過ぎし日「よ、雪祈」
やわらかな月の光に照らされ、彼の横顔のうぶ毛が魚の鱗みたいにちかちか輝く。電話一本で呼びつけられ、灯りも点けずにベッドに座らされて、深海のような静けさに身を委ねた。本当のところ、まだ深海に行ったことはないから、深海の静けさをオレは知らない。深海でも練習はできるだろうか。黙ったままの彼を見つめながらぼんやりと考えた。
もう寝るところだったからこれで、と言って手渡されたホットミルクをスプーンでぐるぐるかき混ぜる。こうしていないとあっという間に膜が張ってしまう。
「らしくないことを言ってもいいか」
ぽつり、彼がようやく音を紡ぐ。彼ならたった今自分が出した音も正しく五線譜に書き留められるだろう。部屋が静かすぎるあまり大きな音に聞こえる彼の言葉を受けてオレは思考する。らしくないこと、沢辺雪祈と言う人間に似合わない言葉をこれから聞くことになる。
「らしくないことって、どんな」
「会いたくなった。急に」
それは突然だったと彼は言う。今日は日中の間に少しだけ古傷が痛んだから早く寝てやろう、そう思ってあくびをひとつしたところで、ちょっとだけ顔を見たい気がする、と。まだ10代だった頃、3人で何度も歩いた道を、頬に受けた風を、今はもう着ていないコートにできていた毛玉のことすらいとおしく思い出してしまうほどに、会いたい気持ちでいっぱいになったのだと、言葉を何度も詰まらせながら彼は言った。
オレは何も答えず、かき混ぜていたホットミルクをサイドテーブルに置いた。ぐるぐると洗濯機の中みたいにまわりっぱなしのホットミルクを放置して、ベッドから足を投げ出して寝転がり、窓の外を見つめる。眉間を指でなぞって、会いたいと言ってくれた事実をゆっくり心の中で咀嚼する。あの雪祈が、何かあったら呼べと言っても一言も言って寄越さなかった雪祈が。
「迷惑だったら謝る。大のバンドが近くまで来てたのも思い出したから……それで、すこし……」
「いや、いいっちゃ。嬉しい、雪祈が呼んでくれて」
「そ、ならいい」
心底ほっとした表情で雪祈は言った。ホットミルクをひとくち飲んで、オレと同じようにサイドテーブルに置く。それからベッドに寝転がると、身長差を失ったために彼の顔が真横まできた。
「人間、歳取るとだめですねぇ」
「なにがだめなんだ？」
「ん……昔はもっと特別なことがあったら連絡しようとかさ、いや向こうから連絡してくるまでは黙ってようとか、迷惑だろうとか、色々考えたワケ。でも歳取るとさ……そんなこと思ってるうちに色んな状況も変わって、当たり前が消える。だから、会いたくなったときに肝心のお前がいない……ってなる前に……」
最後まで言い切る前に雪祈は言葉を紡ぐのをやめてしまった。それからじっと視線が絡み合う。青くて暗い、深い海の世界に引き戻される。水泡がふたりの頭上に昇るような気さえした。
当たり前、と呼ばれる状況はいつか消える。誰かが死ぬ、別の土地で暮らす、自分自身がその地を離れて誰かと出会い、何かを失って、また手に入れる。良いことも悪いことも、それまでの当たり前は打ち消していくものだ。
雪祈の言うオレがいない場面は、オレが死ぬ場合かもしれないし、アメリカを離れる場面かもしれない、 何らかの理由で音楽をやめて雪祈の前からも姿を消す未来なのかもしれない。全てに可能性が全く無い、とも言えないのだ。音楽をやめる理由を今のところ思いつきはしないけれど。
「後悔したくなかった。会えばよかった、言えばよかったって」
「そうか」
「遅かった？」
上目遣いに雪祈が問う。もしもオレが玉田のように雪祈に連絡を取っていたらどうだったろう、雪祈がオレに連絡をしてきていたら、あの時のオレはどうしていただろう。考えたところでそれは今の、今日この瞬間のオレの答えに過ぎない。早々に思考をやめて起き上がる。膝から下をベッドの外へ投げ出した彼に覆い被さって頬にくちづけた。
「遅くない、なにも」