(途中)隠れ家に猫がやってきたシド、それは何?隠れ家の子どもたちは、初めて見た小さないきものを見ようと代わる代わるクライヴの私室を訪れた。
幻想の塔での戦いの後ジョシュアたちの所に戻ろうとした時に、トルガルが瓦礫の中から見つけて咥えてきたものだ。まだ手のひらにも収まらない、小さな小さな黒猫。
隠れ家の中では子どもたちと戯れ合ったりカローンにオヤツを貰ったりして自由に過ごしているトルガルと違って、猫は大抵クライヴの私室にいた。
棚や箱などを伝ってテーブルの上に乗っては、大きな瞳でクライヴを見る。
「その子の名前は決めたの?」
タルヤの病室前で出会ったジルがクライヴを覗き込む。猫はいつの間にか彼のフードの中で舟を漕いでいた。
「ヴァク、にしようと思ってる。」
「ヴァク?こっちの名前じゃないわよね?」
「うーーん、俺もよく分からないんだ。何となく、思いついたというか。」
書庫のハルポクラテスによると意味は〈目覚めたもの〉。古語の辞典を引っ張り出してこないと出てこなかった言葉だ。
「クライヴは昔から本が好きだったから、何かの物語で読んだのかしらね。」
フフ、と笑いながら去っていくジルを見送るクライヴのフードの中で、子猫は大きく口を開けて欠伸をした。
「ごめんね、兄さん。決戦を前にまた発作なんて…。」
「気負いするな。ゆっくり治せば良いし、その間にあちこちで魔獣やアカシアを片付けているから。」
病室でタルヤとヨーテの手厚い看護を受けているジョシュアもまた、クライヴのフードの中を覗き込む。
「…それは、ウォールードから連れ帰った?」
「そう、ヴァクだ。少し大きくなっただろ。」
「兄さんは昔から動物に懐かれやすいから。」
無理はせずに体を休めるんだぞ。手を伸ばし、弟の頭を撫でるクライヴのフードから落ちそうな子猫が、必死に捕まっている。去っていくクライヴの背中を見つめながらジョシュアがポツリと
「…でも、なんだか大きくなりすぎじゃ…?」
「……ジョシュア様?」
いや、気のせいかもしれない。そんな風に呟いた。
「トルガル、ガブたちと魔物退治だ。」
ワウ!と返事をした狼は誇らしげにクライヴを見てから、視線を足元を駆け回る子猫に移した。相棒は僕だぞ、という牽制のつもりか?とクライヴとジルが顔を合わせて笑う。隠れ家にいる時はクライヴを追いかけ回す子猫を、誰もが微笑ましい様子で眺めていた。トルガルも隠れ家の外は譲れないけれど、中では新入りに配慮することにしたようだと話していた夜のことだ。
「…ぅ……ん、」
寝返りを打ったクライヴが薄らと目を開ける。枕の隣で子猫が丸まって目を瞑っている。体が上下しているから生きてはいそうだ。この簡単に潰れてしまいそうな小さな命を、寝返りを打つタイミングで覆い被さってしまうのではないかとヒヤヒヤしながら…クライヴは天井を見つめた。
ここの所よく眠れない。バハムートの力を吸収したあたりから怪しかったが、いよいよオーディンの力もとなると制御しきれていない気がしていた。更に、バハムートの時に視た“過去視”とも言うべき別の記憶。オーディンの力を吸収してから時折見る夢の中で、クライヴの知らない美しい黒髪の女性と荒廃した大陸を彷徨う光景を見ることが増えた。あれは誰だ?オーディン…バルナバス王の関係者なのだろうか?
考え事をしながらふと視線を感じて横を向く。ドキッとするような冷たい灰色の目が、子猫のそれとは到底思えない瞳に吸い寄せられるようだった。
「お前の目、何処かで……?」
囁くようなクライヴの声に、猫はただペロリと舌を出して、毛を繕う。少し下を向くと、半分くらいは青みがかって見える色だ。
…瞬間、クライヴはベッドから飛び起き、慌てたようにガチャガチャと装備を身につけて子猫を抱えた。皆寝静まっている時間だ。船頭のオボルスの姿も見えない桟橋に飛び出て、夜間の見回りをしていたベアラーに「ちょっと出てくる」と言い残し船を出した。
歩いて歩いて、湖の麓のオベリスクから、迷わずウォールードのエイストラにあるオベリスクへ。
――何故気づかなかった…!
転移した直後に小脇から飛び出した子猫がクライヴを見上げる。
「お前…っ、バルナバスか?!」
当たり前だが相手は猫だ。返答はないが口元がニヤリと笑ったような気がした。
「なんだ、もう気がついたのか?」
確かに聞こえた声はバルナバス王のそれで、しかしクライヴの内側から音がする。
「……どういうことだ?」
咄嗟にクライヴが剣を抜く。切先が示すのは、小さな小さな黒猫で。
「このように儚げな存在を斬るというのか?」
グ…とクライヴが歯を食いしばった。中身はあのバルナバスだ。しかし目の前にいるのは、踏んでしまったらすぐに潰れてしまいそうな存在。
クライヴの頭の中でくつくつと笑った王が、
「だからお前は甘いのだ。」
体がぐらりと揺れた。持っていた剣を地面に突き刺して耐えた後で、エーテルをごっそり持って行かれたのだと気づいた時にはもう、子猫の体は黒い靄に包まれて…
「……なっ?!」
靄の中から現れた肌色の何か。それはクライヴを抱き寄せて、冷たい唇が当たった。黒髪、心配になるくらい不健康な生っ白い肌、灰色の瞳。しかし髭も生えていないどころか、どう贔屓目に見ても18-19くらいの若者だ。何故だか裸で、だからこそ鍛えられた若々しい肉体と…まだ薄い下生えに見える凶悪なサイズのそれが目に入る。
「ン、ぅ…いい加減はなせ!」
バルナバスに似た何かがしつこく舌を入れようとするのは阻止したが、ちゅうと強く吸い付く唇は、薄く開いた唇の間から確実に何かを吸収している。
「私がこの体で妥協してやろうというのだから、協力せよ。」
マントのベルトを強く引かれて、体は更に前のめりになる。強引すぎる男の逞しい腕がクライヴの首に巻き付いて、妖しげな手つきの腕が更に腰を撫でた。
――翌朝。
窓の合間から差すアルケーの空の光。幻想的だが不自然な光に照らされながら、クライヴは鈍く痛む腰を押さえた。隣で満足そうに片肘をついてクライヴを見下ろしてくる男は、確かにあの時戦った男で…。
「お前は明らかにエーテルを制御できておらぬ。」
そうだろうとは思っていた。それでも、宿敵にそれを指摘されては悔しいのだ。嘗ての死闘は何処へやら、面白がってエーテルを寄越せと迫る男に対して、殺気が感じられない様子に困惑しすぎてされるがまま。何がエーテルを寄越せだ。好き勝手に抱いただけだ。
情熱的に…しかし支配的にクライヴの体を蹂躙した男は、若者から段々とエーテルを取り戻す度に姿を変えて、今は戦った時と同じ壮年の姿に戻っていた。
「お前のナカがこれほど収まりが良いとはな。」
「煩い…!お前が強引に…っ!!」
言い終わるより先に男の手がクライヴの尻をガッチリ掴んでから愛おしそうに撫でる。揶揄われている…!
「私とヤっている間も…今も。意識を失わなかったことは褒めてやろう。」
「何をされるか分かったものじゃない!」
そうさな…男はまたくつくつと笑う。
「エーテルの及ばぬ黒の大地の只中にあった拠点を、復活した私が御方に知らしめるやもしれん。」
「…なっ!!?」
「或いは、無防備の寝ているお前の仲間たちの寝首を掻くか。」
「やめろ…!!」
縋り付くように男のクビに手をかけようとしたクライヴを、しかし男はやけに丁寧に、包み込むように抱いた。
「バルナバス?」
「お前が出来ることは一つだ、クライヴ・ロズフィールド。私を掴んで離さないことだ。」
男の胸の中で、冷たい肌に触れた耳には確かに心臓の鼓動が聞こえていた。
「どうしろと…?首輪でもかけろと言うのか、一国の王に。」
「…お前はまだ私を王と言うか。」
寂しそうなその声を。
見上げた先にある灰青の瞳には、どこか後悔のような念が感じられて、クライヴは再び男の胸に顔を埋めた。
それは見てはいけなかった、宿敵の弱さのような気がしたから。
「なに、この体は今やお前のエーテルでしか生きられん脆い命だ。黒の大地に戻ればまた獣に戻ろう。」
「……猫の名前…ヴァクにしたのはお前の差し金か?」
「おかしな名をつけられては敵わん。」
寝ているクライヴに念を送っていたと聞いて吹き出した彼を、男は頭の上で大きな溜息を吐いて不服そうにしていた。