僕のものですからね扉を開いた先には目と口の型をくりぬかれ顔のついたカボチャとカブ。
部屋の机には複数のろうそく立てが置かれ、小さな火が揺らめいている。
金鹿の学級に入室したベレトは見慣れた教室の変貌ぶりに目を丸くする。星や月の飾りが天井からぶら下げられ、壁には墓地や遺跡の景色が書かれた絵が貼られている。
一体何事かと入り口で固まっているベレトを猫耳頭巾と肉球のついた手袋をつけたヒルダとウサギの耳頭巾と尻尾をつけたマリアンヌが出迎えた。動物をかたどった可愛らしいフードの下にヒルダは薄桃色、マリアンヌは水色の裾がふんわりしたワンピースを着ている。色違いだがお揃いのスカートである。そしてどちらも腕からお菓子の入った籠をぶら下げていた。
「トリックオアトリート!はいっ!マリアンヌちゃんも一緒に!」
「…トっトリックオアトリート……」
ヒルダに促されマリアンヌが恥ずかしそうな様子で追随する。ヒルダはウインクを飛ばしながら元気にマリアンヌは躊躇いがちにそろそろとベレトへ向かって手を掲げる。二人は互いの人差し指と親指を合わせてハートの形を作ってみせた。
「それは?」
不思議そうな表情で首を傾げるベレトにヒルダが丁寧な説明をする。
「祖霊祭です!レオニーの居た村の風習でこの日はご先祖様達が帰ってくるのでごちそうやお菓子を用意してお祝いするんですって。でもこの日村に寄ってくるのはご先祖様だけじゃなくて、異界からお化けや悪霊も一緒に来ちゃうらしいんですよ。なので見つからないようにいろんな仮装をして出迎えるって聞きました」
つば広の羽根つき帽子に白いシャツの上からジュストコール(上着)を羽織り、眼帯をつけたクロードがおもちゃのカトラス(剣)をふりかざしながら会話に割り込んでくる。
「そうそう、そんで『トリックオアトリート』って声をかけたらいたずらされるかお菓子をあげるか選ばなきゃならない決まりだ。先生はどっちがいい?」
ベレトは困った表情になる。
「そう言われても自分は何も持っていない……」
「よし!ならいたずらだなみんなやっちまえ!」
クロードの号令でわっと生徒たちはベレトに群がり、彼が目を白黒させているうちに普段着をはぎとり着せ替えを強行する。気がつけばベレトは見たことのない異国の正装をさせられ、頭には角、背中にはコウモリの羽、腰のあたりから尻尾をつけられていた。
「ふふよく似合ってますよ先生!」
大きな壁紙に一心不乱に遺跡の絵を描いていたイグナーツも顔を上げ、見慣れないコスチュームを身につけたベレトを眺めながら楽しそうに感想を言う。ちなみに彼はドクロの帽子をかぶり、骸骨柄の服を着ている。
奥でむしゃむしゃとかごいっぱいのクッキーと焼きリンゴを頬張っていた全身包帯姿のラファエルも笑顔で声をかけてくる。
「先生も食うか?めちゃくちゃうめえぞ!」
「……ありがとう」
状況に流されるまま焼きリンゴを一つもらい、口にほうりこむ。加熱されたリンゴはとても甘く舌の上でとろけた。
「それにしても急にどうしたんだ?」
鷲獅子戦が近いという理由で普段にもまして鍛錬に精を出していたレオニーまでがとんがり帽子を被り、魔女のローブを着込んで外を歩いていたのでベレトは疑問を口にする。
「昨日の夜にリシテアさんがお化けを見たからですわ」
誰にともなくつぶやいた問いに妖精の羽を背負ったフレンがにっこり笑って応える。
「一人きりで廊下を歩いていたら、ふわふわと宙に浮かぶ人影が見えたんですって。かなりはっきり見えたのでリシテアさんはすっかり怯えてしまわれて、レオニーさんのお部屋に駆け込んで相談されたのですわ」
フレンの声に応えるようにがたりと机の一つが大きく揺れた。
ベレトがそちらを向くと白い塊がぷるぷると震えていた。この話の流れからするとお化けの顔のついたシーツにくるまっているのはどうやらリシテアらしい。
「わっ……わたしは大丈夫だって言ったんですけどね……みっ…みんなが心配だって言うのでしかたなく……」
まったく大丈夫ではなさそうな声が白い塊から発せられた。一体何を見たのか不明だがリシテアの怯えぶりを見ているとあながち見間違いというわけでもなさそうに思えてくる。事の真偽はともかくとして少なくとも本人は正真正銘お化けに遭遇したと思い込んでいるに違いない。この様子だと仲間たちが本気で心配するのも頷ける。もっともクロードの場合は単純に状況を面白がっているだけの気もするが。大方お化け騒動にかけつけてみんなでわいわい騒ごうという魂胆だろう。
「最初にヒルダさんがおっしゃったように仮装には魔除けの意味もありますでしょう?時期的にもぴったりですしそれならばとみなさんで話し合って祖霊祭をしようということになったんですのよ」
「それはいいとしてなぜ僕がこんな地味な仮装なのかね?」
むすっとした表情でローレンツがぼやく。ローレンツは全身黒一色のローブに鎌を持った死神スタイルであった。
「もっとこの僕にふさわしい煌びやかな衣装があるだろう!」
大げさに手を広げ主張するローレンツに教室に入ってきたレオニーが言う。
「しかたないだろ……急いで作ったんだから。だいたいお前が熊の着ぐるみや死者のお面は嫌だって文句を言うからこっちにしたんじゃないか」
なおもぶつぶつと不平不満を漏らすローレンツにヒルダが満面の笑みで声をかける。
「私は死神のローレンツ君もなかなか格好いいと思うよ」
「ふむ?そうかね?」
「それに祖霊祭はお化けや悪霊から身を隠すために仮装するものだから、普段の自分から遠いもののほうが効果があると思うよ。ほらローレンツ君はいつもキラキラして華やかだから
ここは逆に地味にしておいたほうが魔除けになるんじゃないかな?」
「なるほど、言われてみれば……君の言うとおりかもしれないな」
ヒルダは隣に立っていたマリアンヌにも同意を求める。
「ね?マリアンヌちゃんもそう思うでしょう?」
「はい……私も似合っていると思います」
消極的ながら小声でマリアンヌも肯定する。それを見た途端にローレンツのテンションが上がった。
「ほうマリアンヌさんもそう思うのか?」
わかりやすく機嫌を良くして舞台役者のようにポーズを決めはじめるローレンツを見てヒルダは内心(扱いやすいな)とつぶやく。
他の生徒たちも各々好みのコスチュームに着替えたり、ボディペイントをして祖霊祭を盛り上げようとしているようだった。生徒たちがはしゃぐ教室をひとしきり見回したベレトは椅子に座り込み、こくりこくりと船を漕いでいる人影を見つける。茶系統のワンピースの上にたっぷりとフリルをあしらったエプロン、頭には同色の白いキャップを装着した生徒、長いまつげに縁取られた白い顔はどう見ても可憐な女の子にしか見えない……が背中に流れる緑髪は学級に一人しかいない。メイド服に身を包んでいるのはリンハルトである。
リンハルトは愛用の枕を抱えて薄めを開けて半ば眠っていたが、ベレトがその傍を通りがかるとむくりと起きだし彼の腕を引いた。
「むにゃ……あっ先生、トリックオアトリート……」
不明瞭な言葉でそう声をかけられるとベレトはポケットの中身をごそごそと探った。
「これを」
ベレトは引っ張り出した甘い焼き菓子をリンハルトの口元に近づけた。リンハルトは半目でそれをじーっと見つめるとむうっと変な声を出して渋々クッキーを受け取る。
「……なんだお菓子を持ってたんですね先生」
「君の好物だろう?……」
「いえ、いろいろと体をいじくりまわ……いたずらするいい機会だと思ったんですけどね」
「……」
ベレトは聞かなかったことにしてさっさとリンハルトの席を通り過ぎる。そうして仮装した級友たちへあれこれと指図するクロードに尋ねた。
「ところで自分はいつまでこの格好でいればいい?」
「一応セテスさんに夜の8時まではイベントの許可をもらっているからそれまでは着ていてくれ。院内をまわってお菓子を集めてきてもいいし、他の学級の奴らを驚かしてもいい」
***
祖霊祭という名のちょっとした仮装パーティを楽しんだ金鹿学級はセテスとの約束どおり8時には解散した。クロードは少し物足りなさそうだったが、決められた時間をきちんと守って自室へ戻っていった。
すっかり暗くなった廊下をランプの灯を頼りにベレトとリンハルトは並んで歩いた。
二人ともまだ祖霊祭の衣装を身につけたままである。ゴミや飾り付けなどで散らかった場所を皆で協力して片付け、残った生徒がいないか点検をしてから出たため教室を離れたのはベレトが最後だった。リンハルトは仮装行列の途中で眠ってしまい、ラファエルに担がれて教室に戻されたためけっきょくそれ以降は眠ったままだった。そんなわけで教室を閉めようとしたベレトに起こされ一緒に寮まで帰ることになったのだった。
二人で並んで歩き、祖霊祭の出来事を思い返しながらリンハルトは言う。
「けっきょく何も起こりませんでしたね。レオニーの話だと祖霊祭には本物が混じるっていう噂もあるみたいでしたけど」
リシテアもはじめのほうこそ怯えていたが、大量の甘いお菓子を与えられるうちにすっかり機嫌を直しヒルダたち女性陣に付き添われて早めに自室へ引き上げていった。あの調子なら今晩は疲れてぐっすり眠る事だろう。
本人に言えば間違いなく怒るだろうが、そういうところはとても子供らしい。
「本当に魔除けの効果があったということだろうか?」
「……かもしれませんね。田舎の風習も案外馬鹿にできませんから。長く引き継がれる行事や祭儀にはそれなりの意味がこめられているものですよ。まあそんな深い理由もなくて単なる息抜きという場合もあるでしょうけど、それだって日頃のストレス発散にはなりますし」
そこでふとベレトが腕にさげた籠に目を留めたリンハルトは言う。
「いやあそれにしてもすごい量が集まりましたね先生」
思いのほか教師も生徒もノリが良く、仮装したメンバーが学院内を練り歩くうちにいつの間にかみんながくれる菓子で持参した大籠はこぼれ落ちそうなほど山盛りになっていた。
特にちょうど甘い焼き菓子を焼いていたメルセデスとアネットは気前よくみんなにお菓子を振る舞ってくれた。季節柄カボチャを混ぜてあるので表面が黄色みがかっている。
「それどうするんですか?」
「腐るものでもないし、時々小腹がすいたら食べようと思う」
リンハルトは半ば呆れたような感心したような声を漏らす。
「一人で食べきれるんですね……その細い体のどこに入っていくんでしょう。さすがというかなんというか」
なにやら考えながらリンハルトはベレトのお腹のあたりを軽くさすった。
そうして間近から黒い尻尾とコウモリの羽をつけたベレトをじっくり眺めつつリンハルトが言う。
「しかし面白いな……こうして見ると二つ名と同じで本物の悪魔みたいですね先生」
ベレトの頭に装着された角をぺたぺたとさわり、次いでズボンから伸びた尻尾を掴みながらリンハルトが言う。
「こら引っ張るんじゃない」
小首を傾げながら装着されたパーツを一つ一つ確かめているリンハルトにベレトが注意する。リンハルトが距離を詰めてきたのでベレトも自然と間近で彼の全身を眺める事になる。
上品な色合いと質感のふんわりとしたロングスカートはまったく違和感なくリンハルトを包んでいる。オプションのキャップも長い緑髪を綺麗にまとめあげていた。
長い睫に縁取られた両目は好奇心に満ちあふれ見慣れぬ衣装に包まれたベレトを凝視している。柔らかそうな薄紅色の唇にも淡いコーラルピンクのルージュが引かれている。
ベレトはしばらくリンハルトの好きにさせていたが、そのうち触診するように皮膚の露出している首や頬にまで白い指先を伸ばしてきたため、慌てて両手を掴んで止めた。
「やめなさい」
「少しくらい触ってもいいじゃないですか……」
「駄目だ」
「ご奉仕しますよ」
「?」
甘い微笑を浮かべながら危うい言葉を口にするリンハルトだったが、言われたとうのベレトはよく意味がわからないという風にきょとんとしている。
はたから見れば破壊力抜群の悩殺フレーズだったが、数秒の沈黙を経てベレトには効果がないことを悟ったリンハルトは小首を傾げながら言う。
「うーん……通じないみたいですね。ヒルダがこうすれば先生が言うことを聞いてくれるかもって教えてくれたんですけどね」
ベレトは左右に首を振る。
「とにかくこれ以上自分に触れてはいけない」
「えーっ」
渋々手を引っ込めたリンハルトの横顔は薄化粧も相まって本当に美少女にしか見えない。少し拗ねたような表情も実に可愛らしいとベレトは感じた。
「しかしよく似合ってるなその衣装」
「そうみたいですねえ……ヒルダが張り切ってメイクから着つけまで担当したので」
イベントが急遽だったので祖霊祭らしい衣装が足りず、院内の保管庫から引っ張り出してきたメイド服で女装させられることになったという流れらしい。女性としては背が高いもののリンハルトの容姿は素材として申し分なく、完璧に決まっていた。
町中で無言で歩いていたら途中で間違いなく何人かの男に声をかけられるだろう。
「おまけにこんなものまで付けられちゃって」
そう言いながらリンハルトはおもむろに太もものあたりまでスカートをめくりあげた。ロングスカートの下にはガーターベルトで留められたレースの黒いタイツが見えた。
花柄の透けたタイツの下にあるすらりと伸びた足が魅惑的である。
「下着なんてどうせ外側からは見えないのにすごいこだわりようですよね」
「いいからしまいなさい」
ベレトは素早く目を逸らしながらいそいそとリンハルトのめくれあがったスカートを元の位置に戻した。しかしリンハルトの足を覆うタイツとガーターベルトの境目にある白い肌がなまめかしく両眼に焼き付いて離れない。それを目の当たりにした時から胸の奥がむずむずして落ち着かなくなった。
ベレトの様子をずっと見ていたリンハルトは「おや?」と彼の変化に目ざとく気づき、ずいっと顔を再び近づける。思わず少し身を退いたベレトにその分だけ踏み込む。そうしてベレトの赤くなった頬にそっと手を伸ばしながら聞く。
「なるほど……こういうのが好きなんですね?いいですよ!あなたの気が済むまで見て、触れてください。僕もそのかわり先生の体に触らせてもらいますから」
そう言ってするりと胸のあたりに手を滑らせるとばっと身を翻してベレトは早足で行ってしまった。慌ててリンハルトがベレトを追いかける。
「あっ待ってくださいよ」
「そういうことをするなら別々に帰ろう」
「怒らないでくださいよ~」
少々やりすぎたかと反省しながらリンハルトはベレトに小走りで駆け寄る。
ベレトのほうは歩く速度をまったく緩めず、すたすたと前に行ってしまう。
そうやって二人が暗い廊下をつかず離れず突き進むうちに「あれ?此処……」とリンハルトが何かに気づいた様子で声をあげる。
「リシテアがお化けを見たって言ってた場所じゃないですか?」
その言葉でようやくベレトは足を止めた。
そうして周囲へ視線を巡らせ、確認してみるとたしかに窓から見える庭木の位置や柱の本数がリシテアの話と完全に一致する。ベレトは考えながらリンハルトに話す。
「リシテアが嘘をついているわけではないだろうが、正体は動物か何かではないだろうか?」
「だといいんですけど……」
リンハルトは急に不安そうな表情になりさりげなくベレトのほうへ身を寄せる。
そう言っている傍からガサガサっと草むらが動き「うわっ!」と悲鳴をあげて、リンハルトは飛び上がり思わずベレトの腕にしがみつく。
だがチチッという鳴き声からして声の主はそれこそ小動物だったようである。
草の根をかき分けるようにして小さな陰が潜り込むとリンハルトは安堵の吐息をつく。
「なんだ……ドブネズミか」
「そうだな。君もお化けが苦手だったか?」
「はい。昔からああいう不可解なものは得意じゃなくて……」
ベレトの腕を掴む手にきゅっと力が入る。しかし先ほど戯れに触れようとした時のようにベレトはリンハルトを振り切ろうとはしなかった。リンハルトが本気で恐れていることを感じ取り、その気持ちに寄り添おうとしてくれているのである。
(先生のこういうところが好きなんだよね……)
頼もしい横顔を見つめながらリンハルトはそんなふうに思う。
ベレトはリンハルトに応えながら、彼に触れられた腕が妙に熱いように感じていぶかしげな表情になる。理由はわからないが彼に寄りかかられるとベレトはいつも不安定な心理状況に陥る。胸の奥が締め付けられ、少し息苦しいような。しかしそれでいて少しもその刺激は不快ではないのだ。身に纏っている衣装の影響でいつも以上にリンハルトが可愛らしく感じられるせいかもしれない。
心細げにこちらを見つめてくるリンハルトにベレトが戸惑っているとふわっと何もないところからかすれた雲のような白い靄が発生した。薄闇の中で白色はひどく目立つ。 白い靄は確かな意思を持った動きで二人から見て柱三つ分ほど前方、一カ所に凝り結集しはじめた。
「え?これってなんなんですか?」
「わからない……」
恐怖に戦(おのの)き、より一層リンハルトはベレトに体を密着させてくる。長いまつげが彼の動揺にあわせて僅かに震えている様が目に映る。
不定形の白は徐々に濃くなり、色彩を帯びてやがて人形(ひとがた)へと変化していった。腰のあたりまで伸びた薄緑の髪をなびかせた美しい女性の姿へと。
ベレトは一度も見たことのないその女性をひどく懐かしく感じた。女性はもの柔らかな声で両腕を広げてベレトを呼ぶ。
「ベレト……」
優しい声にふらりと吸い寄せられるようにしてベレトの足が前に出る。
「先生行っちゃ駄目です!」
リンハルトの制止を聞かず、ベレトは白い人影に向かって突き進む。彼の内側にある意識に上らない記憶が強烈に彼女を慕って叫んでいる。どうにも抗いがたい郷愁の念が胸を焦がす。迷い無くずんずん歩いていくベレトに肉体に住まうソティスも頭蓋の内側から警告の声を発する。
『ええい下がらぬかこの痴れ者が!あれはまやかしじゃ!惑わされてはならぬ!』
だがソティスの声すら今のベレトには届かなかった。目の前にいる女性の優しい両腕に抱かれてただ穏やかに眠りたい……そんな欲求だけが今の彼を支配している。
もう少しでベレトの体がその女性の両腕に引き込まれるというその時、彼の背後からファイヤーが炸裂した。火球が白霧に遮断された視界を晴らすように謎の女性に降りかかる。
だが炎に包まれてもその女性は小揺るぎもしなかった。ただ鬱陶しそうに首を左右に振りリンハルトを睥睨するだけである。
鈍った頭でベレトがゆるゆると振り返ると今まで見たこともないほど気迫に満ちた表情をしたリンハルトが謎の女性をきっと見据えていた。
「先生は渡さないよ!この人は僕のものなんだからね!」
そう宣言してリンハルトはぼんやりと立ちすくむベレトへ駆け寄り、相手へ見せつけるようにぎゅっと抱きしめる。
「目を覚ましてください!先生!先生!」
そのまま体を揺さぶるがベレトの意識はいまだ霧の中に沈んだまま戻らない。リンハルトは気つけのためにベレトの頬を叩こうと手をあげ……けっきょく下ろした。たとえこのような状況でも人に暴力を振るうのは躊躇われた。まして意中の相手ならなおのことである。
リンハルトは少し考えた後、深く息を吐くと思い切って自らの唇をベレトのそれと軽く触れあわせた。
それは枯れ葉が風に巻かれて通り過ぎるようなほんの一瞬の出来事だったが、その途端にベレトははっと正気に返る。
謎の女性は先刻とは別人のように顔を醜くく歪めて舌打ちをし、現れた時と同じようにすうっと白い靄へ還り闇に溶けて消え去った。
「はー怖かった」
へなへなとその場に足を崩してへたりこむリンハルトにベレトは呆然として問いかける。
「いつから自分は君のものに?」
「いずれはそうなればいいなと思ってます。今はまだ僕の願望ですけど」
微笑してスカートの裾についた埃を払い、立ち上がったリンハルトを見てベレトは視線を逸らした。思わず覆い隠した口元、その下にある頬は赤く色づいている。触れあった唇にはリンハルトの感触と吐息が生々しく残っている。
リンハルトのほうは何事もなかったかのようにうーんと何度も首を傾げながら疑問を口にする。
「それにしても何だったんでしょうねアレは?」
「わからない……魔物の類いだとは思うが」
「もしかして悪霊(ホロウ)の類いでしょうか?何かの文献で読んだ気がします。その人が大切に思う誰かにそっくりの姿で現れて連れ去る魔物だそうです。あの女性に心あたりはありませんか?」
「覚えていない……」
「そうですか。まあ偽物でもあなたにとってそれだけ大事な人だったって事ですから少しだけ妬けちゃいますよ」
そんな話をしつつ、リンハルトと別れベレトは自室に戻った。
部屋に戻るとすぐにソティスが浮かび上がってきてベレトをからかった。
「くくっあやつやりおるのう。冷や水を浴びせるよりも効果的な目覚ましじゃったな」
「あれは事故みたいなものだ。忘れてくれ」
「そうか?おぬしも良い思い出になったじゃろう?」
にやにや笑いを浮かべるソティスの前でベレトはむっとしながら祖霊祭の衣装をやや乱雑に脱ぎ捨てる。
先ほどの出来事を思い返し、ソティスに水を向けると彼女は事もなげに応えた。
「さっきの女が誰の似姿か?あれはおぬしの母親じゃな。自分ではわからぬかもしれぬが面立ちがよく似ておる」
「そうだったのか……」
「幼くして死に別れたのじゃったな?ならば知らぬのも無理はない」
ソティスは優しい口調でベレトへ尋ねる。
「母が恋しいか?ならば今宵はおぬしが眠るまで子守歌でも歌ってやろうか?」
「必要ない。自分にはジェラルトもいる」
「そうか。まあ今夜は祖霊祭じゃからの……どこかで本物がおぬしを見守っているやもしれぬぞ」
ベレトは窓から夜空を見上げ、星の中に母の面影を探した。