真白い蟲 風が強く吹いている。水辺の風だ。湿って、ひんやりと冴えている。昼の光が水面を照らし、風がそれを散らしている。
「信一」
十二は、ほんの二メートル先の背中に、自分でも恐ろしいほど密かな、そっとした声で名前を呼びかけた。
「……」
背中は返事をしない。十二も、それを当然と思った。
十二は、信一の背中と、その向こうでひたひた揺れる水面の光を見つめた。
「信一」
もう一度だけ、呼びかけてみる。
寝台に戻れと言いたかったのかもしれない。
薬を飲めと言いたかったのかもしれない。
四仔の言いつけを守って、いくらかなりとも養生に努めろだとか、言おうとしたのかもしれなかった。
自分は、信一に何かやるべきことを教えてやらねばならないという思いつきが、十二の胸の中に確かにあった。そして、それら思いつきの全てが、今の信一には全く受け入れ難いだろうということも、はっきりとわかっていた。
十二は、痛んで不自由な脚を庇いながら、杖をついて、小屋の水際に佇む信一の隣目指して、歩き出し、少しして立ち止まった。
風が吹いた。水の匂いがした。血の匂いもした。生々しく血潮の溢れる匂いが風に巻かれて立ち上り、白々と薄まって消えていった。
荒事に馴染んだ十二の目は自然、その血生臭さを探って、信一の右手へと向く。硬く巻き締められた包帯のその下、失われた三指の傷を幻めいて見透かした。
信一がふいに、首を巡らせ、十二へと目をやった。乱れた髪の隙間から、うっそり静かな双眸が見え隠れする。
白いまぶた、白い頬。すんなり通った鼻梁に、昼の光が、つう、と滑る。
「十二」
風に吹かれながら、信一が言った。その声は、十二の耳元で大きく響いた。
それは、夏の日差しとともに降りしきる、蝉の声のように、わあ、と十二の頭蓋を揺らした。
変わってしまった、と十二は思った。信一は変わってしまった。
歩きもせず、飛びもせず、濡れた羽を背負って、ただ大木に爪をかけるばかりの、真白い蟲に。それまで着込んでいられた殻を破り捨てられて、ただ剥き出しの蟲に変わってしまった。
信一は、自分を飾るものが好きだった。自分の見てくれが「ふさわしく」なるように計らいたがった。一目見て、あれこそ九龍城砦の信一だと知らしめるように、彼こそ龍の懐刀だと謳われるようにしたがった。
彼はそうして得た畏怖と敬意を着込んで暮らしてきた。
龍その人なく、九龍城砦から引き剥がされた今、信一の身を守り、飾るものはもはや一片たりとも残ってはいなかった。
「……戻れよ」
十二は、唾を呑みながら、信一へ言った。
信一があまりに無防備で、柔らかく、真っ白だから、風に当てるのも嫌な気になって、十二は指で背後の小屋を示してさらに言った。
「また熱出してひっくり返って、四仔にどやされる」
言ってから、十二は「戻れるものならば」と己を呪った。
戻れるのなら戻っただろう。
今からでも、あの時、あの場所、あの人の元へ戻れるのなら、そうしただろう。十二も四仔も、信一もそうしただろう。
そう思い、すぐに否、と打ち消す。
一つを生かすために、一つを失わなければならない極限にさえなければ、自分たちは「戻る」どころか、あの場に留まっていられたはずではないのか。
信一は、蟲のように柔らかな体を、自分に晒すような真似をせずにいられたはずではないのか。
「……そうだな」
信一は、ゆっくり瞬きして、答えた。
「けど、あと少しだけ」
信一の目が空へ向く。
「あそこに、見えるだろ」
十二も信一の目線を追って空の青を仰ぐ。薄い雲がびょうびょうと流れていく。
「星が見える」
信一はそう言ったが、十二の目にはそれらしいものは映らない。
「真昼の星だ。雲に隠れたり、また現れたりするんだ。あれがもう一度、雲間から覗いたら。それを見届けたら、戻るさ」
信一が目を細める。乱れた髪が風に撫でられて、その顔をまた隠す。