晴天の霹靂◆◇◆
自ら苦行に飛び込むなど愚かな事をした覚えはない。ただ、非常に不本意だが、いつの間にかそうなっていたというのが最も相応しい。
人生の節目とでもいうのか、手塩にかけて育ててきた息子が無事独り立ちしたことで、少しだけ己を省みる時間が出来たことも要因と言えよう。
息子の気配が無くなった部屋はいつもよりだだっ広く感じた。彼は物静かな性質だった筈なのに。ひとり杯を傾ける夜は、注いだ先から零れ落ちていくようだった。
◆◇◆
ジリジリと肌を焼くような暑さが非常に煩わしい。まだ朝と呼べる時間帯にも関わらず、エアコンの効いた車から降りて数歩歩いただけで早くも訪れたことを後悔した。
インドラは出来る限りの速足で通い慣れた日本家屋の門を潜る。自分は勿論、家主よりも低く作られた門は大袈裟なほど身を屈めなければ通れず、強制的に頭を垂れさせられているようで当初は癪に触った。しかしそんな事は最早過ぎた話で、両手両足の指では数え切れない程の回数通えば慣れてしまうものだ。
門を抜けると暫く歩かされた後、躊躇い無くガタガタとうるさく鳴く引戸を開ける。当然鍵など掛かっていない。
大股で廊下を歩き、目当ての人物がいるであろう居間の襖を勢い良く開ける。さぞ冷えた空気が己の火照った身を包むのだろう。
「……?!暑いッ!」
外と然程変わらない、否、外気よりも高温なのではないかと思う程の熱気が襲ってきた。流石にこのタンドール窯のような部屋の中で過ごす人間は存在しないだろうとその場を離れようとしたが、部屋と一間繋ぎになっている縁側に、よく見知った人影が雨戸を開け放した庭に足を投げ出して仰向けに倒れている姿が見えた。
呆れてものも言えない。ついに頭がイカれたか。
救急車位は呼んでやろうと荒い足取りで灼熱の居間を通り抜けて縁側へと出ると、足元に転がっているこの家の主である男を見下ろした。
髪も肌も透き通るような痩身の男は、相変わらず仰向けに寝転んだまま、その陽炎のような両の眼を開いてインドラを見遣った。どうやら意識はあるらしい。
「スーリヤ、貴様暑さで頭がヤられたか。」
「……ああ、おはようインドラ。今朝は随分早いのだな。」
荒い呼吸を漏らしつつ、相も変わらず飄々とした声音でスーリヤは笑んだ。柔らかな白髪は汗でしっとりと濡れ、普段は病的と言っていい程白い頬は僅かに紅潮している。
インドラは愈々ため息を零す。
「馬鹿か貴様死ぬぞ。なにをしている。」
「夜明け前から庭に出ていたのだが、つい夢中になってしまって」
ふふ、と何故か照れたような笑みを零したスーリヤの返答に、インドラは心底呆れた。
一先ず命に別状は無さそうなので、インドラは踵を返して居間に戻るとエアコンのリモコンを探し乱暴にスイッチを押した。最早どこのメーカーかも分からない程恐ろしく古い型のエアコンが阿呆の家主の為に健気に冷風を吐き出し始める。
それとほぼ同じくして、作業靴を脱ぎ捨てたスーリヤが縁側から匍匐前進で居間へと入ってきた。冷房の効き始めた部屋でふう、とひと息つくと、「文明の利器……極上である……」等と巫山戯たことを抜かしているのを尻目に、インドラは勝手知ったる顔で台所へ入ると迷いなく冷蔵庫を開ける。中からいい具合に冷えた缶ビールを取り出すとその場で開栓し一気に飲み干した。爽快な喉越しが火照った体に染み渡る。しっとりと汗ばんでしまった前髪をかき上げながらさらに冷蔵庫の中を覗き込むと、ペットボトルの経口補水液が目に入った。インドラはそれを二本目のビールと共に取り出して居間に戻ると、未だ畳の上で転がっているスーリヤに差し出した。スーリヤは緩慢な動作で手を伸ばして補水液を受け取ると、のろのろと起き上がってキャップを開けゆっくり口に含む。するとようやく己の身体の乾きを実感したのか喉を鳴らして飲み始めた。
インドラはその上下に動く喉仏を眺めながら正面にどっかりと腰を下ろした。
いつの間にか近くに置かれた扇風機の風が、陽の光のようなスーリヤの明るい髪を靡かせ無防備な顔面を晒させている。
開け放たれた障子の向こうで、締め切られた窓ガラス越しに真夏の濃い青空と庭の緑が冴え冴えと磨かれたように光っていた。
家業の花屋を息子に譲って以降、悠々自適に隠居生活を送っているかと思えば、この男は未だに植物の手入れは欠かせない生活が手放せないようだった。自分と同じく子育てから手が離れ、余生を楽しんでいる姿を見ていると、決して暇ではないのに何処かぽっかりと穴の空いたような時を過ごしている今の自分と比較してしまう。なんだか面白くなくて、インドラは内心歯噛みした。
此奴は昔からこういう奴だった。いつもいつも自分が気を張っているような場面においても此奴は何処吹く風で己のペースを崩さない。そんな所が妬ましくもあり好ましくあった。自分がそうあろうと努力しても奴には到底及ばない。決して奴より劣っているとは考えられないが、インドラには持ち得ないものをスーリヤは持っていると思う。認めたくはないが。
───そこまで考えて、ふと気が付いた。
◇◆◇
「いっそ……、……するか。」
「……?なんだ?」
扇風機の風音に紛れて届いたその声に、スーリヤは顔を上げた。しかし、声の主は此方を見もせず缶ビールを片手にそっぽを向いている。インドラは何かを考え込んでるような顔をしていた。
その時は深く追求するのを辞めた。その時は頭が熱に侵されかけて上手く働かなかったし、それきりインドラが特に何も言わなかったからだ。
今にして思えばあの時、彼奴をちゃんと問い質していればよかったのだが。
◇◆◇
インドラはプライドが高く多少驕りが過ぎるきらいはあるが、分別がつかないほど愚者でもなかった。酒に弱く、女に弱く、若い時分にはなりふり構わず無茶をすることもあったが、頭は回るし何より根が真面目な善人だということをスーリヤは知っていた。それが恥なのか照れなのか、本人は隠したがっているので態々指摘したりはしないが、スーリヤはインドラのそんなところを憎からず思って、友好的に接していたつもりでいた。にも関わらず、何故か昔からインドラはスーリヤに何かにつけて絡んできた。普段から周囲には余裕綽々といった態度で己の力量に自信たっぷりにふんぞり返っている割に、自分の何気無い言動に、インドラは正になんとかと秋の空の如くころころと表情を移ろえて突っかかってくるのだ。
───本当に面白いなこの男。
それがスーリヤのインドラに対する印象だった。お互い家庭を持ち子育てを経ても尚、このように連み続けているぐらいなのだから、多少喧嘩腰だったとしても、彼奴も自分のことをそれなりに認めてはいるんだろうと思っていた。
気の置けない友人として。
それがどういう訳か、今、目の前には百本程の真っ赤な薔薇の花束と如何にも高級そうな仕立ての良い白スーツに身を包んだインドラが立っていた。
対して此方はといえば朝の庭仕事を終え、先日の反省を踏まえてきちんとエアコンを効かせた部屋でゆったりと在宅ワークに勤しんでいたのでTシャツにハーフパンツというラフな出で立ちだった。
純日本家屋の玄関先で部屋着の家主と相対する格好ではないだろう。あまりにもミスマッチが過ぎる。
「生憎この家でパーティーが開催される予定はないのだが?」
「そんなものの出席予定はない。貴様に用があって来たのだ。」
てっきり酒の飲み過ぎで足元が覚束ず行先を間違えて来たのかと思いたかったが、残念なことに今日のこの男は素面らしかった。
怪訝な顔でその顔を見つめていると、インドラは何故か勝ち誇ったような顔で此方を見据え声高らかに宣言した。
「喜べスーリヤ!今日から神(オレ)も共に住んでやろう。これからの人生、この神(オレ)の伴侶として共に在ることを許可する!」
───何言ってんだこいつ。
滅茶苦茶なプロポーズなのかもよく分からない言葉を受けてスーリヤは天を仰いだ。
「……何故。」
やっと絞り出した問にインドラは、
「神(オレ)の人生には貴様が必要で、貴様の人生にも神(オレ)が必要だからだ。」
───違うのか?
と、さも当たり前のように言われてしまえば、
混乱を通り越して逆に冷静になってきた。
脳が落ち着いたところで状況を振り返ってみると、元よりお互い独り身となった今、しょっちゅうお互いの家を行き来しているし、先日は危うく死にかけた件を思えば、確かに同居人が出来るのは有難い。己のこの性質のせいで息子にロクなことをしてやれなかったが、せめて独り立ちした息子に迷惑をかけるような真似はしたくない。そこはインドラとて同じ考えなのだろう。
それに───
スーリヤは、ちらとインドラを盗み見た。冗談みたいな格好と提案だが、今のインドラは恐らく本気でこの話を持ち掛けている。その全てを射抜かんばかりの碧眼に今この時ばかりは己だけを映していた。
スーリヤは思わず笑みが零れた。インドラを嗤ったのでは無い。今この突拍子もない状況に、計らずも喜んでいる己に気が付いたからだった。
だから、
「……まあ、それもそうだな。」
つい心のままに、うっかりそう返答てしまったせいで、それからは正に雷霆の如き速さでインドラの荷物が運び込まれ、あれよあれよという間に二人の同棲生活が始まった。
───了───