街中の喫茶店 街中の喫茶店にいらっしゃいました。ええ、そうです、かの富永院長のことです。かの大病院の――まあ実際にああいう地域の総合病院のことを指すには大げさだという人もいるかもしれませんがね――、跡を立派に継がれた院長のことです。医者としての力量十分、人望ありで、院内政治もなかなかにやるとの噂ですが、先代に比較して老成したところをあまり見せないのもあって、年嵩の人々にはまだすこしばかり若造のように扱われている節のある、けれども中々に強かで、いろいろの手腕ある、あの富永院長のことです。
喫茶店にいらっしゃいましたわけです。窓際の席にかけておられるのです。シャツを着て、ネクタイは外して、ソファ席の空いたところにジャケットを放っているのです。右手をテーブルの上に置いて、時々、指で天板をこつこつやったり、お冷のグラスを握っては放したり、メニュー表のおもてとうらとをくるくるかわるがわるひっくり返したり、そういうことをしておられるのです。
ああ、人を待っているのだなと分かるわけです。
五分も経ちましたでしょうか、広々した店内に、からんころんとドアベルの歌声が響きます。すうるり、と、高々そびえる樫の木のように大きく、夜明けの霧のようにしんとした気配の、青黒い影めいたものが喫茶店の扉を開け、中へ滑り込んでくるのです。影と見えたものは、夜のようなマントで全身を滑らかに隠した、背高い人間のようでした。髪は黒く、横顔は白く、すんと強い鼻梁が伺えます。
その人が歩むたび、まるで山間に開かれた細道のように九十九に折れたマントの裾が広がり、しぼみ、波打っては床にさざ波を映じるのです。
その人は慣れたような足取りでまず、店内入ってすぐの消毒液のディスペンサーに立ち寄って、たっぷりしたマントの布地の下から突き出した両手をよくよく消毒して、それから迷いなく、窓際の席を目指してゆくのです。
その影の人の行方を目で追いますと、ああ、なるほど、となるのです。富永院長が待ちわびていたのが、かの影の人なのが、もうすっかり分かるのです。誰に聞いたってそうだと太鼓判を押してくださるに違いないのです。
笑みというのか、しかめ面と言うのか、喜びを前にして威厳の仮面をつけるかどうか迷ったような、そういうお顔をされるのです。ええ、そうです、かの富永院長のことです。
「――――」
富永院長はもう、ほとんど立ち上がっておられて、影の人がその手前に立って、何を言うより先に富永院長が口を開くのです。きっと名を呼ぶとか、挨拶をするだとか、そういうやりとりがあったのでしょう。影の人もまた口元をほころばせて、少し目を伏せて、何かお返事をしたと見えました。
それから富永院長はすっかり立ち上がってテーブルを回り込んで、その人のお隣へわざわざ着席なさいました。影の人が少し顎を引いて、何かを言いました。院長はそれを笑って躱していらっしゃいました。影の人も、そこまで分かった上だったように見えました。
店員へいくつかの注文をして、メニュー表をテーブル隅に戻して、それからしばらく、お二人は長く長く、お話をしておられました。至極まじめなお顔のときもあれば、二人してぼおっと、遠くを見るような目つきのときもありました。一方が長く長くお話される場面があれば、お二人が矢継ぎ早に、次から次へと言葉を交わし合う場面がありました。
お二人は隣り合ったまま、真正面を向いて、クラブハウスサンドを食べ、バジルのピザを食べ、大きなマグボウルから何かを飲み、シャーベットアイスを舐め、その合間合間で、延々とお話をしておられました。時に、身振りも交えて、またはテーブルの上に何らかの具体的な物体があるかのような手つきで、その空中で二人で両手を忙しなく動かしてもいました。ああ、そうですね、まるでそこにないピアノを弾くピアニストのようなしぐさをされていました。しかし富永院長はもちろん、お医者様ですので――……
そういう調子で、お二人は延々とお話を、そしてお食事をしておられました。
ご友人でしたか、と聞きましたところ、さる朝の院長は「うううん」と唸ったので、わたくしは多少、驚いたのでした。院長はもっと嘘がお得意のはずですので、そんな勿体ぶった唸り声なんかで場を凌ごうとなさるなんて、と驚いたのです。そうしますと院長は「友人と呼ぶにはねえ」とその前髪をくしゃくしゃとやって、目を窓の外に向けました。
「友人と呼ぶにはあんまりまぶしくて刺激が過ぎるよ」
半分くらいは本心なのでしょうが、という加減でございました。それでまた、ご友人でしたね、と申し上げますと、院長はうってかわって「そうだよ」とひどく自慢げになさいました。