3 体育教師×養護教諭 修帝.
皆、巨大な川の流れの一部となったように一定速度でゆっくりと、前へ前へと進んでいた。
「またしてもお前を人混みの中に連れてきてしまった」
「阿修羅は心配性だな。私は大丈夫だと言っただろう。それに言い出したのは貴方だが、私が行きたいと返したんだ」
等間隔に並ぶ石灯篭はやっと六つ目をこえたというところ。つまり先ほどからあまり進んでいない。
手持ち無沙汰な渋滞状況に痺れを切らしたわけではなかったが、隣の男を見上げて声を上げる。
「ところで貴方はこの前、踏み切るタイミングと引けた腰に関して言及していたが。まず跳躍練習の前に助走の段階で流動的ではない生徒が多い気がする。貴方は初めから自然に身についていたと言っていたが彼らはほぼ初心者だ。その後の自然な流れを作るためには徐々に加速する動きを身につけるための基本のトレーニングをもっと増やして……」
「帝釈天」
どうせ周りも騒がしいのだからと少し声を張り歯切れよく話した。だが急に始まる講釈にがっかりしたような不満がありそうな声で名前を呼ばれ遮られる。
「ん?生徒の練習メニューについて相談に乗ってほしいと言ったのは阿修羅先生ではなかっただろうか」
「そうは言ったがこんな日にまでそんな話はしなくていい。というか。お前は俺がそう言って返すのを予測していながらわざと堅い話を今しだしたな?」
「それはどうだろう」
教師という立ち場から解放され一個人として年末年始くらいは休暇を謳歌したいという気持ちは分からなくもない。真面目であり生徒たちのこともよく考えているがそれ以上に彼は友人との時間を大切にしたがる男だ。だからそう返すかもしれないと予測は出来ていても。何か理由を見つけなければ共に歩めない複雑な事情があるとも知らない相手とのズレは、こういう時にやってくる。
「お。向こう側へ斜めに抜けた方が空いていて歩きやすそうだ。ほら、いくぞ」
「……!また貴方は!強引過ぎるっ」
人一倍身長があるために上から見て人の動きを見通せる。だからと言って人々を押しのけ我が道を突き進む絶対王者のような男に振り回されるのは穏やかな参拝とはいえない。
急に手を引っ張られる帝釈天は不平を嘆くが、この手の温かさは突き放せない理由の一つでもあった。
混雑を抜けると近道を通ると言って整備された参道ではない階段としては機能している程度の急坂を登り始める。
そんな阿修羅の大胆な行動のおかげですんなり進み、無事に整理券を取得し二人は列に並ぶことが出来た。
「やり方は知っているのか?」
「ちゃんと調べてきた」
順番がもうすぐ回ってきそうだと思いながら予習済みだと帝釈天は自信を持って答える。
終業式を迎え生徒たちが冬休みに入ったことで安堵し、教員もやっと年末からの休みに入れると肩の荷が少し軽くなっていた数日前。昼休憩の保健室でいつものように阿修羅の手製の弁当でもてなされていると、一緒に除夜の鐘でもつきにいくかと唐突に彼が言い出したのだった。
いやでも混みそうだな別のことを……と他の提案が下りてくる前に、やったことがない。初めてだから私も行ってみたいと彼に返した。
こんな時間に出歩くなどと学生の身分では許されていなかったが、もうすっかり大人だ。制限など受けようはずもない。
本当は年始から親の仕事関係の付き合いや親戚同士の挨拶回りなどやらねばならないことが山積みだが、今日くらい自分のための時間を設けてもいいのではないかと、彼の提案をありがたく受けたのだった。
歴史を感じさせるが立派な木の柱が聳え立つ見事な鐘楼に、二人で足を踏み入れる。
鐘に向かって合掌し一礼した後で互いに顔を見合わせ確認すると、三色に結ってある御手綱を一緒に握った。
豪快に当ててしまいそうなイメージがある阿修羅だがちゃんと加減を知っているのだろう。相手の動きに合わせ紐を引き、流れにのって撞木を梵鐘にあてる。
重く厳かな音が遥か遠くまでよく通る。空中に響き渡る鐘の音に、108つのうちの一つという大役を二人で果たしたのだと思うと、感慨深く嬉しかった。
音に思いを馳せてぼんやりしてしまいそうな所だったが、忘れずに最後にもう一度合掌し一礼をしながら今年一年の感謝の気持ちを心の中で述べる。
鐘楼から出て鐘を撞く人々の案内をしていた和尚に礼をしてから、誘導されたその流れで本堂まで赴き、賽銭を投げ入れ祈った後でもと来た道を二人は戻った。
「身体の内側に響いてずっと余韻が続いている。何だか鐘の音はどこか懐かしいような不思議な感覚だ。忘れられない体験になった」
連れて来てくれた相手に自然と溢れる感想を口にした。すると阿修羅はすぐ言葉を返さずじっと見つめてくる。
「私は何かおかしなことを言ったか」
鐘の音に懐かしいと感じる由縁がどこにあるのかもわからないのに、思ったことを整理もせず口に出してしまった。
「いいや。時々お前が感じたことをそうやって心のまま口に出す言葉が聞けると、俺は嬉しいんだ」
「いつもは素直じゃないからなとか、また言うつもりだろう」
「先に言われてしまったか」
「阿修羅」
わざと少し怒り気味の口調で名前を呼ぶと悪戯っぽく笑い、上機嫌で仕方がないというようにまた手を取ろうとしてくる。
「子供じゃないんだから手は繋がなくても」
「これだけ人がいては、はぐれても困るだろ」
「……でも、少しは人目を気にしてくれないか。阿修羅」
「わかった」
その言葉通りに繋がれた手は一瞬で解かれ、熱が遠ざかっていった。すんなりと簡単に離されたことに逆に驚き、胸が少し痛んでしまう。だが自分の言ったことを自分で後悔するような心持では駄目だと己に言い聞かせる。
しかし離れた手が行きつく先は何故か彼に戻るのではなく、伸ばされて遠くを目指していた。向かう先の予測はついていないまま、自分の肩に乗った手に、帝釈天は疑問符を浮かべる。
引き寄せられ若干傾いた身体が彼の胸に凭れる形になり、そのまま阿修羅は歩き出す。
肩を抱かれた身体は前に進むのだから抗えず、帝釈天は頭が真っ白になったまま歩を進めざるおえない。
「…………」
彼はぜんぜんわかっていない。より密着して絵面的にはもっと悪化しているというこの状況に、頭を抱えたくなる。
もうこの男になんと返せば理解してくれるのだと混乱した頭で、噛み合わない二人三脚を強いられているような落ち着かない気持ちで歩いた。
まだ人で溢れかえっている境内から階段を下りていた途中、急にまた参道を逸れて茂みのような細い道に入るので近道だと言い張りどんな獣道を通らせるつもりかと身構えたが、木々を横目に進んだ先で開けた場所に出る。
「ここなら人目も気にならないから別にいいだろ」
肩は離されたがまた手を繋がれてしまう。人目以前のこうすることの不自然さを、彼に諭すことはもう半ば諦め、おとなしく片手を握られたまま帝釈天は辺りを見回す。
「町が見渡せるんだ。お前、高い所好きだろ」
「こんな見晴らしがいい場所があったんだな」
手摺りも設けられ高台から街を眺めるために敢えて作った場所のようだ。
眼下を見れば、皆、新たな年を家族と迎えようとしているのか家々の明かりは未だ温かな光を宿す。
「貴方はまだこの辺の地理に詳しくないだろう?来たことがあるのか?」
「お前を此処へ連れてくるのにちゃんと下調べをしておいたからな」
臆面もなくいい笑顔で言ってくるので面食らってしまう。
まるでデートプランに抜かりのない彼氏のようだ。阿修羅らしくない。そんな役回りは寧ろ部のマネージャーでもあった自分が引き受けるような所だろうに。
「手袋を持ってくるべきだった」
繋いでいた手とは反対の手も取る阿修羅に両の手を引き合わされ、大きな手に包みこまれてしまう。冬の冷気にずっと曝されていたとは思えないほど、温かな優しい手に。
そんな目を彷徨わせてしまいそうな状況でも帝釈天は必死で平静を装った。
「貴方は全く必要なさそうだが」
「いや、俺が持っていたらお前に貸してやれた」
「……。貴方という人は……」
変に意識をするべきではないとわかっているのに。親身になって思いやりを伝えてくる彼の心の深さが、自分の内側を酷く揺さぶった。
視線をどうしても間近に感じて顔を上げざるおえない。変に顔が赤くなってやしないか、闇に紛れて誤魔化せているだろうかとこちらは気が気でないというのに。彼はいつだって真っ直ぐに自分を見つめてくる。
「で。お前はさっき何を願ったんだ?」
賽銭を投げ入れ願い事をした後、妙に阿修羅がこちらをじっと窺ってくるのには気付いていた。
「願い事は人に簡単に話すようなことだったか?」
「俺に言えないようなことなのか」
「ああ。私は貴方にはとても話せないような重く一途な望みを願った」
「ほう?ますます気になる」
言った後で少し悔しそうな顔で息を吐いて笑い、それから急に間近まで接近してくる顔に帝釈天は目を瞬かせる。
「これだけで、お前の心が伝わってくればいいのに」
「…………」
額に額を押し当て、静かに彼は言葉を零した。
この心が伝わってしまったら、きっと貴方の隣には居られなくなるよ。……そう、言葉に出来ないことが苦しい。乱れる心音をどうやって鎮めればいいのかもわからない。
だけどこの状況に覚えがある。今では平常心でいられないほど心穏やかでないというのに、あの頃はただ彼の温もりを自然に受け入れていたはず。そう逃げるようにして、頭の中に昔の記憶が蘇ってくる。
遠くから友人の声が聞こえる。外に漏れるほど声を張り上げているのかと気付き、喧嘩か何かかと焦燥を抱え走って部室までたどり着くと、大きな声で怒鳴る彼の声が聞こえてきた。
「いい加減にしろ!選抜大会を控えているのにこんな事で棒に振るつもりなのか!?」
「どうしたんだ?何かあったのか?」
部室のドアを手早く開けて状況を確認すると、開いた途端に部員たちの肩が跳ね、だがすぐ来訪者の顔を確認すると安心したように胸をなで下ろしている。
「なんだよ阿修羅。ちょっと景気づけにって思っただけだろ?せっかくお前の分も用意してやったのに」
部員の一人が手に持っていたのはアルミ缶で、憤慨した阿修羅の様子にその中身が何であるかを帝釈天はすぐに察した。
「優しいマネージャーが黙っててくれればバレやしないって。なぁ?」
自分の方に振られた話を帝釈天は静かに受け取る。
慌てることもなく手を伸ばすと、阿修羅に差し出されていた缶を掴んだ。そして……
「帝釈天!?」
口は既に開いていて、持ち帰ることは出来なかった。そうだとしても何の躊躇いもなくそれが口元に運ばれ、勢いよく飲み下されていくのを一同で唖然として見ている。
「お前、なんで……」
飲みきった後で棚に静かに空き缶を置く。それを見ながら狼狽える阿修羅が声をかけるが、帝釈天はそれには応えない。
「実にいい飲みっぷりだったな。ますます惚れ直した」
「あ!抜けがけずるいぜ先輩〜!」
近くにいた上級生の部員が悪ふざけで手を取り大袈裟に握って称賛しだした。
帝釈天の行動に驚き身を乗り出して阿修羅が掴んでいた棚が、みしりと不穏な音を上げる。
「そんなに手を握りたいなら俺が握り潰してやろうか」
「あ゙っ……あ゙っ!骨がっ」
目線だけ自分の大切な友人の手を未だ握り締めている先輩に送ったまま、諸悪の根源であった酒を持ち込んでいた部員の手を取る阿修羅が憎しみをふんだんに込めていそうな強度で握った。
「跳ぶのに手は別に必要ない。だからいいよなぁ?」
「で、出た……!番犬あしゅら!!」
上級生だから免れるということは決してないのだと。血走った目が冗談では済まない気迫で壮絶な圧を感じ、次は自分の番だと悟った先輩が、この後の猛襲により明日の陽の目が拝めない予感に震えながらマネージャーの手を離した。
その騒がしいやり取りを静かに眺めているだけだった帝釈天がやっと声を上げる。
「皆、聞いて。今度ここで酒を持ち込む部員を見たら先生に報告します」
「…………」
「だけど私も同罪だから……みんなで仲良く一緒に退学しましょうね?」
最初の口調は厳しく、だが先輩もいるので敬語も交えていた。次に穏やかに、僅かに首を傾げ窺い見る表情で。責めるわけではなく至極やわらかく優しい笑顔で絶妙に良心までをも抉ってくる宣言に、部員たちは顔を見合わせる。
「……。やっぱマネージャーには敵わねぇよな」
「わかった。ごめん。もうやらないよ」
「私は補佐として皆の健康の管理もしなければならない。部員一人一人が大切なんだ。だから煙草も絶対にダメだよ?」
「「はい!!肝に命じます!!」」
「うん。じゃあ、約束」
やんちゃな部員たちだが言いつけが守れそうな素直な返事に帝釈天は微笑んで小指を差し出す。
歓声のようなものが沸き起こり、俺も僕もと押し合いへし合い並び一人一人順番に繋がれていく小指。帝釈天自らの行いであれば阿修羅としてはエンガチョも出来ずに呆然と傍観することしか出来ない。
自分の手首を掴み、重みがある。絶対に破れないと大袈裟に噛み締める部員。雄叫びを上げ、もう俺、今日は手をぜったい洗わないし風呂にも入らないと言い張る部員も。
汚ぇな。浄化されたの指だけなんだぞお前と言われれば、だっていい匂いがする、ほら。と返し、嗅ぐなバカお前殺されたいのか(阿修羅に)というやり取りを後ろでしているのも耳に入ってこないほどショックが大きかった様子で一人取り残された男もいる。
だがへこたれず意を決して真剣な面持ちで阿修羅は小指を帝釈天の眼前に恭しく差し出した。
「なんだ?阿修羅は必要ないだろ」
そう、友人に冷たく言い放たれたというだけで急に白茶け、抜け殻のようになる。風に吹かれれば飛んでしまいそうなほど弱々しく先ほどの気迫を完全に失った男を、フラれてやんのという部員の一人の言葉に一斉に皆が笑ったことで切れた阿修羅が暴れだしそうになった所で帝釈天は軽快に手を一つ叩き、撤収!と号令をかければ皆揃って帰り支度をし始めたのだった。
「若気の至りというやつだ。もう皆を許してやってくれ、阿修羅」
「それにしても最近ちょっと優しくし過ぎじゃないのか。甘やかすとあいつらはつけあがる」
「部員と打ち解けろと貴方が最初に言ったんだ」
「そうだが……」
「あれが男子高生のノリというやつなんだろう?前の高校は規律が厳しく皆おとなしい生徒が多かったから。雰囲気が違っていて新鮮で、私は楽しい」
心から高校生活を楽しんでいる帝釈天の様子に阿修羅は何も言い返せなくなる。
「しかしお前、酒に強かったんだな。飲んだことがあるのか?」
そう聞いたがすぐに返事がなかった。その場で立ち止まったのでどうかしたのかと阿修羅が相手の顔を窺い見ると辛そうな顔をしている事に気づく。
「帝釈天……!」
急に軸を失ったように崩れ落ちる身体を阿修羅は慌てて支える。
「どうやら強くはないみたいだ……」
「少し休んだほうがいいな。俺の家はここから近い」
「ごめん。阿修羅と別れるまではなんとか持ちこたえようと思ってたんだけど」
「バカ。無理するな」
縺れそうな足でよろよろと安定のない身体をしっかり抱えて自室のベッドまで連れていき、やっと寝かせる。阿修羅が彼の頭を軽く撫でると瞼は重そうにして顔は綻んだ。
「ここで少し寝ろ。男が使った寝具だ。汗臭いかもしれないけどな」
「うん。阿修羅の匂いがする。安心する」
「え?」
いつもと違う緩みきった柔らかな声で言われて阿修羅が聞き返すと帝釈天は既にすやすやと寝入っていた。
「……。本当に変わったやつだな……」
30分ほどの仮眠をしたのち、すっきりとした顔で目覚めた帝釈天に、阿修羅がもう大丈夫なのかと問えば、大丈夫だ。ありがとうと言ってベッドから起き上がったので、阿修羅は彼の横に座る。
「帝釈天」
「ん?」
起きたら言ってやろうと思っていたことを言うために待ち構えていた阿修羅が、言葉に出す前に今の気持ちを表現するための行動に出た。
彼の両頬を引っ掴んで横に伸ばす。
「??いひゃい、あしゅら……」
陶器のように綺麗に整った顔なのに意外と柔らかく伸びる。
「お前、俺を守ろうとしてあんな無茶なことをしたんだろ?まったく」
文句を言ってやれば気が済んで伸ばしていた頬をやっと離してやる。
代わりに阿修羅は帝釈天の両手を取り、前でまとめて自分の手で覆うようにして包みこんだ。
「揉め事を機転で丸く収めてしまうお前の手腕には完敗だが、無理はしないでくれ」
じっと見つめてくる顔を同じように見つめ返し、おとなしく阿修羅の言葉を聞く。
「でも嬉しかった」
額を近づけコツンと重ね合わせると、言いながらぐりぐりと押し付けて喜びを表現する阿修羅に、帝釈天も稚拙なふざけ合いが楽しくて笑いを洩らした。
満足した表情で顔を離したその後で、阿修羅が小指を差し出してくる。促されるまま自分でも小指を立て、指を絡めた。
他の部員たちにした事と何も変わらないはずなのに、彼の真剣な表情のせいなのか、身が引き締まるような緊張を感じる。
「お前が困っている時は俺が助ける。必ず」
「阿修羅……」
「約束だ」
彼に誘われマネージャーとして入部してからまだ数ヶ月だったが、あれからもっと、友人という関係以上に強い絆で結ばれたような気がした。
触れ合うことが自然であるように接してくれる。心を開いた相手には情が深く友人を大切にする人なのだろう。母親しかいないと言っていたが、彼が大切に育てられていたことが伝わってくる。
だから今でも、まるであの頃と変わらない仕草で自分に触れる。彼はあの時の親友という関係が少しも変わらないはずだと本気で信じているように。
大きな手に包みこまれる温もりに彼の息遣いと額から伝わる温度。あの日の擽ったいような温かさとはまるで違う呼吸さえ止めてしまいそうな心の揺れ動き様は、彼に伝わってしまったらこの関係は終わってしまうのだろうか。それでも、友達でいたいと彼は言ってくれるのだろうか。
そんな考えが帝釈天の脳裏を掠め、いっそ吐き出してしまいたいような切羽詰まった想いが喉の奥まで出かかっていた。
その時、低木が揺れて誰かの話し声が離れた場所から聞こえてきた。こんな知らない道を進んで大丈夫なの、近道かもしれないだろという男女のやり取りに僅かに肩を跳ねさせる。
反射的に阿修羅から距離を取る帝釈天は、ごく自然な流れを装い、腕時計で時間を確認する。
「明けたようだね」
不自然にはならなかったはず。時計を見て0時を回っていることを穏やかに相手に伝える。上擦りそうだった声をそれでも変わらずいつも通りに話せる自分で本当に良かった。
話しながら歩いてきた男女は木の陰から顔を出すと、景色を見ていくわけでもなく何だ行き止まりかとだけ言って帰って行った。
「うーん。やっぱり次の大晦日は二人でゆっくり鍋パーティーとかもいいな」
額を押し付けたまま彼が動かなかった間に、そんなことをずっと考えていたのだろうか。今頃になって第二案を提示し次の暮れの予定として早々に予約を入れてくるいつも通りの傍若無人な相手になんだか安堵してしまう。
「新年を迎えたばかりだと言うのにもう年の瀬のことを考えているのか。おめでたいな、阿修羅は」
「ああ。本当に。めでたい一年になりそうでよかった」
「おめでとう、阿修羅。また一年よろしく」
「帝釈天。おめでとう。今年もよろしくな」
形式に則って新年の挨拶を交わし、笑い合う。
彼にとって幸多からん一年になりますようにと。そう願った心は本物で、それだけが成就すればいい。
年を明けても尚響き渡るこの108つの鐘の音が止んだとしても、煩悩はますます消え難い。だが、その悩ましさすらも今は大切に思える。
「下に開いてる茶屋があったな。そこで少し温まっていくか。年を明けてから年越し蕎麦でもないだろうが、しることか甘酒とか書いてあった」
「甘酒か。いいな」
「あ。お前、酒はダメだぞ?」
「さすがに私も甘酒くらいじゃ酔わないよ」
「だめだ。どうしてもと言うならアルコールが入ってない米麹だけの甘酒にしとけ」
「心配性だな阿修羅は」
もう繋いだ手に不満を言うのも忘れていた。親友である今の自分たちを大切に、思い出をたくさん作っていこう。今年は。
そんな前向きな気持ちで、新たな一年の始まりを彼と共にゆっくり歩んでいた。