夜が明けるまで「はっ...あ、ぁ...」
荒い呼吸、滴る汗。
顔に張り付いた髪が不快で不快で、だが今はそれに気を回している余裕はない。身を抱いても抑えられないほどの震え——ルークは、悪夢を見て飛び起きたのだ。
ルーク達は今まで、常人であればきっと一度も関わらないような地獄を幾度となく味わって来た。理不尽に耐えて、耐えて乗り越えて。理不尽に対して抑えきれない怒りを抱いていたルークだったが、最近はもう、怒りすら断端と湧かなくなってきている。
だが、理不尽に対しての諦観が生まれるのと心の傷が癒えるかは別だ。これまでの地獄は、ルークの精神性を築くと同時に、こうしてルークの心を貪っている。
——特に、アッシュ関連のトラウマは顕著だった。
「大丈夫、大丈夫だ、大丈夫だルーク。ただの夢、ただの夢」
うわ言のように同じ言葉を紡ぐ口はカチカチと震えて歯を鳴らし、決して小さくない手が幼子のように布団の端をきゅっと握っている。
人を殺す夢などとうの昔から見ていない。後悔として思い出すことはあれど、見ていない。でも。
「あっしゅはすぐ俺の近くにいるだろ、ルーク...」
アッシュが粉々に割れてしまう夢。
アッシュを刺し殺す夢。
偽アッシュが夢の中で俺を責める夢。
何も言わずアッシュが俺を置いていく夢。
アッシュと何度も何度も死ぬ夢。
アッシュを犯してしまう夢。
アッシュに攻撃される夢。
アッシュに冷たい目で見られる夢。
アッシュが目の前で倒れて死んでしまう夢。
次から次へと夢が切り替わり、一つの夢として今までの地獄の思い出達が再上映されていく。
どうしようもなく大きく膨れ上がったあの時の恐怖が、怒りが、恍惚が、悲しみが、喪失感が、愛おしさが、不安が、慈しみが、憎悪が混ざり合って爆発して、ルークをぐちゃぐちゃにする。
ぐちゃぐちゃになった後——決まって最後は、あの部屋なのだ。
アッシュが大きなキャリーケースを持って家を出て行ってしまった時の、あの救えない一人の部屋の中。だだっ広く薄暗い部屋の隅、一人踞って——その夢。悪夢を見たって熱を出したって誰も構いやしなくて、寝ても起きてもひとりぼっちで、ルークも空っぽ。何で自分には何にもないんだろう。何で誰も見ていてくれないんだろう。全部に対する恐怖と憎しみで目の前が真っ赤になって飛び起きるのだ。
いつものこと。なのに、今日は何かがダメだった。
「アッシュはもう俺を置いていかない。置いてったとしてそれは、あいつらが絶対悪いし、アッシュは隣の部屋にいる。一人じゃない、一人じゃ...」
——まだ自分の心は屋敷に一人残された時から動いていないのだろうか。否、と思いたいが。
確かに理不尽な出来事はルークの心をどうしようもなく貪っている。だが同時に、何処までも不安定だったルークの中でのアッシュの存在を、より大きく確かなものにしたのだ。
ルークはアッシュを信じている。信じさせてくれた。寧ろ、アッシュを信じることだけがルークの心の頼みの綱とも言えるだろう。
だから、あんな悪夢なんてへっちゃらでいなくてはならないのに。
「...アッシュ」
徐に起き上がる。酷い顔のままズルズルと緩慢な動きで部屋を出て、アッシュのいる部屋へと向かった。ドアを開け、アッシュの眠っているベッドをじっと見る。これではまるで、誘拐しに来た不審者のようではないか。
アッシュは、僅かに胸を上下させながら静かに眠っていた。不思議と、神話生物の時は飛び起きるくせに、ルークが来ると寝っぱなしなのだ。もし急に気が変わった俺が刺そうとしたならばどうするのだろうか、自分はいつだってナイフを所持してるような弟だというのに。きっと気を許されているのだろうと...口元が緩む。それとも、アッシュが慣れてしまうほどにこうして兄の様子を見に来すぎなのかもしれない。
アッシュは窓から差し込む月夜に照らされて、とても綺麗だった。絹みたいな赤い髪が白いシーツに広がり、艶やかに月光を反射している。——まあ、アッシュが綺麗じゃないことなんてなかったな。割れた時も、ルークにぐちゃぐちゃにされた時も、死んで中身が空っぽになっても血に塗れても。俺を心配してくれた時も、笑ってくれる時もずっと綺麗で。すごく綺麗で。
俺の、兄貴なんだ。
布団を持ち上げ、アッシュの隣に滑り込む。ひどく暖かい。暖かいけれど人肌が恋しくて、アッシュに触れる限界まで寄った。起こさないようにだけは気をつけて―――と。
アッシュが身動ぎし、ルークを優しく抱き締めたのだ。
顔は見えない。起きているのか、それとも睡眠中の偶然なのかは分からない。もしかしたら、夢の中の抱き枕の代わりなのかもしれない。
しかし理由なんて何でも構わなかった。ルークの背に手が回されているという時点で、ルークは。
アッシュの手。暖かくて、大きくて、頼りになる手。大きさは変わっても子供の頃から何も変わらない手が、ルークの震える背中を宥めるように優しく触れている。
——本当、敵わないな。
恐怖とは別の理由で頬が濡れる感触がする。
「泣くとか、だっせえ...」
早く泣き止まなくてはなならない。これ以上兄に甘えて、どうすると言うのだ。俺がアッシュを守るんだ、守られてばかりじゃダメだろう、ルーク。
...夢見が悪くて疲れていたのだろうか。アッシュの暖かさに包まれて、ゆるりとした眠気の波が自我を沈めていく。明日はアッシュより早く起きて、何事もなかったかのように部屋に戻らなくては。
「おや、すみ。アッシュ...」
兄に届いたのか否か。それを確認する間もなく、ルークの視界は暗闇へと呑み込まれて行った。
「...全く、世話が焼ける」
自分の胸元で寝息を立てている深夜の乱入者。アッシュは凪いだ気持ちで、その泣き疲れた幼子のような表情を見つめる。
甘いのだ。部屋に侵入してくる時点で、自分が気付かないわけがない。これでいつもの異常事態だったら既に死んでいたっておかしくないのだから。
弟が自分の寝室に度々入って来ていることは気付いていた。自分の寝ている姿をじっと見ていることも知っている。しかしまさか、布団にまで入ってくるとは。
「来るくらいなら入ってこいとは思っていたんだがな」
気を使ったのだろう、少し離れている弟の身体にグッと身体を寄せて密着する。齢20とは思えない程の子供体温だ。熱いくらいまである。...熱い?
「——微熱があるな」
何とかは風邪をひかないとはよく言ったものだ、実例が目の前にいる。この様子だと自分が風邪をひいていることにも気付いていまい。
本来なら今すぐ起こして薬を飲ませてやりたいところなのだが...
「こいつなりの意地があるか」
きっと弟はここにいることがあまりバレたくないはずだ。なら、今起こすのはきっと得策ではない。
「本当に手の掛かる。...悪化したら承知しねえからな」
明日も忙しくなると嘆息しながら、アッシュは熱い弟の身体を愛おしげに抱きしめるのだった。