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    藤原千郷

    @fjwrcst_story

    ぶぜさに♀小説書く人

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    藤原千郷

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    転生現パロ:ぶぜさに
    前世審神者だった記憶を持つ私が出会ったのは、前世どこかの本丸にいた豊前江だった。
    いろんな間違いをしながら、大人になっても不器用に生きていきたい、そんな話。

    オトナといっても間違えますので

     前世審神者だったときの記憶がある。イケメンの刀剣男士たちに囲まれて大往生した記憶だ。
     といっても思い出したのはつい一年ほど前のことで、すでに社会人としてバリバリに働いていたから人格形成に何かを及ぼすということもなく、古い映画を見ているような気持ちで前世を振り返るばかり。
     ひとつ影響があったとするならば、現実の男たちと付き合う気が失せてしまったということだ。元々働くのが好きで、恋愛にものめり込むタイプではなかった。最後の彼氏も何年も前のことで、このままお一人様コースも有りだなぁなどと考えていたさなかに突然湧き上がってきた前世の記憶は、そういう意味では私の人生を決定づけたかもしれない。なんせ右を見ても左を見ても下を見ても上を見ても、美、美、美、美! 現実の男たちには申し訳ないけれど俳優レベルでないともう興味が持てない。性格とか人柄の良さとか、そういう人と出会えてないだけと言えばそれまでなのだけれど、相手は優しくて健気な刀剣男士たちである。前世の記憶を思い出した瞬間にハードルが一気に上がったのは否めない。
     というわけで私は二十代中頃にして早々に結婚というものは諦め、仕事に生きることにしたのである。

     私は仕事に精を出していたし働くことは割と好きだ。特に成果が出るとはっきり分かるタイプのもの。審神者の仕事もそういうところがあったから、そういう意味では元々前世の私と今の私は似ていたのかもしれない。
     なので他の支店から来るというエリートのことは最初から少し意識と言うか、敵視していた。なんで私が居るのにそんなできるやつをわざわざ転勤させるんだ、上は相乗効果を狙ってるんだろうか潰し合わせたいのかくらいのことは思う程度には、私は成績優秀だと思う。
     そしてエリートの初出勤日がきた。負けてたまるかとばっちり決め胸を張っての出社をし、その朝礼で。
     ――私はまとっていた鎧が全部ぼろぼろと崩れていくのを感じた。
    「今日からよろしくお願いします」
     まったく知らない名前を名乗り、そう爽やかに笑って見せるその顔に見覚えがある。ゆるいウェーブの掛かった髪、整った顔立ち。今日びそんな完璧な存在が居るかよ、とツッコミたくなるようなその姿は、
    「ぶぜん、」
     咄嗟にこぼれた言葉を右手で押さえた。周りに居た同僚たちは特に気に留めた様子もなかったけれど彼は違う。少し目を丸くして私を見つめ、彼は、豊前江の姿をした男はふぅんと口元を緩めた。

     エリート――まるで豊前江だけれど、豊前江とは似ても似つかない名前の彼の初日はほどほどに終わり、かねてから決まっていた彼の歓迎会は割と大変だった。彼はたいへんなイケメンだから女子たちの気合の入りようが違う。他部署の女子たちも急遽参加を押し通し、幹事役の子がてんやわんやしていたので見兼ねて手伝ったりしていた。彼は如才なく振る舞って適度にあしらっていたから、女慣れもしてるんだろうななどと観察したりして。
     歓迎会が終わり二次会に向かう面々を見送った。上の方々は夜のお店へ。平の皆々様は別の飲み屋へ。私はどっちにも行くような顔をしてどちらにも行かない。
     ひとりで駅に向かうはずの私の横に並んだ男を、特に驚くわけでもなく見上げた。そうなるかもしれないと思っていた。彼の視線が時折私を捉えることには気付いていたから。
     緩やかなウェーブのかかった、真ん中で分けられた黒髪。整った顔立ち。少し吊り目で、でも万人受けするのはにじみ出る雰囲気が明るいから。今は黒い目だけが違う――いや、時折赤く光る。私を見下ろす今もまた僅かに赤くて、それが不思議だ。
    「ふたりでゆっくり話せるおすすめの店、教えてくれよ」
    「……そうねぇ」
     そうして私と彼は連れ立って、私がたまに行く居酒屋に向かったのだ。

     彼と私は席につくまでは言葉少なだった。ビールが届きそれを互いに一気にあおったところで、口火を切ったのは彼の方だった。
    「あんた、審神者だったんだろ」
     まあ、当然の疑問だろう。私も口の端を親指で拭いながら頷く。
    「そうよ豊前江。前世、審神者だった。でもあなた、今はどういう状態って言うことなの」
    「ん、なんか本霊に還らなかった分霊が、いろんな時代にいるらしいよ。俺はそのひとり」
     お通しをつまみながら彼は、豊前は応える。なるほど、あの時間を巡る戦いはきっと収束したのだろう。私は終戦を迎える前に大往生をしたから戦争の終わりを知らない。私も彼に倣い、お通しに手を付ける。揚げ豆腐のあんかけおいしい。
    「いろんな時代のいろんな土地にいるらしいんだけど、そいつら全員同じ顔だったら気持ち悪いよな。……だから俺も、審神者としての記憶を持つあんただから豊前江の姿に見えてるけど、実際の姿は豊前江と両親を足して割ったような顔らしいぜ」
     それは分からなかった。私の目にはすっかり豊前江の姿だけれど、他の人達には違うイケメンが見えていたようだ。
    「……あの戦いは終わったの」
     そう問うと彼は肩をすくめ、つかみどころのない不思議な笑みを浮かべる。是非の見えないその反応に、応えるつもりが無いのを悟って私は話題を変えた。
    「随分、生まれ変わりに詳しいのね。なに、刀剣男士としての記憶って生まれ変わってもそんなに便利なの?」
    「刀剣男士の生まれ変わりは、分かるやつには分かるから。他の刀剣男士の分霊の転生体、元審神者、高い霊力を持つやつとか。何も知らない俺にいろいろ教えてくれた刀剣がいてさ。俺が小さい頃にはじいちゃんで、もう亡くなっちまったけど」
     刀剣男士のじいちゃん。平安刀たちのような比喩ではなく本当に老人になったのだろう。興味ある。けど誰なのかと教えてくれる感じでもなさそうで、私は静かに話を聞いていた。
     豊前の眼差しは少し遠くて、寂しげに見えて。
    「懐いてたの、その刀剣に」
     咄嗟に尋ねていた。彼は少し照れくさそうにする。
    「そりゃあな。仮にも付喪神だったときの記憶が、小せえ頃からあったからどうにも。一緒に話せる相手がいなくなったのは寂しかったよ……ほら、俺、ある程度刀が揃ったような本丸じゃないと顕現されねえだろ?」
     ああ、時の政府の開催するイベントで、優秀な成績を収めないと江のものはお迎えできない。豊前江もその一振。
    「そうね。江たちは本当……お迎えするのにどれだけ玉を集めたことか」
     忌々しげに吐き捨てると彼は肩を揺らして笑った。
    「人がたくさんいるところにずっといたしさ。俺、豊前江として目覚めるの、結構早かったみたいだから。この体になって豊前江の記憶を取り戻した時に周りには知ってる奴らも全然居なくて、じいちゃんに会うまで結構ぐちゃぐちゃだったかも」
     事もなげに言うけれど、それは想像するだに大変だっただろう。彼本人も家族も。
     去年記憶を取り戻してするっと消化している私からするとなんだか申し訳ない。
    「私は去年思い出したばかりなのよね。だからあなたのそういうのは、共感してあげられないかな」
     素直に伝えると、豊前は少し面食らった顔をした後、ふはっと吹き出した。
    「別に気にすることじゃねーだろ? それに俺と会った『今』あんたはあの頃を覚えてて、俺とそれを共有してくれてる。じいちゃんが亡くなってから誰とも会わんかったし、記憶がある元審神者はあんたが初めて。会ったばっかりだけど、あんたに会えて嬉しいよ」
     そうして豊前は――本当は豊前ではないのだけれど、ふたりきりのときは豊前と呼んで欲しいと言うので私は彼を豊前と呼ぶ――私の手を取った。
     距離が近いのはどこの豊前江もそうだったけれど、人間になってまでこうなのね。久しぶりのイケメンのドアップに少しドキドキしながらも、私は負けてたまるかと持てる全ての力で豊前の手を握りしめた。豊前は痛がる素振りも見せず、ははと声をあげて笑った。


     *******


     豊前は私の刀剣男士ではないけれど、同じ秘密を共有する間柄だった。だから自然に仲良くもなったし、なにより仕事においてのライバルで同志となった。共に競い時に手を取り合って。切磋琢磨という言葉があるが、競い合う存在が会ってこそ成長はあるのだと知ってしまった。上の思惑がこれだったのかたまたまだったのかは今の私には分からない。
     けれど私と豊前はこうして出会った。同じ時間を過ごすようになり仕事の成果も出している。充実した日々だ。
     豊前とは気もあったからよくつるんでいた。付き合っているのでは、と聞かれることもあったけれど、私は都度しっかりと否定していた。恋をするにはちょっと完璧すぎるし、同僚だし。元審神者で元刀剣男士。しかも主従ではなかった。そんな仲になったらややこしい。それに向こうもそんなふうには考えてないだろうから。
     そんな私達がひとつ大きなプロジェクトを成功で終えたのは、豊前が来てからもうじき一年は経とうという頃のことだ。

    「なあ、今日の飲み会ってどこだったっけ」
     データとにらめっこしていた私に影を作ったのは豊前だ。豊前の腕がデスクの横に置かれて、頭の上から声がする。
    「近い、暑苦しい」
    「ひでーな」
     笑い含みの声は退く気配がない。
    「18時に駅前の○○でしょ」
    「ああそっか」
     答えてやっと豊前の気配が離れた。豊前の距離はとても近い。本来の豊前江自体も距離が近いとか、彼氏の擬人化などと言われていたが、それにしたってこれは近すぎじゃないかと思うことは多々ある。かつての記憶から自分の豊前江がどうだったかを思い返してみるが、私の豊前江だってここまでの距離ではなかった。きっと彼の刀剣男士時代の主は男だったと言うからその距離感なのだろう。同じ過去の記憶を持つからと言って、こんなに懐かれるとは思っていなかったのが正直なところだ。
    「なあ、今日の飲み会終わったら二人で飲み直そうぜ」
    「ええ? 今日の主役私らだよ?」
     私と豊前がメインで進めていた大きなプロジェクトが終わって、その慰労会でもある。今日は私も豊前も最後までつきあわされるだろうなという風に思っていたので、まさか抜け出そうと言われるとは思わなかった。
    「ここの部署、飲み会多すぎんだよ。一次会だけで十分だろ? 主役が俺らだからこそ俺らは気を使う必要ねえよ」
     そうやって覗き込んでくる。
     それは思わなくもない。職場の飲み会に参加したいわけでもないし、気を使わずに飲めるほうが楽しいに決まっている。
    「じゃあ、終わったら適当に抜けよっか」
     伸びをしながら返すと豊前は嬉しそうにはにかむ。懐かれてるなあ、と思う一瞬だ。


     *******


     ……………………さて。なぜ私は今、たいへんラグジュアリーなお部屋の、ひろ~いベッドの上で全裸なのだろうか。
     なんで? 時計を確認する。午前5時。やばい、記憶がない。記憶。
     思い返してみる。まずは飲み会。そう飲み会だ。飲み会がそこそこに盛り上がって、来週からがんばろ~なんてみんなで騒いで、次行こうなんて騒いでる集団からするりと抜けて。豊前とふたりでよく行く店に飲みに行って。お疲れ、明日は休みだ、閉店まで飲むぞ、なんて騒いで…………そこから少し記憶が曖昧で…………。
     は、と息を呑む。次に思い出されたのはすでにこの部屋だ。やばい。やばい、思い出してきた。ああ、やめてやめて。待って思い出さないで。無理。ちょっと待ってなんで?
     混乱する頭で整理する。その時、右側に感じていたぬくもりがもぞりと動いた。怖くて見ていなかったけれどおそるおそるそちらを確認。ああ、そこにはやはり昨晩から共に過ごした男、豊前が横になっている。まぶたを閉じて寝ている、いつも溌溂としている豊前の目を閉じているところなんて見るのは滅多にないことだなんて、フル回転する脳裏でちらりと思う。残念なことにこの男もまた裸だ。少なくとも下は確認できないけれど、たぶん私と似たような。
     嫌でも思い出される昨晩の記憶。全身の倦怠感と一部に感じる重い痛み。はっとして胸元を見下ろし、ぎょっとする鬱血痕。
     …………やってしまった。寝てしまった。私は、この男と。
     私はがばりと頭を抱える。その途端また豊前が「ぅ」と声を漏らし、私は咄嗟に口元に手を当てて抑えた。
     ……起きない。ほっと息を吐いて、なんとなくそのまま豊前の様子をうかがう。
     私の目に見えている豊前と、他の人達に見えている豊前は違うのだという。私には見えているものしか見えない。長いまつげも高い鼻も、唇も。唇。昨日のこれは甘い言葉ばかり吐いて、だめだ思い出すな。喉仏が静かに上下している。胸元まで掛けられたタオルケットを挟む腕はしっかりと筋肉がついていて長い。放り出された指は大きくて長くて節くれだっていて、この指でいや違う違うだめだこれはAVじゃない。
     私は口元に充てがっていた手でそのまま顔面を覆った。やってしまった。しっかりとした失態だ。酒に飲まれてこんな。
     ああ、もうだめだ。この部屋に来てからのことはあらかた思い出してしまった。詳細はぼやけているけれど、大まかにどんなことがあったかは。どうしてこんなことになってしまったんだろう。どうして私は。どうして豊前は。頭の中がぐるぐるとして、思考の渦で目が回りそうだ。
     だめだ、冷静にならなくちゃ。冷静にならなければならない。
     ふーっと息を吐いて波打つ心臓をなだめすかすと、私は豊前を起こさないようにそーっと布団から降りる。途中豊前が「うん…」と声を漏らしたので硬直したけれど、起きたわけではないようで安心する。あちこちに散らばった服を探して、下着はどこだ、なんでスカートがこんなところに、とまあ昨日の惨状に半泣きになりながらなんとか服を着直した。シワシワのスーツ、梳いてもまとまらないぐちゃぐちゃの髪、化粧も落ちてアイメイクが散っている。どうにもならない。身なりをこれ以上整えることを諦めて、財布から一枚お札を取り出し、机の上に置いて。
     私はラブホから逃走した。

     私には考える時間が必要だ。
     薄暗い朝の駅前にはまばらに人が歩いている。午前六時。もう電車は動いているから、とりあえず帰ろう。書き置きもせずに出てきてしまったけれど連絡は帰って落ち着いてから取ればいい。
     そう思って足早に歩いていた、その時だ。思考の渦に判断力を奪われていた私は、ちょうど曲がり角のところで竹刀を背負った学生服の男子高校生とぶつかりそうになってしまった。
    「あっ、ごめ……」
     謝罪の言葉はそこで途絶えた。私も、男子高校生もお互いに息を呑んで、目をまん丸にして。
    「……主」
     口を開いたのは彼だ。彼は。
    「まんばちゃん」
     私の初期刀だ。
     さすがに分かる。豊前を見たときはただ豊前江の姿で見える以上のものはなかった。けれど彼は分かる。前世の私が亡くなって、残された彼らは他の本丸に引き継がれたはず。他の審神者の霊力に因ったとしても、自分の刀剣男士は分かる。それも、初期刀ともなれば。
     まんばちゃんが私に駆け寄った。
    「……本当に主だ」
    「まんばちゃん。本当に、まんばちゃんなの」
     互いにうわ言のような言葉が漏れる。お互いに確かめ合うように顔を見合わせて――私の格好を見下ろしたまんばちゃんは思い切り顔をしかめた。
    「あ、あの、ちょっといろいろありまして、よれよれなのは今だけで」
     スーツはよれよれ、化粧はドロドロ、髪はぐちゃぐちゃ。早朝六時。明らかになにかありましたという格好。まあなんというか、どうみても。
     たぶんまんばちゃんにも伝わるだろう。刀剣男士としての記憶もあるなら見た目通りの精神年齢じゃないし、彼は極だった。
    「……まあいい。主が破天荒なのは昔からだ」
     まんばちゃんは頭を振った。そんな強引な納得のしかたある? 学生服の彼はポケットからスマホを取り出し、
    「本当はどこかで話をしたいんだが、これから剣道の試合があって行かなくちゃいけないんだ。午後に終わるから、そうしたら会えないか? 連絡先を教えてくれ」
     言い終わると同時にSNSのQRコードを表示して見せてくる。早い。まんばちゃんはこうだった。無駄がなくて冷静で効率厨。頼もしい相棒。
     私は言われるがままにQRコードを読み取って、まんばちゃんを友達に追加する。そこに表示されている名前もやっぱり全く知らないものだ。豊前が相手だから分かりづらかったけれど、私の目にはまんばちゃんは鮮やかな金髪の少年に見えている。目は青や黒に明滅してそれだけが不思議。でも本当は彼はきっと黒髪黒目で、私に見えている顔とは違う。彼もまた人間になったのだ。
     スマホを操作し終えたまんばちゃんは満足そうに頷くと、スマホを仕舞いながら
    「だいたい14時位には終わるはずだから……15時ごろになると思う。それまでにその状態をどうにかしておけよ」
     と私にジト目を向けた。その状態。はい。この明らかなダメな大人のカッコウね。分かってます。
     そうして彼は颯爽と歩き出し……不意に戻ってきて、私の両手を掴んだ。
    「主。いや、今は主ではないけれど、本当に、こうやって会えて嬉しい。……じゃあまた後で」
     今度こそ踵を返してスタスタと歩き去ってしまうまんばちゃんの背中は、そこらへんにいる男子高校生のものであるけれど、大層頼りがいのある私の初期刀のそれだった。やっぱり私の初期刀最高好き好き大好き……。
     感慨深くまんばちゃんの背中を見送っていた私の、右手に持つスマホが震えた。なんだろうと思って画面を見るとそこには豊前の名前。
     やばい、あいつ起きた。
     私はスマホを鳴らしたまま慌てて走り出した。途中でコールが切れたところでスマホをマナーモードにしバッグに放り投げる。駅に駆け込み、扉が閉まったところでミッションコンプリート。なんとか豊前からの逃走に成功したのだった。






     まんばちゃんと会うまでの豊前の着信は全部で三回。朝イチの一回と、九時頃に一回、十二時に一回。三時間ごとの時報か? 私は全部無視した。今声を聞いて正気で居られる気がしない。だって耳元で豊前の声がするってことでしょう? 無理でしょ……。
     SNSの通知音がしてスマホに目を落とす。まんばちゃんとの待ち合わせ時間がもうすぐだ。まんばちゃんからだろう。
     けれどそれは豊前だった。まんばちゃんだと思って咄嗟に反応してしまったから既読にしてしまう。
    『電話ちょうだい』
     それだけだった。いったい豊前はどんな気持ちで連絡してくるんだろう。一夜の過ちを犯してしまった同僚に。私の脳裏に昨晩のことが思い出されて私は頭を抱えた。
     私と豊前の関係は同僚で、同じ秘密を共有する仲間のようなものじゃ、なかったのだろうか。ああ嫌だ考えたくない。
     その時またスマホが震え、今度こそまんばちゃんからの連絡が来た。彼が示す目印を探し、目的の金色を見つける。
    「まんばちゃん」
    「ある……、ああ」
     朝と違って人が多いから、主と呼ぶのを避けたのだろう。私が年下の男の子をまんばちゃんと呼ぶのはあだ名みたいな感じだけど、年上の女にはなかなか呼びかけづらそうだ。
    「ごめんね、ありがと」
    「こっちこそ待たせて悪かった。……とりあえず、何か食べていいか」
     学生服のまんばちゃんと、十近く年上の私は一緒に居て大丈夫だろうか。
    「そうだね、お姉ちゃんがなんでも奢ってあげる」
     私は自分をまんばちゃんの姉だと思いこむことにした。そう思って振る舞っていれば変には思われないかも。まんばちゃんは一瞬変な顔をして私の顔を見たけれど、すぐに
    「じゃああそこのファーストフードに行こう、姉さん」
     と話を合わせてくれる。こういうノリの良いところも私のまんばちゃんだ。

     そして本当に遠慮なく、私の財布でドン引くほど大量のバーガーを買い込んだまんばちゃんは周囲の視線もなんのそのぺろりと平らげた。お金には余裕があるので構わないけど、ファーストフード店でこんなにお金使ったの初めて。
     彼の胃が落ち着いたところでやっとお互いの話を始めた。土曜日午後のファーストフード店、人は多い。顔を近づけて話せば声は周囲に聞こえないだろう。
     まんばちゃんはやっぱり高校生で、剣道部所属。今日はその試合があったから普段よりも早く街に出てきて私と出くわした。山姥切国広としての記憶を取り戻したのは中学生に入りたての頃で、案外冷静に受け入れられたという。
    「あんたの初期刀だったんだ。どんなことが起こったって、まずは冷静に考えようとしていたからな」
    「褒められてるのかわからないけどとりあえず良かったね」
     まんばちゃんが何を言っても可愛い。まだ学生っていうのも可愛い。記憶の中のまんばちゃんより幼い。可愛い。すべて忘れてまんばちゃんを愛でていたい。はー忘れたい。
     まんばちゃんはそんな私の考えをたぶん分かっていたのだろう。少し嘆息し、背もたれに寄りかかり腕を組んで、
    「それで、なんであんな時間にあんな格好であんなところにいたんだ?」
     と有無を言わさぬ口調で尋ねてきた。まあ普通に疑問に思うよね。あんな格好の元主には会いたくなかっただろう。私もだよ。
     そしてこの聞き方には覚えがある。絶対に言い逃れさせてくれない、説明を求める詰問の語調だ。
     私はまんばちゃんを愛でる気持ちを抑え、肩を落として、やむを得ず説明した。
     職場に豊前江がいること。彼とは一年近く仲のいい同僚で、ライバルで、そして昨日ちょっとした過ちをしてしまったこと。ははは、まんばちゃんの冷たい目。大きくためいきひとつ。これ、よくやられた。
    「あんたってやつは本当にしようがないな」
     これもよく言われた。定型文みたいな感じ。私は縋るようにまんばちゃんを見ている。今この状況で話を聞いてくれるのはまんばちゃんしかいない。豊前江……私の刀剣ではない、同僚の豊前のことは知らないけれど、関係性のことまで含めて話せるのは彼だけだから。
    「俺でいいなら話は聞いてやる。だから、電話はしてやれ」
    「……でも……」
    「このまま放置して明後日どんな顔をして会うんだ。明日掛けるより今掛けたほうがいい、というより、もう今がすでに手遅れのギリギリのラインだ。早く」
    「い、今!?」
    「今」
     そう言ってテーブルの上をスココンと指で弾く。ん~これは早くしろの合図。変わってない。
     私は渋々スマホを取り出した。タップ、スワイプ、すぐに豊前の名前が出てくる。勢いでタップしかけて、怖気づいた。
    「……本当に電話しないとダメ? だって何話すっていうの」
    「それは自分で考えろ。明後日普通に過ごしたいんだろ」
     クールに突き放された。まんばちゃんは腕を組んで私をジト目で見ている。ダメな大人をそんな目で見ないで。
     何を話せばいいんだろう。なんで抱いたのとか? なにがあったのとか。なんであんなこと言ったのとか? だめだ、何を聞いてももとに戻れる気がしない。となったら私の取れる道ってひとつしかなくない?
     豊前の名前をタップし、コールがはじまる。
     プル ブッ『……はい』
     出るのが早いよ。むっとした声だ。ずっとスマホ握りしめてたのかな。罪悪感がひどい。私は恐る恐る声を絞り出した。
    「あの……」
     しかしそこで言い淀んでしまって言葉を探していると、同じく電話口の向こうで黙っていた豊前が、探るように切り出してきた。
    『なんっで、帰った……んだよ、先に。あとなにあの金』
     声は不機嫌なままだ。小さくて少しかすれ気味の。ああ、背筋がぞくぞくする。この声。耳元でしつこいくらい囁かれた名前や言葉が思い出されて居心地が悪い。
     昨日なぜ帰ったって。そんなの。
    「だって、あの、いや……いやぁ、お互い、やらかしちゃったよね! さすがにちょっと気まずいかなって」
    『やらかしたって……』
    「でもほらまあ私達大人だし、昨日のことは水に流してさ、明後日からはお互いに普通に過ごそ!」
    『なっ、そん』
    「ね! じゃあ、また明後日ね!」
     これ以上は無理だ。私は一方的に言い募るとスマホから耳を離して電話を切った。向こうでは豊前が何かを言っていた気がするけれど無視だ無視。
     心臓が逸る。息を整えてまんばちゃんを見ると、彼は眉根を揉んでいて私のことを見ていなかった。ひどい。
    「逃げたな」
    「だって……でもさ、これで月曜は普通にできるでしょ」
     期待を込めてへらへら笑う私に、まんばちゃんは一言。
    「そうだと良いな」
     そうなるわけないだろうが、という副音声が聞こえた気がした。






     さて月曜日である。まんばちゃんと別れたあと、それから日曜日、豊前からの連絡は来なかった。だから私は安心していたのだけれど、月曜日の午前中にはまんばちゃんの副音声が正しかったと気付いた。気付かされた。

     普段豊前は始業近くになってから出社してくる。今日もそうだろうと踏んでいた私がいつも通り少し早めにフロアに入ると、私のデスクに見覚えのある後ろ姿が見え思わず硬直してしまった。なんで私の席にその姿が。私のチェアに腰を下ろしていた豊前は私が来たことに気づくと、にっこり笑った。「よ、はよ」と言いながら近寄ってくる。
    「お……おはよう」
     朝の挨拶だ。なぁにこのくらい。そう思った私に、笑顔の豊前からボディブロー。
    「金曜はちゃんと家まで帰れたのか? あんなにぐちゃぐちゃになっ」
    「わーっ!? なにが!?」
     慌てて私が大声を上げると、当然だが同僚たちがこちらに視線を向けてくる。その視線を浴びながら豊前は私の肩を抱いた。なんで!? 同僚たちが目を丸くして私達を見ている。みんな見ている。やめろやめろと胸中で叫んで抗うけれどびくともしない。
     豊前は笑みを浮かべながら私を見下ろす。
    「なにがだと思う?」
     あ。
     ここで私はやっと分かった。これすごい怒ってるわ。全然普通になってない。
     私が「なんでもないです」となんとか答えると、豊前は肩を抱いたまま私を席に着席させた。そのまま私を覆うように手をついて、プロジェクトのあれがどうしたとか、どこそこのあの商品がなんとかとかそんなどうでもいい話をする。
     誰か助けてと視線を巡らせるけれど誰も目を合わせてすらくれない。先輩カッコイイと騒いでいた恋愛脳の後輩まで視線をそらしている。なんでよこっち見ろいつもみたいにこいつにしなだれかかれ。
     豊前のこれは始業になって課長が来るまで続いたし、朝礼が終わってから何度も繰り返されて。
     さすがに耐えきれなくなった私は豊前の居ない隙を見計らって脱走した。


    「なにやらかしたの?」
     私に強引に連れ出された、隣の課の同期は呆れたように私を見ている。なにもしてないとは言えない。かといって説明は絶対に出来ない。
     人の来ない倉庫で互いに壁に寄りかかっている。時折こうやって密談に使われるので総務課がよく愚痴っていた。
     黙り込む私に同期は困ったような表情を浮かべる。
    「あんなに分かりやすく態度に出されて『何もない』はないのよ。あんただって分かってるから逃げてきたんでしょ。けんかしたの? 隠すのやめることにしたい彼と、隠したままにしたいあんた?」
    「隠すってなに」
    「付き合ってるんじゃないの?」
    「つっ……付き合ってないんだけど」
     ハハッ! と大きな声で笑われた。おかしい。本当に付き合ってないんだけど。
    「付き合ってなくてあの距離はおかしいし。彼隠す気なくしてるじゃん、なぁにあのあんたへの恋人モード。けんかも程々にしときなよ、周りの独り身たちがかわいそうでしょ」
     同期は親身に話してくれる。私にはたいへん耳が痛い。
    「隠す気とか甘いとか……本当にそうじゃないし……」
     私と豊前がどういう風に見られていたのかここでつくづく思い知らされた。同期や先輩たちはずっと黙っていてくれたけれど、どうやら私達はずっと付き合っていると思われていたらしい。主に豊前の近さが原因で。豊前江の業だよ違うんですとも言えず、私はぐぅとうなることしかできなかった。


     そして水曜日。二日が経ちましたが豊前の様子が変わりません。ぺたぺたとくっついて、触れてきて。周りからは冷やかされるし、正気に返った後輩ちゃんには嫌味を言われるし、仕事は手につかないし、触れられて囁かれて否応でもあの夜のことを思い出す。身体中に唇を落とされて慈しむように触れられて、一夜の過ちでしかないのにまるで愛されてるみたいで、目を背けたかったあの夜を。
     あの朝逃げた私が悪かったのだ。さすがに理解している。かといってこの状況は続けられない。
     私は意を決してフロアを離れた豊前の背中を追いかけた。長い脚を大きく動かして遠ざかっていく豊前を小走りで追いかける。豊前はいつだってそうだった。疾くて、すぐにどこかに行ってしまう。
     人気のないのを確認して小さく声をかけると豊前はぴたりと立ち止まる。本当は分かってるはずなのだ、私が追いかけていることなんて。
    「豊前」
     ふたりだけの呼び名。私と彼の前世からの秘密を共有する名前。
     彼は振り向いたけど、なんとも言えない表情を浮かべていた。怒っているのか拗ねているのか、喜んでいるのか、分からない顔。一年近く一緒に過ごしてきたけれどこんな顔を見たことはなかった。記憶にある自分の豊前江だってこんな表情をしたことはない。
    「なんだよ」
     フロアでのべたべたした接触が嘘みたいに豊前は不機嫌そうな声だ。あれは周りに見せつけるという私への嫌がらせだったから、誰もいない今それをするつもりはないのだろう。
     私は豊前の手を取ってすぐ傍の空き部屋にはいった。豊前は抵抗する様子もなくついてくる。けれど扉を閉めるなり、たった今私がつけた部屋の電気を消して私の腕を取り自分に引き寄せた。
    「な、に考えてるのよ!」
     突き飛ばすけどびくともしない。刀剣男士の生まれ変わりは付喪神だった頃とは違いばかみたいな戦闘力は持たない。でもこの男は学生時代からばちばちに体育会系の部活だったらしくて、今でも鍛練は欠かさないんだとか、そんなことを言っていたのを思い出した。
     むっと唇を引き結んだ豊前は私の体を少し引き離したけれど、両肩はしっかりと掴まれたままだ。
    「あんたがはぐらかそうとしてんのは分かってるよ。だから俺は本気で追い込もうとしてるだけ。あんたは頑固だから、外堀から埋めてくのは定石だろ」
     あんたが教えてくれたんだぜ、と豊前が言うのは、彼がここに転勤してきたばかりの頃に癖のある顧客を投げられたときのことだ。私はその顧客の面倒くささと、彼が溺愛する奥さんと、奥さん本人を知っていただけ。
    「はぐらかすって何のこと? 追い込むとか……」
    「俺はあの日のこと、忘れてなんかやんねーから。あんたがどんな顔して、どんなことしたか、ぜってー忘れられん」
     顔が一瞬で熱くなったのがわかる。気まずくて咄嗟に豊前から目をそらした。
     あの日のこと。私だって忘れられない。思い出した記憶は完璧ではないけれど、それだけでも十分だ。
     ずっと観察していた豊前に私のそんな態度は一目瞭然だっただろう。彼は私の肩を掴む手に力を込めたと思うやいなや私の背を壁に縫い止めて、強引に顔を上に向かせる。
    「なにす、」
     る、と続けようとした言葉は目前に迫っていた豊前の顔に驚いて止まってしまって、それでもなんとか豊前の胸を叩く。そのドン、という衝撃を受けた豊前はチッと舌打ちをして、一瞬の逡巡の後になぜか私の鼻の頭に唇を落とした。柔らかくてしっとりとした唇が鼻の頭に触れてすぐに離れていく。キスじゃないから良いとかではない。手で顔を隠すと、豊前はまた唇を引き結んで私を見下ろした。
    「ねえ……話を聞いてよ」
    「なに」
    「……だって私達、ただの……ではないけど同僚だと思ってたし、だからこないだのこともやらかしちゃったね忘れようねって。なのになんでそんなに怒ってるの、それがまず分からない」
    「俺は、ただの同僚だなんて思ってねー……まだそんなこと言ってんのかよ」
     私の肩から手を離して距離を取り、豊前は大きく息を吐いた。その表情は露骨だ。悲しそうに歪む。
     なんでそんな顔をするの。今までそんな顔、見せたことないじゃない。
     首を横に緩く振ると彼は、はぁ、と切り替えるような息を吐いた。
    「俺いま部長に呼ばれてんだよ。さすがに行かねーと。……それに今日はちっと遅くなるから……明日、時間作ってくれる? なんかあんた勘違いしてるみてーだから」
     覗き込むようにして尋ねられる。
     言葉を失っている私が小さくこくこくと頷くと豊前はすっと私の頬を撫でて、何かを堪えるようにしながら部屋を出て行ってしまった。
     私は暗がりの部屋の中で豊前の背中を見送りながら、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。






     私と豊前は一年ほど前から始まった。
     最初はお互いの本丸での思い出話をした。こんな話をできる相手はいなくて、お互いに尽きない話を聞いた。
     初期刀の話、本丸で起こった事件、自分の最期。顕現した時の本丸の話、自分の主の話、本丸の仲間の話。豊前が語る本丸の仲間たちのことを聞けば、本当に仲間が好きだったんだなと思ったものだった。
     だからこそ豊前江としての記憶を取り戻してからの、幼い彼の混乱は激しかっただろう。そんな彼がやっと思い出を共有できる相手――私を見つけた。
     私が記憶を取り戻したのは今から言えば二年前。あの頃の記憶は古い映画。自分のものだけれど馴染むにはまだ時間がかかりそう。もちろん、前世の私が強く感じていたものは既に私の中に染み込んでいるけれど。
     だから、彼が豊前江としての記憶に翻弄されているのに寄り添いたいと思ったのだ。あの記憶は私ですら大事なのだから。


     豊前とのコトが起こったその日にまんばちゃんと再会して。私は今、少なからず自分が精神的に弱っていると自覚した。
     普段だったら何かあればすぐに豊前に愚痴を言って、豊前は話を聞いてくれて一緒に考えてくれた。彼と出会う前から私はひとりで生きていたしそれなりに強く在ることが出来たけれど、豊前と出会ってからは彼と共にいることが当然になって、そうやってさらに強くなれたと思っていて。
     けれどその彼との関係が分からなくなったその日に、まんばちゃんと再会してしまった。迷ってしまった時にかつて背中を支え続けてくれたまんばちゃんと出会ってしまって、私は彼に頼ることをまず考えてしまったのだ。
     誰かに頼ることに慣れてしまった。

     まんばちゃんは私からの着信に気付いてすぐに連絡をくれた。たぶん授業の休憩時間だろうに電話をくれて、私は嬉しくて、声が震えてしまったのだ。


     *******


     会社近くのカフェでまんばちゃんを待つ。全国チェーンのカフェなのでまんばちゃんでも馴染みがあるだろう。
     学生服のまま駆けつけてくれたまんばちゃんはすでに待っていた私に「すまない」と頭を下げたけれど、それは私のせりふだ。
    「ごめんまんばちゃん、呼びつけて」
    「構わない。が、いいのか? 豊前江に見られたら面倒なことになりそうだが。会社近いんじゃないのか」
    「大丈夫。豊前、コーヒーあんまり飲まないし、今日は予定あるって言ってたし」
    「なら良いが……」
     レジに並んでオーダーする。私はカフェラテだけれどまんばちゃんはフラペチーノ。甘そう。
     あまり室内でする話でもないし、テラス席でまんばちゃんと向かい合って座る。
    「それで、どうなんだ。やはりどうにもならなかったんだろうが」
    「まんばちゃんの仰るとおりでした」
     フラペチーノをぐちゃぐちゃにかき混ぜるまんばちゃんを見ながらカフェラテに口をつける。
     まろやかな苦味と甘味に心を落ち着けながら、長い息を吐いて説明した。
     月曜日からの豊前の態度と、今日の言動。抱きつかれたとか鼻の頭とかそういう話はもちろんしない。
    「勘違い? そう言ったのか?」
    「言ってた」
     ずぞ、とフラペチーノをすすって少し考える素振りのまんばちゃんは首を傾げて私を見る。
    「あの日、豊前から告白されたりしていないのか?」
    「え! そんなまさか。……そんなまさか」
     と言いつつも薄っすらと、そう思わなかったわけではない。
     他人から、それもまんばちゃんからそう言われるとリアリティが増した気がして動揺してしまう。
     はぐらかしたという言葉が、
    「全部ちゃんと思い出してるのか」
    「思い出して……いや思い出したくないんだけど。いや……あの、でも、確かに最初の方のことは覚えてないのはまあ事実なんだけど、まさかそんなこと起こるわけ無いじゃん? 泥酔してるときにそんな、ね?」
     まんばちゃんの呆れた視線が突き刺さる。
     あの日のことは、思い出せる部分は全部思い出したと思う。ふたりで飲んだあとどういう流れでホテルに行ったのかは思い出せない。けれどある程度ことが始まってからのことは残念ながら思い出している。豊前からそんなような言葉が出ただろうか。……だめだ、思い出そうとすると雑念まで出てきて回想を妨げる。あの時豊前はなんて言ったっけ。どういうことをされたとか、何度も何度も名前を繰り返し呼ばれたことははっきり覚えているのだけれど、そういういやらしい記憶ばかりよみがえる。
     額に手を当てて考え始めた私の肩をまんばちゃんが揺さぶった。
    「……ある、……姉さん、いや、手遅れか。主」
     なあに、まんばちゃん。
     そう返そうと思って顔を上げた私の視界に、すぐそこに立つ男の人の姿が入る。今日見た覚えのあるダークグレーのスーツ。長い手足。

     険しい表情をして私を見る豊前の姿だ。

     彼が、私と、まんばちゃんのふたりを見下ろしている。
    「な、え? なんで? 今日予定があるって……」
    「山姥切国広?」
     私の質問には応えず、豊前はまんばちゃんを見やる。
     『刀剣男士の分霊の転生体』にはお互いが分かる。豊前江の生まれ変わりの彼が、山姥切国広の生まれ変わりの彼のことを、もちろん分からないはずがない。
    「あ、その、実は、私、初期刀と再会してね? 言おうと思ったんだけど」
     後ろめたさに急き立てられて、腰を上げながらそう言い募るけれど豊前の反応はない。彼はまんばちゃんを見つめたままだし、まんばちゃんも何も言わずに豊前を見つめ返している。
    「……豊前?」
     沈黙に耐えかねて名前を呼ぶと、彼の視線がまんばちゃんから私に移る。彼は感情の見えない表情を浮かべていた。
    「初期刀?」
    「え、あ、うん。まんばちゃんは私の初期刀でね、」
    「それは……よかったな」
     その言葉は本心なのだろうか。硬い声でそう呟いた豊前は、くるりと踵を返して私達に背を向ける。
    「あ、ちょっと、ねえ豊前、」
     思わず呼び止めるけど豊前の足は止まらない。
     豊前は行ってしまう。いつだってそうだ。ああやって歩き出したら、走り出したら止まらずに行ってしまう。
     豊前の背中を見送る私を見上げながら、まんばちゃんは、再びずぞぞとフラペチーノをすする。
    「追わないんだな」
    「ああなった豊前は止まってくれない」
     小さく息を吐いて席につく。豊前との関係をなんとか元に戻したいのに、どんどんこじれている気がするのは気の所為ではない。
    「主はあいつがどう考えているのか分かっているのか?」
     まんばちゃんを見る。私だけに見える空のような青い瞳で私を見つめる彼は、高校生とは思えない静かな声で問うてくる。はぐらかすわけにはいかないと悟って、私は白状した。
    「……分からないと言いたい。でも、どうやら、私のこと好きなのかな? と、思わないでもない」
    「なるほど。主はあいつのことをどう思ってるんだ? いろいろ話を聞いているが、根本のところはどうなんだ」
    「私なんで男子高校生に恋愛相談を??」
    「茶化すな」
     一刀両断にされて居住まいを正す。
    「はい。……うーん。好きではあるよ。一番近いのは、仲間意識だったんだと思うんだけど。豊前と一緒にいるのは居心地よくって。だから、元通りになりたいだけなんだけど」
    「そうはもうならないだろう。あいつにそのつもりがない。……なかった」
    「うん。まんばちゃんと再会したことを自分から言う前に知られて、今、後ろめたさがひどい。とはいっても言うタイミングなんてなかったじゃんか」
    「まあ巡り合わせは悪かったな。それで、今後あんたはあいつとどうなりたいんだ?」
     どうなりたいか。
     私はカフェラテに手を伸ばして考えた。
     先程見送った豊前の姿。彼が浮かべた表情。切磋琢磨して競える仲間。高め合える相手。頼っているけれど、まんばちゃんとはまた違う。それはきっと、彼が自分の刀ではなかったからで、彼の本丸の話を聞いて別個の本丸の刀だと思ったからで、人間としての彼を知ったからで。コーヒーが苦手で、甘いのが好きで、暑がりで、虫が苦手で、距離が近くて、でも遠い。
     こんな思索はもう数年していなかった。恋愛ごとだってもう何年も昔、まだ精神的にバイタリティのあった頃に何回かあったくらいでこんなよくわからない関係じゃなかった。だから一人で生きていけると思ったのに。
    「え~んまんばちゃん」
     頭がヒートしかけた私はまんばちゃんの手を取った。前世審神者だった頃も、困ったことがあればまんばちゃんに泣きついた。彼の手を取って話を聞いてもらったものだった。
     なのに。
    「触るな」
     というクールな一語とともに私の手は振り払われてしまって、私はぽかんとしてまんばちゃんを見てしまった。彼は少し頬を赤くして、背筋をしゃんと伸ばしながら咳払いをする。唖然とする私に、言い含めるように聞かせた。
    「あの頃の俺たちは刀だった。特に俺たちの本丸は物寄りの考え方の刀ばかりだったから、あんたが抱きついて来ようがなんとも思わなかった。だが今の俺は人間だ。ついでに言うと17歳の健全な男子だ。いくらあんたが相手でもみだりに触れられるのは困る」
     なんとも至極当然の理由だ。分かりやすすぎる。納得しかない。
     しかし、しかしである。
    「だ、だって、豊前は普通に触ってきたし、距離近かったし、だから元刀剣男士の感覚ってそんなもんなんだと」
     そう、豊前は当然のように私に触れた。なんなら出会った初日の夜には私の手を取っていた。それ以降、語るのもバカバカしくなるほど豊前の距離は近くて、生まれ変わっても豊前江は豊前江なんだななんて思っていたのに。
     まんばちゃんの目は残念なものを見る目になっていた。
    「あいつの本丸の審神者は男だったと言っていたな。なおのこと、そんなにわざわざ触ったりしないと思うが。……あのな、主。あの豊前江だって、20年以上生きている人間の男だぞ。男女の距離感くらい測れないわけがないだろ。あんたがそういう機微に疎いのは昔もそうだったが、今は人間社会で暮らしているんだから少しは気にしたほうが良い」
     初期刀のガチ説教である。しかも恋愛の。しかも10も年下の男の子の。
     随分と器用に生きているようだ。極になった我が初期刀は。
    「あいつと恋愛するっていうならなおのことだ」
     こんな軽口まで叩いてくる。
     私は驚いてまんばちゃんを見やった。確かにまんばちゃんに相談をしているし、一緒に考えてくれるのは助かっている。けれども、まんばちゃんの口から恋愛という言葉が出てくるとは。
    「……自分の刀剣男士が生まれ変わってるって分かったのに、他のところの刀剣男士と恋愛なんて、そんなのみんな的にありなの? 刀剣男士ってそういうの気にしなかったっけ?」
    「俺は全く気にしないぞ。そもそも今のあんたは審神者じゃない。だいたい他の審神者の刀剣男士だったからって何なんだ。別に、自分の刀剣をそういう意味で好いていたやつなんていなかっただろ? 自分の豊前江のことを好いていたとかそういうわけじゃあるまい」
    「あいつ私の部屋でカマキリのタマゴ孵化させたから嫌い」
    「あったな」
     私の本丸の豊前江はたいへん活発な元気タイプだったのを思い出した。いつも短刀と遊んでた。
    「……それで、あの豊前のことはどうなんだ」
     私は黙る。
     こうやってまんばちゃんを前にして感じる気持ちと、豊前を前にして感じる気持ちは確かに違う。では、豊前と他の人達を前にした時に感じる気持ちは? 自問自答して、頭を抱える。
    「少しは見えたか?」
     まんばちゃんの知ったような言葉が耳の中で反響した。






     翌日から豊前は私に対して徹底的にビジネスライクを押し通した。普通に会話するけど一歩離れて前のような近さもなく、会話もそこそこにその場を離れる。他の社員たちに対してと同じような態度だと気付いたのは午後になってからだった。朝からどうやって接すればいいだろうと気が引けていた私はつい彼のペースに巻き込まれてしまって、そのビジネスライクに乗っかってしまう。
     ああ周囲の視線が痛い。気遣うような、好奇心溢れるような。私たちの関係がおかしいのは結局丸わかりだ、今までが今までで、この数日が数日だったから。例の恋愛脳の後輩が給湯室で「なんかあのふたり首突っ込んだらめんどくさそ~」と言っていたのを聞いてしまったときには笑ってしまった。確かにめんどくさいよね、こんなのは。
     悪いことをしたとは思っていない。まんばちゃんと再会したのは偶然だし、タイミングさえ悪くなければすぐに豊前に話していただろう。けれどたまたまそうはならなかった、それだけのこと。
    「早く仲直りしろって言ったじゃん」
     同期がそう声をかけてきたのはもう定時まで一時間を切った頃のことだ。先日連れ出した同期はあれから私達のことを気にかけてくれていた。彼女には悪いけどこじれにこじれているので大変申し訳ない。
     同期からしばらくの説教を流しながらフロアに戻ると「あっ!」と声が上がり、真っ青な顔をした後輩が私めがけて駆け寄ってくる。彼の口から飛び出した「先輩、すみません……!」にひとつ心当たりがあって、私は口の端を引きつらせた。

     予想は的中して十八時、定時を過ぎて私と後輩はパソコンの画面と資料を睨みつけている。明日朝イチの会議で使う資料、彼女にまかせていたのを確認しなかった私が悪い。最近豊前とのことで仕事が疎かになっていたのは自覚している。彼に任せたきりで確認一つしなかった。だからこれは私の責任だ。
     ふたりでやれば今日の退館時間には終わらせられるとは思う。けれどひとつの懸念事項がある。
    「……ねえ、やっぱり帰って大丈夫だよ。彼女がかわいそうでしょ」
    「いや、大丈夫です、自分が悪いので」
    「でもさぁ。彼女、誕生日って」
     彼が今日、彼女とのデートだということは知っている。彼女の誕生日プレゼントをどうしようと彼が悩んでいたことを課のみんなが知っている。私すら帰してひとりで残業すると言い張った彼を叱咤し宥めすかして今こうしているけれど、私としては彼がここにいる方が気まずい。
     そうやって私と後輩が言い合っているとフロアに人が入ってきた。物音に気づいてふたり揃ってそちらを見る、それが今日一日私と目を合わせようとしなかった豊前だと分かった私は無意識に唇を噛んだ。
     豊前は手にしていたミネラルウォーターを私の前に、少し離れたところに自分がよく飲むコーヒーを置いた。その表情はいつものような闊達としたものではなく何を考えているのか見えないもので。私には一瞥もくれず、豊前は後輩に近寄り肩に手をかける。
    「俺がやってくからさ、今日は帰っていいよ」
    「でも俺が」
    「この企画の前任俺だから俺がやった方がこいつも早く帰れるし、お前の彼女が誕生日ってみんな知ってるよ。……今度昼飯奢ってくれればいいからさ」
    「……でも」
     ためらう様子の後輩の耳もとにを顔を寄せた豊前がなにかを小声で伝える。静かなオフィスで近くにいる私にすら聞こえないその言葉を聞いて後輩は一瞬目を見開くと、少し顔を赤らめて「ハイ」と俯いた。
     えっ、こわ……イケメンにもなると男でもこうやって言うこと聞かせられるんだ。私の目に見えている豊前とみんなが見ている豊前は違うけど、見た目以上に豊前は中身がいい男だから、そうなるのもまあ分からないではない。これはいろいろな欲目ではなくて事実だ。面倒見が良くて、誰にでも分け隔てなくて、いつだって誰かのためで。豊前江のように。
     後輩が私に目を向けたので私が頷くと、彼は眉をハの字にした。頭を下げながら帰っていく後ろ姿が消えるのを見送ってから豊前を見る。彼は、私がそちらを向く前から私を見ていた。
    「やるか」
    「ごめん」
    「ん」
     気まずくて唇を噛む。豊前は言葉少なに相槌だけ返すと、後輩が座っていた席にそのまま腰を掛けた。

     資料を作り終えたのは退館時間の少し前だった。散らばったファイルをかき集めて机にまとめる。さすがに片付けるのは後輩に任せようと思ったし、早くここから出たかったから。
     豊前とふたり、今まではいつまでも話が尽きなかった。照明が一つだけついた薄暗いフロアで、ふたりきりなのに必要な言葉だけを交わすこの時間が苦痛だった。
    「ありがとう、ぶぜ」
     ファイルを置いた私が言葉らしい言葉を発せられたのはそこまでだった。
     力強い手に肩を掴まれた。強引に向き直らさせられて、そのままデスクに押し付けられ、ちょっととか待ってとかの言葉を挟む間もなく豊前の腕が私の体を縫い止めて、そのまま無理やり性急に口付けられる。今まで豊前が飲んでいた珈琲の味が口の中に広がった。乱暴なくらい体を押し付けられて、遠慮のない舌が私の腔内を責めた。歯列をなぞり舌を吸う、あの夜のように。
     よく分からなかった。昨日、去っていく豊前の後ろ姿を見送った。今日は一日中ほとんど他人のように接された。悲しくないと言えば嘘だ。その感情の名前をどう定義しなければいけないのか、私はまだ勇気が持てない。そうしてたった一日だけ遠かった彼が今こうやって私を求めていて、これが私の思っていた豊前との関係なのかが分からないでいる。
     抵抗しない私をどう思ったのだろう。でも気を良くしたわけでは、ない。不意にキスを止めて豊前は体を離した。苛立ちを隠さない顔で私を見たまま、「くそ」と呟くと再び唇を合わせてくる。今度は先程のような強引さは薄れたけれど、体を縫い止めていた手が私の髪や背中を撫で始めた。
     頭がすっと冷静になっていくのを感じていた。目が合った時に、豊前が焦っていると分かったから。
     だから彼の手が服の合間に差し込まれようとしたときに
    「だめ、やめて」
     と言葉がすっと出たし、きっと豊前も私の様子に気づいていたのだろう、動きを止めるとそのまま私の肩口に顔をうずめるようにして寄りかかった。
     ふたりして黙っていた。空調や電子機器が静かに唸る音だけを聞いている。
     けれどずっとここにいるわけにもいかなくて、私はとっさに浮かんだ言葉を吐き出した。
    「ねえ。豊前は私とどうなりたいの」
     豊前の背中をぽんぽんと2回叩く。豊前から「そんなん、」と弱々しい応えが合ったけれど彼はそれきり黙ってしまった。
     自分の答えも定まっていないのに豊前に答えを求めようとしている、そんな自分がずるいのだと分かっていて、私も何も言えない。
    「……あんたのことで、頭ん中ぐちゃぐちゃだよ」
     そんな言葉がぽつりと返ってきたのはしばらくしてだった。今まで聞いたこともないような声だ。当然自分の刀剣男士だった豊前江から聞いたこともなければ、この一年一緒に居た豊前から聞いたこともないような、糸のような頼りない声。
    「豊前」
    「今、その名前で呼ばんでくれ」
     ……その言葉は私の舌を凍りつかせるには十分だった。
     彼は豊前だ。豊前江の生まれ変わりで、その魂を持って生きてきた。その彼が、豊前としての名前を呼ばないでくれという。
    「俺も整理がつかねえんだ。いろんなこと考えちまう。あのとき遠慮なんかしねーであんたのこと抱き潰しとけば逃げられずにすんで、あいつとの再会も無かったのかなとか。そうすればあんたの……あんたにとっての刀剣男士は、俺だけだった」
     まるで映画で見た懺悔のような声だ。現実味のない言葉を画面越しに聞いているような錯覚を感じるけれど、その言葉は現実に私の耳元で紡がれている。
     はあ、という吐息が耳朶を打つ。
    「でも俺はあんたの刀剣男士でもないただの仕事仲間だった。あんたの豊前江でもなんでもない」
     豊前が体を起こして私を見る。赤い瞳だ。私にだけ見える、豊前の赤い瞳に射竦められる。
    「俺は小さい時から刀剣男士の豊前江でしか無かったから。そこにすがってた俺が……審神者だったあんたを繋ぎ止めようとしているのかどうなのか、なんでなのかももうよく分かんねえ。人間としての俺であればよかったのかも、分からねー」

     ーー何も言えない私と、何も言わない豊前の間にノイズ混じりの放送が割り込んだ。
     夜間警備に切り替わるから早く退社するようにとのアナウンスだ。
     私と豊前はお互いに黙ったまま荷物をまとめて、まさにとぼとぼと歩きながら会社を出た。
     駅までの、人もまばらの夜の町並みを歩く。
    「なあ」
     幾分落ち着いた表情の豊前が私を見た。
    「手、つないでもいい」
     私が何も言わずに手を伸ばすと、豊前は唇を引き結んで手を取った。
     私はもうアラサーと呼べるような年齢だし、豊前だってそうだ。さらに言うなら前世数十年を過ごした記憶もある。それだというのにこんなに生き方が下手くそで、きっと間違いばかりだ。今手を伸ばしたのも正解だったんだろうか。
     豊前江であることにすがっていた『豊前』が、審神者だった私を好きになる。それは過去に囚われているからなのだろうか。
     審神者の記憶を持つ私は、『豊前』を刀剣男士の豊前江の生まれ変わりとして見ていた。それは、過去に囚われているからなのだろうか。
     何が正しくて何が間違っているのかわからない。
     豊前と繋いだ手が熱い。体の関係さえ持ったことのあるスーツ姿のアラサーの男女が、夜の道を手を繋いで歩いているなんてお笑い草だ。腕を組むでもない、肩を抱くでもない、体は離れたまま手だけ繋いでいる。

     ここに確かに存在して不器用に手をつないでいる『彼』は、私にとってなんなんだろう。私はここでやっと元の関係に戻ることを諦め、閉じ込めた自分の感情と向き合わなければならないことを認めた。






     今日こそどんな顔をして豊前と話そう、話をしなければ。
     そう思いながら緊張しながら出勤すると、すでに出勤していた同僚たちが私に気づくなり一斉にこちらを見た。そこには昨日先に帰した後輩が居て、彼だけは気まずげな顔をしながら動揺する私に走り寄ってくる。
    「先輩、すみません、俺のせいで」
    「なんのこと?」
     お礼を言われるのではなく謝られて、状況を把握していない私はきょとんとするばかり。けれどその余裕もすぐに潰えた。
     風邪など引いたことのない健康優良児の豊前が、今日は体調不良でおやすみとのことだ。体調不良。
    「俺のせいで遅くまで仕事させたから」
    「いや帰る時だってそんな素振りなかったし、たまたまだから。どうせ頭が痛いくらいでしょ。それよりせっかく良い資料作ったんだから気合い入れて」
     そう、そんな素振りはなかった。あったのは私との……なんだろう。恋愛のいざこざと言えば簡単だ。けれどたぶんお互いに根っこの問題なのだ。
     あーあ、今日休むんだ。
     ともすれば腐りそうな心を激励に変えて、落ち込む後輩の背中を叩いて元気づける。
     後輩がなんとも物言いたげな顔をしながら私を見る。少し気まずくて私は後輩を置いて自分の席についた。


     *******


     豊前の居ない穴を埋めるために彼の仕事を割り振って、自分の会議を終わらせたり後輩の面倒を見たり、大きな問題もなく一日が終わり私はほっと息を吐いた。フロアにはまだ同僚たちがいるけれど今日は早く帰ろう、と決めていた。豊前のこともそう。豊前とおいたをした先週末から今日でちょうど一週間、まさかこんなことになっているとは思いもしなかった。明日は土曜日だからゆっくりしたかった。
     定時とともに確認した携帯の通知にはまんばちゃんのアイコンが見える。
     期待して開いたまんばちゃんからの返信は一言だった。

    『今日の部活は休めないから行かない』

     豊前が休んだ話をして、いよいよ覚悟を決めないといけないから今日相談に乗って欲しい、と言った私への返答がこの一行。
     すごくない? 私の元初期刀。そう思いつつ、本来高校生の彼に甘えていることを自覚して私はため息を吐いた。
     恋愛に身を焦がすようなタイプではない。ひとりで生きていけると思っていたのは事実だし、前世の審神者としての記憶を取り戻してからも、やっぱり自分はそういうタイプだったんだなと実感したものだった。刀剣男士たちは私にとって『家族』のような『物』だった。どこまでも私は一人で立っているつもりだった。
     けれど少なくとも今の私は、『豊前江』と再会したことで前世の私とは違う感情の道を辿ったようだった。前世の『家族』たちと同じように慕いながら、自分の『物』ではない彼を。今の私は。
     それを認めてはいけないと思ったのはいつの頃だっただろう。彼は小さい頃から豊前江としての記憶を持っていた。そんな彼と共にいるにはどうすればいいのだろう、などと。
     会社ビルから出て、夕日の沈む夜空を見上げた。
     まんばちゃんには振られてしまった。ご飯を作るのは億劫だからどこかで飲んで帰ろうか。それともなにか惣菜や弁当を買ってうちで食べようか。
     そんな事を考えて、視界を目の前の雑踏に向ける。


     ビルの前は小さな広場になっていて街路樹がきれいに植えられている。
     その、街路樹の下に立っているのは。
     豊前と似た背丈。艷やかな黒のボブヘアーと、すらりとした体躯。ふわりとしたシャツをまといタイトなパンツを穿く彼は、そうしていればまるで前世の『彼』のようだった。
     すっとした切れ長の目で私を見ていた彼は、私の様子を見て納得したように頷いて、私に近づいてくる。
    「貴女が、豊前の同僚の元審神者?」
    「……なんで? あなた、」
     ターコイズブルーのネイル。それもまた前世と同じ色。
    「僕は、かつて豊前と同じ本丸だった松井江。豊前があなたに世話になったと聞いて、会いに来てしまったのだけど……」
     松井江は目を細めてふわりと微笑んだ。弧を描くその奥に浮かぶ敵意くらいは、さすがに分かった。
     豊前と、同じ本丸だった、松井江。
     衝撃を受けたには受けて呆然とした私をはっと正気づかせたのは、私の後ろからビルを出てきた社員の気配だった。ただでさえ豊前と一緒にいることで比較的目立っている私が、違うイケメンと会社の前であっているところを見られるのはさすがにマズい。しかもこの松井江、少し若い。
    「立ち話もなんだし、どこかでお茶でも」
     咄嗟に声をかけると松井江は目を丸くした。先程まで優雅な敵意を浮かべていたその目には驚きの色が浮かぶ。
    「……そんなに長話をするつもりはないよ」
    「といってもここで話をするのは困るから」
     ちらりと背後に視線を向けると、彼は少し納得したような表情を浮かべてから小さく嘆息した。
     私が先導して歩く後ろを松井江は何も言わずに追ってくる。視界に入らないから時折振り向いて確認すると、彼はそのアルカイックスマイルで私を見返すだけ。
     前世の私の本丸にも松井江はいた。淡白でおっとりした個体だったから、先程のような敵意の乗った眼差しを受けたことはなかった。
     会社から少し離れたテイクアウト式のカフェに入る。いつも人が多く今もざわざわと騒がしい。
    「……それで、松井……は、何しに来たの?」
     席について話を切り出す。松井江は口を開かずに私をじっと見つめた。見定めるようなその目はあまり愉快なものではないから、私もまた松井江をまじまじと見つめ返した。
     まんばちゃんよりは年上だけど、彼もまだ若い。たぶん20歳前後くらいだろう。刀剣男士の松井江よりは少し幼く見える。私に見えている顔と、実際に周囲の人々から見えている彼の顔は違うのだろうけど、人間の彼もまた美しい顔をしているだろう。
     つややかな黒髪をアシンメトリーのボブに切り揃え、前世と同じ髪型だ。今の彼らは人間だから髪も伸びて長くなる。豊前で言えば、気づけばゆるやかなウェーブとセンター分けの前髪になっていると言っていたから、髪型もまた前世の影響は受けているのだろう。まんばちゃんもさらさらで綺麗な髪だったけれど、前世の頃より少し短めだった。でもこの松井はきっとあえてこの髪型を選んでいる。
     それだけ前世での思いが強いのかなと、ぼんやりと考えたときだった。
    「……僕は、豊前に幸せになって欲しい」
     松井江は私を見据えたままおもむろに口を開いた。
    「幸せに?」
    「ああ。あんな終わり方をして、僕らは幸せにならなければならない。だから、貴女が豊前を乱すと言うならやめてくれと言いに来た」
     どこに口を挟めばいいのか、と私は閉口してしまう。
     あんな終わり方。私が豊前を乱すと言うなら。
     この松井江はきっと意地が悪い。久々に他人から豊前のことでマウントを取られた気がする。かつて豊前が配属されていた支所の女性社員や、かつて豊前が付き合っていたという女からマウントを取られり嫌がらせを受けたことがあった。そのときは私がどうこう言う前に豊前があしらっていたから、私が何かをしたことはなかった。
    「あんな終わり方?」
    「……豊前が話していないなら僕は言わない。でもそれは豊前の事情だ。僕は僕の都合で動く。僕は豊前が幸せになれるように動くし、貴女が豊前のことを幸せにできないなら引いてもらいたい」
    「ふーん……」
     頬杖をついて松井江の目を見た。明るいターコイズブルーの瞳は美しいけれどその目は充血していて、まぶた周りもよく見れば赤く腫れている。
     昨日豊前と帰ったとき、豊前は松井江と会ったような様子ではなかった。だから彼と松井江が会ったのはその後か今日のことなのだろう。たぶん、昨日私と別れた後。きっと前世の記憶に強い感情を抱く松井江は感極まって泣いただろうし、豊前は松井江と会ったから会社を休んだ。今豊前が何をしているのかはわからないけど、松井江は豊前の話を聞いて私に会いに来た。
     豊前は私とのいざこざを話しただろう。私と豊前はお互いの境遇からあまり己の弱音を吐き出す相手を作らなかったし、知り合ってからはそれぞれがその相手になった。こうやって私と豊前に齟齬が生まれたとき私にはちょうどまんばちゃんが現れてしまって、豊前にしたらそれもストレスだっただろう。そんな豊前が松井江に再会して、私のことを話さない理由はない。具体的なことは言わないだろうけど。というより言わないでください。
     あの醜態をこの子にも知られてしまってるわけだ。ひとつため息を落として私は額を掻いた。
    「あなたの都合なのね? 豊前の考えではなく?」
    「ああ。昨日から今日にかけての豊前を見て、僕が勝手にそう判断したまで」
     松井江が即断で応じる。その態度にはかたくなな豊前への思慕を感じる。彼はきっと、『あんな終わり方』をしたから、豊前への感情がより強いのだろう。
     これ以上は話してもきっと何の答えも出ない。
     松井江は言いたいことを言った。私もおそらく松井江が言いたいことを理解した。そして、私だって混乱している。自分の中に浮かんだ感情を整理しないといけない。
     松井江が立ち上がった。口をつけなかった珈琲を片手に私を見下ろす。
    「……これは、ご馳走さま。ありがとう。けれど覚えておいてほしい。僕は貴女が豊前を幸せにするつもりがないなら徹底的に貴女を排除するように動く」
     出会ったときに浮かべていた敵意を隠さずにそう吐き捨てて、松井江は踵を返して去っていった。そうやって背を向けて歩き去る姿は豊前とよく似ている。姿形ではなくて。
     私は珈琲に口をつけた。なんとか気持ちを切り替えたかった。
     あんな終わり方とはなんだろうか。豊前と松井江が再会したことを知った時、胸の内に湧いた感情。豊前を幸せにするってどういうことだろう。
     確認したいことがある。私は携帯を開くとまんばちゃんとのSNS画面を開いた。
    『豊前の本丸の松井江が会いに来た。明日なら会える?』
     ついついとタップして送信し、息を吐いてから携帯を暗くする。今は部活の時間だろうから返事は来ない。
     胸の中がぐちゃぐちゃだ。明日まんばちゃんと会うまでに、整理しないと。






     先日とは違うファーストフード店で全メニュー制覇をする元初期刀の食べっぷりを呆然と眺めている。
     朝練を終えてきたというまんばちゃんに、じゃあお昼食べる? と聞いたらここを提案されて、私は今後まんばちゃんに会うたたびにこれを要求されるのだろうかと空恐ろしいものを感じた。まあ……いいんですけど……お腹いっぱいのまんばちゃんかわいいから……。
     腹ごなしをしたまんばちゃんがやっと話を聞いてくれる様子になったので、私はこの数日のことを説明した。
     ――豊前の様子、松井江が会いに来たこと、松井江の言葉。
     まんばちゃんは興味深そうに話を聞いていた。そして松井江が言った『あんな終わり方』という言葉を聞くと、「ほう」と小さく呟いた。私がまんばちゃんに聞きたかった、確認したかったことも、それだ。
     話を聞き終わって暫く考える素振りだったまんばちゃんに、「ねえ」と声をかける。まんばちゃんはまっすぐに私を見返した。
    「あなたたちが生まれ変わった理由ってなあに?」
     まんばちゃんは黙っている。
     何かの条件があるんだろうな、とは思っていた。未練とかそういうことだけじゃないだろう。そしてきっと刀剣男士たちはその条件に自覚的だ。豊前はそんな素振りを見せたことはなかった。それは豊前と知り合ったとき彼は既に大人だったからだ。20年以上生きて、たくさん諦めたのだと思う。けれどまんばちゃんも松井江もまだ若い。その折り合いがきっとついていない。
     私が目をそらさないから分かったのだろう。根負けしたようにまんばちゃんが目をそらして、頭をかいた。
    「……いろいろと条件はある。けれど今あんたに言えるのはこれだけだ」
     まんばちゃんは膝の上で両手を組んだ。
    「やり残したな、と思うことがあるんだ。たぶん豊前江も、松井江も。それ以上でもそれ以下でもない」
     懐かしむような表情を浮かべてまんばちゃんが私を見る。
    「刀剣男士としての俺の、一番最初の主。俺はあんたの次の人生がもう一度、幸せなものであれと願っていた。ただそれだけだ」
     年若い少年の姿をした老獪な元初期刀の笑みは、随分と私の胸に激しい衝撃を与えた。
     豊前と過ごす内に願うようになっていたこと。けれど捨てきれない、刀剣男士としての彼らの記憶。
     ――私だって捨てられない。だから踏み出せなかった。
    「私、あなたたちには元刀剣男士としてではなく、人間として生きてほしいよ。前世のことには縛られずに」
     私はそうやって言うと、まんばちゃんはしたりと頷いた。
    「俺は少なくとも人間として楽しんでいるつもりだぞ。学校だって楽しんでるし、剣道もやりたいからやっている。こうやってジャンクなものも今だから満足に食べられるし、こうやってあんたに会えて、充実している」
    「それならいいんだけど」
    「話を聞く限り、豊前江と松井江はそうもいかなそうだがな」
     そのふたりは随分と情に厚いんだな、と付け加える。
     そうだね、と私は返した。


     *******


     まんばちゃんをケーキバイキングに連れてきて、彼が腹八分目と言いながらデザートを吸い込んでいく様子を眺めながらぼんやりと思い出す。
     豊前はいつだって隣を歩いてくれたけれど、怒ると背中を向けて去ってしまう。理由は大したことじゃなかった。仕事のことだったり、プライベートのことだったり。
     彼の元彼女に嫌がらせのようなことをされて黙っていたことがある。あまりにくだらなすぎて無視をしていた私に、彼は怒りを見せた。「なんで怒らねーんだよ」と。私にとっては一過性の台風のようなものだったけれど、「俺のせいなんだから怒れよ」と言って、待ってと制止する私を無視して彼は行ってしまった。そのまま元彼女に会いに行って随分辛辣にあしらったと聞いた。それから数日、なぜ怒っているかも分からなくて口を利かずにいて、豊前から謝ってきた。
    「迷惑かけたのに怒って、ごめん。あんたにとって俺のことで迷惑かかるのって大したことじゃねーんかなと思ったら」
     なんて理不尽な理由なんだとそのときは思ったけれど、今考えれば彼も手探りだったのだろう。
     あのときだって私は彼を追わなかった。今回だって追わなかった。
     私はいつだって、豊前に恋をしてはいけないと思っていたから。
     元審神者と元刀剣男士。
     慰め合いのような間柄で、でもそれぞれに恋人を、家族を作ることはできるはずで。人間として生まれた彼には人間として幸せになってほしかった。そのためにはいつか、前世の未練を捨てて私達は道を違えなければならなかったはずなのだ。

     松井江は『豊前に幸せになって欲しい』と言った。私だって彼には幸せになって欲しい。
     彼を幸せにできるのが私ならよかった。でも私は元審神者として、彼を人間として見られるのかが分からなかった。
     私を彼が幸せにしてくれるなら、本当はそれが良かった。でも豊前が、私を過去の記憶のよすがとして見ているのかどうなのかが分からなかった。

     だから私はいつだって豊前を追いかけることが出来なかった。
     でも意地を張っていただけで、彼の意見を尊重しようと言い訳をしていただけで、本当は追い掛けたかったのだ。
     そう、追い掛ければいいだけなんだ。






     まんばちゃんと別れて、16時を過ぎたところ。
     私は見慣れないマンションの玄関扉の前で仁王立ちしている。場所は知っていたし部屋番号も知っていたけど、わざわざ来たことはなかった。
     深呼吸をしてインターフォンに指を伸ばす。指を下ろして、深呼吸してインターフォンに指を伸ばす。を、何回か繰り返していた。しかしいい加減腹をくくらないといけない。
     意を決し、深呼吸せずにインターフォンを勢いよく押した。1回、2回。中からゆっくりとした人の気配を感じる。
     ――まずなんて言おう。
     勢いでここまで来てしまったから思考が固まっていない。そんな中で実際に会って、まずはなにから話せばいいだろう。
     ガチャリという鍵を開ける音がして、玄関扉が開かれる。そうして顔を出したのは想像していたものではなかった。
    「……貴女、部屋は知っていたのか」
     松井江だ。豊前の本丸の松井。まだ豊前の部屋にいたのか。
    「豊前は?」
    「豊前に会いに来たのかい? それなら残念だけれど、出掛けているよ」
     玄関扉が止まるところまで開けて、松井江は腕を組んで壁に寄りかかった。彼は似つかわしくない黒地に金の差し色激しいジャージをまとっている。サイズもだいぶ大きいように見えて、そのギャップがおかしかった。
    「どこに出掛けたの」
    「僕が答えるとでも?」
    「まあそうよね」
     きっと松井江はそう言うだろう。そんなつもりで肯定すると、松井江は口をむっと引き結んだ。面倒くさいタイプの男だ。どう答えてほしかったのだろう。
    「……ちょっと待ってて」
     なんとも面白くなさそうな表情を浮かべた松井江だったが、ふっとその表情をなくした。返事も待たずに身を翻して中に入っていく。組んでいた腕をほどいた時に見えた胸元の金の柄。なんとなく覚えがあって首を傾げた。
     豊前の部屋。何度かタクシーで乗り合わせて、外まで来たことはあった。けれど入ったことはない。玄関の横の一時置き場には何も置かれていない。ここだけ見ればショールームのようだった。確かに彼は小物らしい小物を持たなかったし、飾り立てるようなこともなかった。キーケースと財布、携帯。あとは仕事用の鞄くらい。職場のデスクにも最低限の筆記具や道具だけが置かれている。
     戻ってきた松井江は両手に物を持っていた。パッと見て統一性などないものだ。たった今想起した豊前のイメージとも異なるものばかり。
     ぬいぐるみ、キャップ、リボン。ゴーグル。そこまで見て、やっとその類似に気づいた。松井江は私が息を飲んだのを見て満足げに笑みを浮かべたけれど、それは痛々しい傷口のような笑みだ。
    「このゴーグルは、桑名のものに似ていたから」
     そう言って一時置き場に黄色いレンズのゴーグルを置く。厳密に言えば違うような気はするけれどぱっと見れば似ている。
    「リボンは僕だ。僕のものに似ているから」
     ターコイズブルーの、細身のリボンをゴーグルの横に並べる。
    「このぬいぐるみ。対にすると色が五月雨と村雲に似ているだろう? 紫とピンク。しっぽもふさふさで」
     狐と猫のぬいぐるみは色は紫とピンクでふさふさの二対だ。並べるとたしかにあの二振りのよう。犬ではないけれど。リボンの横に鎮座する。
    「キャップは……稲葉を連想したみたいだ。彼の場合似たものはよく見かけるけれど」
     黒いキャップを、狐のぬいぐるみに被せた。そして。彼の手元に最後に残ったのは、
    「この手ぬぐいは篭手切の軽装の柄とよく似ているだろう? これは……全部、豊前が買ったものだ」
     緑と白の柄模様の手ぬぐいは篭手切の軽装、右袖のそれとよく似ていた。松井江は丁寧に畳んでそれを置く。
    「豊前江としての記憶が薄れることを恐れ、僕らの持ち物に似た何かを見かける度に買ってしまったと言っていた。この部屋の中は、そんな風に誰かのなにかに似たものでいっぱいだった」
     言葉が出ない私を見下ろし、松井江はやわらかく微笑む。
    「……ああ、このジャージもそう。鬼丸国綱のものに似てるだろう。よくもまあこんな似たものを見つけたものだと思う。僕には少し大きいけれど、豊前が貸してくれた」
     先程の既視感はそれだった。鬼丸のジャージと似た、少しヤンキーのようなそれは、サイズの大きさもあって松井江には似合わない。
     耳鳴りがした。莫大な量の時間が、記憶が体中に押し付けられた気がしてふっと意識が揺らぐ。
     その一瞬の間に、おもむろに松井江が私の両腕を掴んだ。咄嗟のことに小さな悲鳴をあげてしまうけれど、松井江はそんなことには構わず唸るような言葉をこぼし始めた。
    「貴女は豊前を豊前江として見ているのか? それとも『彼』? 豊前江として見ているなら貴女にはもういるはずだ、自分の豊前江が。僕には僕の本丸の豊前しかいない。僕が豊前を支える。僕だけが豊前を理解できる。貴女は今日どういうつもりでここに来たんだ?」
     顔を落として地面を見つめる松井江の表情は見えない。けれど彼の言葉から伝わる強い思慕は感じる。腕を掴む力が強くなる。いた、と漏れた言葉は彼に聞こえているだろうか。
    「豊前を、僕らの豊前江を今更人として扱おうっていうのか? こうして人として生まれてなお、絶対に出会えない彼らの面影を探している僕らの、豊前のなにを知っていると言うんだ、自分の感情からも逃げているだけの貴女が!」
     松井の叫びを聴きながら、私はあの時の豊前の慟哭を思い出していた。
     小さい時から刀剣男士の豊前江でしか無かったから。人間としての俺であればよかったのかも分からない。
     松井江の言葉は胸に来る。豊前のことは、確かに私よりも彼のほうが分かるかもしれない。私も未だになにが正しいのかなんて今でも分からない。刀剣男士だった豊前、審神者だった私。
     でもひとつ、分かっていることがある。
    「松井、離して」
     松井江の腕を撫でて、そうと優しく声をかけると、彼ははっと息を呑んで私の腕を離した。介抱された腕はじわじわと痛むけれど今はそれに構うつもりはない。急にうろたえて迷子のような表情を浮かべた松井江に私は優しく言う。
    「ちょっと、歯食いしばってくれる?」
    「は?」
     理解できなかったかな? とは思ったけれど私は構わず、松井江のつやつやで綺麗なほっぺたに向けて思いっきり手のひらをスイングした。
     パァン! と派手な音がする。
     目を見開いた松井江は見事に私の平手を食らい、私もジンジンと痛む手を思わず抑えた。
    「いったぁ!」
    「……それは……僕のせりふなんだけど……」
     私に打たれた頬にそっと手を添えながら、彼は信じられない物を見る目で私を見た。私は手を抑えながら胸を張る。
    「松井江、あなたの言うこともごもっともなんだけど。これって私達の問題だから、口を突っ込むのは止めてくれる?」
     たったひとつ分かっていることだ。
     私と豊前の関係に松井江は関係ない。豊前と松井江の前世、何があったか私は知らない。松井江が私にそれをほのめかしたとして、それは彼の都合なのだから文句を言う筋合いはない。けれど、私と豊前が話をしなければならない。結論を出さなければ。
     松井江はしばらく私を見つめた後、赤く染まった頬を撫でながら、ふふ、と笑みを浮かべた。
    「……女性に本気で殴られたのははじめてだ」
    「グーじゃなかっただけ感謝して」
    「今だって手が震えてるのに、そんな強がりを言えるんだね」
    「……」
     私は無言で松井江を見つめる。彼を殴った右手は、確かに痛みではなく震えているけれど。
     松井江はしばらく押し黙っていたが、再びまた唇に弧を浮かべた。
    「君の山姥切が豊前を試すように、僕も貴女のことを試すよ」
    「……まんばちゃん?」
    「豊前は今日は出かけているけれど、彼の携帯は僕が隠している。彼は今どこにいると思う? 探し出してよ」
     そう言って松井江は泣きそうな顔で私のことを突き飛ばして、玄関を閉めてしまった。
     突然の松井江の行動にびっくりしてしまった。正直、少し落ち着いて絆されてくれるかと思った。
     考える。ふたりの刀剣男士としての時代になにがあったのか。まんばちゃんが豊前を試すとはなんだろう。刀剣男士の豊前と、人間の豊前。今までの出来事と、自分の感情。
     ぐちゃぐちゃになりそうな脳内をなんとかしてまとめようとして――冷たく閉ざされた玄関扉を見つめながら私は心のなかで叫んだ。
     ――ただ豊前に会いたいだけなのになんでこんなことになるの?


     *******


     玄関前に立ち尽くすわけにもいかずにマンションを出た私は、行先も決められずに近くの花壇に腰を下ろした。
     豊前がどこにいるかなんて分かるわけがない。連絡を取ることもできない彼を探し出すことなんてできるわけがない。私と豊前に、審神者と刀剣男士のようなつながりなんて無いんだから。
     豊前と一夜の過ちを犯してから一週間。その間にいろんなことが起こった。元初期刀の山姥切国広との再会。豊前との齟齬。自分でもよくわからない感情。嫉妬と執着。豊前の前世の同士、松井江との応酬。
     そうして今、豊前の家の前で放り出され、途方に暮れて座り込んでいる。豊前にもまんばちゃんにも、松井にも振り回されてばかりだ。そして豊前も振り回されてばかりだ。私に、松井に。

     情けないなあ。ため息を付いて顔を覆った。
     昔の私、前世の私はもう少しだけ破天荒だった。まんばちゃんのことも随分と振り回した。今は刀剣男士という心強い家族は居ないから、少し弱い。
     豊前もそうかもしれない。前世では自分を顕現した主や仲間たちが居て。……何かはあったようだけど。そうして人間として生まれて、悩み、苦しんで、いろいろを諦めた。
     そうやって私と豊前は出会った。傷を舐め合うように一緒にいたのだろうか。それは感傷だったのだろうか。誰かの、代わりだったのだろうか。

     豊前は今どこにいるだろう。
     顔を上げて夕焼けに染まり始めた空を見る。
     まんばちゃんに話を聞いてもらって自分の気持に整理をつけて、豊前と話をしないといけないと決意した。あの後ろ姿を追いかけようと思った。豊前はどうだろうか。私にまんばちゃんが現れたように、彼には松井江が現れた。自分の感情を整理しただろう彼も私と同じ気持ちになってくれないだろうか。
     話し合わないと、会わないと。
     松井が隠してしまったから、今の豊前は携帯を持たない。連絡を取る手段もなくて、そんな豊前は、今どこに居て何をしているだろう。
     たとえば私みたいに、話したこと認めたことで話し合わなきゃって思って、私のことを探してないかな。私のいそうなところを探して、いないから携帯を探しに家に帰ってきたりしないかな、なんて。

    「……なんで、こんなとこにおるん」

     そんな風に夢みたいなことを考えてたからだろう。マンションの玄関口に近寄ってきた人影に気づかなかったし、声をかけられて初めて、ずっとずっと会いたかった豊前がそこにいると知ってばかみたいに嬉しくなってしまって、少し涙腺が緩んでしまったのは。
    「豊前に会いに」
     目が潤んでしまっていることに気づかれないように笑いながら答えると、豊前は自分の首を撫でて小さく「そっか」とこぼした。そうして私に近寄ってくる。随分と柔らかい雰囲気で、最後に見た、さざなみにすら流されそうな表情じゃないことに安心しながら見やると、
    「なあ、俺とデートしてくれる?」
     と手を差し出した。
     デート。デートだって。私達はそんな関係じゃなかった。でも。
     こそばゆい気持ちを感じながら豊前の手を取ると彼はくしゃっと笑みを浮かべる。私も豊前ももういい年をした大人だ。でも子供のように幼く見えるその笑顔を見て、私は握る手の力を強くした。





     豊前の運転する車の助手席に腰を下ろして車内の涼しさに気づいた。随分と冷房がきいていて、長いこと彼がこの車に乗っているのが分かる。
    「どこに行ってたの?」
     シートベルトをしながらつい尋ねていた。お昼すぎにまんばちゃんと会って、豊前のマンションに来たのが16時頃。それまで彼は何をしていたのだろう。
     豊前は視線をさまよわせた。
    「……別に、それは、どこだっていいだろ」
     答えるつもりはないようなので私はそれ以上は訊くのを止めた。
     ふう、と息を吐いて車の中をぐるりと見回す。豊前が車を持っているのは知っていた。通勤には電車を使っているから、普段運転する豊前を見ることはなかった。ほぼ毎日一緒に顔を合わせて、仕事終わりにはよくのみにも行った。休日にわざわざふたりで会うようなこともなかったから。ただ、「バイクじゃないんだね」と聞いたことはあった。あのとき豊前は曖昧に笑ったけど、今ならなんとなく分かる。彼はきっと、出掛けた先でいろんなものを買ってしまうんだろう。
     車が動き出してからしばらくはお互いに無言だった。車の排気音だけが支配するこの狭い空間で、私はもじもじと膝の上で両手を揉み合わせていた。
     言いたいことはいっぱいあった。聞きたいこともいっぱいある。けれどこうして話せるようになったら何から話せばいいだろう。考えていたはずなのに、いざ豊前を前にしたら言葉がうまく出てこない。
    「すげー会いたかったんだよ。あんたに」
     そうやって口火を切ったのは豊前だ。赤信号で車を止めて、ほんの少しの暇に私の顔を見る。
    「数日合わないことなんて今までにもあったけど……あんたの初期刀に嫉妬したり、前世のこととか色々考えたら、結局」
     信号が青になって豊前は言葉を止めた。前の車に続いてゆっくりとアクセルを踏み、視線を前に向ける。
    「結局、俺、あんたのこと好きだから」
    「……あっ、え!?」
     今日の天気くらいさらっと言われ、一瞬理解できなくてぽかんとしてしまった。
     まって、今この人なんて言った?
    「なん、なんでそんな簡単に言うの」
    「は?」
    「も、もっと、雰囲気とか色々あるでしょ、運転中に言うこと?」
     分かりきってたことだ。豊前が私のこと、なんて。でもこんな風に言われるとは思っていなかったから動揺が勝ってしまう。言い募る私の様子に怪訝そうな顔をしていた豊前は、「ハハ」と笑い声を上げた。
    「言いたいことはさっさと言っとかねーと、俺たち最近タイミングわりーからさ」
     私は頭を抱えてしまった。
     言いたいことも聞きたいこともある。けれどこうやって豊前との応酬が嬉しいから。タイミングが悪いのは、本当にそう。だから、素直な気持ちを……大人としての狡さとか、前世の記憶とか、そういう遠慮をすべて打ち払った言葉を私も伝えないといけない。
     豊前を見ると、彼もちらりと私を見返した。
    「……私も豊前に会いたかったよ」
    「ん」
    「豊前が誰とかどうとか、そういうことじゃなくて」
    「うん」
    「……だから今日、会いに来た」
    「そっか」
     その次を続けなければいけない。豊前もそれを待っているのが分かる。
    「前世が豊前江だとか、審神者だとか、そういうのは全部きっかけ。いろいろあるけど……」
     これが私の答えだ。
    「私も豊前が好きだよ。それは今目の前にいる、あなたのことで」
     うん、と頷いた豊前は、両手で握っていたハンドルから左手を離し「やべ、」と言いながら自分の口元を隠した。
    「……やっぱこんなとこで言うんじゃなかった」
    「でしょ? ばか」
     しばらくふたり揃って黙ってしまった。

     *******

     豊前が車を止めたのは走らせて数十分くらいの運動公園だった。自由に出入りはできるけど、もう時間が時間だから人は少ない。
     運転席から降りる豊前に近寄って話しかける。
    「なんでここ?」
    「俺、ここたまに来るんだよ。これからの時間は人が減るから……それに」
     私を見下ろした。熱を帯びた目で見つめられて私は思わずうろたえるけれど、豊前はそんな私を認めると私に向かって腕を差し出す。意地悪い顔だ。
    「あんたと、いつか一緒に来られたらいいなって思ってた場所だから」
    「そうな、の」
     促されるように豊前の腕を取る。嬉しそうにはにかむ豊前は、そのまま指を絡めてくる。
    「俺の本丸に似てるんだ、なんとなく」
     豊前が歩き出すのに合わせて一緒に歩く。
     いつだって豊前は私と一緒に歩いてくれた。時に隣を、時に後ろから見守るように。彼と喧嘩したときはその背中を追いたかったけれど、追わなかった。いざ齟齬が生まれた時に私達を隔てたのは、私達を結びつけたはずの元審神者と元刀剣男士というしがらみだった。
     それはもう嫌だった。この繋いだ手は、そのしがらみを超えられただろうか。
    「この林の感じ。俺の本丸の裏山ってこんな感じだったんだ」
     豊前と触れ合う場所に緊張するのも慣れてきて、顔を見ながら歩いた。
    「このアスレチックとか。俺の本丸では、祢々切丸がこういうのをたくさん作ってくれたんだよな」
     並んで歩く内に丸太を並べた遊具たちが見えて、豊前が懐かしむような表情が増えていく。
     豊前が語るのは全てかつての本丸での思い出だった。誰がどうだった、ああだった。こうやって豊前は自分の記憶を失わないように、ひとりで過ごしていたのだろう。そしてそれを今私に伝えようとしている。
    「ここでちょっと休むか」
     そう彼が示したのは順路の途中にぽつんと佇むベンチだ。日も暮れてきて、あたりも次第に暗くなっている。
    「聞きたいことがあるんだけど」
     座りながら豊前にそう言えば、彼もうん、と神妙な顔をして頷いた。
    「松井とはいつ会ったの?」
    「ああ……松井会った? そうなんだよな、あいつ、木曜の夜に会ってさ……」
    「ていうか、昨日会社終わりに会いに来たけど」
    「は?」
     聞いていなかったのだろう、豊前が思い切り顔をしかめたかと思うと、急に顔を覆って上半身を前に倒した。
    「確かに夕方出掛けてたけど、あんたに会いに行ってた? なん、な……待て、なに言ってた?」
    「なにって…」
    「なんか変なこと言ってなかった?」
     薄暗くなっても、豊前の顔が赤くなったのが分かる。理由がつかめない。
    「僕の豊前を返せみたいなこと言ってた」
    「あ?」
    「この泥棒猫! みたいな」
     松井の声真似をして言うと、豊前は少しきょとんとし、顔から手を離しながら笑った。
    「なんちゃぁ、それ」
    「昨日はそんなくらいだけど、今日は、豊前の部屋にいっぱいある思い出の品のこととかを話したかな」
     正確に言うなら聞かされた、だけど。
     豊前は笑顔のまま一瞬固まって、へらりと眉尻を下げて、「うぁ、うん」と小さくこぼした。
    「ねえ、豊前、聞かせてよ。豊前の胸の中にあること。刀剣男士だった時に何があったのかとか、答えられればでいいけど、私は知りたい」
     そう問えば少し緊張したように押し黙ってしまう。前にかがんだままの豊前の手に手を添えた。
    「刀剣男士だった豊前も、人間としてのあなたも、全部私にちょうだい」
     大きな豊前の手に、私のそれは包まれる。冷たくなった豊前の手が温まればいい、そう思った。
    「別にたいしたことじゃねーんだ」
     豊前が体を起こして私に身を寄せた。私の肩口に頭を乗せてくる豊前の重み。今ここに在る、重さを感じる。
    「俺と松井と、何振りか。遠征に出てる間に本丸が襲撃されて墜ちた」
     指を絡めるとゆるく返された。
    「他の奴らは刀解を望んだ。俺は……俺と松井はどうしても信じきれなくてそれは選べなかった。本丸がないとか、あいつらがいないとか、刀解したら認める気がして。それで俺と松井は政府所属になった。……そっから先は、言えねえけど」
     空いた手で握った手を覆ってくる。冷えた指先の冷たい熱が滲んだ。
     豊前の存在を確かめるためにぎゅ、ぎゅと何度も握りしめる。
    「人間になってもやっぱりあいつらがいないのが寂しくて、縋りついてたんだ。あいつらの面影を集めて、今度こそみんなに会えるかなーって、でも誰にも会えなくて……あんたと会った」
    「そうだね。やっと会った」
    「あんたと一緒にいるとあいつらのこと覚えてられる気がして嬉しかった。けど、今は違うんだ。松井と会って分かったんだよ」
    「松井?」
    「あいつに会ってすげー嬉しかった。少しは満たされるかと思ったけど……違ってさ。あいつに会っても、あんたが居ないんじゃ俺……」
     彼が体を起こして私を見る。元審神者である私の目には刀剣男士としての豊前江として見える。日によって赤かったり黒かったり見えた彼の目は、今は黒い。人間としてのそれそのものだ。
    「あんたが審神者だったとかそういうのはきっかけだ。あんたがいたから、俺、たぶん人間になった。だって、」
     豊前の熱い眼差しを受けて私は自然と口を開いた。
     今度は私の番だ。
    「今こうやって、なんの迷いもなく手を繋げてるから」
    「……うん」
    「こんな風にならなかったら、手を繋ぐなんて絶対できなかった」
    「そうだな」
    「私は審神者として、自分のものでもなかった刀剣男士と恋に落ちちゃいけないと思った。豊前には、人間として幸せになってほしかったから。私と一緒にいたって刀剣男士としての記憶が絶対にあって、豊前は人間として生きられないと思ったから」
    「……そうだな」
    「でも私、やっと開き直ったよ。全部ひっくるめて豊前を私にちょうだい。前世の記憶も、今の苦しみも」
     手を繋いだまま、豊前の黒い目を意識して見つめる。豊前もまた視線を外さない。ともすれば目をそらしそうになるのを、絶対に外さないように。
     豊前の手の冷たさは、私の体中の熱と混じり合って、きっとぬるくなっているだろう。
    「もう諦めないって決めた。全部」
     豊前の背中を見送った。私達を結びつけたしがらみが私の足を縫い止めた。だからそれ全部投げ捨てて、もう一度受け入れる。
    「背中を押してくれたのは、まんばちゃんだけど」
     主だった私の幸せを願ってくれるという無類の愛が私の背中を押してくれた。
     感慨深くてそうこぼすと、それまで熱を帯びた目で私を見つめ返していた豊前は途端に顔をしかめた。
    「なんでここで他の男の名前出すんだよ」
    「だって、まんばちゃ」
     ん、という音は、豊前が身を乗り出してきて飲み込んでしまった。急くような啄むキスを落としてくるのに驚くけれどそのまま応じる。すると、何度かのキスの後に不貞腐れたような顔をした豊前が離れた。つまらなそうに吐き出す。
    「俺が一番嫉妬してんのは、あいつだっていい加減分かれって」
     そんなことを言われても、まんばちゃんがいなかったら私は絶対に決断できなかった。前世初期刀だった頃と変わらぬ態度だった彼が、豊前との仲を否定しなかったから、私はやっと蓋をした感情を開いたというのに。
     でも理屈じゃないんだろう。感情が込み上げてしまってくすくすと笑う私に、豊前はちぇ、と唇を尖らせた。
     はあ、と小さく息を吐いた豊前だったけれど、不意に居住まいを正して私を見据える。
    「あの、……さ。さっきはさすがに、俺も焦りすぎたっつーか、会えたのが嬉しくて慌てちまったんだけど。もっかいリベンジしたい」
    「リベンジ? なんの?」
    「なんで急に察しが悪くなんだよ、わざとかよ……」
     と、顔を赤くしたのを見て、私もようやく理解した。「ハイ」と小さく返事をして両手を膝の上に置く。豊前はふはっと笑った。
    「……好きです。あんたのこれから、全部俺にちょうだい」
    「こ、これから?」
    「あんたは、刀剣男士としての俺も人間としての俺も全部ひっくるめて貰ってくれんだろ? じゃあ俺もあんたの全部、俺にくれるだろ、当然」
     言いながら私の左手を取って、薬指を撫で、そのまま自分の口元に持ち上げて口づける。
    「分かってるかどうか分かんねーけど、俺、執念深いし、多分嫉妬深いからな。それに、もう、嫌だって言っても無理だけど。……どう?」
     左手越しに覗き込んでくる。
     どう? じゃない。忘れていたわけではないけれど整った顔が私を、期待と、欲の入り混じった顔で見ている。
     私だって、何年越しの感情に整理をつけてここに立っていると思ってるんだ。豊前との付き合いは一年ぽっちとは言え、前世の記憶と、そこから繋がる今の私の感情、そのすべてで受け入れようと思ったのだから。
    「……受けて立つ」
     笑いながら言うと、豊前もまたつられたようににやりとして、
    「覚悟しろよ」
     と、私の体を引き寄せた。私はなされるがまま、豊前の胸に顔を寄せる。この胸に抱き寄せられるのは残業したとき以来だ。あのときは受け入れられなくて否定した。けれど今はこの胸の中にいたい。
     しばらく何も言わずに抱き合っていれば、私の頭を撫で始める。それがそもそもの今回の始まりであるあの夜のことを連想させて、急に顔が熱くなった。
     あの夜。ラブホテルで目覚めた、あれが始まりの日だ。なんて締まらない始まり。
    「……腹減ったな」
     頭の上で気の抜けた声が漏れた。気が張っていたのだろう。ふっと私にかかる力も重くなった気がする。
    「なんか食べに行く?」
    「ああ、うん、そうだな……」
     豊前は言いながら、ぎゅうぎゅうと私をきつく抱きしめ始める。「なに?」と背中を叩くけれどその力は衰えない。
    「なあ」
     耳元で囁かれて、声の近さにびくっと震えた。私の様子を見て嬉しくなったのか、豊前の声は少し調子に乗ったように楽しそうな色になった。
    「いっこ、お願いきいてくれる?」
    「お、お願い?」
    「そう。きいてくれよ」
    「内容による……ハッキリ言ってよ」
     ん、と言いながら首元に顔をぐりぐりと押し付けてくる。急に甘えてくる。いい年したアラサーのくせに。
    「食べ終わったら行きてーとこあるんだけど」
    「まだ行きたいとこあるの?」
    「ある。今度こそ、酔った勢いじゃなくて、素面のあんたの意志で一緒に行きてーの」
     理解が及ぶのに数秒。
     理解が至って、一瞬で今までの比じゃなく顔が熱くなる。
     それは。酔った勢いで行ったのはひとつだけだ。先程も思い出したばかりのあの夜のあの場所。きらびやかでラグジュアリーなあの部屋。
    「あのとき俺がどれだけ我慢してたか、ちーと思い知らせたくてよ」
     豊前から離れようとするけれど身じろぎもしない。
     これはだめだ。こうなった豊前からはたぶん、絶対に逃れられない。私はまた覚悟を決めた。
    「ぶ、ぶぜ、あの……」
    「ぜってー行く」
    「わ、分かったから、わかったからあの……」
     承諾の声を聞いて拘束が緩んだ。
     豊前の顔はたぶん私と同じくらい赤かったし、ぎらぎらとした欲に濡れていて、私は息を呑んでしまう。
    「なん」
    「準備とか、あのいろいろ、するから家に行ってくれると助かると言うか……」
     豊前の喉仏がごくりと動いた。
     真顔になった豊前は私を睨みつける。
    「ほんと、あんたって、ばかだよな」
    「なんで」
    「俺に抱かれるための準備をするって言われて俺がどう思うかもわかんないなんて、ばかだよ」
     私の抗議の声は再度豊前の口に塞がれてしまう。今度は息が続かない程度には長くて、私はくらくらとしてしまった。




    10

     あくる日曜日。
     私には大事な約束があった。俺も行くと言ってきかない豊前を宥め――ついてくるのを阻止することはできなかった――約束の場所に向かう。まんばちゃんが指定したのは今までみたいな外の待ち合わせ場所ではなくて、個別に仕切られた食事処だ。なんでまんばちゃんがこんなところに、と動揺しながら予約の席に向かうとそこには見覚えのある姿。
     私の元初期刀、まんばちゃん。そして、
    「な、なんで松井が?」
     狼狽の声を上げたのは豊前だ。
     まんばちゃんの横には豊前の部屋で会ったあの松井江が”しゃなり”然とした顔で座っていたのだ。
     ――昨日おいしそうにデザートを吸収しているまんばちゃんに言ったのだ、今から豊前に会いに行くと。そうしたらまんばちゃんは言った。『うまくいってもいかなくても、俺に話したいんだろ? 急に呼び出されるのも時間の無駄だから時間を決めよう』と。だから松井江がこの場所と時間を知っているわけがない。
     あからさまにうろたえて見せるアラサーふたりを見て、若人たちは顔を見合わせて笑いあった。共犯者めいたそれはいったいどういうことだ。
    「僕は豊前と会うよりも前に、彼に会っているからね」
    「え、え、なん?」
     松井江とまんばちゃんはおもむろに自分の携帯を掲げた。
    「え?」
    「この時代だからこそできる情報収集だな。ネット上には刀剣男士が集まるコミュニティがある。刀剣男士の生まれ変わりじゃないと分からないようになっているみたいだな。今の若い世代で、事務方に長けている刀や初期刀なんかは結構ここにたどり着いている」
    「うそだろ?」
     豊前の唖然とした声は少し可哀想なくらいだ。彼が必死になって探した刀剣男士の面影がまさか今の世のネットワーク上にあるとは考えまい。
     理解はできた。まんばちゃんは近侍歴も長いしパソコンや端末の操作にも慣れていた。そして今このひとり一台なんらかの端末を持っている時代において、自分たちの仲間を探そうとしないほうがおかしいだろうし、それは松井江も同じだろう。事務能力にも長ける彼もまた、特に豊前を探したはずだ。一方アラサーの私達は小さい頃に携帯なんて持っている方が珍しい時代。それに豊前江と言えば事務処理は得意ではなかった。今の彼はそんなことないけれど。だから考えもしなかったんだろう。
    「実際、ある……主から聞いたあんたの情報。所属国とおおまかな時代と、いくつかの符号をそのコミュニティに流したのは俺だ」
     まんばちゃんが豊前を見やりながら淡々と説明する。豊前は言葉もないようだ。
     まんばちゃんの後を松井江が引き継ぐ。
    「それを見て僕はまさかと思って、いても立っても居られなくて彼に連絡を取った。僕の豊前でなくても会ってみたかったし、結局本人だったから」
     松井江は私を見た。
    「彼が豊前を試そうとしたから、僕も貴女を試した。……酷いことを言ったことは謝らせてほしい」
     そうして頭を下げてくる松井江に思わず駆け寄って、その頭をあげさせた。その頬は赤い。私が殴った痕だ。
    「私こそごめんなさい、あの……」
    「いいんだ。僕は貴女をわざと怒らせたんだから。結局すぐに会えたみたいだし、僕のしたことはあんまり意味がなかったけど」
     私を追って松井に近づいた豊前が、彼の腕を小突いた。
    「そんなことねーよばぁか、昨日俺がどんだけ待たされたと思ってんだよ……」
    「でも君はそれも満更じゃないんだろ? ……随分すっきりした顔をしていて安心したよ」
    「まあそれは、そうだな」
     たぶんこれはなにがどうすっきりなのか含みのある会話だ。私は聞かないふりをした。代わりにまんばちゃんに近寄る。彼は、黒と青のまだらにきらめく不思議な目で私を見ている。
    「まんばちゃん……」
    「あんたの次の人生がもう一度、幸せなものであれと願ってるって言ったろ?」
     うん、と頷くことしかできなくて、私はまんばちゃんに抱きついた。一度は拒絶されたけれど、今度はされなかった。まんばちゃんは私の背中に手を回してぽんぽんと叩いてくれる。
     彼が今回の豊前とのことでどれだけ気を回してくれのか今頃ようやく分かった。一回り近く年下なのに、こんなに頼ってしまうなんて。
    「……ありがとうまんばちゃん。頼ってごめん」
    「いいんだ。俺が勝手にやったことだ」
    「それでもありがとう」
     古い映画のような記憶。だけどあれは本当にあったことで、今私の胸にしっかりと刻まれている感情だ。彼への、兄を慕うような思慕はしっかりと根づいている。
    「……なあ、くっつくすぎじゃねーの」
     面白くなさそうな豊前の声と、ぶっと松井の吹き出した音が背中の方から聞こえる。私がまんばちゃんから離れると、見るからに拗ねてますと言った風情の豊前が腕を組んでいて、松井が顔を覆って震えている。まんばちゃんはふっとからかうような笑みを浮かべた。
    「松井は主を認めたようだが、俺はまだ認めきってないからな。俺は主に恋愛感情を持っていないが、あんたが主を幸せにできないなら、俺が主を娶るくらいの甲斐性は持ち合わせているぞ」
    「はあ!? そんなんなるわけねえだろ!」
    「か、かっけ~私の元初期刀……」
    「貴女は煽らないでくれるかな……」
     豊前とまんばちゃんが言い合うのをよそに松井がツッコミを入れるので、私は今度は松井を見る。震えて笑っていた彼は目尻の涙を拭いながら私の視線に気づく。昨日までの険が取れて随分と穏やかに見えた。
    「なんだい?」
    「あなた、私を認めたっていった?」
    「ああ……」
     松井はいたずらを思い出すような表情を浮かべた。
    「僕が豊前と会ったとき、彼は随分思い悩んでいただろう。再会の喜びもそこそこに、豊前の口から出てくるのは貴女のことだ。ひでー女だと言いながら出てくるのは貴女への惚気だった。それに貴女はあの山姥切国広の元の主だ。彼には恩があるし、彼の様子を見ていれば貴女は悪い人じゃないんだろうと思ったし……ああでも、少しだけ貴女には不満があって」
    「不満?」
     ちらりと豊前に目を向ける。男子高校生を相手に嫉妬丸出しのアラサー男だ。
    「貴女のことでクダを巻きながら豊前は随分酔っ払ってね」
    「あ? 松井、余計なこと言うんじゃねえ」
     視線を受けた豊前が気づいて声をかけるけれど、松井は楽しそうに口元に手を当てるだけだ。
    「吐くまで飲んで、後始末が大変だったんだよ」
    「やめろって」
     だから次の日休んだのか。松井に会ったっていうこともあるだろうけど……吐くほど飲み潰れる豊前、ちょっとおもしろい。赤くなった豊前は、静止しようと松井に近寄るけれど彼は身を翻して豊前から距離を取る。
    「服を脱がせて随分驚いたよ、豊前から話を聞いていたから何があったかは知っていたけど、脱がせたら体中にうっすらキスマークが残っていて、太ももにはいくつかの噛み跡まであって、数日経っても残るような痕をつけられてまで逃げ出されるなんて男として哀れで哀れで僕は泣いてしまった、フフフッ」
    「おい松井おまえ!」
     私は頭を抱えてしゃがみ込んだ。待ってくれ。不満ってそういうことか。豊前が松井を捕まえて羽交い締めにしているのが分かった。松井が痛い、と騒いでいるけど止める気になれない。
    「元気で何よりだ。そろそろなにか食べないか、もう腹が減って仕方ないんだが。当然ふたりが奢ってくれるんだろ」
     場を収める男子高校生の一声に従って、成人した男女3人は各々の席に着いた。ファーストフード店よりもっと単価が高そうだなあ、とぼんやり考えた。豊前と半分ずつ支払えばいいや。そう思って豊前を見ると、彼もまた私を見てちょうど視線が合う。ふたりでなんとなく笑いあった。


      *******


     4人と思えない金額だったのを豊前とすったもんだして払って、若人ふたりが帰っていくのを見送った。
     松井はこのまま自分の家に帰るらしい。明日からはまたちゃんと講義に出たいと医学生の彼は、豊前の保護者のような気持ちになっているらしく、「この人は割とだらしないし情けないところがあるしワガママだから、そこは貴女がしっかりとして引っ張ってほしい」と言って手を握られた。
     まんばちゃんはこれまで通り高校生活を謳歌するという。「私を娶る責任感なんて持たなくていいんだからね」と言えば、「当たり前だろ」と返されたので、彼はつくづく恐ろしい。今後が怖い。
     豊前と並んで歩いて、彼の車に乗り込んで。シートベルトをしようとしたところで豊前が身を乗り出してきて、抵抗する間もなくキスをされた。こんな日の明るいところで、繁華街の駐車場でなんてことするんだ。最後、とばかりに唇を舐められる。
    「なに? 急に」
    「いや、なんか、当たり前に助手席にあんたが座ってるの見たらつい……」
     戸惑ったように頭をかいている豊前を見て笑ってしまう。
    「ばかだなあ」
     奇しくも昨日の豊前みたいな言葉が出てしまう。
     窺うような表情を浮かべた豊前の手を取った。
    「これから先ずっと、一緒に過ごすこの光景を当たり前にするんでしょ」
     前世がどうとかそういうことではなく、今までの全部をひっくるめて、これから先を共に過ごすと決めたのだから。
    「そーだな」
     安心したような豊前の笑みを見たら嬉しくなってしまって、今度は私から豊前にキスしてしまった。
     人に見られるかもしれない。でもいいや。
     私達はもういい大人だけど、間違ってもいい。大事なものを大事にしていければ、多少間違ったってそれでいいのだ。
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