紫煙に乗せて夜も深まり、街灯と月明かりだけが街を照らす頃。
ベランダに立った朝陽は、一人紫煙をくゆらせていた。
常から煙草を吸っているわけではない。だが、時折ふと口寂しくなって、こうして喫煙することがあった。周りに隠してはいないが、あまり褒められたものではないので、吸う時は必ず皆が寝静まった深夜と決めていた。
ゆったりと煙を吸い込んで、吐き出す。
空に伸びていく白煙をぼんやり眺めていると、不意に横から誰かの手が伸びてきた。
細く、しなやかなそれは、あっという間に灰皿と手元の煙草を奪い取っていった。
「またこんなのもを吸って。体に毒ですよ」
声のした方を向くと、そこには呆れ顔の樹が立っていた。
吸いかけの煙草は、しっかりと灰皿に押し付けられて、消火されてしまっている。
「あー、まだ吸い始めたところだったのに」
「これも黄島さんのためです」
先程の口ぶりから察するに、どうやら前々から気付いていたらしい。
「煙草は百害あって一利なし、ですよ」
「わかってるけど、今日はどうしても吸いたい気分だったんだよ。これで終わりにするから、ちょっと待って」
咎める樹にそう返して、朝陽はズボンのポケットから煙草の箱を取り出した。
蓋を開け、中身を確認したところで、彼はあることを思い付いた。
「ねぇ、樹」
「なんですか?」
「樹も一緒に吸ってよ」
「は?」
怪訝そうな顔をした樹に、箱の中を見せる。
そこには、二本の煙草が入っていた。
「ここで樹が一緒に吸ってくれれば、俺が吸う数が減るでしょ?」
「それはそうですが……」
「ものがなければ吸えないし、禁煙のきっかけになるかも」
「……」
朝陽は一本を取り出して、火をつけながら彼の答えを待った。
半分本気で、半分冗談。樹からすれば、自ら毒を取り入れるようなものだから、乗ってくれないだろうとは思っている。
しかし、彼の答えは予想外なものだった。
「……わかりましたよ」
樹はそう零すと、朝陽の持っている箱を攫い、残りの一本を取り出した。
「ライター、借してください」
「本当に吸うの? 大丈夫?」
「あなたから言い出したんでしょう?」
可笑しそうに笑って、樹はライターを受け取った。
慣れていない人は、なかなか火がつかなかったり、むせる可能性もあるため、朝陽は注意深く彼を見守った。
しかし、心配したことはなにも起きなかった。
煙草を咥えた樹は、スムーズに着火をし、煙を吐き出した。そして、もう一度煙草を咥える。
その一連の動作は妙に様になっていて、初心者には見えない。
「樹、なんか吸い慣れてない?」
「そう見えますか?」
朝陽がそう訪ねると、樹は、はぐらかすようにそう言った。
意外な一面に驚いたのも束の間。知らないことがあっても、それは当然かと思い直した。
朝陽も樹も、互いに互いを全て理解しているわけではない。他のメンバーより、少し付き合いが長いだけだ。
朝陽がそうであるように、樹にも言えないことのひとつやふたつあるのだろう。
それは、こちらが無理やり聞き出そうとすることではない。樹が話してもいい、話したいと思った時に聞いてやればいいだけだ。
考えてみると存外自分たちは、互いのことをなにも知らないのかもしれない。
けれどひとつ確かなことがある。それは、樹が優しいということだ。体に悪いと知っていながら、こうして自分の喫煙に付き合ってくれるくらいには。
「樹のためにも禁煙するかぁ」
「えぇ、ぜひそうしてください」
茶化すような言い方になってしまったが、これは紛れもない本心だ。
優しい人が傷付く必要なんてない。
そう、だから。
心に抱えた荷物の少しくらい自分に預けて欲しい、なんて。
吐き出した紫煙と共に、朝陽は心の端でそう願った。