とある休日、法正は徐庶の私邸に訪れていた。一日をそれぞれ思い思いに過ごす。
やがて日も暮れて夜になる。
寝台に腰掛けた徐庶は書物を開き読書に耽っていた。ふらりとやってきた法正が隣に座り、その腰に手を回す。徐庶は困った顔をした。
「あの、今夜はそういう気分ではないと……前もってお伝えしていたはず──」
「そうですねぇ」
法正はそう返して、手を腰から肩の方に滑らせる。背筋をなぞられて身じろいだ様子を見るに満更でもない事が窺えた。
「……ええと、何故、敬語を」
視線を書物に向けたまま徐庶はたじろいだ。
「どうでもいいではないですか、そんな事は」
法正は、クスクスと笑う。
(適当にあしらっているつもりだろうが、同じ行にばかり目をやっているな……俺相手に安い芝居を打つとは良い度胸だ)
そして戸惑う耳元に厚い唇を寄せた。
悪党らしからぬ穏やかな声が、色付き始めたその耳にとろりと垂らされる。
「あぁ、お嫌でしたか?俺に丁寧な言葉遣いで話されるのは……」
「⁉︎いや──、その……」
明らかに動揺している徐庶は、もう手元の文字を追うどころではない。顔を逸らして何とか逃れようとしたが、失敗に終わった。法正が徐庶の肩口に顎を乗せて、戯れる様に擦り寄ってきたのである。じゃれついて甘える黒猫が徐庶の頭をよぎる。柄にもない彼の行動が、徐庶の防衛本能を麻痺させた。
「何か言いたげなご様子ですが…………」
法正が吐息混じりに呟く。肩に置いていた手で徐庶の左胸をさらりと撫でた後、返事を促す様にいやらしくまさぐった。
「ッん……!」
速まる鼓動が法正の掌に伝わる。
徐庶が今日は気分じゃないと伝えたのは、この悪党に毎回翻弄されてしまう事に思う所があったからだ。必ず主導権を握られ、雁字搦めにされ、溺れながら朝を迎える。そうして腕の中で目を覚ますと、そこにはいつも多幸感と──ほんの少しの敗北感。本日の徐庶の言動には、一種の「好き避け」が含まれていた。
しかし……今日はしませんと宣言しようが、こんな風に触られてしまえば。奥底に燻っていた欲望が、いつも通りに首をもたげてくる。病み付きになったのがこの劇薬ともなるともう解決手段は残されていない。
何といっても、徐庶はこの男と一緒に居たいのだ。
そこには、法正漬けにされてしまった彼の無駄な抵抗譚が繰り広げられていた。
「ところで徐庶殿。軍師ながらに、本当によく身体を鍛えておられる……武官の方々にも引けを取らないのではありませんか?俺も見習わなければいけませんね」
そう囁きながら法正は、腹筋や脇腹の方にも手を滑らせる。
「……っ」
感じているかに身じろぐ徐庶だったが、そこで僅かな変化に気付かぬ法正ではない。長い睫毛の下で、微かに瞳が曇ったのだ。その理由は至って単純である。
「ああ、失礼──」
そう続けると彼は、徐庶の脇腹の辺りで彷徨っていた手を翻し、服の中へ潜らせた。
余りにも自然な流れだった。書物が床に落ちて少し転がる。
忍ばせた褐色気味の中指が"そこ"をピンと弾くと──ヒュッと息を呑む音が、その喉からはっきりと聞こえた。
「こちらの方が、お好みでしたね」
「何っ、を……言って」
強張る徐庶を宥めるべく、今度は"周り"でくるくると指を回す様に動かした。二度目を期待しているのか、中央が熱を帯びて主張を始める。まるで一思いにつまみ上げてくれと言わんばかりの様相。
身体の方は素直じゃないか。なあ、徐庶──
満を持してそこをクリっとなじると、徐庶は両眼を固く閉じ、口は一文字に結んで、尚も快感に抗おうとした。
「つれないお方ですね……寧ろ白々しいというべきでしょうか」
手持ち無沙汰にしていたもう片方の手も使って、今度は両方一気に攻め立てる。
「んぅううううううッッッ」
左右同時に蹂躙されれば流石に我慢出来ない様子だった。時おり片方だけ緩急をずらしたりすると、声が喜色を帯びる。
天を仰いだまま硬直した首筋に法正がわざとらしく音を立てて口付けを落とすと、はぁ……と漏れ出る吐息。
「認めたらどうですか……貴方はこうされるのが堪らないんですよ」
カァッと赤くなる徐庶。言い返そうと必死な顔をしていたが、息を整えるので精一杯だった。
「はぁっ、はあ……はっ──」
心臓の鼓動はそれまで以上に騒がしくなり、その事実はぶくぶくと湧き立つ興奮に拍車をかけていく。
胸元を弄っていた両手が外に出されるやいなや徐庶は力が入らなくなり、フッと倒れ込みそうになる。その背中を法正の片腕が抱き止めた。
「少しやり過ぎてしまいましたかね。今日一日、少々そっけなくされていたものですから」
徐庶の目には愉しそうに笑みを浮かべる法正が映っていた。
息をどうにか整えると、上擦った声でようやく言葉を返す。
「俺は……っ、元から──」
その先は口づけで掻き消されてしまう。
法正の胸元で光る首飾りを掴み、その握った拳で押し返そうとする徐庶。しかし空いていた法正の手でうなじ付近を揉みしだかれると、たちまちその腕はするりと落ちた。
一生懸命に拒もうともがくものの、いざ舌をねじ込まれれば自らねっとりと絡ませて逃さじとする始末。心と身体か裏腹なのだ。厄介なその内面が彼自身を悩ましく縛り上げる。
やがて顔を離した法正は舌舐めずりをしながら、そのまま徐庶を寝台へ押し倒す。
「貴方は今夜……元からこうされたかったんですよ、本当はね」
法正は四つん這いの体勢で徐庶の両手首を掴んで拘束し、その上目遣いで見上げてくる可愛い可愛い獲物を美味しそうに眺めた。
「一体何を思い悩んでおられるのか……そもそも本当にお嫌なら、こうして中に入れるべきではなかった。そうでしょう?賢い貴方が、そんな愚を犯すとは思えませんから」
決まり悪そうに目を逸らす徐庶。
「だからこそ、そういうどっちつかずの振る舞いは如何なものかと思いますがね。些か不愉快です」
暫く無言を貫くと、徐庶は再び法正の顔を見た。するとビクっと肩を震わせ、ゴクリと喉を鳴らす。
「法正、殿」
許しを乞う様な、貴方だけなんですと縋る様な、そんな表情を徐庶が法正に向けた時。悪党の心には過剰なまでの加虐心が渦巻く。
彼は軍師としての仕事において、やり方が苛烈と後ろ指を刺されようがお構いなしだった。その激しさの程度は状況を鑑みた客観的な判断に基づいており、あくまで指揮する者としての冷静さ、その範疇を越えてはいないと自負していたからだ。
だがこの時に至ってはどうか。
目の前でこの自分に、隙と甘さを見せつけてくる徐元直。
こいつをこの手で滅茶苦茶にしたい。
ただひとつのそんな衝動にいつも駆られる。
「そういう関係」になったばかりの頃──半分だけ自分が自分でなくなる様な心地がしたのは、初めての没入感に戸惑っていたからだった。だがもう心配は要らない。
その感情への向き合い方は、こうして逢瀬を重ねる毎に徐庶から教えてもらった。
お前だけだと思うな。
余計な事を考えるな。
よそ見をするな。
そして静かな部屋に一言、ドスの効いた低音が放たれる。
「黙って俺に抱かれてろ」
徐庶の両目がぶわっと滲む。目尻から一筋の涙が流れた。それから、ふわりと微笑んで小さく答える。
「はい──」
迷いの晴れた両者の、熱く長い闘いが幕を開けた。