とある夕暮れ。学問所に訪れた法正は、思いがけない先客についその名を呼んでしまった。
「……徐庶」
声に気付いた彼が振り向く。書物を開いて机に向かっていたその顔には、驚きというよりは少し落ち着かないといった雰囲気が漂っていた。
「法正殿……どうされたんですか?」
「少し所用で、な」
法正はそう答えて、徐庶が座っていた席からひとつ空いた端の席に荷物を置いた。それから本棚の方へ行き目当てのものを取ってくると、音もなく椅子をひき静かに座る。
黙って中身を読み進める法正を少しの間チラチラと窺っていた徐庶だが、やがて緊張した面持ちで切り出した。
「あの……隣に行っても、いいでしょうか?」
恐る恐る訊ねる、子犬みたいな徐庶。法正は少し考える素振りを見せた後、好きにしろとぶっきらぼうに答えた。徐庶は席を移って大きな身体でちょこんと腰を下ろすと、自分がそれまで読んでいたものに視線を戻す。
並んで座って書を読んでいるとまるで一緒に勉強しているみたいだ。何だかこそばゆい。同門の二人との日々を思い出した徐庶は、もし若い頃の法正と同じ様に出会っていたらと考えた。
しかし徐庶は、あの頃とはまた違った知的な刺激が得られるだろうと心踊る一方で……そこで味わう事になりそうな己の未熟さも同時に想像してしまうのだった。
──孔明と張り合うくらいなんだ。きっと俺なんかより。
勝手にしょげる徐元直だったが、案外すぐに気を取り直した。
(……ところで、法正殿はどんなものを読んでるんだろう)
自然と起こった好奇心。徐庶はサッと法正の目線の先を追った。兵法について述べられている項だったが……ある程度盗み読んだのち、徐庶はつい声を漏らしてしまう。
「え?!でも──ッ」
法正が無言で徐庶の方を見た。
「あ、すみません……お邪魔してしまって」
申し訳なさ気に肩を小さくして自分の読書に戻る徐庶だったが。
「お前も、気になるだろ?ここ……」
え?と思い徐庶が横を向くと、ニヤリと笑う悪党がそこに居た。しかしそれは冷笑や嘲笑の類ではなく、悪戯っぽさや無邪気さをはらんだある種やんちゃさを含んでいた。
「邪魔な奴なら隣に置かん。それよりどう思った?」
「俺、ですか」
「話の分かりそうな相手に聞いてみたかった所だが、諸葛亮殿はどうやら俺がお嫌いの様だ……それに気が合わん。そもそもやり方が違うんでな。まあ、必要な連携さえ取れればそれでいい。となればお前だ。徐庶。軍師としてこれをどう取るのか──今腹の中にしまい込んだもの、聞かせろよ」
法正が真剣に挑み掛からんばかりに徐庶を覗き込んだ。その奥まで見透かそうとする空気に徐庶の胸が高鳴る。その眼差しもそうだが……軍師としての自分を認めた同業者に意見を求められたのだ。それも、あの親友と同列に並べた上で。徐庶の矜持が磨き込まれた石さながらにキラリと輝く。
法正殿と意見を交わし合いたい。
遠慮がちな表情を一変させた徐庶に、法正はフッと微笑んだ。書の位置を少し横にずらす。そして、中低音の甘やかな声が慎重に見解を述べ始めた。
「えぇと……まず──」
二人が身を寄せ合って語らい合う姿には結構な親密さが漂っていて、それは彼らが小さな頃から一緒だったという錯覚を見る者に覚えさせそうな程だった。
徐庶の言で思い当たらなかった事に気付いても、法正は素直にそれを受け止める。一方徐庶も、法正の見解から新たな視点を得た。見識のある者同士の襟元を開いた意見交換の場は双方の心に澄んだ風を吹かせたのだった。
しかしそうした心地よい感情とは別に、徐庶の中で僅かに沸き起こったものがある。
悔しさである。
話し合いは支障無く出来たが、やはりこの人は俺より一枚ウワテだ。徐庶はそう感じた。予想通りの結末に、内心項垂れる。夢見た相手と試合をして、気持ちよく負けてしまった感覚。同時に自責の念にも駆られる。もし勝ちを確信出来たら何だと言うのか。それは本題じゃない。プライドが高い自覚がぼんやりあるとは言え……心の中で張り合う気持ちが妙にあったという事実に、自身の余裕の無さを痛感してしまった。
(法正殿はあんなに落ち着いた様子でいたっていうのに……時々こうして湧いてくる場違いな闘争心には、手を焼くな)
そんな思いに駆られた徐庶は少し弱気になり、ポツリとぼやいてしまう。
「はぁ……やはり俺は貴方にもなれない、か」
それを聞き取った法正は徐庶をキッと見つめた。徐庶は少し慌ててその場を取りなそうとする。
「あぁいや!すみません。何でもなくて……俺の話です。気になさらないでください──」
すると法正は徐庶にグッと近づき、肩に手を乗せると言った。
「前に言っただろうが。なれるさと」
徐庶は突然詰め寄ってきた法正の雰囲気に気圧される。
以前言われたのだ。「吹っ切れればお前も俺の様になれる」。その時の徐庶は法正みたいになりたくて言葉を掛けた訳ではなかったのだが、今は少し違った。
法正殿の様にもなりたい。俺に無いものを補う為にも。己の甘さに悩まされず、策に徹しきれて、且つそれまでの自分も活かす事も出来る男に。法正の発言は先を見越した返しだったのだ。
「法正殿……っ」
徐庶は法正を見つめ返した。突然激しさを持ち始めた心臓の鼓動がうるさい。身体じゅうで鳴り響く銅鑼。鎮まれと念じるが、収まる気配はない。全身がブワッと湧き立ち、顔がカァッと熱くなるのを感じる。
──法正殿……法正殿。
法正はそんな徐庶を見て、分厚い唇の端を片方、やんわりと吊り上げた。
法正殿。俺、貴方が好きです。
徐庶は今まで、法正を何となく意識してしまう理由がよく分からなかった。それをずっと探していた。何故なら自分と全く違うから。親友たる諸葛亮と反りが合わないのだし、何しろ普段のあの態度。優秀とはいえ、間近で顔を合わせる度に彼特有の強気な姿勢に身のすくむ気持ちがした。
だがその一方でどこか惹かれていたのも確かだった。頭が切れるのもそうだが、実際にこうして話してみると存外穏やかな所もある。受け答えも柔軟だ。考えを改めた徐庶は、精一杯を放つつもりで言った。
「法正殿。また今度、ご一緒してもいいですか」
巴蜀の悪党は不敵な笑みを浮かべて答える。
「今日みたいに『偶然』、出くわせばな」
成人男性二人の間には通常なら流れない様な、何やらほんのり甘酸っぱい雰囲気が……彼らの周りに充満していた。