墜天の王 11 その馴れ初めは焦がれて苦く.
「おい!帝釈天!」
引き戸を滑らせ叩きつけるように開け放った。そのせいで扉が壊れてしまうことはなかったが。高く囀る二羽の鳥の声が聞こえた気がした。驚かせたのか忙しない羽音だけを残し、その姿を確認する前にもう飛び去った後のようだった。入室の確認も取らず押し入る来訪者に部屋の主も驚かされたことだろう。
呼びかけた相手は兵糧や武具の管理のため各所からの在庫の書き出し報告を受けて確認し、調整を考えている最中のようだ。
この、ようだったというのも。言い切れないところがあるのは、彼が紐の解かれたおさえ竹のみを右手で軽く膝に乗せた状態で、外を眺めていたように見えたからだった。
尾紙まで長く広げられ軸も放り出された長い巻物は回転が止まるまで放っておかれたのか床に悠然と河川を敷き、自由に転がっているだけ。
自分がどれほどの気持ちを持って此処へ帰ってきたのか知らないのであろう相手に対し、横暴もいいところかもしれないが。上の空で遥か上空を無意味に眺め、空想上の生き物でも雲の中に探していたというのならば現実に引っぱり戻して一方的な怒りをぶつけてやろう。そんな感情を抑えきれないくらいの状態だった。
「……阿修羅……?」
開け放たれた出窓の桟に腰掛け外から入り込む風に髪を遊ばせた彼の姿を見てその穏やかな様子に、居るべき場所へ帰ってきたのだと安堵しかける。
吹き込む風に桜が室内へと舞い込むのも構わず、横切る花弁の枚数でも数えていたのだろうか。のほほんと日光浴に興じ呆けて、幻でも見たような顔のままはっきりしない弱々しい声でこちらを伺ってくる。仕事を放り出してぼんやりするこんな彼の様子は見たことがなく、一瞬違和感を感じた。
「もう帰ったのか。早いな」
阿修羅は翼の団の指揮官として、必要な務めを果たし戻ったところだ。予定よりずっと早いと感じたのだろう。相方が居ぬ間に張りあいもなくすっかり腑抜けになったのかとも思わせたが、声をかけられ途端にいつもの無駄のない動きに転じる帝釈天は床に広げたままの巻物を器用に手繰り寄せると、巻き直しながらそれに答える。
翼の団も数年かけて大所帯となった。帝釈天の資産を切り崩しての運営や民からの寄付だけでは到底賄えない。資金繰りのために貴族相手に援助を求めることがあるが、帝釈天の人望や伝手であるところが大きい。しかしそれをよく思わない十天衆の目もある。あまり大っぴらに寄付を表明出来ない貴族からの義援金には限界があった。
前から翼の団の兵糧の仕入れで贔屓にしている商い屋がある。その主人は変わり者だが気前が良く、翼の団の活動に好意的で、商品を負けてくれるばかりかこちらが寄付を受けることがあるくらいだった。
将来的に自分の利益になるはずと打算的な商人の勘がそう踏んでいるのだろうか。
少し前に、その男の行商の旅に付き添い阿修羅は帝釈天と共に護衛の任に就かされたことがあった。金品を狙う鬼族に荷馬車が襲われかけたが阿修羅の活躍により物取りを一掃したことで大層気に入られ、感謝の気持ちで謝礼以上の形でぜひ持て成したいと屋敷に呼ばれた。当然帝釈天も一緒についてくるものと思っていたのに、招待されたのは貴方だけだ。都の中で私の御守りは必要ないだろうと突き放され阿修羅は一人で赴く羽目になったのだった。
成り上がりの商人だが有力者だ。翼の団が融資を受けるためには関係を保つ必要がある。我慢してくれ。そう言われてしまえば断ることも出来ず、飯を食って酒を飲んで喋って寝泊まりし帰って来るだけならと単身屋敷へ向かったのだが。
「あれは一体、何なんだ……」
「?あれ、とは」
「風呂に……知らない女が入ってきた」
文字通りに贅沢な厚遇を受けた後、食事を終え、阿修羅は広い浴場に案内された。商人の趣味なのであろう壁面飾りの龍や花の装飾が見事な内装で、いい趣味だ。寛げそうだと思い、悪くない気分で長風呂を楽しむつもりでいたのだが。後から屋敷の侍女が中に入ってきて、背中を流すと言い目の前で突然服を脱ぎだしたのだった。
「富裕層の間にはよくある接待のやり方だ。彼らにしてみればそれが最上のもてなしのつもりなんだ」
「金持ちは平気であんな事をさせているのか」
「彼女たちにも生活がある。無論、女性だけとは限らないし、見目の綺麗な若い男が宛てがわれることもある」
あれでは、まるで娼婦だ。そう言いながら嫌悪を滲ませる阿修羅の表情を見た帝釈天は落ち着かせようとしたのか世間一般の事情を付け加える形で言葉を繋いだ。
「表向きは湯浴みの介助ということになっている」
公然とそう名を打っていないだけで役人の取り締まりを逃れるための常套句だが、役所も見て見ぬふりをしている。などと、とんでもない内容を淡々とした声でそう続ける帝釈天に阿修羅は空いた口も塞がらなかった。
「気に入れば床に連れ立って一夜を共に過ごす。任意だが、客の機嫌を損ねてしまうことがあればそれこそ彼女たちにとっても死活問題だ」
「…………」
そういった施しを彼も当然のように受けてきて経験した上で話しているのだろうか。勘繰ってしまう阿修羅の中で込み上げる思いは、怒りだけではない。
「まさか怒鳴り散らして寝泊りもせず帰ってきたわけじゃないだろうな」
自分の振る舞いが翼の団の未来を左右する。自覚を持ってくれと常日頃から帝釈天に言われていた。直情的で態度に出てしまう阿修羅も自分で踏み止まらねばならないこともあると、理解していたつもりだ。
確かに怒りが込み上げたが、突っ撥ねるようなことはしなかった。
詰め寄られてもそんなことは自分で出来るから構わないでいいと返したが気の強い女性で、これが自分に与えられた仕事だから断られても困ると食い下がってこられて無理に接触されそうになった。
押し倒す勢いに打ち負かされそうなほどの強引さだったが、阿修羅がある言葉を相手に向けると、何故か途端に静かになった。
「女は丁寧に断って帰らせた。その後、客室でおとなしく床についたが怒りで一睡も出来なかった」
呆れているのか目も合わせない帝釈天に阿修羅はそう言葉を返す。
談笑に勤しむ余裕はない。早朝の静けさを突き破って何を口走ってしまうか自分でも想像ができた。だから朝食は断って帰らせてもらった。帰り際の挨拶も商人に怒鳴り散らして出ていきたいぐらいの気持ちだったが、自分にしては何とか穏便に切り抜けたつもりだった。
「そうやっていつまでも人との関わりを避けて生きるつもりか。天域の英雄が、多少の火遊びぐらい覚えなくてどうする」
怒りに任せ暴れ回ることもせず真摯に務めを終え帰ってきたというのに、そこではなく、経験の機会を棒に振ったことを帝釈天は咎めてきた。
その言葉が酷く阿修羅の中にある感情を抉った。自分には関わりのないところへ追いやり、誰と関係を持とうと少しも揺れ動くものが彼の中には存在しないのだと。そう思ったら。自分の中で、大事にしていたはずの何かが砕ける。
「ッ!」
「だったらお前が代わりを務めろ」
気付いたら相手の肩を掴んで詰め寄り、口にしてはいけない言葉を落としていた。
肩に食い込む爪の痛みに帝釈天は身動ぐ。一瞬目を見開き驚いた表情を見せたが。その次に、ゆっくり阿修羅を見上げた。
「ああ。構わないよ」
いつも通りの閑雅な笑顔で。簡単な二つ返事が戻って来る。
聞き間違いではないかと、本当に意味がわかって言っているのかと、疑いたくなるような明確な返事だった。その申し出を受け入れる、と。そう紡ぐその唇ですら自分に差し出すことを厭わないと言うのか。
ただ感情を揺さぶって相手の気持ちを確認したかったのかもしれないが。阿修羅も今この場で隠し通せる欲や怒りではなかった。それでも冗談じゃないと言われ、突き放されると思っていたのに。
「貴方がこんな起伏のない身体でも満足出来る淡白な男だというなら、私を好きにするといい」
「…………」
自分の胸に手をあて、薄紅に色づく品のよい口元で煽るような毒を吐く。
彼はいつものように意地を張って無鉄砲なことを言っているだけだ。こちらが引き下がり言葉遊びのつもりで本気ではなかったとそう言って止めさせなければ。阿修羅の中にあるそんな焦りと同時に、別の期待がせめぎ合って迷い、答えを出せない。
こんな正しくないやり方で、約束を取り付けていいわけがないのに。
「今夜ここで待っていてくれ」
そう言って立ち上がる帝釈天は巻物をそばにある執務机に残し、阿修羅を躱すように横を通り過ぎる。
今まで何度も柳に風と受け流す彼の巧みさに、味わった苦い思いがある。だからだろうか。白い衣が自分の肌を掠め流れた感触が、幻のように不確かで。捕えたと思った矢先に手指からすり抜ける蝶みたいだと感じてしまう。
「逃げるなよ」
「貴方がね」
返す言葉も自分の意識下に置けていない。ますます引っ込みがつかなくなった。
逆上していて先ほどは気づかなかったが、隣を歩く彼の横顔を見て阿修羅は何かに気付き、咄嗟に帝釈天の腕を掴む。
「待て」
正面に向かせ、確認するために覗き込み、親指で相手の目の下をなぞった。
急に顔に触られたことに驚いたのか僅かに強張る肩にも構わずに詰め寄り、目元を見つめればその上にある双眸が少し動揺を見せる。
「腫れているな。お前、寝不足なんじゃないのか」
「決算書をまとめていたら寝るのが少し遅くなったというだけだ。別に問題はない」
無遠慮に立ち入って触れた阿修羅の手を叱りつけるように軽く振り払う帝釈天が、少し攻撃的な瞳で見返した。
「私に理由を作らせ、辞退したいのは貴方のほうなんじゃないのか?」
売られれば買うとわかって放つのであろうその言葉なら、もう遠慮もなにもない。阿修羅は引っ掴んだ襟元の布地と掴んだ腕を強引に引き寄せ帝釈天を上に向かせる。
瞼も閉じず噛み付くほどに性急な口づけは、初めて知る感触も脳に伝えず離れると、彼の更に上をいく喧嘩腰な眼力で帝釈天を捕える。だが、確かに阿修羅は、至極たのしそうに笑っていた。
「その目元、一晩かけてもっと腫らせてやるから覚悟しておけ」