平行 それでまあ、腕相撲なんだけれども、なぜ腕相撲かの説明もした方がきっといいだろうから、させてもらうよ。腕相撲。きっかけはその日たまたま外来を訪ねて来てくれた人が、「あら一也ちゃんもずいぶん立派ね」と言って、何が立派かって腕の筋肉だって言うもので、そりゃあまあ、体格はいい方だと自覚もあるし、でもやっぱり、これは本心から出た言葉だから信じて欲しいんだけれども、自分より先生の方が余程逞しいじゃないか、って思ったんだ。口にも出した。
「いや、先生の方が余程ですよ」って。そうしたらもう、なんて言うのか、呆れられてしまって。「お前は自分を幾つだと思っているんだ」ってね。今の似ていたかな? 先生の真似だよ、……そう聞こえなかったのならもう二度とやらないようにする。
えー、と、そう、それで幾つになったかなんて流石に忘れたりしないけどさ、やっぱり、先生はいつまででも自分の先生なんだから、こう、自分が体格だけでも追いついたり追い抜いたりした自覚なんて持ってなくって、実際どうなのかも確かめたことがなかったし。正直にそう言ったら、今度は「なら確かめてみたら?」って。いや、今のは誰の物真似でもないんだけど……。言ったのは麻上さんだよ。
身長体重を測って比較して、でもそれだけじゃあ面白くないとか言われて、じゃあ力比べもしようと言うことになって。大掛かりなことはできないから腕相撲にしようと言うことに……。
浮いた。体が。肩から平行を失って、右に右に体が傾く、椅子から尻が離れる、繋ぎあった手と手がもぎ離されるように分かれ、自分の指先が、つい瞬きひとつ前まではしっかと触れていたはずの指先が、名残惜しくも師の体温を失っていき、ああ、ともう間も無く床が、床が近く、年を経て傷多く色の深い床板がまず右目の視界を埋め、一也は、その床上に、どう、と転げた。
負けた。一也は敗者となって床に伸びた。受け身はとったしどこもひどくは打ち付けていないけれど、師たる神代はその場の誰よりも素早く立ち上がり、一也の元へかがみ込んで、弟子がすっかり無事で、転倒は単純に力勝負に負けて平衡を失ったせいだと確かめると、どことなく、かすかに、わずかに、もしかすれば見間違いかと疑うほどのささやかさで、頬を緩め、頭の後ろに照明の光を輪のように戴き光らせながら、影のかかった目元をも和らげた。
「俺の勝ちだったな」
あまつさえそんなことも言った。一也は床に仰向けに直って、かつて幼少の頃よりもさらに低い位置から、兄にするには歳が遠く、養父とするにはあまりに歳が近い、背高く、強く、堂々として静かな師を見上げ、先ほどまで握り合って力比べしていた右手を、空の右手を、ぐう、と三度ほど握っては開いた。
「はい」
一也はようやくそれだけを言った。神代は強かった。たかだか腕で取る相撲だ。しかし神代は強かった。一也の力を、手管を、策を、まるで根を強く張った巨木の如くにいなして、えい、と力を込めて一也の腕を引き倒しにかかった。一也は抵抗を強めすぎて、神代から送り込まれた膂力を逃せず、体ごと横ざまに「持って」行かれて、しかし悔しいのでもなく、降伏の念を抱いたのでもなかった。力勝負のことだけを言えば、次の次には己が勝つのかもしれない。
一也の思うところはすでに勝負ごとについてではなくなりつつあった。再び、右手を握っては嫌開いた。
手が、違った。一也は神代の手を握って、「違う」と思い、感じた。自分の手とは違う。これは自分の手ではない。
その違和は一也と神代の年齢の差による肌の質感の差だったかもしれず、経験に由来した骨組の変形のためかもしれず、もっと言うのなら、ただ単純に、一也と神代が別個の生き物であり別個の人間であると言う事実を原因としていたかもしれなかった。一也はそれを今まで、身にしみては理解していなかったのか、と己の脳に尋ねた。脳はこたえなかった。しかし、おそらく、そうなのだろう。
自分を神代と思ったことはない。神代を自分だと思ったこともない。だが、同じ血脈の網の中にいて、平行に重複する何かの存在を、ぼんやりと信じていたかもわからない。力比べをして、手を強く握り合って、ようやく、少なくとも手の形は違っているのだと、発見した。一也はそれが、うれしいと思った。