4 体育教師×養護教諭 修帝.
ノートPCに向かい事務仕事に勤しむ教師の前で頬杖を付き、穏やかな表情でじっと見てくる男の顔を笑顔で見つめ返すことはしない。だが痺れを切らし言葉を投げてしまうのはやはりこちら側だ。
「阿修羅先生。保健室を部活後に涼むための休憩場所にしないでくれないか」
「確かに快適だ。だがお前の邪魔をするつもりはない」
ごく稀だが養護教諭も数年働けば授業を受け持つ場合がある。理学療法士の専門知識も持っているため保健室の運営に差し障らない程度で今は時折だがスポーツ科学の授業を担当している。その資料を作成中だと知っているのでこうしておとなしく待てを自分に言い聞かせているのだろうが。見つめられていて集中しろというのも難しい話だとわからない無神経なところに、深い溜息を吐きそうだった。
「…………」
悩みを相談に来る生徒と同じように相向かいに座ることが当たり前となっている彼はデスクの上に両腕を乗せている。腕橈骨筋の構造についてまとめていたがために目の前に並べられた鍛え上げられた腕の見事な見本に、思わずPC画面の人体模型の画像と見比べてしまう。集中力が途切れていたことを自覚していたし彼が部屋にやって来た時点で既に諦めてはいたが。
半袖で過しているため、これ見よがしに曝された上腕と前腕がより目に付くようになる季節。
「見事なものだ。次の授業は貴方を見本として横に立たせて説明すれば分かりやすくて人体模型は要らないかもしれないね」
そう言いながら帝釈天が彼の肌に手を置き上腕からそっと撫で下ろすと、少し驚いた顔をして瞬きした後でふっと笑って得意気な顔に変わり、拳で握って力を込めたくましい前腕をより強調させてどうだと見せつけてくる。
「いいぞ。お前の役に立てるというなら体育の授業は自習にしてでも駆けつけよう」
「それはだめだよ」
笑いながら返してやっと手を離す。この言葉遊びはお互いに冗談だとわかっているが、自分の行動に関して言えば気まぐれなどではない。
理由をつけてでも欲を押し通し彼に触れてしまった。我ながら品性が姑息で卑しい。だけど彼はそんなこちらの心情など少しも知らない純粋な瞳で、友人に褒められたことで少しの自己肯定感を得ているに過ぎない。
良くも悪くも難儀な技能であり我ながら想像力は人の上をいくのではないかと思うことがある。身体を張って人体模型の真似ごとをやり遂げる完璧な標本の周りに女子生徒どころか男子生徒までもが群がって彼が持て囃され、触られ放題で苦笑している大人気の体育教師の傍らでどんな心情になるか自分の内に芽生える荒れ模様まで再現VTRが出来てしまうのだから、これは不憫な能力だ。
「授業の準備も大事だがせっかくだから夏らしいことがしたいだろ。水族館は前に、もう行ったしな」
仕事仲間としてではなく友人として気軽に誘ってくることが習慣になってしまった阿修羅に対し、距離を置かなければと遠ざけることはもう止めた。どんな提案が出るかを帝釈天は黙って待つ。
「やっぱり夏だしな。海にでも行くか?」
「海……」
その言葉を聞き、帝釈天はすぐに映像を巡らせてしまう。
晴れ渡る空から降り注ぐ照りつける暑さに参ってしまわないようにと到着は早朝を選ぶ。まだ人気のあまりない海岸を二人で歩きながら他愛もない話をして。年末詣の時のように人混みではないのだからさすがに手は繋いで歩かないだろうが、砂に足を取られ躓きそうになる度に危なっかしいやつだなと心配され、やはり手が差し伸べられてしまうのだろう。
自分は泳がないかもしれないが何れにせよ日よけのサンシェードは必要だ。クーラーBOXも。泳いで戻る阿修羅のために冷たい飲み物があったほうがいい。どうしても一緒に泳ぎたいと言われた時のために浮き輪も用意するべきだろうか。全く泳げないわけではなくても波に揉まれそれでも彼の泳ぎについていくというのなら、海底に沈み藻屑と成り果てる覚悟を持たねば。すぐ助けてもらえるのだろうが。
「…………」
いつかの日にここで不意に着替えを始めた友人のせいで目の前に現れたその造形を帝釈天は思い出してしまった。
サロンで半端に焼いた見せかけの肌よりずっと完成されたこの健美な素肌はそれだけで鎧のような強さを感じさせる。張りのある肌に海水が滴る様は光を反射し眩しくて直視出来ないと思いながら何度も盗み見るのであろう自分が想像できてしまう。あわよくばサンオイルを塗ってあげる所まで思い描こうとしている自分にもう嫌悪感を抱かずにはいられない。
だがきっと自分だけではないだろう。身長からのこの肉体美では人目を引き過ぎる。
注目を浴びていたたまれず、その鍛えた身体を生かしあっちで一人ライフセイバーのバイトでもしてきたらどうだと突き放すことになりかねない。
「……夏の海はさすがに暑すぎるんじゃないかな」
せっかくの提案なのにすまないと心の中で謝りながら言った。純粋に友人としての感情だけ持っていけたらどんなに楽しめたかと。
「そうだな。確かにお前の肌は焼けたら痛そうだ」
さっきの仕返しなのか真摯な気持ちで本当に気にかけてくれているのか腕を軽く支え友人の肌の頼りない柔さを親指で擦って確認している阿修羅に、帝釈天は物理的な擽ったさと裏腹に自分の中に燻る後悔へ蓋をした。
「まぁ別に、特別どこかに行かなくてもいいんだ。言っただろ?近くの図書館やカフェでもいい」
「…………」
どうして貴方はそこまで、と、口をついて出そうになる言葉。
彼が人と関わるのがそこまで得意じゃなくて昔馴染みの友にしか心を開けていないのは理解していることだ。おかしな期待を寄せるべきではない。
「そういえば差し入れでもらった炭酸飲料がある。お前も飲むか」
喉が渇いたのか急にそんなことを言って立ち上がったので少し話が逸れたことに気を緩ませる帝釈天は、返事もせず触れられた感触が未だ残る自分の腕を眺めぼんやりしてしまう。
「いつものマグカップじゃ味気ないな。ガラスのコップとか何かないのか」
「え?保健室はカフェじゃないんだぞ」
「おお。ちょうどいいのがあった」
「?」
彼に好き勝手に薬品棚を弄らせるわけにもいかないと思い振り向いて様子を伺ったが、何故か阿修羅はしゃがみ込み置かれた段ボールを漁っている。
「!……阿修羅、それは」
声をかけたが時すでに遅しで取り出したものを軽く水道で洗いだした。拭き取りもしないつもりで水気を振って飛ばし払うだけの阿修羅の雑な動作故に、帝釈天は彼が手に持つものを見て青ざめる。
声をかけても聞く耳を持たない彼は二つ取り出したそれを手に目の前まで来てデスクに置くと、500mlペットボトルのキャップを開け均等に中身を注ぎ入れた。流し込まれる液体の泡が一気に湧いて持ち上がり溢れそうな既の所でまた沈んでいく。
「ほら、これだけでも随分と夏らしい気分に浸れる」
夏の風物詩とどう関係があるのか。この取っ手付きのガラス製の器。洒落たデザイングラスなどではない。縦方向に等間隔でメモリが刻まれていた。
「どこがだ。それは学校の大切な備品だろう」
「怒るな。そう、あれは確か酷暑を記録したとある夏の日。男共で犇めき合うむさ苦しい実験室で蒸し焼きにされ意識が朦朧としだしたお前が喉の渇きを訴え、ビーカーに入った色水を見てつい美味しそうだと漏らしてしまった。その時のことを思い出したんだ」
「……。また貴方は余計なことばかり」
沸々と気泡が弾け、抜けきる前にどうか飲み下してほしいと中身は訴えてくる。今注がれているのは透明な清涼飲料水であり彼が言うそれとは違う色だ。海を思わせるには少し鮮やか過ぎたメチレンブルー溶液。あの時の深い青が今頃になって思い出される。
ビーカーに入った色水を、綺麗だ。遠目で見たことがあるかき氷というもののシロップに似ている。涼しそうな色でちょっと美味しそうだなとつい言葉を零し阿修羅に同意を求めてしまったがために。自分たちの近くにいたムードメーカーのクラスメイトがそれを聞き、だったら阿修羅がまずは毒見をしてやらないとなと言ってふざけて飲ませようとした。怒った阿修羅が仕返しに飲ませることまではしなかったものの、男子のふざけ合いで危うく実験道具を割ってしまうところだった。
「転校してきたばかりのあの頃のお前は世間知らずでどこか浮き世離れしていて、変わった雰囲気を持つ他の誰とも違う不思議な友人だと思っていた」
今は俗世の空気に毒され煩悩で頭がいっぱいだよと、言って返したい。
「昔を懐かしむためだけにわざわざ新品の備品を開けたりして」
そう諌めても悪怯れる様子もなく豪快に傾け飲み下す阿修羅の喉元が上下する。若々しさを感じさせる顔立ちの本来の年齢よりも、いくらか深みと渋さを演出する低い音の発生源が主張し上がり下がりするのを、間近に見てしまった。
入れてしまったのだからしょうがないと帝釈天は考え直しビーカーを手に取る。ちょっと恥ずかしい思い出を話されたことと見るのも躊躇う細部を直視してしまったことで顔が熱くなり、自分でも喉の渇きを感じて迷わずそれに口をつける。罪を意識して気は引けるが。
「変わったフェイク雑貨でこれと同じ取っ手のついたガラス製のタンブラーが売っていたのを見かけたことがある。それと似たようなものだ。問題ない。あの時のお前を思い出して買おうかどうか前に迷ったことがある。今度お揃いで買ってやろうか」
「っ。だがこれは実験用だ。用度品の補充のため在庫を整理中なのだろう。預かっている身で新しい物を誤って割ってしまっては光明天先生に弁明のしようがない」
阿修羅の顔色が僅かに変化した。
「保健室を物置代わりに使ったあいつが悪い」
「部屋が近いから倉庫に空きを作るまでと、一時的に預かっているだけだぞ。なぜ貴方は光明天先生にばかり突っかかろうとするのだ」
「あいつがお前のそばを当然のようにうろつくのが気に障る」
既に半量以上飲んだ炭酸飲料の減ったビーカーを丁寧とは言い難い扱いでデスクの端に置くと、いかにも機嫌を損ねたという顔で阿修羅が続ける。
「だいたいお前に対して遠慮がなく馴れ馴れしい。あの男は」
遠慮がなく、馴れ馴れしい。どう考えても一番にそれは貴方の事だが。と、断言してもいいところだったが、俺がお前に馴れ馴れしくして何が悪いんだ?と返してくるのが目に見えているので言うだけ無駄だ。
「仕方がないだろう。親同士の交友関係で昔からの関わりがある人だ。慶弔の際にはどうしても顔を合わせなければならない。子供の頃からの付き合いなのだから」
「…………」
飲みかけて落ち着き自分でも前に置いていたガラスのビーカーが、がたんと大きな音を立てた。そうさせたのは相手の腕。中身は溢れず割ってしまうこともなかったが急に襲う乱暴な衝撃に炭酸飲料が泡を弾かせ揺れている。
一瞬言葉を失う阿修羅だったが急に手を伸ばし、帝釈天の腕を掴んだためだ。
いつものふざけ合うような軽いものではなくそこには力が込められ、帝釈天の手首に痛みが走る。
「俺はお前の兄か弟にでも生まれればこんな苛立ちを感じなくて済んだのか?」
「貴方は、何を言って……」
声のトーンが低くなった。見つめ返したその表情は、先ほどまでの不機嫌を表す明ら様な怒色とは違う。影を落とすような暗い表情の奥に攻撃性が淀んで見える。
次の言葉を続けられないほど、怖い。と、感じさせる紅い瞳に捕らわれ凍りついたように目が逸らせない。
彼のこの顔を前にも見たことがある。彼から離れる決断を下さねばならなくなったあの日の出来事。まるで、あの時と同じ色の。
「なんだこれは。開かないぞ。建付けが悪いのか?」
急にガタガタと音を立てる出入り口の扉の向こう側で声がした。
帝釈天は阿修羅からすぐに離れると立ち上がり飲みかけの炭酸飲料が入った実験道具を指さし無言で指示を出してから扉へと向かう。そして引き戸の召し合わせ錠を上に戻した。
友人との憩いの時を邪魔されたくないためにまさか鍵までかけていたとは。生徒が帰宅した後だからと言っても勝手過ぎる。
扉を開けると部屋の主は何事もなかったような涼しい顔で来訪者への対応を始めた。
「光明天先生。もう倉庫の整理が済んだのですか?」
「あらかた片付いた。だから小さい箱から一緒に倉庫への運び出しを……」
「そうですね。まずはこれだけ先に。大きい方は今すぐ筋トレがしたいらしい阿修羅先生に後から運ばせますので」
帝釈天は連れ出される流れを予め想定していた。近くにある試験管類が入った小さい箱を手に持つと話している最中の光明天に笑顔で手渡す。
「は?……あ。ああ、そうか」
帝釈天が対応している隙に指示を受けていた阿修羅は飲みかけを二つ飲み干してからベッドの向こう側にある水道でビーカーを洗っていた。カーテンの先から顔を出した阿修羅と目が合う光明天はいつもと同じ面白くないという嫌悪の色に変わる。
「またお前は仕事の邪魔をしているのか。いつまで学生気分でいるつもりだ」
「そういう光明天先生は有休取得中の科学の先生の代わりにわざわざ備品運びまで請け負うとは。殊勝なことだ。昔とはまるで違う」
不毛な合戦を始める二人の視線が交差する間によいしょと割って入り、停戦交渉を始めるまでもなく自分に意識を向けさせる帝釈天の穏やかな声が場の温度を簡単に下げさせる。
「光明天先生。私も後をすぐに追いかけますので早く片付けてしまいましょう?帰る時間が遅くなるとご両親が心配しますよ」
「ん。そうだな」
戸先の風鈴よりも数段涼やかな音色に宥められれば怒りは引き潮のように後退していき凪いだ様子で静かになる光明天は小さめの段ボールだけを抱えて部屋を後にした。
「阿修羅」
後ろのまだ余憤を鎮められないでいる友人の近くに行き、帝釈天は手を伸ばす。
怒って熱が集中する顔を包み込むように彼の両頰に手を置き 、顔を覗き込む。
「夏休みもちゃんと貴方のために時間を作るようにする。だからそんな顔をしないで。ちゃんと笑って」
回りくどい言い方はせず伝えれば、先ほどまでの怒りをすっかり忘れ去った顔になる。瞬きさせた後で丸く見開かれた瞳がりんご飴の艷やかさを思わせるようだ。
「……ああ。わかった。善処する」
目を細め綻ぶ顔が和らいで、言ったそばから素直な笑顔に変わる。
そんな表情を見られるだけで救いがあった。ここに貴方を悩ませるものなんてもう無くていい。自分の傍にいる時にくらい安らいだ顔でいてほしいと、心からそう願う帝釈天もまた、阿修羅につられて笑顔になる。
かわいい。本当に。まるで自分がいないと生きられないような顔をして、懐いて擦り寄ってくる大きな子犬のようだ。
「夏祭りもいいな。夜ならいくらか涼しい。お前が食べたことがないって言ってた、あの青いかき氷でも一緒に食うか」
「さすがに大人なのだから。それくらいはもう経験済みだよ、阿修羅」
そうなのか……。と、今度は酷く気落ちした残念そうな顔がまた違った笑いを誘い、このまま抱きしめたいとつい思ってしまう。
彼が言うように特別何か変わったことなんてなくてもいい。この保健室の中に閉じ籠もって話をしているだけでも。ただ、このまま平穏に過ぎていく日々を望んでいた。
彼が自分のもとから巣立つその時まで独り占めしていられるのは自分に与えられた最後の特権なのだと思いながら。帝釈天は、倉庫へ先に行かせたままの先輩教師の存在は、すっかり忘れて和んでいた。