いつか バーレッスンを、と神代が言った。和久井はそれを、自ら磨いたレッスン室の床の上で厳かに聞いた。
「はい」
手を背中に組み、指先でよれたレッスン着の裾を伸ばして返事をした。緊張の発露だろうか。自分が自分でおかしかった。もっと折目正しい態度をとるべきではないのか。和久井はせめて表情だけでもと、顔に力を入れる。
真正面には壁一面の大鏡があり、その手前にこれからの師である神代が立っている。
古びてなお輝き明るい鏡に、神代の鍛え上げられた、出来すぎた彫像が如く肉体が映っている。
和久井はそれを見つめて、違うな――とぼんやりと思い、己の連想をたちまち恥じ入った。いまさらあの男のことを考えるだなんてきっと正しくない――自分はいま、神代の勇壮な立ち姿を見て、頭の中であの男の姿と比較したのだ。和久井を踊りの道へ引き込み、あげくに突き放したあの男――確かに立派な姿をしていたが、目の前の彼ほどでは──「譲介」
神代の声に、顔が上がる。
「あ、はい……」
忘我の時間がどれほどだったか、和久井には分からなかった。せめてほんの一瞬であればいいと願う。
神代は腕を組み、和久井をひたと見つめていた。高窓から差す朝の光がそのまま、稀代のダンサーのまなざしの輝きとなって和久井へと届き、胸に刺さった。
見咎められただろうか、それも当然だ。しかし、神代は怒っているのではないだろう、呆れたのでも、ましてやレッスン一日目の新入り門下生の心ここにない佇まいを悲しんでいるのでもないようだった。
和久井は瞬きの合間に神代のかんばせから、何らかの手がかりを得られないかと目を細めた。師の胸中や思考をいまは少しでも読みたかった。しかし何も、神代からは感情のわずかな波さえ受け取れない。
次第に肋骨の内側が冷え、滲み出した羞恥と恐怖が肌の上を走り回りだした。
和久井はいよいよ恐ろしくなった。自分はまたもしくじったのではないか。
四方から何かがゆっくりと迫ってくる。錯覚だ。目に見えない壁のようなものが和久井をとらえ、小さく小さく圧し潰そうとする。そんなわけはない。
キシ、と床が鳴いた。
見ると、うつむけた視線の先に黒いシューズのつま先があった。床に触れて摩耗し薄くなった生地越しに着用者の足の形が浮き出ている。和久井よりも3サイズは上の、大きく甲高く、指の長い足の先。
「先生、」
掠れ声を喉につかえさせながら和久井は、ごく近くへと立ち聳えた神代へと目を向けた。
「すみません、ぼうっとして――レッスン、やりましょう……バーから」
身を翻しかけた。しかし神代は短く「いや」と言う。
怖々振り返ると、日の光に輝く師の顔にゆったりと笑みのようなものが浮かび、その目は和久井をおおらかに見据えていた。
「少し勇み足だったか」
神代はレッスン室の隅から背のない木椅子を引っ張り出し、和久井を座らせると、古びたレコーダーに選り抜いたカセットを挿し、テープを回し始めた。
「朝早くなのでな。すまんが、本当なら伴奏を頼むところを録音で済ませる」
やや間延びした音色がスピーカーから溢れ、レッスン室を飲み込みだす。
「海賊……」
弟子を部屋の隅に残し中央へ歩み出した神代が、ちらりと目線をよこし、和久井を肯定する。流れ出した曲目からすぐにわかる。『海賊』のアリのバリエーションだった。曲の冒頭を少し過ぎてから、神代はこともなげに踊り始めた。まるでそれが今まったく当然の振る舞いであるかのように跳び、回り、いちいちのパをこれ以上ない正確さと優美さとでこなした。
和久井は自分が今どこにいるのかを見失いそうだった。これほどの踊りが自分ひとりの目の前で、ライトも装置もなく、テープ音声にのって披露されていることが信じられないせいだった。神代の踊りを通して、和久井の眼前にありもしない大舞台が立ち現れ、次の瞬間にはKの冠に相応しいだけの客が席にひしめくその中に、自分がぽつりと埋もれている様子を俯瞰していた。
ぱ、と一際大きく高く、神代が宙へ飛び上がった。人の頭を飛び越えていかんばかりのグラン・ジュテに、和久井の意識もいまここへ戻ってくる。
跳べるだろうか──和久井は焦ったく思った。僕に、あれだけのジュテが。
観客の海に埋没する想像はすでになかった。和久井は自分が途方もない望みを、それと知りながら新たに胸に抱いたことに気づいた。
人の心を思いのままにするには、と、「あの男」は言った。和久井に踊りの道を示し、引き込み、基礎を徹底的に教え込んだ男だった。すなわち芸術の力でこそそれが叶うと言い、中でも人の身体を研ぎ澄ませて行う踊りの世界に、格別の力があると彼は信じていた。
アリとして踊り終えた神代を、立ち上がって迎える。師はバリエーションひとつ程度では肌に汗を浮かべはしても、息を乱すことはないようだった。
「いつか、そう遠くないうちに」
神代が、背後に日の光を背負いながら言った。
「お前がこれを踊りこなす日がくるだろう」
「…………」
「俺の踊りはこうだ。レッスンの前にきちんと伝えておくべきだった。ことを急いですまない」
だが、と神代は背後を振り返り、再び和久井へ向き直った。
「譲介。お前は何を手本としても良い、何を理想と定めても良い。……理想も手本も持たぬというのならそれも良い」
「………はい」
ほかに言葉が出なかった。けれど声は確かだった。
「先生、あの……僕」
神代が、あのひたりとした目で和久井を待っている。和久井はやっと、この静かなまなざしが相手を知るためのまなざしなのだと分かった。和久井が目で人を探るように、神代は人を見つめるのだ。
「あの人のところで、散々見ました。Kの踊りとされるものを、写真でも映像でも、文字に起こされた情報でも。けれど、先生のはそのどれとも少し違う。そのすべてのようにも見えるし、先生ひとりだけの踊りにも見える……」
少し息を吸い、和久井は続けた。
「僕もいつか」
いつか踊ってみせる。その時まで自分は踊らなければならない、踊り続けなければならない。踊るために踊ったその先に、さらなる続きがあるように思う。
では、と師はまた、少し微笑んだようだった。
「バーにつけ、まずは基礎から」