忘れた頃に温室をふらりと訪れたベレトは赤いくす玉状の花の前で佇むリンハルトと行きあった。
屋台で売られている棒付きの飴のようにぴょこぴょこと地面から突き出ている可憐な花々をベレトも横から見つめながら聞く。
「この花が好きなのか?」
幾つもの小さな紅い花が一塊に集結して玉房(たまぶさ)を成している。うろ覚えだが品種名はアルメリアと言ったか。視線を花からベレトへ移してリンハルトは言う。
「いえ特別好きってほどでもないんですけどね。旅に出る前にカスパルが置いていった種が育って今頃開花したんですよ。それでちょっとその時のことを思い出して」
時期はずれに咲いた花がリンハルトの中に眠っていた記憶を刺激した。
あれは確かカスパルが旅に出る直前の事だった。道ばたで露天を開いていた老婆がごろつきに難癖をつけられて商品を奪い取られそうになっていたところを偶然通りがかったカスパルがぶちのめして助けたらしい。その時に礼としてもらったのがこの種だと言っていた。だが当のカスパルにとってはありがた迷惑だったようで……。
「俺は園芸とか興味ねえし、いらねえっつったんだけどな……どうせなら食いもんのほうが良かった。リンハルト、お前にやるよ」
困った表情でずいっと種の入った袋を押し付けてきた親友にリンハルトは露骨に嫌な顔をしてみせる。
「えー……僕だっていらないよ。植物の世話なんて面倒だし。ベルナデッタにあげたら喜ぶかもよ」
「もうあいつは自領にひっこんでるじゃん。今から送りつけんのもたいへんだしな。船は明日出港だからよ。だからお前にやるよ、ガルグ=マクの温室にでも植えときゃいいだろ。
ばあさんの話だと時々水やりするくらいであまり手間がかかんねーって言うし。自分で世話すんのが嫌なら庭師にでも渡しといてくれ」
そう言ってカスパルは半ば強引にリンハルトにアルメリアの種袋を手渡したのだった。
……そんなわけで受け取る時は渋々だったが、こうして花が咲いてみるとやはり嬉しいものである。面倒くさがりのリンハルトは時々、水やりを怠(おこ)たったりもしたがアルメリアは丈夫で乾燥にも比較的よく耐えた。
それに花を見ると遠く旅立った親友のことを思い出す。まったく正反対の気質ながら不思議とうまが合い、幼い頃から一緒に過ごした友達。
はじめて屋敷から外に連れ出された時の光景がふと脳裏をよぎる。
暗い書庫に慣れた目には太陽の光が眩しくて、思わず瞼を手の甲で覆った。その時こちらを振り返ったカスパルの屈託の無い笑顔。
ひょっとしたらもう生きているうちに会うことはないかもしれない。だが彼ならどの土地でもきっと元気にやっていくことだろう。
カスパルとの思い出話を語り、はるか彼方を見据えるリンハルトにベレトはぽつりと尋ねる。
「……君も旅に出たかったのか?」
「まさか。異国の文化や博物に興味がないとは言いませんが、あなたがここにいる以上あり得ませんよ。僕はあなたの伴侶なんですからね」
ベレトの内面に芽生えた小さな不安を見透かすようにリンハルトは微笑んでみせる。
昔屋敷に籠もって本ばかり読んでいたリンハルトをカスパルはよく引っ張り出して、いろんなところに連れ回していた。だからベレトと結ばれなかったとしたら彼と二人で旅立つ、そんな未来もあったかもしれない……がそれはあくまでも選ばなかったほうの選択肢、可能性の話だ。
「ここに来るまでにどれだけ苦労したと思っているんですか?あなたを置いてどこかへ行くなんて考えられませんね。今の僕にあなたの隣にいる以上の幸せはありませんし。この幸せを手放す道理もありません」
リンハルトはそう言って隣にいるベレトの涼やかな目を覗き込みながら柔らかく手を握る。綺麗な白い薬指には銀の指輪が光っていた。ベレトはその滑らかな指に自身の指を絡め、弱くはない力で握り返した。
「さあそろそろ昼寝の時間ですよベレト。今日はあの猫がたくさんいる木陰で休みましょうか?」
温室の外にある野原を指さしながら昼寝に誘う伴侶にベレトは穏やかな表情で肯いてみせる。