オルタナティブの卵1-1 私が初めて彼と言葉を交わしたのは夏、満月の夜のことだった。
以前から、村から少し離れた樹海の遺跡の一角に、人の形のように草木が生い茂っている場所があるなとは思っていた。だが、自然の造形の中に、たまたま人の形に見える物などたくさんある。木目や石の模様が人の顔に見えるのと同じだ。
だからそれが本当に人で、しかも目が開くとは思うまい。
「ひっ……」
草木の間に突然現われた青い目に、私は必死で自分の手で口を塞いだ。
訳あって人目を忍んで声を押さえながら泣いていたこともある。まるで生きている人間のようにパチパチと瞬きをする青い目に恐怖さえ覚えたが、悲鳴が漏れないように後ずさりした。
すると生い茂る草木の間に開いた青い目は私を追いかけるように動き、首から上がかすかに動く。次の瞬間、ボロリと音を立てて苔の塊が落ちて現れたのは、綺麗な人間の顔だった。
「……驚かせて、すまない」
ひそやかな男の声だった。
世話になっている叔父や村長たちよりもずっと若い。ともすれば声変わりしたての少年とも間違えられそうなぐらいに若い。まだ柔らかさの残る声色に、早鐘を打っていた私の心臓は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
それでも苔むした人間なんて尋常ではない。私は胸のあたりの服をかき寄せ、ぎゅっと握りしめる。彼は眼球の動きだけで私の頭からつま先まで観察し、月明かりを照り返す瞳を申し訳なさそうにそらした。
「怖がらなくていい、襲ったりはしないから」
「あ、あなたは、なに……?」
彼がしゃべるたびに、顔のあたりから土くれが草ごと落ちて風体が露わになった。
耳の形は分からないが、顔は私たちと同じハイリア人のようだった。髪はくすんだ金色をしていて、目は一度だけ見たことがある海のように深い青い。それ以外の身体は未だ草木に埋もれていて、辛うじて見えた頭は恐らくのっぽな帽子か兜を被っているようだ。
見えていない身体の部分は樹海特有の柔らかな土の下にあるようで、苔どころか草やキノコまで生え、頭には花まで咲いている。完全に人の形をした森だった。
こんなに状態になるまで動かなかったら、普通のハイリア人は骨だ。
じゃあこの人は一体……?
「私は人形だ」
「人形……?」
「大昔に作られた。主人を待っている」
ちゃんと答えてもらったのに、私は困惑してしまった。
私が持っている人形といえば、亡き母から譲り受けた素朴な木彫りの夫婦人形ぐらいしかない。こんな自分と寸分たがわぬような、あるいは自分よりもずっと綺麗な顔の人形なんて見たことがない。いいえ、そもそもおしゃべりする人形なんて聞いたことがない。
「……ところで君は、どうして泣いていた?」
「あ、えっと……ごめんなさい」
問われて目尻が濡れていたことを思い出す。慌てて擦り上げたが、彼の青い目はすでに私の様子を観察し終えた後だった。
もしかしたら私の泣き声で起こしてしまったのかもしれない。悪いことをしたと思ったし、村人ではない彼には訳を隠す理由もなかった。
「私、両親が去年死んじゃったんだけど」
こう話し始めるのは、何度目だろう。大体の人は、言葉の続きを聞く前に「なんてかわいそうに」と顔をくしゃりと歪める。そうして幼い私を慰めてくれるのだ。
しかし彼は眉一つ動かさず、自分の指先に咲いた花に視線を合わせ続けていた。でも冷たい印象はない。むしろ遮らずに聞いてくれること自体が、この時はありがたいとさえ思った。
「……引き取ってくれた叔父さんも叔母さんも、村の人たちも優しいから、辛くて」
「優しいのが辛いのか?」
「まだ子供だから何にもできないのに、私に自分の子と同じようにご飯を食べさせてくれるの」
なんて贅沢で罰当たりな悩みなんだろうと、再び涙が盛り上がる。
「寝床だってちゃんと一つ分もらえているの。季節ごとに服も拵えてくれるし、読み書きも教えてくれる。この間は十のお祝いもしてくれた。でもごめんなさいって言うと、ありがとうって言いなさいって言われるの」
「返せぬ恩が重いのか」
大きく頷くと、噛んだ唇から血の味がした。
昨年両親をいっぺんに事故で亡くしたというのに、私はつつがなく暮らしていた。もちろんフィローネ樹海にある村だから、都より貧しいのは間違いない。田畑を広く拓ける土地はないし、狩りの実入りだって安定しない。雨も落雷も多い。
でも貧しいなかにも貧富の違いはあって、幼いなりに私は自分が酷く恵まれていることを理解していた。普通、親のない子供なんて、こんな手厚く面倒を見てもらえない。遠くのお屋敷へ奉公に出されるか、よくて近親者の家の下働き、下手をしたら女郎宿に売り飛ばされても可笑しくない。
村の人たちは総出で私を、ちゃんと一人の子供として育ててくれようとしていた。
「いずれこのご恩は返そうと思ってる。でもそれができるようになるまで、私ずっとごめんなさいってずっと心の中で言い続けるの。うわべではありがとうって言いながら、ずっとごめんなさいなの」
こんなにも優しさが辛いとは思わなかった。子供らしく笑っていればいいのよと言われることがどれだけ辛いか、それを辛いと言うことすら罰当たりで言葉を飲み込む。だから時々こうして月明かりのない夜には、誰にも見つからないように泣いていた。
再び嗚咽を漏らし始めた私に、彼は細めた目を煩わしそうに左右に動かした。困らせてしまったのかもしれない。だがほどなく凪いだ湖面のような瞳に戻ると、そうだな、と呟いた。
「ならば耐えられなくなったらここで泣けばいい」
「……いいの?」
「私は何も言わない。ただその代わり、私のことは村の人たちには秘密にしておいてほしい。私は本来、起きない方が良い物だから、不安がらせたくない」
そのように告げた彼は、少しだけ寂しそうだった。
私はその夜、父母を弔って以来、初めて心置きなく泣いた。喉が引きつるほど泣いても、彼はじっと黙ってただ隣にいてくれた。
月が沈むほど経った頃、私は立ち上がり、真っ赤になった目を伏せながらぺこりと頭を下げた。自然に「ありがとう」と言うことができた。
「気をつけて帰るんだ」
「うん。また来るね」
以来、私は辛くなるたびに彼のところへ行って泣いた。青い目の彼は、虫の音でも聞くかのように私の慟哭に黙って寄り添ってくれた。