見えない傷痕光牙がリビングでうとうとしていると、脱衣場からガタン! という激しい音が響いた。
突然の騒音に眠気が一気に覚める。
たしか今は、樹が風呂に入っていたはずだ。なにかあったのだろうか? 光牙は急いで風呂場の方へと向かった。
「おい、大丈夫か!?」
ノックも忘れてドアを開けると、下にだけ衣服を身につけた樹が、床の上に蹲っていた。
「樹!!」
光牙は咄嗟に樹のもとに駆け寄った。
「白鷹さん……」
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫です……。おそらく、軽い貧血ですから」
「なにかいるものあるか?」
「水を、持ってきてもらえますか?」
「水だな。ちょっと待ってろ」
光牙は一度脱衣場を出ると、冷蔵庫からペットボトルの水を一本取り出した。早足で風呂場に戻り、それを樹に差し出す。
「ほら」
「ありがとうございます」
樹は受け取った水をゆっくり口に含む。
そして、ペットボトルを額や頬にあてていった。
しばらくそれを繰り返すうちに、落ち着いてきたようだ。
「大丈夫か?」
「えぇ、すみません。ご迷惑をおかけしました」
樹が立ち上がろうとするので、肩を貸してやる。
彼は一瞬躊躇いを見せたが、結局素直に受け入れた。
「考え事をしていたら、つい長風呂になってしまって」
「次から気をつければいいだろ。……それより」
光牙は、ちらりと樹の腹部に視線を向けた。
彼の左の脇腹。そこに大きな傷痕があった。
まるで、なにか鋭利なもので切りつけられたような、そんな形をしている。
悪いとは思いながらも、さっきからずっと気になっていたのだ。
「あぁ、これですか?」
樹は、特段気にしていない様子でそう言った。
「昔の怪我の名残です」
彼の指先が、そっと傷痕に触れる。
その顔は、薄く笑っているようにも、泣き出しそうな風にも見えた。
樹は時々、こういう顔をすることがある。
その時の彼は決まってどこか儚げで、なんだか存在が曖昧な感じで。気を抜いたら、どこかに消えてしまいそうな、そんな雰囲気を持っている。
「私が一生、背負っていくべき傷です」
「は?」
「……いえ、なんでもありません」
なにかを呟いて、次の瞬間にはもう、いつもの樹に戻っていた。
「なんでもありません。ほら、もう大丈夫ですから、出てもらっていいですか」
「……わかった。なにかあったら呼べよ」
光牙は言われるまま、外に出た。
おそらく樹は、一人でなにかを抱えている。
その『なにか』がなんなのかは、ハッキリとはわからない。ただそれが、樹に深い傷をつけたことは、なんとなくだが感じていた。
簡単には踏み込めない彼の領域。
いつかそれを樹が見せてくれる日を、光牙は待ちわびている。