オレ式天魔の第一部「もうすぐ3時間か。天使のやつ、おせーなー...」
天界。
花一つもない無機質な草原。
それに転がって、悪魔...スバルは空を仰いでいた。
凹凸の激しい地獄や騒がしい人間界を行き来する悪魔としては、あまりにも静かで平坦とした、作り物のような丘に酷く違和感を覚える。
「いやまぁ、神の創りものっちゃ創りものなんだけど」
神、と自分で口にしたにも関わらず顔を顰めるスバルの神嫌いは、相変わらずだった。
髪が黒いという理由だけで忌み嫌われて監禁され、弟とはひと目も会えず引き剥がされ、終いには殺されそうになったのだ。
正直嫌わない方が無理だと思う。
「それに、天使のあの自我のなさよ...」
自身がもしかしたらなっていたかもしれない天使という存在の、機械のような動き。そして神からの扱い。
自分の意思も娯楽も碌な感情も持たず、ただただ淡々と業務をこなしていくその姿に身震いする。
周りが堕天したばかりのハイテンション悪魔ばかりだっただけに、天使の異様さは強く感じた。
「いや、もしかしたら俺たちの方が煩すぎるだけか...?」
「そうですね。私からすれば堕天使たちは本当に騒がしく、羽虫よりも目障りな存在です」
突然、スバルの独り言に対して返答が返ってきた。
聞くものを震わせ従わす、強大なカリスマを孕んだ声。
スバルは身体を跳ね起こし、声の持ち主から距離を取る。
――否、距離を取ったつもりだった。
少なくとも5メートルは取ったはずなのに、白い人影は、目の前にいる。
「おかえりなさい。お久しぶりですね、No,0459」
「...俺、一応警戒してたはずなんだけど」
「あなたの警戒など、あって無いようなものですよ」
目の前には待っていた天使とは違う、男か女かわからないほどに華奢な天使がいた。
No,1929と似た服の隙間からは、陶器のように煌びやかで透明感のある手足がすらりと伸びている。
鼻から上を布が覆い、固定のためか布の上から頭部に金の月桂冠が飾られている。
背には三対六枚の羽根があり、風が吹く度にはらはらと羽が落ちていっていた。
――その光り輝くような美しさ。
スバルは一瞬間、見惚れてしまっていた。
はっと我に返り、気付いた時には息がかかるほどに接近されている。
暖かい両手で頬を柔く挟まれ、下手をすれば口と口がぶつかるほどの距離だった。
「ふふ、捕まえました」
「...側近の天使の身体を使っているとはいえ、まさか神サマが直々に俺に会いに来られるとは思ってなかったぜ。要件はなんだ、クソ。俺の抹殺か?抹消か?」
「やはり私が神だということはバレてしまいましたか」
「そんだけカリスマを纏ってたらな」
神が頬を挟んだまま、玉を転がすような声でスバルに話しかける。
スバルは目の前の天使から放たれる恐ろしほどのカリスマに圧倒されながらも、これ以上無いほどの殺意や憎悪を、態度に込めて対峙した。
「実はとうの昔に、貴女方の許されざる密会には気付いていたのです。段々頻度が高くなっていく、貴女方の密会に」
「...それで、頻度が上がりすぎて目溢しできなくなったから殺しに来たのか、俺を」
悔しいが、神に目をつけられて生きていられる悪魔などいない。それほどにまで神の力というのは圧倒的であり、きっとスバルには抵抗さえもできないはずだ。
――スバルから見ても、No,1929はひどく有能な天使だった。
まだ階級の上がる余地があるだろうし、下手したら熾天使まで行くのではないだろうか。
そんな未来ある天使が堕天するかもしれない要因を、神が許すわけが無い。
「そっか...とうとうか...」
何処かで、いつかはこうなるかもしれないと思っていた。
まさか神が直々に殺しにくるとは思わなかったが、これだけ天界に出向いていればいずれ天界の何者かに殺されるかもしれないとは思っていた。
「そうわかっていても、貴方はNo,1929に会いたかったのですか」
「当たり前だろ...!?お前が引き裂いた、俺の、大切な、弟だぞ!?会っても会っても会い足りねぇくらいだ...!」
感情の爆発に身を任せて、頬に添えられた手を振り払う。
怒りに目を燃やし、あの堕とされた日の絶望をそのまま身に宿し、神に向かって咆哮する。
あの日、ひと目見ることも叶わなかった。
ひと目見ることも許されず、そのまま堕とされた。
――そして再び出会って、ひと目見ただけでわかったのだ。
双子の繋がりというのはきっと、俺が思ってたよりもずっとずっと強くて。
じゃなければ、天界で最初に会った天使が弟だなんて奇跡、起こるはずも無い。
もしかしたら能力ある弟の起こした、奇跡だったのかもしれない。
理由なんてなんでもよかった。
ただ悪魔は、スバルは、嬉しかったのだ。
生き別れの弟となんて、永久に再開し得ないと思っていたから――
「ならば何故、貴方はNo,1929を堕天に誘わなかったのですか?双子であることも明かしていないようですが」
「...実の弟を堕天に誘うなんて真似、できるかよ。俺は、あいつにはあいつの意思で生きて欲しいんだ。あんな自我を失った天使じゃなくて、自分の意思で。双子ってことは...」
スバルは口ごもる。
双子であることを言わなかった理由は口に出そうとすればするほどあまりにも女々しくて、情けない。
「貴方は、優しいのですね」
「―――っ!?ふざけるな...!」
届くはずがなかったとしても、このふざけた神に対して拳を振り上げるしかなかった。
スバルの持ちうる全能力を絞って繰り出した拳だったがやはり片手で受け止められ、そのまま身体を引っ張られ―――
「...は、?」
そして、これ以上無いほどに優しい抱擁をされた。
「な、は?」
「私は今日、貴方を抹殺しに来たわけではありません」
「――うそだ、は、はな、せ」
何をされているのか理解に数十秒。
スバルは呆然としたまま弱々しい力で暴れるも、神の抱擁は当然解けない。
「まっさつ、じゃ、な...?」
「そうです。私は今、貴方を試した」
「ため...へ?」
悪魔は神聖なものに触れると、火傷をしたようになる。触れ続ければ、そこから存在が解けていく。
神なんてとんでもない存在に触れれば本来、悪魔なんて消し飛んでしまうだろう。
なのに、自分は、抱擁を、されていて。
「こういう、殺し方」
「違いますよ、No,0459。私が、貴方の存在を許したのです」
「...いみが」
目を見開き、白黒させる。
しかし存在が解けていないということは、そういうことで。
「貴方は他の堕天使とは違い、自らの意思や罪で堕天したわけでは無かった」
「...」
「私たちに追い詰められたが末、天界から逃れるしか無かった」
「......」
「追い詰められた理由も、誕生の際髪が黒かったからという、それだけ」
スバルは当時の怒りを思い出し、歯軋りする。
そうだ。
今自分を抱擁しているのは憎き神。
存在を許されたのなら、少しは報復できるチャンスだろう。
神の背後から爪を伸ばし、引き裂いてやろうと―――
すっと、頭に手を持ってこられるような感覚がした。
頭にそっと手を置かれ。
...撫でられている。
不思議と全身の力が抜け、湧き上がってきたのは激しい抵抗では無く、感じたことの無いような隷属心だった。
ありえない。
そんなこと。
俺は神のことを憎んでいて。
「ぁえ」
「...許しては貰えないでしょうが、謝罪を。そして謝罪も含めて私から提案があるのです」
「神が、謝罪...?」
神。謝罪。
絶対に並んでは行けない単語が、有り得てはいけない単語が並んでいる。
「貴方は天使に戻るに足る」
「...は、ぁ?」
悪魔が天使に戻るということは、スバルの知識上今までに起こったことの無い話だった。
――神は反逆をした天使を許さない。
これは絶対の常識であり、堕天使は二度と美しい天使に戻ることはできないのだ。
その常識が今覆されようとしているのが信じられない。
「俺が、天使に...?」
「そうです。これはお恥ずかしい話なのですが、現在天界は深刻な天使不足が起こっています。簡単に生み出せない手前、堕天使や殉職が増えて――」
「やっぱり、やっぱりそうか。お前らはそんな勝手な理由で」
「確かに勝手な理由です。しかしこれは私達だけではなく、貴方にも利益がある提案」
「利益なんて無い...!」
引っ掻いてやりたい。殴り倒してやりたい。
噛み付いてちぎって、存在を粉々にしてやりたい。
そう思っているのに、撫でられているだけなのに、何も出来ない。
頭がぼうっとするのだ。
何かがおかしいとはわかっている。
何かが、絶対に。
「ありますよ。...私たちの目を盗まず、命の危険も犯さず、堂々と、ずっとNo,1929といられます」
「―――」
「任務も、私が彼の業務と同じものを常に授けましょう」
「...弟と、一緒に?ずっと?」
「ええ」
確かに魅力的な提案だ。
天使や神から命懸けで逃げることなく弟に会うことが出来る。
正直に言えば願ったり叶ったりだ。
――しかし、神の甘い話にはきっと罠がある、はずだ。
「何を警戒しているのです?」
「―――っ、ぅ、?」
抱擁し、頭を撫でるのを繰り返していた神が撫でるのを辞め、スバルの耳元で神の声が響いた。
その声は今までの優しげな声とは違う。
まるで命令を下すような、厳かな声で。
過去に、殺されそうになった時に、一度だけ聞いた―――
「貴方は本当は、天使になりたかった。天使として、役割を全うしたかった。神の忠実な使いとして仕えていたかった」
「......ぁ」
「そうですよね?」
頭の奥まで揺らしてくるような深い声に、スバルは身悶えする。
耳元で囁かれる、大切な、愛おしい声。
――愛おしい、?
おかしい、おかしくない。
逆に何もかもが正しいから、きっと違和感を覚えるだけなのだ。
神が言っていることに間違いなどないのだから。
「貴方は、私の大切な手足の一人。私の大切のもの。貴方は、私に従順に従えるのが唯一の幸福」
「ゆいいつ、の」
「そうですよ。唯一の幸福です」
スゥッと、スバルの瞳から光が消えていく。
その瞳はまるで、彼が身震いしていた『天使』のものにそっくりで。
「でも、おれ、大切なおとうとが」
「ふふ、そうですね。貴方には大切な弟がいますね。しかし―――」
やめろ。
やめてくれ、と、自分を顧みる瞳が霞ったスバルの心の何処かが、悲鳴を上げている。
これ以上は聞いてはいけない。
自分の何かが、変容してしまう。
絶対に変わってはいけない何かが、変形してしまう。
嫌だ、嫌だ、俺は―――
「貴方が最も愛し、優先し、第一に思っているのは、私です」
「ち、が」
「私、です。私ですよ。だからほら、」
思考が浮ついていて、脳が蕩けそうだ。
声を聴いているだけでこれ以上ないほどの多幸感に包まれ、喜びを享受している。
こんな幸せは生まれて初めてで...本当に?
うるさい
こんな幸せは生まれて初めてで。
気持ちいい。心地いい。
これに抗う術を、スバルは知らない。
知らないから、この恍惚に身を委ねてしまってもいいだろうか。
「おいで」
優しく手を、こちらに伸ばしてくださる白い影。
まぁ、いっか。
―――主が仰られることは、正しく、絶対なのだから。
「おかえりなさい、No,1929」
幾度と無く聞いた覚えのある、川のせせらぎのように透き通った美しい声。
自分が忠信を捧げ、お着きしなくてはならない大いなる存在の声だ。
本来のアルコルであればこの声が聞こえた瞬間に跪き、頭を垂れて服従を示しただろう。
そうしなくてはならないし、そうさせるほどのカリスマをこのお方は持っていらっしゃった。
しかし今、自分は動けなくなっている。
忠誠を誓う言葉を反芻し、跪かなくてはならないのに、アルコルは目を見開いて立ちすくんだままだ。
―――無理もないだろう。
目の前のあまりにも信じ難い光景。
およそアルコルの持つ常識の範疇では起こりえないような光景が、幾つも重なっている。
「随分と任務の方は時間がかかってしまったようですね」
今日はいつものように、悪魔と会う約束をしていた。どちらかと言えば取り付けられているのだが。
いつもの場所に集まって、悪魔から「さんどいっち」なる人間界の不可解な食料について聞こうとしていたのだ。
しかし、狙ったように他の天使から伝達が来て、集合時間直前に悪魔殺しの任務が入ってしまった。
緊急の任務だったため危険性の高いものかと警戒はしたものの、特にそんなことも無くあっさり終わる。
何故緊急に入ってきたのか分らないほどに、平凡で、一般的な内容だった。
けれども、一般的な内容だったとは言え、悪魔殺しの任務は時間を食ってしまう。
約束の時間はとうに過ぎ、あの気紛れな悪魔も、待ってくれているか分からない。
待ってくれているのかもしれないという一縷の期待を胸に、アルコルは汗を滝のように流しながら羽を限界まで大きく羽ばたいて、音のような速さで約束の草原まで向かった。
そんな、やっとの思いで辿り着いた集合場所。なのだが。
...これは、何が起こっているのだろうか。
こんな辺鄙な草原に、主様がいらっしゃられるのもちゃんちゃらおかしい話ではある。
しかしこのお方はきっと悪魔以上に気紛れだ。
アルコルとてここが約束の場で無ければ、これほどまで驚きはしなかっただろう。
主様の気配を遠くから察して、最も心配になったのは悪魔のことだ。
天界に悪魔がいるというのは基本的に一大事で、見つかり次第即抹殺、排除を行わなくてはならない。
それをアルコルが怠ったことがバレて、神直々の手で悪魔に手を下されていたらどうしよう...と。
だが......
アルコルは悪魔のことを何も知らない。
本当の名前も、何故堕天したのかも、同じ顔の理由も、どうしてアルコルを気にかけてくるのかも。
しかし彼の神嫌いの性質は、言われなくても分かるほどには明瞭だった。
主と言葉を出せば微かに顔を顰めるし、自分が崇めるようなことを言えば忽ち苦虫を噛み潰したような顔になる。
時にはポロリと非礼極まりない発言をこぼすこともあってアルコルを大いに怒らせたものだ。
気付いて以来、アルコルはできる限り主様のことを悪魔の前で話題に出すのをやめていた。
それほどまでに神を嫌う悪魔が。
それほどまでに神を嫌う悪魔が、主様に深深と跪いていた。
いつもなら「おっせぇよ〜!」と軽いノリと軽薄な笑顔で近付いてきそうな彼が。
やっと遅れて到着したアルコルには見向きもせず。
ずっとじっと動かず、平伏していて。
見つけ次第悪魔を消すであろう主様は、その跪く悪魔の首を、酷く優しく抱きしめて頭を撫でていらっしゃる。
更に言えば悪魔の頭には、「悪魔」にはあってはならない輪が煌々と美しい輝きを放っていた。
姿は悪魔のままなのに、天使にとって最重要たるものが付いているこのチグハグさ。
訳が、訳が分からない。
処罰は覚悟した。悪魔の生死も警戒した。
何が起こるか、何を言われるのか分からず、何通りも『最悪な状況』を考えた。
でもこれは、訳が分からない。
「No,1929。それほどにまで固まらなくても良いのです。これは...彼は貴方への贈り物なのですよ」
「贈り、物」
「ええ。そうです。彼は天使に戻り、貴方と共に業務を全うするのです」
悪魔が天使に戻るなんて、聞いたことが無い。
実際今までの天界の歴史上無かったことではないのだろうか。
妙だ。
主様に疑念を抱いてはいけないと分かってはいるが、流石に妙だ。
何よりも妙なのは、未だに悪魔が跪いたまま一言も言葉を発しないということ。
あのお喋りな悪魔が、こちらを見ようともしない。
まさか、人形にでもされたのではないか―――
「No,1929、落ち着きなさい。人形などにはしていません。彼は私が提案すると本人の意思で手を取り、乗ってくれたのです」
主様がほほ笑むと同時に、跪いたままの悪魔の頭にそっとキスをした。
その瞬間目の裏をも焼くような光が悪魔から炸裂し、思わず目を細める。
地が揺れるほどの轟音。なんだか大分前に悪魔に説明されたスタングレネードというものに似ていて。
瞳は反射的に閉じたものの、音に対応が遅れたアルコルは平衡感覚を奪われてぐらりと身体が崩れ落ちた。
「ぅ、ぐ.......!あく、ま」
白飛びした力の入らない世界の中、きっと悪魔がいるであろう方向にフラフラと手を伸ばす。
そんなことをしても何もできないのに。
――音も光も何もかもが落ち着いて。
主様は気付けば既にいなくなってしまわれていた。
そこにたった立っていたのは、見覚えのある顔をした、見覚えのない天使。
そいつはアルコルの方を向くと、ニカッと快活な笑みを浮かべた。
こんな状況なのに、あまりにもいつも通りに。
寸分違わず、一ミリもズレず、過去に見た笑顔と同じように。
「俺、天使の頃はNo,0459って呼ばれてたんだ。俺が無能だったせいで役割なんて全うできなかったけどさ」
「無能、だったせいで...」
No,0459はアルコルに向けてスッと握手のためか手を差し出す。
心なしかその動きは、酷く......
「今後同じ業務を任されるらしい。なぁ、これからよろしくな、No,1929」
「あ、あぁ...」
異様な空気と有無を言わせぬNo,0459の空気に押され、アルコルは困惑を隠しきれないまま差し出された手を取った。
おかしい、妙だと分かっていても、何もかもが間違っていないような気がしてその場は無視をする。
――No,0459に対して、堪えきれない程の激しい違和感を覚えながら。