目を覚ませばそこは花畑だった。しかしあの森の中のそれとは違い見覚えはない場所で、ツカサはどうしてこんなところに迷い込んだのだったかと悩んで、次第に考えるのを諦めた。直前の記憶が殆どなく、どこか現実味がなかったからだ。
「……ルイ?どこだ?」
ここに愛しの彼がいる確証はなかったが、なんとなくいないはずがないと思った。なにせ彼は自分の傍に在ることを何より望み、王命なのだから常に共にいなくてはならないなどと言い訳半分に宣うほどツカサのことを好いてくれているのだ。見知らぬ場所に迷い込んだくらいで安々と離れてくれるような子でないことは、ツカサが最も理解していた。
広い花畑を、彼を探してツカサは歩く。見上げた空は雲一つない晴天で、代わりに近くで祭りでもあるのだろうか、色とりどりのバルーンが飛んでいる。そういえば、彼とショーを見に馬車で訪れた街でも同じように風船が飛んでいたっけと思い出しながら歩くツカサの視界に、ようやく人影が現れる。一瞬ルイかと期待して、しかし別人のシルエットに落胆を隠しきれないままツカサは歩み寄った。
「やぁ、初めましてツカサくん」
「……お前は……ミク?いや……?」
長い水色の髪を二つに結った彼女は、馴染みのある森の少女と似ている気がした。しかしあの少女の髪はもう少し緑がかっていただろうか、表情もどことなくあちらの方が明るい。他人の空似かと悩むツカサに、謎の少女はふふと含み笑いをした。
「そうだね、ボクの名前はミクだけれど、ツカサくんのお友だちのミクとは別人、とだけ教えておこうかな?」
「……世の中には似た人物が三人はいると聞く」
「ふふ、そうかもしれないね。本当に三人だけで済むのかは、ボクにもわからないけれど」
声の抑揚一つ取っても、瓜二つの森の少女とは似ても似つかない。どうやら別人というのは本当らしいと、どこか聞き馴染みのある話し方に納得しながらところでとツカサは腕を組む。
「ミク、お前はここがどこなのか知っているのか?」
「うん、ここはセカイ。ツカサくんたちの暮らす場所とは、違う空間に存在する場所、かな」
「セカイ……?全くわからん。ではルイ──オレの大事な人なんだが、紫の髪に水色のメッシュが入った男が来ていないだろうか」
姿を思い浮かべながら問うて、ああとツカサは不意に理解した。ミクと名乗った彼女の髪色は、ルイの紫髪の中にちょこんと存在する色違いのそれに、よく似ていたのだ。
「ルイくんなら勿論、ここにいるよ」
「!やはり来ているのか、どこにいるのかわかるだろうか?」
「そうだね。それは、ボクが勝手に教えるのはよくないかもね。会いたければ、君が探しに行ってあげてほしいな、ツカサくん」
「……隠し立てするつもりか?」
なにか後ろ暗い腹積もりがあってルイの居場所を隠匿しているのならば許してはおけないと、ツカサは綽々と微笑む彼女を警戒して携えた剣に手を伸ばす。しかしミクがだめだよと笑うと、手に取った刀はぽんと音を立て子どもがチャンバラに使うような玩具のそれへと姿を変えた。
「なっ……!?」
「あの子の想いで出来たこのセカイには、暴力なんて必要ないんだよ。君もあの子のことを想うなら、ここでは止めておこうよ、ね?」
「あの子、って……」
ミクはふふ、と笑うとくるりと背を向けた。
「きっと待ってるよ。見つけてあげてね、ツカサくん」
そのまま少女は、どこかで聞いた綺麗な歌を口遊みながら花畑を歩いていく。どこまでも果てなく続く光景をどこへ向かって進んでいくのかと、遠ざかる背中を見送ってツカサは彼女とは別方向に歩を進める。理由があったわけではなかった。けれど、なんとなく。あの子が、そっちにいる気がして。
そうしてどれくらい歩いただろうか。不意に花畑の中心にぽかりと開けた空間があって、そこに、それはいた。
「……ルイ、か?」
名前を呼べば、小さな体がくるりと振り返る。見慣れた紫の髪はしかし、平時よりずっと短く幼さを際立たせている。黄金色の瞳は丸くこちらを見ていて、ツカサを視認するとふにゃりと緩んだ。
「つかささま」
小さな子どもは、彼の名を呼ぶと心底幸せそうに破顔した。
「……こんなところにいたんだな、探したぞ」
どうしてこんな姿に、と問い質したい気持ちはあったが、少年の姿の彼があまりにも屈託のない笑顔を向けてくれるから、これはこれで正しいのかも知れないなんて思いながらツカサはルイの前に膝をついた。ルイは少し申し訳無さそうに眉を下げながら、花が綺麗だったから見とれてしまっていたと言った。
ミクの言う"あの子"が、今目の前にいる小さな彼に間違いないのだとしたら。この終わりのないくらい広がる花畑は、あの鮮やかな空とそこに飛ぶ楽しげなバルーンは。全て、ルイの想いから作られたとでも言うのだろうか。非科学的だと思いながら、ツカサはにこにこと笑うルイの頭をゆっくり撫でた。庇護欲のような、父性のような。小さな彼からはそんなものを煽られた。
「花を見ているのは、飽きないか?」
ツカサも、花の持つ美しさは理解している。一輪飾られているだけで部屋の明るさは随分と変わるものだ。しかし、ではそれを常に眺めていられるかと問われると答えは否だ。時間を忘れて没頭するほど意識を注いではいられない。少年の姿をした彼ならばなおさらではないのかと憂いて問いかけたツカサに、ルイは相変わらず笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「花は好きです、ずっと見ていられます」
「……そうか。そんなに好きだったとは知らなかった。今度からは執務室にも飾ろうか」
ツカサは、ルイにとって花は過ぎ去る長い時間を堪えるためのものなのだろうと思っていた。長く冷たい、苦痛ばかりに満ちた時間から少しでも気を紛らわせるためのものだと。しかしどうやら、その解釈は間違っていたらしい。執務室にも飾ろうと提案したツカサに、ルイは大きく頷く。
眼前にいる彼が記憶を保持したまま思考と外見のみ幼少期に戻ってしまっただけの、正真正銘ルイ本人であると確信出来てしまって、しかしそれが悔しかった。
本当にこのセカイがルイの想いから作られた空間なら、そこにいるルイが幼いのは想いの強さ故ではないのか。
大人ぶったルイの心根は、無意識にその姿をとるくらいにはやはりまだ幼いのではないか。
あの子は、望まないまま子どもの自分を抑え込んで大人のフリをさせられ続けたのではないか。
ツカサは、その覆しようもない過去がどうしようもなく憎かった。
「花をずっと見ていたら、ずっと待っていられるから、飽きません」
「……待っていられる?」
「お母さんと、お父さんが、いつか迎えに来るって」
だから、辛いことがあっても我慢出来ます、なんて、寂しそうに笑うから。
ツカサは、その小さな体躯を腕の中に閉じ込めた。
「……つかささま?」
「……すまない」
「大丈夫ですか?」
「問題ない……」
この小さい子が、どんな利用のされ方をしてきたんだろう。
存在しない迎えを、どれだけ心待ちにしたのだろう。
そうやって、どんな気持ちでそれを押し込めて大人になったフリをしたんだろう。
ああ、早く、この子を幸せにしたい。
疑うことも恐れることもないくらい、心から幸せだと笑えるくらい。傍にいられるだけでいいなんて小さな願いじゃ満足出来ないくらい欲張りにしてやって、些細な我が儘を幾らでも言えるように、そんな幸せを感じさせてやりたい。
「つかささま?……泣かないでください、ごめんなさい」
「……いや、泣いてはいない。心配をさせたな、すまない、大丈夫だ」
腕を緩め頭を撫でれば、ルイは不安げな顔をハッとさせて足元のそれを拾い上げた。草花で造られた冠が、ぽすんとツカサの頭に被さる。
「ふふ、さしあげます」
「……いいのか?」
「はい」
「誰かに贈るつもりだったのではないのか」
それこそ、いつか来てくれると信じていた両親へ。ツカサが案じて問えば、ルイはうーんと唸って小さな腕をぎゅっと組んで首を傾げた。
「お母さんとお父さんに、あげようと思ってて」
「……なら、」
「でも、いま、つかささまにあげたいなと思ったので」
だから、これで合ってますと、少年は笑う。
「──なぁ、ルイ」
この花畑が、あの風船が、ここにいる二人が彼の想いなら。
「オレは、お前の──ルイの待ち人に、なれているのだろうか」
お前がずっと探し焦がれていた待ち人に。その心の穴を埋める存在に。
まだ届いていなかったとしても、救いの手に、近付けているだろうか。
ルイはきょとんと瞬きをすると、嬉しそうにツカサの胸に飛び込んだ。
「ぼく、つかささまにぎゅっとされるの、好きなんです」
「……ああ」
「あったかくて、やさしくて、とってもおちつくんです。だからきっとぼくは、ずっとそうしてくれる人を、待ってたんです」
「……ルイ」
「つかささまは、来てくれましたから。ぼくが、遠いところでずっと待ってても、きっと来てくれます」
だからあなたもぼくも寂しくないですよと、どこか子どもらしい的外れな気遣いを見せてルイは言う。
「ぼくは、あなたがぼくの待ち人になってくれて、幸せです」
ツカサは再度、ルイを全力で抱き締めた。
あなたがいてくれて幸せなんて、何度も口にしてくれたそれを、大事そうに彼は言う。それが紛れもない想いだと、彼は笑う。
風に混ざって、穏やかな音楽がどこからか流れているのがわかった。それを心地好く耳に受け止めながら、ツカサは抱き締めたルイの頭を撫で何度もありがとうと告げた。ルイは、よくわからないけれどと戸惑いながら、しかし嬉しそうにツカサの背に腕を回す。普段勇気が出ないのかなかなか抱き返してはくれないが、本当はしっかりと返したかったんじゃないかとツカサはまた嬉しくなってしまった。
「やぁ、二人とも」
不意に声がしてツカサは腕を緩める。どこかへ歩いていったはずの少女が、機嫌良く鼻歌を奏でながら歩み寄ってきていた。
「ミクくん」
「……ルイ、知り合いだったのか?」
「いいえ。でも、ここはぼくの想いのセカイだってミクくんが教えてくれました」
「そうだね。ルイくん、君の想い──君の愛しいもので彩られた花畑のセカイ。君の願いと本当の想いが詰まったこのセカイで、ルイくんはちゃんと見つけられたのかな?」
ちらりとミクの視線がツカサへ移る。未だ少しの警戒心を捨てきれず、ツカサは軽く身構えた。
「……見つける、という、よりは」
「うん?」
「ぼくは──最初から、見失ってないよ」
本当の想いは、ここにある。
そう呟いて、ルイはツカサの手を控えめに握った。
「──そうだね、ルイくん。ツカサくんと、幸せになりたかったんだよね」
「ルイ……」
「……でも、もう、叶ってたみたい」
「……!」
「ふふ、……それじゃあそろそろ、お帰りの時間だね」
ミクがそう笑うと、ツカサはぐらりと頭が揺れたのを感じた。どうやらルイもそれは同じのようで、眠気を堪えるように懸命に目を擦っている。
「さぁ、幕は降りる。君たちはこれから、怖くても苦しくても、幸福が待ってくれている現実を二人で生きていくんだよ」
「ミク、待て、一体なにが……」
「ふふ、残念だけれどボクとの舞台はこれにて終演。お帰りの際はお足元に気をつけて。さぁおやすみ──いや、おはようかな?」
意識が薄れ、瞼が落ちていく。手離さないようにとルイをその腕に抱き込んで、ツカサは懸命にミクの声を聞いた。
「だけどもし、どうしても幸せや想いを見失ってしまう時は──その時は、セカイにおいで。ボクはいつでも待ってるよ」
最後に視界に映った少女の笑顔は、参謀と呼んだ彼の笑みにほんの少し似ている気がした。
* * *
「………、ん……?」
ふわりと意識が浮上して、ツカサは今の今まで眠っていたのだと認識する。だが、いやに現実味のあったあの不思議な空間はなんだったのか。腕の中で眠る恋人を確認して、夢だったのだろうかと独り言ちた。どちらにせよ確認する術はないなと窓に目をやる途中で、サイドテーブルに置いたままになったオルゴールに視線が止まる。
確か、そう。森の少女が町の民に作り方を教わって将校のためにと贈ってくれたのだったか。寝る前に聞いてみれば優しいメロディが流れてきて、ルイが随分と気に入ったからそのままにして眠ったのだった。既に朧気になってきたあの夢の中で聞いた穏やかな音の正体は、これだったのかも知れない。
「……もう少し眠るとするか、ルイ」
きっと、あのセカイとやらに行くことはもうないだろう。夢の中なだけあって向かう道もわかりはしない。
けれどきっと、自分が愛しい人の救いになれていると肯定されたことは、忘れはしないだろう。
小さくはない体を腕の中に閉じ込めて、ツカサはその髪に口付けを落とすと目を閉じた。そうして心地好く穏やかな、幸せな時を実感しながらまた微睡みへと落ちていくのだった。