いかないで最終電車のアナウンスが聴こえる。黄色い線の内側にお下がりください、という声を無視して、燐音と一緒に電車を待っていたHiMERUは、燐音を置いてゆっくり歩き出した。一瞬だけこちらを振り向き、燐音に向かって何かを呟いたが、肝心の内容はアナウンスにかき消されて聴こえない。燐音は咄嗟に手を伸ばしたが、HiMERUはそのままふわりと線路の中へ消えていった。
すぐさま電車が横切り、大きなクラクションの音が鳴り響く。何が起こったのか分からなくて、汗が止まらない。血の気が引いて呼吸が荒くなり、どんどん目の前が暗くなっていく。考えるのが怖くて、燐音はその場で意識を手放した。
……
「……!!はぁ、はァ………」
悪い夢を見て目が覚めた。はぁはぁと息を荒らげたまま、燐音は上半身を起こした。時計を見ると、まだ深夜の2時だった。変な時間に目が覚めてしまったと溜息をつくが、やけにリアルな夢だったせいか冷汗が止まらなくて、もう一度眠る気にはなれなかった。
ふいに枕元に置いていたスマホを手に取り、慣れた手つきでHiMERUの電話番号をタップする。深夜だから出ないだろうと思っていたが、2コール目で通話が繋がった。
「はい」
「……メルメル?」
「……天城。こんな夜中に何の用ですか?」
「いや、その、なんつーか……ちょっと声が聴きたくて」
「は?なんですか、それだけですか」
素っ気ない態度のHiMERUに、ほっと胸を撫で下ろした。いつも通りの彼で安心したが、やっぱり少し違和感があった。あんな夢を見たせいか、なんだか声に覇気がないというか、弱っているような感じがしたからだ。
「あのさ、メルメル。……何かあった?」
「……いえ、何も。むしろこんな時間にいきなり電話をかけてくる天城の方が何かあったのではないのですか」
「……そっか。俺っちも別に……変なこと言って悪かったなァ」
「いいえ。朝からユニットでの練習があるでしょう。早く寝てくださいね。切りますよ、おやすみなさい」
「……お、おう。おやすみ」
いつも通りの素っ気ない口調でそう告げられ、通話は切られた。
最近、HiMERUの様子がおかしい。おかしいというよりは、本人は気丈に振る舞っていてもなんとなく弱ってきているというか、やつれている気がするのだ。彼は人には言わない、または言えない秘密を人一倍抱えているようで、その所為なのか時々1人で思い詰めているように見える時がある。燐音の気の所為か、最近は少し顔色が悪くなっている気さえした。
「どンだけ言っても頼ってくれないしさァ」
燐音はぼそりと独り言を呟き、またベッドに横になった。
HiMERUのことが恋愛対象として好きなのかと言われると、燐音には実際まだわからず自覚もなかった。恋愛なんて、まともにした事がなかったし。けど大事で、放っておけなくて、そばにいて欲しいとは思う。そして、たまに見せる脆さを守ってやりたい、なんて。
「めんどくせェ」
そう呟いて、無理やり目を閉じた。目が冴えてしまい眠気はやって来ず、燐音は頭まで深く布団を被り未だ遠い朝を待つことにした。
ーー
深夜2時過ぎに燐音から突然かかってきた電話を切った後、HiMERUも眠れずにいた。毎晩時間通りにベッドに入るけど、なかなか寝付けないし眠りも浅い。メイクを落とした目元にはクマが出来てしまっていた。HiMERUを維持するためには美術品のように完璧でなければならないのに。HiMERUのためなら汚い大人たちにも笑顔と愛想を振りまく。悪戯に指を絡められたり、肩や腰に触られる度に吐き気がした。それに加えて弟の容態が回復しないことへの不安と焦り、挙句の果てには身体を維持するため自らに摂取カロリーの厳しい制限を課しており、自分が思っているよりも心と身体は限界に近かった。
「俺なら、大丈夫。大丈夫……」
うわ言のように呟いて自分自身に言い聞かせた。自分を偽るのは得意だ。このまま完璧なHiMERUを演じて、最高のパフォーマンスを見せてやるだけだ。何がなんでも倒れてたまるか。HiMERUをこの世界から、脱落させてたまるか。
「大丈夫」
もう一度自分に言い聞かせて、目を閉じた。
――
「おい、メルメル」
「……」
「……なァ。おい、HiMERU」
「……はっ」
ぼーっとしたまま返事をしてこちらを向いたHiMERUに、燐音はぐっと顔を近づけた。
「おいおい……大丈夫かよ?顔色すげェぞ」
「……すみません、大丈夫です。練習、続けましょう。次はどこからでしたか……?」
HiMERUは焦点の合わない目のまま笑顔を作って答えたが、ニキとこはくは制止の声をあげた。
「だめっすよ!HiMERUくん、そんなに青白い顔して……ちゃんとご飯食べてるっすか?また痩せた気がするし、心配っすよ」
「その通りやで、HiMERUはん。あまり無茶をしたらあかんよ……。もう休憩にして、お昼ご飯にしよ」
「でも」
燐音はそれでも反論しようとするHiMERUの肩を掴み、こちらを向かせた。
「でも、じゃねェっしょ?あんたももう“子供じゃねェ”なら、わかるだろ。このままじゃぶっ倒れるぜ。それは嫌なンだろ?あんたが1番分かってるはずだけど」
「……」
「怒ってるわけじゃねェよ、メルメル。心配なの。俺っちだけじゃなくて、ニキも、こはくちゃんもさ」
ニキとこはくも黙りこみ、燐音の言葉にうんうん、と頷く。
「な、わかったっしょ?少し休もうぜ」
「……はい。すみません。天城も……ありがとうございます」
HiMERUは下を向いたまま、小さな声で呟いた。後ろでニキとこはくもほっと胸を撫で下ろす。
「決まり。じゃあ休憩だなァ。ニキ、こはくちゃん。先に飯食ってて。俺っちはメルメルを医務室に診せに行ってくっから」
「了解っす。HiMERUくん。無茶したらだめっすよ。ちゃんと休んでね。あ〜、もうお腹ぺこぺこ!行こ、こはくちゃん」
「……そうやな。燐音はん、HiMERUはん、また後でな」
ニキとこはくの2人が部屋を後にし、ガチャ、と扉がしまった途端、HiMERUはその場で座り込み、ぽつりと呟いた。
「天城、すみません」
「ん?別にィ。俺っちが遅くに電話かけたせいで、寝不足にさせちまったかもしれねェし……」
「いえ……ごめんなさい。最近何かとうまくいかなくて……焦っていたのかもしれません」
HiMERUは申し訳なさそうに俯いたまま謝った。こんな風に素直になるなんて珍しいなと思いながらも、燐音は努めて優しく答えた。
「気にすンなって。それよりさ、身体か心か分からねェけど、本当に辛いなら強がらないでちゃんと言えよなァ。俺っちじゃなくて、ニキにでもこはくちゃんにでもいいよ」
1人じゃないんだからさ。そう言ってHiMERUに肩を貸し、立ち上がらせた。
「ほら、歩けそう?医務室まで。荷物は俺っちが持ってくから」
「……はい、ありがとう、ございます」
前よりも痩せてしまったHiMERUの身体を支えながら、片手にHiMERUのバッグを抱えて燐音は医務室へゆっくり歩いていった。
――
タイミングが悪かったのか、医務室には医師も不在で誰も居なかった。
「誰も居ねェなァ。別にいいだろ、ベッド使っても。横になっとけ」
「はい……。でもその前に、栄養補給をしたくて。食欲はないですが……ポーチの中にサプリメントが入っているので。水と一緒に取ってくれますか?」
「はいよ」
失礼するぜ、と燐音はHiMERUのバッグを開き、ポーチを探した。
「ん、これか」
ポーチを開けると絆創膏やら薬やらと一緒に栄養サプリメントのパッケージを見つけて、まじまじと見つめながら呟いた。
「こんなんで栄養取れンの?ちゃんと食えよなァ」
「余計なお世話ですよ……栄養の管理はしているのです」
「今にも倒れそうな顔しといて良く言うよ。ほら、これだろ」
サプリメントと水をHiMERUに手渡す。
「ありがとうございます」
差し出されたものを受け取り、それから小さく口を開けて、サプリメントの錠剤を水で流し込んだ。ごくりと飲み込んで喉仏が動く。燐音が無意識にその様子をじっと眺めているとHiMERUは怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「……なんですか?そんなに見て」
「え?いや、そんなに見てたかァ?俺っち」
「見てましたよ……」
そんなやり取りをしながらもさっきよりはHiMERUの声色が少しましになってきた気がして、燐音も安堵した。
窓の向こうの晴れていた空はいつの間にか曇りだしていて、雨が降りそうな予感がした。
サプリメントを飲み終えたHiMERUをそのままベッドに寝かせると、燐音はスマホを取り出して天気を調べようとネットを開いた。
「……っ」
ネットを開くと飛び込んできたのは、思い詰めた男性が自ら…という痛ましい事件。
ふと夜中に見た夢がフラッシュバックした。最終電車のアナウンス。ふわりと目の前で消えるHiMERUと、耳障りに鳴り響くクラクションの音 ーーーー。
「……はぁっ……はぁ……はぁ……」
冷や汗と、どくどくという心臓の音が止まらない。
「……城、天城?」
「は、ぁ……ごめん。なんでもねェ」
「……あなたこそ、大丈夫ですか?」
ベッドに横たわるHiMERUが心配そうにこちらを見つめている。
「大丈夫だよ。朝一の練習で疲れちまったのかもなァ」
苦し紛れの言い訳を吐いて、HiMERUに心配をかけまいと必死に顔を取り繕った。
「顔色が悪いですよ……もしかして、俺のせいですか」
「ンなわけねェだろ。ほら、少し寝な」
ふいに飛び出した俺という一人称にどきっとしつつも、はぐらかしてそっとHiMERUにブランケットをかけ直した。HiMERUは不思議そうに眉間に皺を寄せていたが、やがて目を閉じてすぅすぅと寝息を立て始めた。
体調が優れなかったせいか、人形のように白い顔で静かに眠るHiMERUを見て、自分の勝手な不安妄想だと分かっていても、最悪の可能性に恐怖を感じずにはいられなかった。先程開けたHiMERUのポーチにサプリメント以外の薬が入っていたことを思い出し、燐音はすぐにもう一度中身を確認した。
案の定、中には普通の風邪薬や痛み止めが少しと絆創膏類しか入っておらず、さっき1度開けたとは言え許可なくHiMERUの私物を漁ってしまったことに対しての罪悪感がじわりと滲んだ。
「はは、何をしてンだ……俺は」
必死な自分を嘲るように笑うと、手元のスマホが着信に震えた。ニキからだ。
「もしもし、燐音くん?HiMERUくんは、大丈夫っすか……?」
「お、おうニキ、メルメルは今医務室のベッドで寝てる。さっきよりは少しましになったよ」
自分勝手で不安な心に声が震えないように、ニキからの電話に応答する。
「そっか。良かったっす。そうそう、燐音くん。副所長が呼んでるっすよ。しょうがないけど練習途中で中断しちゃったし、メンバーの体調不良ともなると……リーダーからちゃんと報告欲しいって」
「あーー……分かったよ」
「頼んだっすよ」
通話はそこで切れた。ベッドの方に目をやると、HiMERUはまだ静かに寝息を立てていた。寝ているHiMERUを連れていくわけには行かないが、今の燐音の精神状態でHiMERUを1人置いて行くのは何となく怖くて、嫌だった。
「はぁ、はぁ……」
また、得体の知れない恐怖に息が荒くなっていく。咄嗟に窓の鍵を閉めて、医務室中の鋏やカッターなど鋭利なものを手当り次第に回収した。
「ほんとに、何をしてンだか……馬鹿みてェ」
ぽつりと呟いて、またHiMERUの方を見る。ぴくりとも身体を動かさず、静かに眠っている。白い肌に伏せられた長いまつ毛、小さな口に薄い唇が、何故か色っぽく見えて…… HiMERUの心臓に左手を当てて、右手で顔に触れると燐音はそのままHiMERUの唇にそっと口付けた。
どくどくと脈打つHiMERUの心臓の鼓動を感じながら、唇を離す。近づけた顔からは吐息も感じられた。
「生き、てる」
自分が勝手に焦っているだけで当たり前のことなのに、目の前にいるHiMERUが生きている証を実感して、安堵した。
「ん……」
HiMERUの唇が僅かに動いた。起こしてしまったかと燐音は慌てて手を離したが、HiMERUはまた静かに寝息を立て始めた。
そういえば、キスしてしまった。初めてだったのに。こいつも初めてだったのだろうか。それとも……。
HiMERUは目を開けない。白い頬に影を落とす長いまつ毛。知っていたけど、本当に美術品みたいな、綺麗な顔なんだよなァ。また思わず顔に触れようとして……
「……ごめん」
そっと呟いて、手を引いた。スマホにはおそらく呼び出しのメッセージであろう通知が浮かんでいた。
(流石に、そろそろ行かねェと)
不在の医師に体調不良者を寝かせている旨を書き置きし、無抵抗なHiMERUの唇を無意識に奪ってしまった罪悪感や未だ心に黒く滲んだまま消えない不安を燐音は無理やり押し殺す。
「大丈夫……」
何に対してか、誰に対してかもわからない。大丈夫、大丈夫……と呟いて、燐音はHiMERUを残し医務室を後にした。
――
燐音が退出し、ガチャ、と扉が閉まる音を確認してからHiMERUは目を開けた。燐音は気づかなかったが、目を閉じたままずっと起きていた。何だか様子がおかしくて、これ以上心配させるわけにもと思い、眠ったふりをしていたのだ。
「……まさか気づかないなんて」
どうしてしまったのでしょうね。HiMERUは先程口付けられた唇にそっと触れながら、今ここにいない燐音のことを思い出していた。普段の割と感の鋭い燐音なら、眠っているふりなんてすぐに気づかれると思っていたが。
(生きてる)
唇を離してすぐ、燐音が呟いていた言葉が頭をよぎった。
「生きていますよ、俺は。HiMERUは」
いったいHiMERUを何と重ねて怯えているのか分からなかったが、燐音は明らかに挙動不審だった。息を荒らげて声を震わせて、HiMERUに心を乱される燐音がいじらしいとさえ思った。あの天城燐音が何かに怯えて、HiMERUの唇まで奪って……。
「馬鹿ですね」
ずき、と頭痛がして、瞼が重たくなってくる。さすがに少しだけ眠ろうと、HiMERUはまた目を閉じる。窓の外ではぽつぽつと雨が降り始めたいた。
――
燐音が事の報告を済ませ、そのまま午後の仕事を済ませた時にはもう外は暗くなっていた。
元々練習のあとは各々個別の仕事が入っており、ニキとこはくから連絡が入っていないということはまだ2人とも仕事が終わっていないのだろう。
(メルメル、どうしたかなァ)
大丈夫か?とメッセージを送ろうとして、ふと先程キスをしてしまったことを思い出し文字を打つ手が止まる。
「……… 」
しかし、恥じらいや後悔よりもHiMERUの姿を見て安心したくて、燐音はHiMERUを寝かせてきた医務室へ向かっていた。
医務室の扉を開けようとすると、同じタイミングでHiMERUが中から扉を開けて現れ、目が合った。
「あ……メルメル」
「天城。先程は介抱してくれてありがとうございました」
そういいながらHiMERUは目を細めてにこりと笑顔を見せた。HiMERUは気づいていないかもしれないがあんなことをしてしまった以上、何だか気まずくて、燐音は少し視線を逸らした。
「いや、気にすンなって……。それよりも身体はもう大丈夫なのかよ?」
「ええ、半日眠ってしまっていたみたいで……。おかげで少し元気になりました。明日からまたがんばります。なのでもう今日は帰宅しようかと」
「そ、そっか。それは良かったなァ」
どきどきと早く脈打つ鼓動に気を取られて、ぎこちなく返事をする。
「そういう天城は、どうしてここに?」
まるで何も知らないような顔で、尋ねられる。
(良かった……と思って良いンだよな)
「……メルメルが心配だったからに決まってるっしょ?」
「本当に、それだけ?」
どき、と心臓が大きく音を立てる。いや、焦る必要なんてない。本当にHiMERUが心配で、ここに来たのだから。
「本当だよ」
嘘なんて、ついていない。
「そうですか」
HiMERUが何か言いたげな様子でこちらを見ているのに気づかないふりをして、また目を逸らした。
「……止んだなァ、雨。帰るなら今のうちだぜ。行こ。送ってくからさ」
「そうですね、行きましょうか」
燐音は「持つよ」とHiMERUの荷物を受け取り、2人で事務所を後にした。
最近はスケジュール的にメンバーみんな帰りがばらばらだったり、全員で送迎車で帰ったりするのが多かった。2人で歩いて帰るのなんていつぶりだろうか。何か話そうとしてはこれじゃないなと言葉を飲み込む。気まずい雰囲気を察知したHiMERUは少し前を歩いた。先の信号が変わる。車道側、燐音の少し前を歩くHiMERUの真横を車がひゅん、と通り過ぎた。
「……っ」
また心がざわつき、心拍数が上がる。燐音は目の前を歩くHiMERUの腕を掴んで歩道側に強く引き寄せた。
「……なんですか?痛いです」
「なんですかって…あ、危ねェだろ…車…」
「あぁ、それはお気遣いをありがとうございます。今度はできれば先に声をかけて欲しいのです」
HiMERUは燐音に掴まれて乱れた袖口を直し、びっくりするでしょう……と呟いた。また1歩先を歩こうとするHiMERUの手を、燐音は再び無意識に手を伸ばして握っていた。
「…どうしたのですか?何だか変ですよ今日の天城は。顔色も悪いですし……」
「はは……確かに。どうしちまったンだろうなァ、俺っち。疲れてンのかも」
弱々しく笑って、笑顔を作る。わからねェよ。自分にも、どうしちまったのか。
「……天城まで倒れてしまったら、大変でしょう」
駅までですよ。そう言ってHiMERUは燐音の手を握り返した。握り返された冷たい手と、HiMERUの口から出た駅という単語にまた心臓が音を立てる。
「メルメル、電車で帰ンの……?」
「ええ。先程無理やり胃に食べ物を入れてしまったので……。車だと酔いそうで。だから、駅まででいいですよ」
「そっ、か」
手は繋いだまま。HiMERUの少し後ろを歩くようにして2人はゆっくりと足を進めた。
「俺っちもさ、電車で帰る」
「好きにしたらいいですが……大丈夫なのですか」
「うん、あっちの電車に乗れば帰れるし」
「同じ電車ですね。でもタクシーの方が楽でしょう」
「こっちで良いンだよ」
「……そうですか」
駅に着くと、HiMERUは繋いでいた手をそっと離した。繋いでいて安心していた心が、ちくりと痛んだような気がした。
帰宅ラッシュの時間ではないからか人はまばらで、電車のホームにもあまり人がいなかった。
駅構内に入ってから、なんだか気持ちが落ち着かない。早く、こいつが無事に帰宅するのを見届けて……安心したい。
「今日は本当に、すみませんでした。……HiMERUは完璧なアイドル…なのに」
並んで電車を待っていると、不意にHiMERUが呟く。
「……メルメルが完璧主義で努力家で、しっかりしたやつだってことはよく知ってるよ。だから大丈夫。気にすンなって」
「…ありがとうございます。でも、何だかこのままじゃ……俺が、だめになってしまう気がして。……何が、いけないのでしょうね」
黄色い線の内側にお下がりください。という大音量のアナウンスに遮られ、「でも」から先のHiMERUの言葉が聴き取れなかった。
「メルメル、なんて……?」
聴こえなかったのか、HiMERUは答えない。代わりに聴こえてきたのは電車が参りますというアナウンス。HiMERUは1歩前へ進んだ。
見たことがある。こいつはこのまま俺を置いて、目の前で……。
「……ひゅっ……」
燐音は息を呑む。冷や汗がとまらない。だめだ。だめだ、いかないで。
「メルメル……」
冷や汗で汗ばんだ手で、HiMERUの手を掴んで、ぎゅっと握った。
「……なんですか?痛いですよ、天城。やっぱり今日は何だか、変なのです」
「あ…」
何も知らない顔をして、HiMERUが振り向く。もう表情を隠すことなんて出来なかった。
「……もしかして、HiMERUがどこかに行ってしまうかと、心配になったのですか?なんて」
冗談のようにHiMERUが言う。そうだよ。ずっとあんたがこのまま居なくなったらって、怯えてたんだよ。
「………いかないで」
「天城?」
「いかないで。いかないで……メルメル」
燐音の抑えていた不安と恐怖が溢れ出すように、涙がぽろりと落ちてしまう。泣いちゃだめだ。心配させたくないのに。
「……天城、“HiMERU”は絶対に消えるつもりも諦めるつもりもありません。安心して」
そう言って、HiMERUは燐音の手を握り返して微笑んだ。
泣いちゃだめだ。それでも零れてくる涙は止められなくて、そのままHiMERUを抱きしめる。HiMERUは首元でぐすんと鼻をすすり、好き…と小さく声を出す燐音の頭をよしよし、と撫でた。
「悪い夢を見ていたのですね。大丈夫ですよ。帰りましょう。一緒に帰ってくれるのでしょう?」
「メルメル」
ホームに電車がやってくる。HiMERUはそっと燐音から離れた。
「好き、の続きは駅を出てから、聴かせてくださいね」