十六夜月の下で 暦としては春になりかけているが気候はまだまだ冬の冷たさを帯びている。夕餉に使った食器を洗っていると手がかじかんで徐々に痺れていくから早く暖かくなってほしいと願うばかりだ。
台所の灯りを最小限に抑えているから自分の手元がぼんやりと照らされ、水音と時折食器同士が当たる音が辺りに響く。
「――皿洗いかい? ご苦労様」
全ての皿を洗い終え手を拭っていると、背後から聞き慣れた声に呼び掛けられた。振り向くと、台所の出入り口で壁にもたれて立つ綾人の姿があった。
「若!? まだ寒いので体を冷やしてしまいます!」
「気分転換しに散歩をしていたのさ。人の気配がしたから誰かと思って覗けばトーマだったから立ち寄っただけだよ」
「俺の仕事はもう終わりましたから、部屋に戻りましょう! ――あ、お茶を淹れてお持ちしますので先に戻られてください」
戸棚からヤカンと急須を取り出してお茶の準備を始める。ヤカンを火に掛けて急須に茶葉を入れて準備完了。その間、綾人の気配がその場から動いておらず、 振り向くとニコニコと笑みを浮かべる綾人が立っていた。
「……若」
それに反して、トーマは眉間に皺がよりそうになるのを堪えていた。
「こうして働いている姿を見るのが楽しいからね」
「そんな、面白おかしくもないでしょうに……」
「トーマだからいいのさ。いつも頑張ってくれている君の背中は僕を励ましてくれる」
「オレが何も言っていないのにですか?」
「そうだよ」
唐突な自分の仕事への肯定や好意のようなものを含ませた言葉に、
「若の助けになるのがオレの願いなので本望です」
と語気を気持ち強めに返した。
あの時の自分が出来る限りの「恩返し」は塵のように僅かなものだったのだろう。それが月日と共に積み重なり、こうして実際に口に出してお礼を言われるほど大きく実った。自分の働きが伝わるだけで充分と思っていたが、実際に伝わっているのを実感できると嬉しいものだ。
――とでも思っているのだろう、トーマは。
何気なく言ったつもりだろうが、後ろに犬のシッポが左右に大きく振っているのが容易に想像できる。それだけで疲れが吹き飛んでいく。
茶葉の抽出が完了したようで、トーマは綾人が愛用している湯のみに注いでいく。運ぶのに小さな盆に載せようとしたところをひょいと掴んで一口啜った。
「あ! 立ったままは行儀が悪いですよ」
「うん、美味しい。――今は私的な時間で君しかこの場にいないんだ。そこまで気にしなくていいよ」
「……今回だけですよ?」
仕方ないと咎めるのを諦めたトーマはわかりやすくため息をついたが、そんな彼にまた笑顔が浮かんでしまう。
「まだお茶が残ってるだろう? 今日は満月が少しだけ欠けているけれど、とても綺麗だから月見でもしようか」
「いいですね! でしたら、先日頂いた茶菓子もあるのでそれも出しましょう」
綾人の申し出にトーマは二つ返事で了承し、戸棚から丁寧に梱包された紙箱を取り出して準備をしていく。
あの時から変わらず傍にいて家を護る存在は、想像してた以上に立派な柱として成長した。その柱は神里家当主である綾人の心の柱にもなっている。その事を綾人が口にしなくてもトーマは自身の存在意味を理解しているだろう。
小皿に菓子を盛るトーマを横目に、小窓から月を見上げる。真円から少しだけ削れているが、それでもしっかりと輝いている。これから桜の蕾が開くだろうから、綾華を誘って花見と月見をしてもいいのかもしれない。今の執務が落ち着いたらトーマに話してみよう。