匙「これも」
洛軍が信一に皿を差し出す。
足の短い食卓のこちらから彼方へと、洛軍の腕が橋を架ける。橋の先には信一がいる。
信一は、食卓の真向かいから、自分へ向かって突き出された惣菜皿を見て、目線をあげ、差出人たる洛軍の顔を見つめた。目を丸く見開き、忙しなく二回も瞬きをした。
「美味かった」
信一へ皿を突き出したまま、洛軍が言う。油で青菜を炒めたものが入った、広く浅い皿だ。
洛軍の隣で、十二が粥のような飯を、匙でかき込んでいる。
「美味かったのなら──」
信一は手にしていた匙を卓上へ置くと、照れたように言った。
「お前がみんな食べたいいのに。洛軍」
食卓の上に吊るした裸電球が揺れる。開けた窓から風が入って、電球を揺らしている。それはふらりと洛軍の頭上へ近付いては光を撒き、ぐんと反動をつけて信一の頭上へと、また光を撒いた。
洛軍は信一に食わせたいらしかった。
確かに信一はかつてほどは食べなくなった。それに、飲むこともなくなった。洛軍はそれが嫌なのかもしれない。
四仔は信一に頼まれて、瓶ジュースの栓を開けてやった。真に信一が言いたかったのは、四仔の手元に栓抜きがあるからそれを寄越すか、そうでなければ栓を開けて寄越せということだったらしいが、四仔は構わず素手の力ずくを披露した。
その間、信一はどこを見るでもなく壁と天井の間に目をやっていて、向かいの洛軍が、その信一をじっと見ていた。
隙を伺っているようにも見える。
何かを見極めようと試みているようにも、見える。
「信一」
四仔が、開けたてのジュースを差し出すと、信一はたちまち目の焦点を四仔へ合わせて、「ストローは?」と生意気を言った。横から十二が、「ない」と肩をすくめる。「さっき俺が使ったので最後」
洛軍は無言で自分の身の回りをぐるりと見て、小さく首を横振っている。
「仕方ない」
少しも残念ではなさそうに言って、信一が瓶に口をつけた。十二が食事を再開する。四仔も、揚げ物の山の中へ指を突っ込む。洛軍の目が、卓上の皿の列に戻る。
信一は瓶の中身を何口か飲んだ後、洛軍からほとんど丸ごと押し付けられた──信一はそうは思っていないだろうし、洛軍もそんなつもりじゃあないのはわかっている──皿に、匙を差し込んで、中身をゆっくりと食べ始めた。洛軍はそれを、隠れて伺い見て、目つきを和らげる。
部屋の中にまた微風が吹いてきて、光が揺れる。吊り下げられた電球は今度はゆったりと円を描くようになる。まばゆき光の帯が、灯りの下のそれぞれの頬を撫で、照らし、びたびたと滴って床を染める。
四仔は鶏の脚肉をその骨からこそいで、口の中へ収めた。骨を空皿に放ろうとして、ふと、右隣の信一と目が合う。黒くて深い目が、裸電球の黄みを帯びた光を吸い込んで、より深い。信一のわずかな目の動きを、それが訴えるものを、四仔は正しく読み解いた。
「十二」
四仔が言った。斜向かいの十二が顔を上げ、口元を拭い、返事の代わりに肩をすくめた。
「いくらか追加で都合してこい」
あごで卓上を示す。空になった食器が無秩序に連なっている。
「金払えよ」
威嚇のように、十二が自身の膝を打って音を立てる。
「奢れよ」
四仔が言うと、十二は隣の洛軍の背中をばしりとやった。
「まさか! なあ、洛軍」
十二は立ち上がり、洛軍を伴って部屋を出た。「今度は俺らの好み優先で飯買おうぜ」と言う声が、ゆるゆると遠くなっていく。
「…………」
「もう終わりか」
戸口を見つめたままの信一の手元から、青菜入りの皿を奪う。中身の半分を適当な器に流し入れ、再び皿を戻してやる。四仔は自分の取り分となった青菜の炒め物に、今度は箸を入れて素早く食べ進めた。
「次は酒か?」
咀嚼の隙間で問いかける。信一はまだ、頭の後ろを四仔に見せつける格好で、部屋の戸口ばかり見ている。その実、この場の何一つでさえ、真の意味では見つめてはいないのだとは、分かっている。
信一は軽くなった、と四仔は思った。その肉体でなく、魂でなく、意識とも言うべきものが重みを失って浮き上がるようになった。四仔はそれが、自身の内に欠落を生じた人間にしばしば訪れる、普遍の意識の浮薄であると知っていた。
重みを失った意識は、世のあれこれにたやすく引かれ、絡め取られて、簡単には戻らなくなる。
「酒はやらない、しばらく」
時間をかけ、ぼんやりと、信一が言った。
「飲んでどうなるのか分かんないもんな」
「嫌なのか」
皿の上の青菜を、箸でつまんで束にして一息に口へ収める。十二はどこまで出かけただろうか。察しの良い男だから、あんまり早く切り上げて帰ってくるようなことはないだろう。
「嫌だ」
ゆっくりと首を回らせて、信一が四仔に目を合わせる。
「酒ってほら」
左手を顔の前にひらひら翻して、信一は言った。
「飲むとこう、揺り動かされるだろ。いい気分になったり」
「自覚があったんだな」
空になった皿を、手近な皿の下に重ねて視界から消し、箸は拭って食卓の下へ隠した。片付けの際に忘れずに回収することを誓う。
「あるね」
あっけらかんと、信一が応える。
「あるから、嫌だ。しばらく飲まない」
「なら、飯は?」
まだ少し残る青菜の皿を、ぐっと押しやってやる。信一はそれを見下ろして、再び匙を取った。
「……あいつ、いいやつだよな」
「洛軍?」
分かりきったことを聞く。
「洛軍」
口の中をかみながら、信一が浅く頷く。
「とにかくまず飯を食えって、そういう顔してさ、俺に」
洛軍は真実、そうして生きてきた。限りあるものを食べ、飲み、生き延びるために生き延びてきた。
「あの顔を見せられると、一瞬でも飯のことだけ考えられるようになって、なんて言うのか、丁度いいよ」
かち、と信一の匙が、皿の底を掠める。
「まあ、とはいえ青菜だけ三人前も食うのは今ちょっと無理なんだけど」
「手伝ってやったろ」
信一は目を細めて、ほんの少しばかり笑って見せた。それから、戻ってきた十二と洛軍の足音へ耳澄ますように、再び戸口へと顔を向けた。