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    #あんさんぶるスターズ!!
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    #天城燐音
    amagiPhosphorus

    5 鼻歌泥棒

     この町へ来てからずっと、静かな雨が降っている気がする。

     通り沿いを少し歩くとお風呂屋さんがあるから入ったら良いですよ、怪我も清潔に保たないと膿んだりするし。と先日知り合った小学生に教えられたが、その建物の前を通ってみたのは気まぐれだった。長い煙突が伸びる古びた建物。この通りは何度か歩いていたけれど、足を止めたのは初めてだった。入口にかけられた「ゆ」の一文字だけが白抜きで染めてある暖簾は潔くて良いと思った。
     『入浴料金大人(12歳以上)460円』。掲げてある看板に書かれたそれが高いのか安いのかはわからなかったが、間もなく底をつきそうな所持残金を考えると支払うのは難しいと思った。風呂に入らなくても死なないが、飯が食えないと命に関わる。オネーサンがくれた握り飯はとっくに食べ尽くしてしまった。このままニキの家に戻らないなら、すぐにでもどこか働き口を見つけないといけない。けれど、学歴も家もない、薄汚い俺が働ける場所なんて都会にあるのか怪しい。自分が悪循環に陥っているのはわかっていた。
     いっそオネーサンに頼んで飯と風呂を少し面倒みてもらうのはどうか、いやそれはやっぱねェよな、でも仕事を探すためには必要だろう、と思案していると、それまでしとしとと地面を濡らすだけだった雨音が急に強くなった。見る間に数メートル先も見えないくらいほどのしぶきで辺りが銀色に煙る。強く打ち付けられる雨粒は勢いよく跳ねて俺のズボンの裾をぐっしょり濡らした。風呂屋の入り口の小さい屋根の下にいるというのに、強い風のせいでまったく雨除けにならない。急激に体が冷やされてぶるりと震えた。いったんどうにかして雨風を凌がないと風邪をひいてしまいそうだった。仕方がない、この店で雨宿りだけでもさせてもらおう。断られるようだったら腹をくくって入浴料金を払えばいい。ポケットの中の小銭を指先で数えながら引き戸を開けた。
    「いらっしゃい」
     軋む重たい引き戸の先には、古びた外観から想像していたよりもずっと清潔な玄関と小部屋があった。玄関の脇には木の札がささった棚があり、おそらく靴を脱いでここへ仕舞うのだろうと思った。
     立ち尽くす俺を見て声をかけてきたのは初老の女だった。背面と両脇の三方を板で囲われた不思議な場所に座っている。勘定や受付をする店員なのだろう。
    「……悪ィ、客じゃねーんだ」
    「あらそうなの?」
     不思議そうな顔で首を傾げた女は、記憶の中の祖母上よりも少しだけ若く見えた。薄灰色の髪の毛を一つに束ねて垂らしている。
    「急に雨が降ってきて困ってる。やむまでいていいか」
    「え、雨? 大変、お布団干してきちゃったのよ。ねぇあなた、少しの間でいいからここ、見ておいてくれる?」
    「え、あっオイ、見るって何を」
     雨音に気づいたのかさっと顔色を変えて女が立ち上がり、俺の返事も聞かずに部屋のわきにある扉からどこかへかけていった。ここを見ておいてと言われたが、あちこちから雫を滴らせたまま店に上がるのも気が引けて、玄関に立ったまま、女が座っていた席をただ見ることしかできなかった。手持無沙汰になり、うろうろと視線だけで店内を見回す。実家にもニキの家にも風呂があったから、こういう風呂屋に来るのは初めてで全てが物珍しい。下足棚といい、靴の着脱の際に腰掛ける用の椅子といい、年季が伺える什器ばかりだったが、大切に手入れをされてきたことを証明するようにぴかぴかと光っている。上がり框までもが濡れたように輝いていて、昔実家の廊下を一彩と競うように雑巾がけしたことを思い出した。木はなんども豆乳で磨くと光るのだ。冬の日の雑巾がけは嫌いだったが、水拭きで冷えきった手を、豆乳とお湯を混ぜた桶に浸ける瞬間は好きだった。手を温めたくて、豆乳拭きの時だけ張り切って何度も雑巾を絞っては磨いて回ったなァ、とぼんやり考えていると息を切らせた女が戻ってくる。立ったままの俺に少し驚いたような顔をしたが、すぐに繕って笑った。
    「ありがとう、助かったわ。お布団は結構濡れちゃったけど」
    「いや……」
    「えっと、雨宿りだっけ? 今お客さんいないしかまわないわ。そこの椅子にでも座って」
    「……あァ、悪ィな、感謝する」
    「そうだ、お茶でもいかが?」
     結構だと断ろうとしたが、代わりにあたりに響く音量で腹が応えた。女は噴き出して、お菓子もあるわと机の引き出しから個包装の包みを取り出し、電気ポットから急須に湯を注いで淹れた緑茶と一緒に盆に載せるとわざわざ俺の座る場所まで運んで来た。今更断れず、ありがたく受け取る。雨でつめたくなった指先が湯呑の熱でじんと痺れるのを感じた。女は席に戻らず、饅頭を頬張る俺を眺めて心配そうに眉を寄せた。
    「ねえ、服までびしょびしょじゃない。そんなに濡れてたら風邪ひくし、うちのお風呂入っていったら? ラジオがしばらくやまないって言ってるし」
    「……そうしてェけど、あまり金がねェんだ」
    「あら、そうなの……」
     ふむ、と思案するように目線をぐるりと動かして、女はぱっと笑った。よく笑う女だ。それに、笑顔の種類がいくつもある人間だなと思った。女は、さっきの戸惑ったような微笑よりも強めの、なんというか――母上に似た感じの笑顔で自分の腰に手を当てて胸を張った。
    「じゃあ入浴料分働いてもらおうかな。古い建物でしょ、あちこちガタが来てて困ってるの。掃除とか修理とか手伝ってもらえればそれを入浴料として受け取る。いい案でしょ? 後払いでいいから、体が冷え切る前にとりあえず入っちゃいなさい。着替えは出しておくから」
    「そんな勝手に決めて良いのか?」
    「気にしないで、ここは私の店なの」
     戸惑う俺を無理やり立たせ、『男』と書かれた紺の暖簾の奥に押しやる。タオルを押し付けるように渡し、じゃあごゆっくり、と言い残してドアを閉められた。抵抗する暇もなく、俺は従うほかなかった。

     都会の女は全員あんなに圧が強いのかと疑問を抱えながら濡れた服に手をかけた。脱衣所は壁一面が棚になっていて、ひとつひとつの棚に大きめの籐の籠が入っている。脱いだ服を入れるのだろうが、砂埃や泥や雨で汚れた服をそのまま入れるのは忍びなく、裸になった俺はすべて丸めて風呂場に持ち込んだ。風呂屋の作法を知らないので本来許される行為かどうかはわからないが、体と一緒に服を洗ってしまいたかった、のだが。
    「うわ、すっげェ……」
     浴室のドアを開けて一瞬視界が湯気で覆われ、それが晴れてすぐに目に飛び込んできた壁画に圧倒されて思わず声が漏れた。抱えていた服をするりと落としてしまうほどの驚きだった。扉を開けて突き当りの一番大きな壁をいっぱいに使って描かれていたのは、夜明けの空と富士の山。公園にあった滑り台のような記号的な山ではなく、写実的に描かれた迫力のあるものだった。こんなに大きな絵を見たのは生まれて初めてだ。口を間抜けに開けたまま近づいて見ると、それが小さな四角い石を寄せ集めて作った絵だったのでさらに驚いてしまった。なんで風呂屋にこんな美術品があるのかまったく理解ができなかった。
     しばらく眺めていたがようやく我に返って足元の服を拾い集め、ずらりと並んだ椅子と蛇口の並びの一番端に座る。桶に湯をためて頭からざぶんとかぶるとその温かさに思わずため息が漏れた。思った以上に身体が冷えていたようで、じわじわと足の先から感覚が戻っていく。じゃりっと砂が混じって汚れた湯が体を伝うのを感じ、立て続けに2回ほど浴びた。備え付けの石鹸をタオルにこすりつけて体を洗うころには、さっきまでの漠然とした不安感はどこかへ消えていた。寒さと不安感は湯に溶ける性質でもあるのだろうか、と馬鹿なことを考えたりもした。
     桶にまた湯を入れて揉むように服を洗い、すすぐ水が透明になったのを確認してから固く絞った。いったん脱衣所の籠に服を置きに行き、ほとんど小走りで浴室へ戻る。そして、ずっと気になっていた、なみなみと揺蕩う緑色の湯に飛び込んだ。
    「熱ッ……!?」
     勢いで頭まで沈んでみたかったのだが、思っていた以上に熱い湯だったせいで、腰まで浸かったところで思わず大声が出てしまった。誰もいない、広い浴室に俺の悲鳴がわあんと響いた。動けず呆然とする俺を山の絵だけが見下ろしている。馬鹿みたいにでかい立派な山の絵と、馬鹿みたいにでかい風呂と、なぜかひとりで裸でこんなところにいる自分。急におかしくなって、声を出して笑った。治りかけの傷に湯が沁みて少しだけ痛んだが、それでも笑いが止まらなかった。ひとしきり笑うと、温度に慣れた体を少しずつ湯に沈めることにした。つむじまで潜って水中から絵を眺めると、山はぼやけてさらに本物に見えた。俺は山の麓の湖に住む魚になった気分で、しばらくそれを見つめた。

    「どうだった?」
    「……あァ……、最高だった……」
     呆けた俺の顔を見て女はそうでしょうと満足げに肩を揺らした。俺が風呂に入っている間にいつのまにか脱衣所に入ってきたのだろう、くしゃくしゃに絞った服はハンガーにかけて干されていて、代わりに清潔な服がたたんで置かれていた。ズボンは少し丈が短く、シャツは袖が長い。ちぐはぐな感じがするのは客の忘れ物を洗って保管していたせいなのだろう。
    「お洋服、言ってくれたら洗濯したのに。乾くまで待てるわね? といってもこの天気じゃ少し時間かかってしまうけど」
    「礼がしたいから時間がかかるくらいで丁度いい。何をしたらいい?」
    「ちょうど夜営業の前の清掃時間だから、掃除からやってもらおうかしら。私は女湯のほうを掃除するから男湯をお願い。脱衣所の洗面台と備品はこれ、床はこれで拭いて。浴室の掃除道具はここ。お湯は営業終了まで変えないから湯舟は汚れを掬うだけ。床と排水溝と椅子と桶を重点的にきれいにしてね。わからないことがあったら聞いて」
    「わかった」
     女は店の入り口の看板を裏返して『清掃中』にし、ひらりと手を振ると赤い暖簾をくぐっていった。

     一見清潔に思えた床でもよく見るとかなり髪や埃が落ちていて、屈んで掃除をせざるを得なかった。脱衣所を終えて浴室の床を擦ってまわる段階で、すでに腰と腕が重くなってしまう。女はいつもこれをひとりでやっているのだろうか。疲れを無視すべく無心でしゃかしゃかと一定の速度でブラシを動かしていると、最近癖になっている鼻歌がつい漏れた。さっき悲鳴を上げたときに気づいたが、湿度が高く広いこの部屋は、ニキの家の風呂とは違った声の響き方をするようで、歌がうまくなったようないい気分になる。
    (続き、どうだったっけなァ)
     怪我を手当てしてくれたオネーサンの家で一度聴いたきりだったが、それでも耳の奥にこびりついたように残って何度も口ずさんでしまうあのアイドルの曲。覚えている部分だけを繰り返し歌っていたが、どうにも思い出せないフレーズがあった。
    (鳥がどうのこうのって歌詞だったような気もするが……)
     壁画の中、山の横を飛ぶ大きな鳥の部分を眺めて少し手を止めるもやはり続きは出てこない。その時、壁の向こう側から小さく、床を掃除する音と女の歌声が聞こえてきた。男湯と女湯を隔てる壁は、換気のためだろうか、上のほうがわずかに空いているようだ。調子よく歌っていたのが聞かれていたのだと思うと気恥ずかしかった。女は俺が数日どうしても思い出せなかった小節を揶揄うように歌って、その続きをなぞっていく。そうだ、鳥の羽ばたきを手拍子に例えた歌詞。そこさえ思い出せれば、続きは俺にもわかった。声を張り上げるわけではなく、それぞれが勝手に同じ歌を歌った。ふと気づくと女の歌声は俺の背後から聞こえており、いつの間にか掃除を終えて俺の進捗を確認しにきたようだった。歌ったまま歩いて回り、積んである桶の列を少しだけ直すと「概ねオッケーね!」と親指と人差し指で輪を作って見せた。
    「歌がうまいのねぇ、びっくりしちゃったわ」
    「この曲、知ってたのか。若者向けと思っていたが」
    「あぁ、ほら、番台で一日中ラジオを聞いているから流行りの歌には詳しいの。さて、次の仕事するわよ」
     水を吸って重くなったタオルをまとめて大きな袋に入れて勝手口に運ぶ。石鹸の補充。釣銭のために銀行へ両替に行く。玄関の掃き掃除。それらの毎日やらねばならない業務に加え、高い位置の窓の拭き掃除や、棚をずらして下を掃除するなどの、女一人ではできていなかったことを手伝うと、夜の営業開始時間まであっという間だった。言うほど役に立てた気がしなくて何かほかにできることはないか探す。最初店の扉を開けた時に軋んだのがずっと気になっていたので、鑢を借りて桟のささくれを削ってやる。それでもまだ音が鳴るので戸車をいったん外して小石を取り除いたり油を差したりし、桟に蝋燭を塗り込むとようやく抵抗なく開くようになった。からからと軽い音を立てるようになった扉を、女は嬉しそうに何度も開閉した。
    「不良かと思ったのにこんなこともできるの? すごいわね」
    「不良じゃねェし、不良だとしても戸が直せない理由にはならないだろ」
    「喧嘩してけがして家出して学校さぼって、不良でしょう。でも確かにそうね。真面目でも扉直せるとは限らないものね」
     女が妙に納得した顔で頷いた瞬間、玄関のドアが開いた。客のようだ。
    「ちょっと早いけどもう入っていいかね」
    「いらっしゃい。ちょっと待ってくれる? ねえあなた、男湯の方のゴミ袋回収したかしら? ちょっと見てきてくれる? 橋田さんごめんなさいね、確認だけさせてくださいな」
    「あぁ、フライングしたみたいで悪いね」
     営業時間が始まる前にここを立ち去ろうと思っていたが、タイミングを完全に逃してしまったようだ。用事を言いつけられ、俺は老人に会釈して男湯の確認に向かった。橋田と呼ばれた男は常連客なのだろう。慣れた様子で靴を仕舞い、女とにこやかに会話をしている。男湯の暖簾をくぐる瞬間、「彼はアルバイトか何か?」「ええ、今日からなの」という会話が背中越しに聞こえた。

     出し漏れていたゴミを勝手口から外に出し、橋田サンと呼ばれる客を風呂へ通した後からは、ひっきりなしに訪れる客の受付の手伝いをしなくてはならなかった。タオルや石鹸などの有料商品の要不要と人数を確認し金額を伝え、釣銭を渡す。ほとんどそれだけなのに、本当に毎日一人で捌いているのが信じられない混雑ぶりだった。俺を見て怪訝な顔をする客も、気にする様子もなく風呂に入っていく客もいた。その誰もが入店時は険しかったり疲れたりした表情だったが、風呂から上がってくると頬を光らせて力の抜けた顔をしており、足取りまで軽く夜道に向かって出ていった。さっきの俺もこれと同じ顔をしていたのだろうと思う。ひと段落したころに、一人で営業しているせいで普段できないという、営業中の浴室清掃と点検を任された。ブラシを持って脱衣所へ入ると、当たり前ではあるが全裸の人間がたくさんいた。太った子供。痩せた青年。たくましい体つきの老人。さすがに抵抗があり女風呂の点検は固辞したものの、きっとそっちも同じことだろうと思った。全員裸で、全員違ってて、綺麗で、醜くて、人間も動物と同じなんだなと思うと、可笑しいような愛おしいような不思議な感情が沸くのがわかった。
    「なあ兄ちゃん、背中流してくれんか」
     排水溝のゴミを回収している俺に声をかけてきたのはさっきの橋田サンだった。
    「あとで金は払うからよ。店長には俺からあとで説明してやるから大丈夫だ」
    「人の背中なんて洗ったことねェけど……」
    「別に難しいことないから。ほら」
     泡立ったタオルを渡されて、仕方がなく橋田サンの背中側に回った。タオル越しに触れるだけでも皮膚が薄いのがわかってにわかに緊張する。骨のかたちを感じながらそっとタオルを滑らせる。
    「ちっと弱えかもな」途端に駄目出しをされて、やけになって力をこめて背中をこすると橋田サンは頷いた。「そうだ、それくらいでいい」と頬を緩めて、深く息を吐いた。
    「……痛くねェか」
    「こんなのこそばいくらいだよ」
     肉のない細い体は、俺の動きに合わせてぐらぐらと前後に傾いだ。折れやしないかと心配になるくらいに。
    「歳取ると腕が上がらなくなるんで助かるよ。まだここのご主人がいたときは夫婦のどちらかが順番に見回りに来るんで、その時によく洗ってもらったもんだ。その頃は背中流しチケットってのがあってな、10枚綴りを買うと11枚くっついてて1回分得だったんだ」
    「へェ……」
    「でもご主人が早くに亡くなってね。女将さんがひとりで切り盛りするようになってからは、手がそこまで回らないっつって制度自体がなくなっちまったんだよな」
    「……そうか」
     そう小さいわけでもないこの店の規模から言って、本来ひとりで面倒を見切れるものじゃないことははなから気付いていた。それでも女がひとりで経営しているのには何か理由があるのだろうと思ってはいたが、夫婦で営業していて今は旦那が亡くなっているというところまでは思い至っていなかった。
    「女将さんはアルバイトって言ってたけど、お前さんなんかワケ有りだろ。別にそれはどうでもいいが、できれば彼女を助けてやって欲しいと爺は思うわけよ。さて、もう終いでいい、ありがとうな」
     橋田サンは俺の手からタオルを取り、桶に溜めていた湯を背中にかけた。泡は湯に溶けて流れ、ごつごつと尖った背骨が浮く、まるまった背中が見えた。俺の肩をぽんと叩いて、彼は風呂を出て行く。
     清掃と点検をまわって受付に戻ると混雑は多少収まっていた。橋田サンの姿は見当たらず、すでに帰ったあとのようだった。この時間は入ってくる客より出ていく客のほうが多いようで、女も椅子に座ったまま茶を飲んで一息ついていた。
    「さっき橋田さんがお金を置いていったわ。背中流してくれたんだって?」
    「あァ、勝手なことしてまずかったか?」
    「全然大丈夫よ、ありがとう」
     女は首を振って笑ったのでほっとした。
    「昔は有料サービスとしてやっていたんだけどねぇ」
    「橋田サンから聞いた。お前……、オネーサン、本当にひとりでここ切り盛りしてンだな」
    「やだ、お姉さんだなんて……」
    「ちょっと手伝っただけでもスゲー大変なんだって思ったし、……この店はそうまでしても守りたい場所なんだなって思った」
    「……そうねぇ」
    「誰か手伝ってくれるヤツはいねェのか。あるばいと、とか雇ったらいいだろ」
    「正直道楽みたいなものだから、利益がほとんどなくて人を雇う余裕はないのよ。幸い土地と建物は主人が生きている間に支払い終えているけど、土地にかかる税金と経営に必要な費用を抜くと私が食べていくのがやっとなくらい」
    「なら、入浴料金を上げたら良いんじゃねェの?」
    「うーん、それもちょっと違うかな。私は銭湯をぜいたく品にしたくないの。大丈夫よ、まだまだ健康に生きるつもりだし、私が動くぶんには人件費はタダでしょ、それで安くみんなにお風呂を提供できれば……」
    「……オネーサンの時間と労力はタダじゃねェだろ」
    「……ふふ、そんなこと久々に言われたわ」
     女はレジから500円玉を取り出して、茶菓子と一緒に俺に握らせた。
    「タダじゃないのはあなたも同じね。さっきも言ったとおりちゃんと雇ってあげられないのが申し訳ないけど」
    「いらねェ、風呂に入れてもらった礼をしただけだ」
    「手伝ってもらっただけで十分お礼はいただいてるわよ。これはあなたがおじいさんの背中を洗って稼いだぶん。持って行きなさい」
     またしても断ることができなかったのは、自分が困窮していることを自覚していたせいもあるんだろう。女の体温が移ってぬるくなった硬貨は、普段のそれより重たい感じがした。

     閉店後の掃除を断られ――曰く、子供が働く時間ではないとのこと――、すっかり乾いた服に着替えさせられ、早く帰れと追い出されるように店を出た。雨はまだ少し降っていたが、傘はいらない程度に弱くなっていた。ぽつぽつと街頭だけが立ち並ぶ道にはもう誰もいなかったが、まだ風呂上がりの空気が満ちていて、なんとも言えない柔らかな心地だった。
     最近塒にしている公園に向かう途中、コンビニエンスストアに寄って肉まんをひとつ買った。500円玉を出してもいくらかお釣りが出ることがありがたく、小銭は大事にポケットにしまった。肉まんを胸元に抱えるようにして歩くと、そこから伝わる熱がじんわりと全身を温めていくようだった。まだ体の芯の部分が風呂の湯で温かく灯っているようにも感じた。
     未成年が遅くに独りで徘徊していることは、都会では許されないことのようだった。何度か巡回する警官に注意を受け、面倒な思いをしたことがある。それ以来見つからずに朝まで過ごす場所をいくつか見繕っているが、ここのところは大きな登りやすい木があるこの公園に一番世話になっている。町の中でも小高い土地にあり、さらに木の高くまで登ると、街並みが綺麗に見えるところが気に入っている。
     肉まんと菓子を入れた袋を口に咥えて上まで登る。さっきまでいた風呂屋はあのあたりだろうかと見下ろした。暗くて煙突の影すら見えないけど、暖かくて柔らかいあの場所がこの光の中にあるのだと思うと、今まで漠然と綺麗さを感じていただけの風景とは全然違って見えた。腰掛けやすい枝の節に落ち着くと、俺は肉まんを大事に食べながら、遅くまでひかりが揺れる街並みを眺めた。

     それからは風呂に入りたい時に顔を出し、手伝いをする代わりに入らせてもらう日が続いた。数日に一回、店の手が足りなさそうな様子の時だけ。一方的に施しを受けるのは君主としての矜持が許さなかったので、対価以上に働ける場合のみと自分で決めた。ただ、いつだって女は忙しそうだったし、俺が行くと嬉しそうに笑ってデッキブラシを渡してきた。
     そのうち、俺を見かけると声をかけてくるヤツが増えた。兄ちゃん頑張ってるね。ちょっと背中流してくんない。石鹸切れてるから取ってきて。そんな風に人にものを頼まれることが人生で一度もなかったので、なんだか新鮮で楽しかった。橋田サンはあれ以来俺を気に入ってくれたようで、背中流しだけではなく湯上り後の雑談にまで俺を付き合わせることもしばしばだった。俺の故郷では知ることができなかった普通の庶民の昔話はいつだって面白かったし、昔からこの町に住んでいる橋田サンの顔の広さを利用して、探している男について尋ねることもできた。一石二鳥どころか、一石四鳥ですらあった。

    「もしかして俺、オネーサンの孫に似てンの?」
     ある日の夜営業前、下足棚を拭きながら俺は尋ねた。女は突然どうしたの? と驚いて言ったが、俺としては唐突な質問ではなく、ずっと気になっていたことだった。
    「俺を見て、オネーサンの孫かって聞いてくる人が多いンだよな」
    「失礼ね。あなたみたいな不良には似てるわけないじゃない」
    「悪かったな、不良で」
    「ふふ」
    「じゃあオネーサンの孫は、俺みてェな不良に似ず、良い子ってことか?」
    「……そうねぇ。孫は行きたい学校があるって言って真面目に勉強頑張ってるみたい。塾と部活でお正月まで忙しくしてるからしばらく会えてないからちょっと寂しい気持ちはあるわ。だからあなたを重ねて見てるところはあるかもね。似てないけど、年齢は近いから」
     いくら忙しいからって年に一度顔を見せることすらできないのか、と思った俺の表情は読まれてしまう。その上で女は笑ったままだった。
    「わかってるわ。お休みの日にわざわざおばあちゃんに会いにきてもつまんないだろうし、勉強はただの言い訳かもってことくらい。でも本当かもしれないし、結局のところそんなことどうだって良くない? 勉強を言い訳に使ってるだけだとしても私を傷つけないように気を遣ってくれてるんだなって思うし、掘り下げて本当のことを知ったところで意味はないでしょ」
     その表情に悲壮感はなかった。
    「……そうかもなァ」
     だから、俺もそう答えるしかなかった。
    「昔はよくお手伝いに来てくれていたけど、もう5年は会えてないから、あなたのことを孫だと思う常連さんはいるでしょうね」
     女は笑顔のままだったが、すこしいつもより温度の低いそれだった。
     どうしたら、と思った。
     女は俺を孫の代わりにしようとなんてすこしもしていない。仮に俺がその役を買って出ても、そんなことは望んでいないと断られるだろう。……どうしたら、俺と関わる人の、そこに触れられるのだろうか。頑丈な檻に閉じこもって出てこない、魂のさみしく冷えている部分に。怪我の手当てをしてくれたオネーサンにも、疲れ切った顔をした小学生にも感じたことだった。目の前の人の中にある、夢や大切な人の居場所にどうやったって俺は入れない気がして、そして入ったところで俺にはその役割は果たせないだろうことがわかっていて、それでも俺を助けてくれた分くらいは何かしてやれたら、と。これは傲慢な感情だろうか。余計な世話なのだろうか。だって、ニキと俺の関係もそれに近いものだったはずだ。ニキの勝手なあの善意に俺は助けられた。住居や食事といった直接的な施しだけではなく、ここで生きていても良いんだと思うことができた。俺には、どうしたらできるのだろうか?
    「あ、そうそう。今日の午前中、あなたが来る前に橋田さんが来て、これを預かったのよ。あなたに渡しておいてって。なるべく早く渡してくれと言っていたけど、何かしら」
    「……ありがとな、ちょっと頼み事してたンだ」
     ずっと答えの出ない悩みを飲みこみながら、女が差し出した茶封筒を受け取る。しっかりと封がされたそれを、ジーパンのポケットにねじ込んだ。

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    m_matane_

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     あの頃。僕らが生まれたてみたいに何も知らなくて、それでも赤ん坊とは呼べない程度には傷まみれだった頃。
     17歳の燐音くんはいつだって怒っていた。知識や常識がない故に納得できない事象が多く、それにぶつかるたびに怒った。周りにも、ものを知らなさすぎる自分に対しても。野菜の値段に怒り、電車の優先席に座る若者に怒り、ポイ捨てされているゴミに対して怒った。自分の常識と世間の常識の中でぐらぐらと揺れながら、プライドをすり減らしながら、それでも声を上げた。
     怒るといっても声を荒げて暴れまわるわけではなかった。かたちのいい目をしっかり開いて、青いくらいにひかる白目にぎらっと怒りを宿して、理解の範疇外の対象を見つめた。その様子を見るたびに僕は、彼の心に小さな傷がついていく音が聞こえたような気分になった。失望して、怒って、それでも赦したくて立ち上がり続ける燐音くんに、「きれいごとだけじゃ世の中は回らないっすよ」と言ってあげられたらどれほど良かったんだろう。とはいえ、そんな残酷なことを誰も言えやしなかったに違いない。少なくとも僕には到底無理だった。背筋を伸ばして、透き通った眼で物事を見る彼を曇らせたくなかった。
    7002

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