【零英】月終わり、一歩先。 秋風が、優しく髪を揺らす。
「月が綺麗じゃな、天祥院くん」
街頭が等間隔にぽつぽつと並ぶ川辺。静まり返った夜空にひっそりと浮かぶ月を見て、柵に頬杖をつきながら零がぽそっと呟く。英智は小さく眉をしかめると、溜息をついた。
「よくそんな恥ずかしい台詞が平気な顔で言えたものだよね。自分に自信があるようで何よりだけれど、そういうのはライブのMCで言ったらどうかな」
喜ばれるよ、と同じ月を見ながら言葉を続ける英智に、零はニヤリと笑った。
「何のことじゃ?我輩はただ月を見た感想を言っただけじゃよ」
「……白々しいね」
首を傾げる零を横目で見ると、英智は手に持った薄茶色のアイスを一口食べた。
「まるで勝者のような態度だけれど、敗者は敗者らしくしおらしくしておいてもらえないかな」
「良いじゃろ、約束通りアイス奢ったんじゃから。おぬしもコンビニデビューできて良かったじゃろ?」
零が再び月へと目を向ける。中指に嵌められた指輪が、月の光を反射して鈍く輝いた。年相応のふざけた表情を浮かべる零の横顔を見て、英智は小さく口を開いた。
なるほどね。英智も月へと目を向けた。
「それが狙いかい」
「何じゃ何じゃ、何のことじゃ?訳知り顔で勝手に納得しないでほしいんじゃけど」
振り返る零に、英智はニコリと笑った。
「君がさっきのチェスで手を抜いた理由だよ」
「手を抜く……? はて……?」
首を傾げる零を一瞥すると、英智は瞬き一つせずに笑みを深めた。
「そう。あくまで君はそういうスタンスなんだね。まぁ、僕は別に構わないけれど。君が手を抜いていようがいまいが、後に残るのは、僕が勝って君が負けたという事実だけだからね。勝利は勝利だよ」
月夜を背景に、大人びたブルーの瞳の奥が強気に光る。零はそんな英智を見ておかしそうにクスクス笑うと、「あ〜あ、」と子どもっぽく口をとがらせた。
「我輩もアイス食べたかったんじゃけどな〜」
「さっき自分で買えば良かっただろう。一つ買うのも二つ買うのも大して変わらないのだから」
「それはそうじゃけど……そういうことじゃないんじゃよな〜」
目を閉じながら眉をきゅっと中央に寄せる零は、どこか機嫌が良さそうに見える。夜だから元気が有り余っているのだろうか。
ほんのり月明かりを帯びた美しい横顔をじっと見つめていると、零が再び英智に紅い瞳を向けた。
「して、天祥院くん。はじめてのコンビニアイスのお味はどうじゃ?」
不敵な笑みを浮かべた零は、チェス勝負に負けてアイスを奢らされた後だというのに、どこか満足気に見える。一瞬で大人びた雰囲気を纏う零に、英智は小さく口の中で溜め息をつくと口を開いた。
「そうだね……美味しいよ。あの値段でここまで濃厚なミルクの風味を感じられるアイスを作れるのは、企業努力の賜物だろうね。感心するよ」
「…………おぬし、そういうところじゃぞ」
長い溜め息をつきながらあからさまに呆れたような表情を浮かべる零に、英智は機嫌が良さそうに笑った。
「おや。どうやら君が望んでいた答えではなかったみたいだね。残念だな」
「よく言うわい」
零は肩を竦めると、少し間を置いて「それ、そんなに美味しいのかえ?」と身を乗り出してアイスを見つめた。
「美味しいよ。君に勝った後だから余計にね。本当に格別だよ。負けてくれてどうもありがとう、朔間くん」
「ククク。アイスを食べたそうにしておるお子ちゃまに本気を出す大人なんておらぬよ。……じゃが、そうじゃのう……お礼は、それを一口くれるだけで良いぞい」
ニコリと微笑みながら放たれた零の言葉に、英智は笑顔のままぴくりと眉を動かした。
「お断りだよ。どうしてわざと負けた君に恵まなくてはいけないのかな」
「減るものじゃないじゃろ」
「減るだろう。アイスなのだから。……わざと負けたことは否定しなくていいのかい?」
「あぁ……。まぁ我輩がお子ちゃま相手に多少手を抜いておったのは事実じゃからのう」
「なら、そのお子ちゃまをこんな時間に外へ連れ出している君は変質者ということになるね。通報するよ」
「おぬしが言うと冗談に聞こえぬからやめてほしいんじゃが……。相変わらず、ああ言えばこう言うのう。良いじゃろ、ちょっとくらい。勝者は勝者らしく、敗者に恵みを与えてくれても罰は当たらぬよ。はい、あーん」
零の冷たい右手が、英智の左手の上にそっと乗ってくる。そのままゆっくりと零の顔が近づいてきて、英智は何か言おうとバッと顔を上げた。
目の前には、紅い瞳があった。夜空の月が霞むほど美しく輝く、二つのルビー。それが思ったよりも近くにあって、英智は開きかけていた口を噤んだ。
黒と金だけが存在する世界で、その紅は異様なほど目を惹いた。
時が止まったように、目が逸らせない。
魂が吸い込まれてしまいそうだ。頭の端で、妙に冷静な自分の声が聞こえた。瞬き一つすらできない。呼吸をするのもなんだか戸惑われて、胸が苦しくなる。
溶けかけたアイスの残滓が、英智を現実へ連れ戻そうと、左手をぽとりと汚す。だが、英智の瞳が零から逸らされることはなかった。
薄い唇が、だんだんこちらに近づいてきているような気がする。何も聞こえなくなった真空世界で、英智はそっと目を閉じた。
「隙あり」
弾むようなハスキーボイスにぱちりと目を開けると、零は英智の左手の先にあるコーヒー味のアイスに顔を寄せていた。
月夜の下で紅く存在を主張する薄い形の良い唇は、弧を描きながら、冷たいアイスクリームをぱくりと食べてあっさりと離れていく。
英智はハッとしたように零の肩を軽く押すと、ポケットからハンカチを取り出し、素早く手を拭いた。そのまま棒の先を一瞥し、口だけ笑みを浮かべながら零に冷ややかな視線を向けた。
「……どうして全部食べているのかな」
「ケチじゃな。良いじゃろ、ちょっとしか残ってなかったんじゃから」
「良くないだろう。減るというより無くなったのだけど」
「じゃから言ったじゃろ?減るものではない、と」
「屁理屈だね」
「というか、元はといえばそれ我輩が買ったアイスじゃし」
口をとがらせる零に、英智はニコリと笑って零の手を掴んだ。
「そうだね。君が買って君が最後に食べたのだから、これは君が捨てなさい」
掴んだ手にアイスの棒を握らせると、零は「ええ?」と面倒くさそうに眉を顰めた。
「体よくゴミ押し付けてこないでほしいんじゃけど」
「僕は君と違って明日も朝早くてね。ちょうどいいし、今日はここで帰らせてもらうよ」
「帰らせてって……帰る場所は同じじゃろ」
「そうだけれど。君はあそこにそのゴミを捨ててから帰ってきなさい。僕は先に帰っているから」
数メートル先にあるゴミ箱を指差すと、英智はくるりと踵を返した。
「………待っててくれぬのかえ?」
背中越しに、零がぽそりと声をかけてくる。
振り返ると、そこには月を背景に不敵な笑みを浮かべる零の姿があった。
夜を統べる彼は、夜の主役すらあっさりと背景の一部にしてしまう。
英智はどこか居心地の悪さのようなものを覚えながら、「待たないよ」と微笑んだ。
「あいにく、僕は朝の散歩の方が好きなんだ。それに、月よりも星の方が好きでね。……誰もが夜の月を好きなわけじゃない。君は月が大好きなのだろうけど、僕は星の方がずっと綺麗だと思うよ。……月なんかよりも」
言いながら月を一瞥すると、英智は綺麗に揃えられた金糸をふわりとなびかせて再び前を向いた。
「今度誰かを誘う時は、自分の好きなものを相手も自分と同じように好いていると思い上がらないようにすることだね。じゃあね」
英智はそのまま零のことを一度も振り返ることなく、つかつかと足早に歩いて行った。
✼✼✼
涼しい顔で風のように去っていく英智の背中が消えたのを確認して、零は「はぁ」と溜め息をついて近くにあった木製のベンチに寝転がった。
そのまま静かに動く雲の隙間から見える月を一瞥すると、零は利き手の手の甲を自らのまぶたへと押し付けた。
「……危なかったのう」
驚かしてやろうか。そんな悪戯心。ほんの冗談のつもりで、距離を詰めた。「冗談じゃよ、食べるわけないじゃろ」とけらけら笑い飛ばしてやろうと思っていた。だが、距離を詰める自分に合わせて目の前のアクアマリンが閉じていったのを見て、零は弱い風にふわりと背を押されたかのように、彼に触れてみたい、とぼんやり思った。まるで、それが自然なことであるかのように。
身長が近いからだろうか、月の光を帯びたアクアマリンは、思ったよりも自分の近くにあった。近くで見るとそれは言い表せないほどの美しい輝きを秘めていて、綺麗だな、と素直に頭の端で思った。
一瞬とはいえ、自分の前であっさりと無防備になった敵の姿に、零も呼吸を奪われたように周りの音が聞こえなくなっていった。目の前の薄い桜色の唇が、やけに存在を主張しているように見えた。艷やかなそれに触れたくなって、この世に存在するすべてのものが一瞬でスローモーションになった。息ができなかった。
――キス、しそうになった。
その場では何とか誤魔化したが、さすがの朔間零にも自分の心の奥底まで誤魔化すことはできなかった。
「……はぁ……。まじかえ……よりにもよって……」
崩れた口調で小さく呟くと、長い溜め息をつく。
どんな顔をして帰ったら良いのだろうか。そんなこと、普段なら考えたこともない。だが、零はどこか確信めいたものを感じていた。あぁ、そういうことだったのか、と全てが腑に落ちたような気がした。
涼しい顔をしながらも、チェス勝負の勝者としてコンビニでアイスクリームを選ぶアクアマリンは、どこかうきうきと輝いて見えた。その横顔に自然とかわいいと思ってしまったのは、恐らく気のせいではなかったのだろう。
朝早くに出かけては夜遅くに帰ってきてベッドに倒れ込む英智のことを隣のベッドからそれとなく視界の端で追っていたのも、秋になって気温が低くなり始めて真っ先に頭に浮かんだのが英智だったのも、恐らく気のせいではなかった。
考えれば考えるほど「それ」を裏付けるものが出てくる。零はまた長い溜め息をついた。
先に英智が帰ってくれて良かった。秋風が優しく吹く月下に、沸々と血が騒いで、魔物としての箍が外れてしまったのかもしれない。
「月夜におかしくなるのは、吸血鬼の役回りではないはずなんじゃがのう……。月に浮かれて突然キスを迫るなんて、どちらかというと狼男じゃろ……」
自嘲しながら押し付けられた棒を薄目で見つめると、零は眉を顰めた。
「……ん?」
サッとベンチから起き上がると、柔い月明かりがそれへと当たるように棒を傾ける。
雲に覆われた月が、タイミング良くちょうど顔を覗かせて、零はパチリと瞬きした。
「……今時あたりつきのアイスかえ。まだあるんじゃな」
あたりのアイスクリームを引いたのだ。次にやることはもう決まっている。秋の夜空に浮かぶ月を見つめながら、その月と同じ色の髪が消えていった先に目をやって、零は溜め息をついた。
「……本当、嫌になるのう」
言葉とは裏腹に眉を下げて呆れたように笑うと、零はスマートフォンを手にとり、ホールハンズを開いた。
――自分の好きなものを相手も自分と同じように好いていると思い上がらないように、か。
「なら、今度は思い上がらぬように気をつけようかの」
あいうえお順に並んだ連絡先を、下へ下へとスワイプしていく。やっと見つけた月色の丸いアイコンをタップすると、零はおかしそうに笑った。