舌 信一が木の枝にかじりついて、こりこりやっている。近ごろの趣味らしい。床に伏せて、前脚で枝を押さえて、枝の適当な部位を噛んでいる。噛み砕くほどの力加減でもなく、さらに言えば樹皮をはがすほどの力加減でもない。上下の歯をゆるく噛ませては離し、また噛み付いてを繰り返している。
噛みながらゆるく尾を振っているから、楽しみを覚えてのことだろうと見当はつく。毛足の長い、羽箒に似た白黒の尾が、土埃のうっすらした床を滑っている。信一の尾の通った箇所だけが、埃を拭われて光っている。
「信一」
洛軍はそっと、声をかけてみた。信一は枝から顔を上げて耳をすませ、洛軍を見やった。はじめて洛軍に気づいたような顔をするが、洛軍はもうずいぶん前から、信一から二メートルも離れない場所にいて、伏せて、信一を見ていた。
信一の驚いたような顔も、芝居なのだと分かっていた。信一も、見抜かれやすい芝居をわざわざやってみせたのだろう。信一にはそういう、わざとらしさをわざとらしく演出する、癖のようなものがある。
「…………」
声をかけたはいいが、肝心の用件がない。そもそも用がないから、こんなところにニ頭きりでいて、お互いに用がないから、かたや黙りこくって、かたや枝を噛んでいる。
洛軍が話題を探して黙っていると、信一は枝を放り出して立ち上がり、ひょこひょこと頭を上下させながら、洛軍の傍らへとやってきた。足をそろえて、洛軍の脇腹に自分の脇腹を沿わせるように伏せた。
「毛繕いの依頼?」
信一がからかうように言った。
「違う」
洛軍が答えた。
「お前は毛足が短くって、舐めやすくていい」
信一は早速、あたまをもたげて、洛軍の耳と耳の間をひと舐めした。
「毛が長くてたっぷりあると、めんどうなんだ」
「俺ってメンドウなんだ?」
信一がまた、からかうように言う。洛軍に比べて、信一は長毛の部類だ。
「違う」
洛軍も再び答える。
「おれは毛を長く伸ばすつもりがないし、そもそも長く伸ばすのに向いてもいない。そういう話だ」
「わかってるさ」
言って、信一はまた、洛軍をひと舐めした。今度は首のあたりだった。いよいよ洛軍も、何かやり返さないではおれない気分になった。
前々から、それこそ洛軍が信一へ自分の名を名乗った頃から、信一はたびたび洛軍に構った。
はじめは新入りに対する世話役のような態度だったが、すぐに友人として付き合うようになった。そうすると信一は輪をかけて懐っこくなり、洛軍を親しく構った。
仕事中に、見回りを兼ねた散歩中の信一に出くわして、出会い頭に二往復も三往復も顔を舐められたこともある。
洛軍は、自分も信一を構い返す必要があるように思った。
「信一」
「うん?」
顔をこちらに向けた隙に、その鼻面から額にかけて、すばやく舌を出して舐め上げる。たった一回だが、大きな一回だ。洛軍は自分からあからさまな挨拶をする方ではない。
「洛軍が俺をなめた!」
信一は叫んで立ち上がり、顔を左右にうろつかせたあと、また元の位置に伏せ直した。
「え、もう一回?」
「……もうしない」
「照れるな照れるな」
信一はぐいぐいと身を寄せてくる。
「そういうことじゃあ……なくて……」
洛軍は信一の顔を見た。滑らかな毛並みが、洛軍の舌の通った部分だけ乱れて、ところどころ跳ねている。そのせいで、信一の顔の傷が隠されずに目立っていた。
王九らの襲撃の際につけられた傷だ。形の良い顔に、真横に引かれた刃物傷。
洛軍は目を下へと逸らした。
すると逸らした先に、今度は信一の右の前脚が映った。顔の傷と同じに、王九に切り取られて、左よりも短い脚だ。
「…………」
「おっ?」
信一の声を、頭上に聞いた。洛軍は顔を下げて、信一の脚先に舌で触れ、二、三、と舐めた。もう皮も張って、まわりの毛並みに埋もれつつある傷は、舌先で触れても他との違いがはっきりあるわけでもなかったが、洛軍は彼の傷に触れる行いを、何か特別なことのように思った。
顔を上げると、信一は口を半開きにして、洛軍を見つめていた。
「もう痛くない」
信一が言った。
「これで歩くも走るのも、もう慣れた」
「よかった」と、洛軍は返した。
「おれは」
洛軍は続けた。
「見たことがあるんだ。ここにくる前に」
「なにを?」
「たくさん見た。深手を負ったやつ、手足を失ったやつ、体中を切りつけられたやつ……深手を負わせて、手足をもいで、体中を切りつけるやつを」
「俺もある」
信一が言った。
「俺も見たことがある、ここで。でも、洛軍の見たものとはきっと、同じじゃないだろうな」
そう言って、信一は、洛軍の背中に顎をのせた。信一の顔が見えなくなった。
「いや、本当はたまに痛いんだけど」
背中を通して、信一の声が響いてくる。
「傷が?」
「傷そのものなのか、『傷より先』のなのか……でも気の所為なんだ、これは」
実際より『先』に痛みがある。洛軍にはそれを知っている。
「信一は痛いと感じているんだから、それは本当のことだ」
「そうかな」
「そうだ」
洛軍は、いつになくはっきりと応えた。信一にはそれが一番良いという気がした。
「俺のものかな」
信一はぼんやりと言った。
「…………」
「痛かったら、その痛いのは俺のものかな」
「きっとそうだ」
「そうならいいんだ。痛さくらい、俺のものじゃないと、いけないよな」
信一の声は、窓辺からの西日の中に溶けていく。
「……四仔や十二ならここで、もっと気の利いたことでも言えるんだろうが」
「ええ!?」
ふと、背中が軽くなる。次の瞬間には信一の顔が、洛軍の目の前にある。
「冗談言うなよ! まさかあいつらがそんなこと!」
するだろう、と洛軍は思った。いざとなれば二人なら、信一に何か言って聞かせ、行動してみせるだろう。
信一も、他の誰も言わないが、自分がいなかった間、彼ら三人の間にはそうした言葉や行動がはっきりあったはずだ。
「だって、四仔なんかいつまで経っても俺に挨拶の舐めひとつさせてくんないんだぜ」
信一は立ち上がって、首を振った。
「四仔はそれが好きじゃないんだろう」
洛軍も立ち上がる。
「十二はさせてくれるけど、あいつ、舌がときどき痛いんだ。だから俺からするのは良いけど、お返しされるのは遠慮だな」
十二の舌で舐められると痛いのは、彼が猫科だからだ。それに、洛軍が見る限り、信一が十二の舌をほんとうに拒んだことはない。
信一は歩き出した。
床の上に放ってあった枝まで、とたとた、と歩み寄ると、くるりと洛軍を振り返った。
「お礼」
そう言って、先ほどまで噛んでいた枝を、洛軍へ蹴ってよこした。
「舐めてくれたから、お返しに。齧っていいぜ」
「枝を?」
「けっこう楽しい」
「本当に楽しくてやってたのか」
「まあな」
「味は?」
「味?」
顔を近づけて枝を嗅ぎ回る洛軍に、信一は「ない、全然ない」と言う。
「味はないけど、齧ってると良いんだ。気が紛れる。気が紛れれば、楽しいことも思いつけるようになる」
そう言う信一の背後に、西日の赤が燃えていた。明かりのない部屋の中に壁の黒が浮き上がり、その黒い中に、窓の形に切られた夕日が見えている。差し込む日を背中に浴びた信一の姿が、さらに影となって黒黒と輝いている。
「なら、信一」
洛軍が言った。
「おれともっと気を紛らわせよう」
枝もいいが、それ以外で、と付け加える。
「どうやって?」
飾り気なく不思議そうに、おっとりと首を傾げて信一が尋ねる。
洛軍は、早足に部屋の戸口まで歩いていき、信一を振り返った。
「足は?」
「え? 別に? 痛くない……今は」
「走ろう」
「はしる」
「とにかく走る」
「とにかく」
「信一、勝負だ。ここから駆けて行って、先に『もう休もう』と言ったほうが勝ちだ」
『なんだそれ」
言いながら、信一も戸口までやってくる。
「早く休みたがった方が勝つ駆け勝負だ。走り出してすぐに降参すれば話はおわる。だがおれもお前も――」
「半端な真似はしない主義だよな」
外へ足を出して、信一が言った。
「そうだ」
洛軍は頷いた。
「じゃあ、せーの!の『の』で始めよう。せーの!」
信一が叫ぶ。
た、と二頭分の強い足音があり、犬の姿は消え、鋭い風が夕日と部屋の埃とを巻き上げ、撚り合わせた。その名残がきらめいて、部屋に残った。