風 ひゅうひゅうと風が鳴っていた。ビル風の音色が、受話器越しに神代の耳に届く。
「あなたはいっとうの医者なんです」
受話器向こうから、富永が言った。都市部の片隅に足を止めて、山野深くの神代にさらに言う。
「あなたを尊敬している」
「…………」
夕日が、診療所の神代の手元を照らしている。
「もしかすれば、あと少しで、憧れさえしてしまったかも」
神代は吐息さえ余計に漏らさず、黙って受話器を耳に当てたままでいた。
富永は神代の応えを求めてはいないとわかっていた。歳を重ねて、互いの知らぬところで己自身を研磨し、時にすり減らし、より鋭利になった富永の機微は、かつて共に職務と寝食とを分け合っていた頃よりもかえって、神代には読みやすかった。
富永はひとり、かすかに笑ってから続けた。
「でも、」
不意に、電波の向こうから聞こえていた風の音が途切れて、代わりに車の駆動音が低く聞こえ始めた。車内へ移動したものらしい。
この通話は、富永が仕掛けた。移動と移動の間に、少しの世間話と、医療従事者らしい情報の交換を付け加えて通話時間を延ばし、ついに「最近、特に思うんですけど」と口火を切った。
「あなたがいっとうの医者であるからといって、時にあなたこそ憧れにふさわしいかと思えたからといって、僕は」
神代は微動だにせず、次を待った。
「あなたのような医者を、あなたがされたようなやり口に倣って、ふたりも三人もこしらえてやろうなどとは到底、思えないなと」
太陽が山々に沈み、薄暗闇が診療所を包み始める。
「そう、あらためて考えるようなことが、すこし……」
「そうか」
神代はやっと応えた。求められてはいないが、禁じられてもいない、短な返答をした。
富永は、人間の人間らしいことを望む医者だった。
その富永が、人間が人間を育てることについて、わざわざ神代を選んで話をしないではおれないような体験をしたものらしい。
富永は「あの」と、後ろめたそうに言い、心底恐縮したようになった。
「すみません、本当は、こんな言い方をするつもりは……でも、あなたの人生や努力を否定したくて言うんじゃあないのは、信じてください」
富永が否定したいのは神代ではなくて、神代を作るような仕組みなのだともわかっている。神代は相手に見えもしないと承知の上で、深くうなずいて返した。
「構わない。富永、お前は俺に何の話をしても良いし、何の話をしなくともよい。それに」
「……それに?」
勿体ぶる神代に、富永は先を促した。
「言いかけたのなら言わないと」
神代は受話器を肩と頬の間に挟み、首を巡らせて窓の外を見た。翳って暗い夕日の中を、研修医が大きな鞄とともに、ほとほとと歩いてくる。
「俺はお前のような医者が、二人でも三人でも、より多く、いればいいと思っている」
ああ、と溜め息のような声が、受話器から聞こえた。
「本当のことだ」
神代が言うと、富永は「慰められてますね、俺?」と言った。