内側から伸びるように迫り出してくる。器の見かけ同様に、さらりとして艶の少ない紅。花の蜜のような香りがいよいよ際立った。
もう一度、師の顔を見る。師は、いまやほのかに笑んですらいる。何故、と思うが、問わずにおき、譲介はそのまま、繰り出した紅を指先に少しとった。
「……あなたに塗りつければいいんですか。それとも、僕がこれを?」
手元に目を落として、言った。朝から誰とも口をきかないで過ごしたせいか、声ががたついていた。
「試してみろ」
ドクターTETSUは言った。
「土産だ」
「みやげ……」
すなわちこれは誰ぞからの贈り物か、と譲介は合点した。ドクターTETSUは顧客の多い闇医者で、それもドクターの言い値で報酬を用意できるような人間ばかりが顧客リストを埋めている。その中には金銭とは別に、自らの命の恩人たるドクターTETSUに贈り物を受け取らせるものもいる。
ドクターTETSUの帰宅の頃に開いている百貨店も化粧品小売店などもないことを考えれば、この口紅はそうした捧げ物として師の手の中に収まったのだと、理解できた。
譲介は指図の通りに、指に取った紅を己の唇へと塗りつけた。鏡もなければ、化粧の経験もない。
加減もわからないで、ともかく持って生まれた口元の輪郭をなぞった。唇が、たちまち油っぽい薄膜に覆われたようになる。
ドクターTETSUはそれを見て「ふむ」とか「うん」のような声を出し、喉の奥でくつくつと笑い出した。それは何か、満足げな、愉快げな趣を含んだ笑い声だった。
師の挙動をいよいよ判じかねるうち、ドクターTETSUは手を伸ばして譲介の手から口紅を奪い取り、同じように紅を少しだけ指先に取った。迷いない手つきで紅を自身の唇へ移し、その唇を歪めてまた笑った。
「どうだ」
かすかに赤が残る指先をひらりとさせて、譲介の師は言った。
「似合ってますよ」
譲介は心から言った。師の黒髪に、目の揺るぎない光に、高い頬の険しさに、椿めいた深く濃い赤はよく映えた。
「それに、いくらか真っ当そうに見えます」
「そうかい」
古い楽器を唸らせたような声で、ドクターTETSUは言った。
「お前には」
言いながら、ドクターTETSUは、譲介の師は、またゆっくりと譲介へ手を伸ばして、かさついた指先で譲介の唇を、ぐい、と拭った。
「まだ早かったか。もっと淡い色のが似合うんだろう。お前は髪が明るいし、色も白い」
そうですか、と譲介は言った。師の指先が己のおとがいに触れたままなのが不思議だった。ドクターTETSUの指先から、花の蜜のような香りがするのも不思議だった。
「いつか自分で買う時には、そうします。あなたの言う通りに」
それも良いだろう、とドクターTETSUは言った。