犬の絵 顔が湿っている気がして起きた。眠っていたのに起きた。顔が濡れた気がしたから、がばりと起き上がる他にないんだ。こういう経験はいくらかしたことがある。つまり、寝込みを襲われたんじゃないか?ってことだ。
九龍城砦はいい寝所だったのに残念だ。起き上がった。借りていた寝椅子の上にがばりだ。
信一がいた。
夢か、いや、夢にしてはちょっと身近すぎる出演者だ。信一は白黒にはっきり分かれた毛並みをしたやつで、大ぶりの体躯にすんなりした足がついていて、住民からハンサムと評判だった。信一はただの飼い犬じゃあなかった。もっと言えば飼われてはいない。九龍城砦で暮らしている。
九龍城砦の全てに通じたあの龍の膝下で、常日頃から牙を研いでいるのが信一だ。いざという時には研いだそれで外敵の一切をガブリとやる。それを自分の仕事だと信じて務めているのがそうなんだ。
その信一が、ひとの寝椅子に完全に乗り上がって、薄く開けた口から舌先を出している。舌?
「信一」
信一は尾を揺らして応えた。
夢ではないかもしれない。
「ひとの寝顔を舐めるな」
すん、と鼻先を寄せて言う。信一は、ぱた、と尾を揺らすだけでなんとも言わない。
「何かあったか」
狭すぎず広すぎもしない寝床に、常夜灯として小さな豆電球をさげてあって、その光が橙色にぼんやりしていた。暗い中にも幾らかの調度品の輪郭が、橙色に浮き上がっていた。信一は、常夜灯のぼんやりした橙の光に毛並みを光らせて、ただそこにいる。何もないらしい。
寝椅子に横たわり直す。寝込みは襲われたかもしれないが、顔が濡れたのは攻撃や責苦の前触れではなくて、犬の犬らしい振る舞いのせいと分かったのだからもう良かった。よくないのは信一がどうしてここにいて、どうして顔を舐めてきて、どうしてここから去ろうとしないのかが全くわからないことだけだった。それだって別段、解き明かさないでは居れないような話でもないわけだった。
「信一」
もう寝るぞ、と言いたくて声をかけた。信一は黒色の垂れ耳をちょっと動かしてから、そっぽを向いた。そっぽを向きながら器用に足を畳んで、肋骨の上あたりにのしかかって来た。それからちょっと鼻を鳴らした。信一は厳しく躾けられていて、無闇に物音を立てたりしない犬だった。不慣れなか細い音が、その鼻から聞こえてきておかしかった。
おかしいといえばこの絵面だろうが。人間の上に犬が小山を作っている。
とはいえ鑑賞者のいない絵画の有り様について頓着するやつもまたいないだろう。絵画もそんなことは気にしない。もしかすると、俺は閉館した画廊の壁のようなもので、信一こそが絵なのかもしれなかった。
犬の絵。橙の夜に横たわる犬の絵だ。毛並みは白に黒、白い額で左右に分かれた黒の毛並み、半端に長い毛足、羽箒みたいな尾、きっと素早く駆けるのだろうと思わせる獰猛で長い四つの脚。
周囲は信一をハンサムという。そんな信一を絵に描いたのなら、信一が絵になったのならそれは美しいのだろうか。その絵は、金を払ってでも手に入れたくなるような美しさを讃えているのか。画廊の壁は絵を見ることはできないものだ。見てもわからないかもしれない。画廊に犬は入れないだろうから、信一も自分が美しいかどうかを確かめられもしない。
短い夢のような空想が、途切れた。胸が重い。
胸の上に信一が完全に伏せた。自分の顎の先に、信一の鼻の先がある。胸元から全身に生き物の温度が重たくのしかかって、行き渡る。寝椅子がみしみし鳴く。信一よりよほどうるさい。
気まぐれに、その首元に触れてみる。いつもつけている首輪がない。毛の間に指が沈んでいく。今度は掌が湿った。
くちゃくちゃと小さく音を立てて、信一が手のひらに舌を押し付けてくる。四仔はこれが嫌らしい。慣れた人間相手にしょっちゅう手を舐めようとしてくるから困ると言う。
俺はされるがままだ、と言ったら無言で指をさされたこともあった。朴念仁と言われた。
「お前は人を舐め回すのが好きだから」
信一は人を舐め回すのが好きだから、と言った。四仔は「朴念仁」と言ってきた。
指に、舌とは違う感触がよぎった。プラスチックのビーズを押し付けられたみたいだ。よくよく見るとビーズじゃあなくて信一の歯だった。噛まれた。こちらの反撃の反射が出ないような穏やかな噛みぶりだ。器用なものだ。
信一が好きなのは行為そのものじゃあなくて存在の方だ、と四仔はうんざりした顔で言った。信一は四仔の手を舐めなくなりつつあるらしいが、代わりに匂いを嗅ぎたがるので事態はあまり変わっていないわけだ。医者の手なんか舐めるな嗅ぐな。四仔はそう言う。
つまり信一は四仔のことを好きだし、十二のことを好きだし、舐めるし、俺のことも舐めるし、しかも夜中に──朴念仁とは確かにそうかもしれない。画廊の壁なんだからな。
「……信一、今度来るときは前もって言っておいてくれ」
自分の声を自分で聞いて妙に驚いた。どう聞いたって眠くて仕方のない男の腑抜けた声だ。信一は胸の上に顔を伏せて何にも言わなくなった。絵になってしまった。どんな出来栄えだろう。濡れた手が乾いていく。少し涼しい。