「ルイ、今日はもう休め」
「え?」
二人きりの執務室で仕事に励んでいれば、不意に将校からそう声をかけられてルイは首を傾げた。いつも通りに書類の処理を手伝っていただけなのに、一体どうしたというのだろう。心底不思議そうな声を出したルイに、ツカサは短く息を吐いた。
「顔色が悪い。それに、誤魔化せているつもりか?……目が全然笑えていないぞ」
ツカサはその、本心を隠すように貼り付けられるルイの笑みが好きではなかった。まだ腹の探り合いばかりをしていた地下牢の頃を思い出してしまって、折角素直に気持ちを吐露出来るようになったのにと悔恨に塗れてしまう。
ルイの方はそれを無自覚に行っていたのか、自身の頬や口元に手を当て考え込んでいた。
「……いえ、将校どの。体調は万全です」
「……自覚がないだけだ。言うことを聞かないのなら、無理にでもオレの部屋に引きずるぞ」
やはり、昨日そうしておくべきだったのだ。言葉を交わす度に後悔ばかりが顔を出してツカサは眉を下げる。一人になりたいと乞われたからその通りにと受け入れ見送ったが、その選択は誤りだった。朝になって部屋から出てきたルイは、血色の悪い顔のまま参謀の表情でおはようございますと笑ったのだ。
ただでさえ、普通を奪われて生きてきた子だ。自我を抑え込む方法だって熟知していることだろう。その覆しようのない事実は致し方ないとしても、問題はツカサの判断がルイにそれをさせることを選ばせてしまったことだ。
幸せにすると誓ったのに、ルイに痛みを堪えさせてしまった。ツカサにとってはそれが何よりも堪え難いことだった。
「将校どの、私は休息など不要です。お心遣いは痛み入りますが……」
「──ルイ」
「……将校、どの?」
「……名を呼んでくれ」
彼がなにを思ってその壁を作ってしまったのかは、ツカサには全てを察することは出来ない。あの刺客とどんな間柄だったのか、大臣の部下として飼われていた間交友があったのか、それらがルイにとって何故こんな行動を取らせるに至ったのか、なにも、ツカサにはなにもわからないのだ。
それでもツカサは、愛した人の手を取っていたい。伸ばし、掴んだ手の指輪が光る。参謀の仮面を括り付けてなお、彼はその手から愛の誓いを手離さなかったのだ。
「──つか、さ……さま………?」
零れ落ちた声は、機械ならばエラーを起こしてしまったかのように不安定な声色だった。それからその目に光が灯って、まるで今しがた目を覚ましたかのように彼の顔にルイが戻る。
「ルイ、」
「……ぁ、あ……」
ツカサがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、見る見る内にルイは青ざめ、繋がれた手を無理矢理に解いてしまった。遠目にもわかるほどに震え、浅く呼吸を繰り返している。落ち着けと声を掛ければ、ルイは後退りながらも懸命に息を整えようと抵抗していた。
「っ、ゔ、……ッ!」
「ルイ!?どうした、気持ち悪いのか」
えずき口元を手で覆ったルイにツカサが駆け寄れば、彼は必死に首を横に振りごぎゅりと喉を鳴らした。まさか込み上げてきたものを無理矢理に飲み下したのか。なにをしているんだと咎めれば、ルイは口から手を離しあまりにも下手くそに口角を上げて、まるで悪役のように怪しく笑ってみせた。
「お気に、なさらず……私は、なんともありません、から」
「そんなわけがあるか!やはり体調が良くないのだろう、傍にいてやるから休もう、頼むから」
「っだめです、だめ、」
傍にいては、いけないのです。
震えた声で、恋人は言う。なにを言われているのかわからなくて、ツカサは数秒ほど固まってしまった。
「どういう、意味だ」
「私は、幸せになってはならない──そんな権利は、ないんです!ですから、あなたは、私の傍にいては、許されな……」
紡いだ言葉が止まる。意識的に行ったわけではない。声を出そうとする意識は自然と、その目に映ったものに吸い寄せられた。
ツカサが、今までに見たこともないほどの険しい顔で、自分を見ていた。
「──本気で、言っているのか、ルイ」
蜂蜜色の双眸に、じわりと涙が浮かんで、ルイは愕然とした。
──傷つけた。幸せにしたいと思った人を、傷つけた。
瞬間、全ての音が消え去る。自身の呼吸の音すら聞こえない。指先にあった感覚はいつの間にか冷え切っていて、視界から色が消える錯覚さえあった。
まるで、存在意義の全てを剥奪されたような、行き場のない絶望感。そうしてルイは自覚する。
自分には、幸せにまつわる全ての資格がなかったのだと。
幸せになることも、幸せにすることも、許されないことだったのだと。
「──ッ、待て、ルイ!!」
ルイは逃げ出すように執務室を飛び出していた。廊下で誰かにぶつかりながら、町を行く民たちを押しのけながら、ただひたすらにツカサから逃げた。
心さえ閉じ込めてしまえば、まだ傍にいられると思った。
ツカサと共に在っても、心がなければ幸福に溺れることはないと。そうすればきっと、彼へ貰った分の幸せを返す恩返しは叶うと思った。
浅はかだった。傲慢だった。心を殺してでも彼の傍にいたいなど、過ぎた願いだった。
そのせいで、大好きな人を傷つけた。
例えこれ以上心を殺しても自我を捨てても、もう傍にいる資格もない。
もう、なにもない。
「──っは、はぁっ……、……?」
息が切れて漸くルイは足を止めた。無我夢中で走り続けたがここはどこかと見渡すが、森の奥まで走ってきていたらしい。自分がどこから進んできたかもわからないが、ツカサもここまで追っては来れないだろう。ルイはふらふらと今にも倒れそうな足取りで近くの木まで歩み寄り、その幹に背を預けて座り込んだ。抱えた膝に顔を埋めると、鳥の囀りや風の音だけが耳に届いて心地好かった。おかげでほんの少しだけ、ぐちゃぐちゃに絡んだ思考が落ち着いた気がした。
もうずっとここにいようか。目を閉じルイは考える。あの人の傍に在ることこそがルイの幸せだった。抱き締めてくれる腕の中が、世界で一番安心出来る場所だった。そのどれも求めてはいけないなら、せめて遠くから彼を想うことは許されるだろうか。恩返しに彼を幸せにしたかったけれど、最早叶わぬ願いだ。
それに彼は──きっと、自分がいなくても、幸せになれる。
「──参謀さん?」
このまま眠り落ちて、寒さに凍えて飢えに堪えかねて終わってしまうのもいいのかも知れない。そんな風に考えて意識を落とそうかとしたとき、自分を呼ぶ耳に馴染んだ声が聞こえてルイは顔を上げた。
「……森の……」
「やっぱり参謀さんだ〜!どうしたの?迷子になっちゃった?」
両手に謎の果実を抱え二体の獣を引き連れながら、エムはしゃがみこみルイと目線を合わせて笑った。屈託のないそれが眩しくて、自分がかつてこれを害そうとしたことまで思い出して、ルイ派堪らず目を背ける。そんなまっすぐな視線を受け止める権利すら、ないかも知れない。
「さんぼーさん?」
「………」
「あっ、どこか痛い?動けなくなっちゃった?あたし、少しなら手当出来るよ!」
「……怪我はありません。お気になさらず」
かろうじて絞り出した声に、少女はでもでもと不安げに迷子を見つめる。ルイは小さく息を吐いて、その目を見つめ返した。
「……ここにいたいだけです。ですから、放っておいてください」
「……?将校さんのところ、帰らないの?」
否、帰れないのだ。合わせる顔すらない。帰れる場所は、帰るべき場所は、どこにもない。存在を許してくれる居場所にいては、どうしたって幸福を貰ってしまうから。
「道に迷っちゃったから帰れないの?あたし、町まで案内出来るよ?」
「いえ、……帰る資格など、ないだけです」
「……むむ〜…?」
目をぐるぐると回して唸るエムは、暫くルイの言うことを正しく咀嚼してみせようと悩み、そうして不意にパッと顔を明るくするとよし!と意気込んで彼の手を取った。
「じゃああたしたちのおうちに行こ!」
「え?」
「参謀さん、すーっごくしょぼんってしてるから。あたし、参謀さんをこのまま一人ぼっちにしちゃうのいやだよ」
だから行こうと引っ張られると、平時なら簡単にそれを振り解けるのに力が入らなくて、ルイは半ば強引に森の更に奥へと連れて行かれる。
ルイはそれをどう断るべきかと考えて、次第にもういいかと諦めた。彼女たちは悪い人ではないし、不幸が互いに祟ることはないだろう。傷つけようとした相手に助けられるなんて罪を重ねているようにも思えたから、彼女たちの傍にいるだけなら幸せにはならず安心出来るだろうと思った。恩は返せそうにないが、抵抗するだけの気力もない今その手に従う他ない。
「あ、エムおかえり。遅かったね……って、うわ」
「ただいまー!参謀さん、迷子になってたから連れてきたよ!」
「なんでわざわざうちに……町まで案内すればいいのに」
今度はなにも企んでないよね、と疑心の目を向けてくるネネに、ルイは少しだけ安心した。軽く疑われるくらいがちょうどいい。
さぁ、どうでしょうと参謀らしく笑ってみせるが、ネネはそれに対して戸惑ったように目を丸くするばかりだった。
「参謀さん、ちょっとだけ森でお休みしたいんだって。だからあたしたちのおうちがいいかなぁって……ネネちゃん、だめかなぁ……?」
「うっ……だ、だめじゃないけど、あんたがゆっくり休めるような寝床とか、ないよ」
「構いませんよ」
ルイは解けたエムの手に安堵して、焚き火から離れた位置にある木に寄りかかり座り込んだ。休息を取っていた獣たちが訝しげにそちらを見て悲しそうに鳴いた。それを撫でて落ち着けてやりながら、ご飯とか要るのとネネが問う。
「要りません」
「えーっ!お腹空いちゃうよ、参謀さん」
「少し食事を抜くぐらいは慣れていますので。……お気になさらず、いないものとして扱ってください」
そう告げたのを最後に、ルイは長い足を抱え込むとその膝に顔を埋めてしまった。身を守るように回される腕は、聴力も視力も捨てたいと拒むように強く力がこもっていて、少女たちは困ったように顔を見合わせた。
連れてきてしまった手前、要らないと言われ簡単に承諾出来るはずもなかった。僅かばかりではあるがルイの分の食事を用意して、エムはそっと彼の前にそれを置く。
「参謀さんっ、ここに置いておくから、お腹ぐーぐーだなーってなったら食べてね!」
「………」
眠っているのだろうか、それとも故意に反応することを拒んでいるのか、どちらにせよ返事はなかった。エムは眉を下げながら毛皮で出来た寝具をルイの肩にかけ、焚き火の傍から彼を見守ることにした。
* * *
ツカサは切れる息に舌打ちをしながら森へ飛び込んだ。体力には自信がある。ではなぜこんなにも息がもたないのかと考えれば、それが焦燥から来るものだとわかった。
町中を探してもルイは見つからなかった。入れ違いで館に戻っているかもと確認しに行ったが期待外れだった。ならば一人で町の外に、森まで行ってしまったのかも知れないと休む暇もなくツカサは森へ走った。鬱蒼と緑が生い茂るが、最早通い慣れた道だった。ルイはあの花畑を気に入っているから、そっちにいるかも知れない。
ドクドクと騒ぐ心臓を落ち着けと叱りながら進む。不意にがさりと音がして、あの子がそこにいるのではと咄嗟に思ってしまったツカサはそこへ駆け出し叫んだ。
「ルイ!?」
「──ひゃっ……!?」
そこにいたのはルイとは似ても似つかない、細く小さな少女だった。驚き長い緑の髪をぶわりと揺らしながら、驚かせないでよと鋭い目がツカサを睨む。
「す、すまない、少し急いでいて」
「……まぁ、ちょうどよかった。あんたに用があったんだけど、その、一人で町に行くのちょっと苦手だったし」
「オレに?」
息を整えるツカサに、ネネは眉を下げて言う。
「あの、参謀となんかあったの?」
「……ルイの居場所、わかるのか?」
「聞いてるのはこっち。……居場所なら知ってるけど、ひっどい顔してたから。帰る資格がないとかよくわからないこと、エムに言ったみたいだし。だから、あんたとなにかあったんじゃないかって」
彼女相手ならば問題ないだろうと、ツカサは昨日の出来事を明かす。将校の命を狙った暗殺者のこと、それがかつてのルイの同胞だったこと、そして奴の言葉が、ルイを深く深く傷つけただろうということ。
恐らくルイが、本心から幸福の権利などないと思い込んでいること。
「それで、喧嘩したわけ?」
「いや、喧嘩というか……悔しくてだな」
「それを喧嘩って言うんじゃないの」
言い合えるほど心を許されたのなら、それはそれでよかった。けれどルイのそれは、そんな生半可なものではなくて。
己を責めて、幸福を捨てなければならないと自ら手を離して、かつてのように心を殺すことを選んだ。ツカサの判断がそれを齎した。
ツカサは、ただただ悔しいのだ。ルイが、幸せを諦めて心を抑えてでも自分に仕えようとした脆さが。何より自身の幸福を一番に望もうとはしない弱さが。そんな健気な彼を守ってやれなかった自分が愚かで情けなくて、それが悔しくて堪らないのだ。
「ネネ、オレをルイのところに案内してくれ」
「……でも……」
「頼む──オレは、ルイを失いたくない」
まだ、幸せに出来てない。
誓いを捨ててなどいない。死がふたりを分かったとしても、共に在ると結んだのだ。こんなところで手を離すものか。愛を諦めてなるものか。
彼の幸福は自分に在って、そして自分の幸福は、彼に在る。
「……森で喧嘩したら、あんただけは森の立入禁止にしてやるから」
こっち、とネネは踵を返した。