オルタナティブの卵4-1 今代の勇者は一兵卒上がりの十五歳というから、きっと立場をわきまえていない小汚い少年に違いない。何かあった時には、乳母たるわたくしが姫様の盾にならねば!
そんなつもりで臨んだ謁見式であったが、わたくしの覚悟は杞憂に終わった。
「彼が勇者でよかった!」
少年が退席したあと、姫様はニコニコしながらそう呟かれた。本来であれば不用意な発言は聞きとがめるところだが、今回ばかりは背後に立つわたくしも思わず頷いてしまった。
「本当に、良い少年でございました」
「まぁ貴女もそう思う?」
無邪気に振り向く姫様に、私は先ほどの少年の風体を思い出しつつ、しぶしぶ頷いた。
陛下と王妃様、および姫様への謁見に際しては当然のことながら、入念に磨き上げられて作法も叩き込まれ手から臨むものだ。それでも下賤の者は、残念ながらそう分かってしまう。
もちろん面と向かっては言わないけれど、どれだけ取り繕おうとも消せない雰囲気と言うか、内面から漏れいずる臭いと言うか。そういう気配を、感じる者は往々にしている。例えば金で貴族の地位を買った商人上がりの貴族などがそれだ。
しかしリンクという少年は、そういった下々の者が放つ気配があまりなかった。朴訥としているが、上等な服と装飾さえあれば、相応の家格のある貴族の子弟にも見えてもおかしくなかった。
「実はね、前に彼に会ったことがあるのよ!」
安堵が一転、思わず眉間にしわを寄せた。
わたくしの知らぬ間にどこでそんなことが? と口を開きかけると、隣で陛下がほっほっほと笑い声をあげた。
「以前、黄金のライネルを仕留めた兵士がおったであろう。あれがリンクだったのじゃ」
「そうなの! あのときお父様に頼まれて、彼を祝福したの」
「左様でございましたか、安心いたしました」
そういうことならば問題はない。
それにあのリンクという少年ならば、姫様に不埒なことはしないだろうという、妙な確信があった。理由はよく分からないが、経験からなる勘働きであろう。
「彼と一緒にいずれ厄災を封じるのね……。よしっ、また女神様にお祈りしてまいります!」
ぴょこりと席を飛び降りた姫様は、陛下と王妃様に手を振って謁見の間を後にされた。ひらひらと振る右手の甲には、正三角形が三つ連なった御印が温かく輝いている。
お生まれになった時から、姫様の右手には神が宿っていた。
誰もが神聖なものとして崇め、手を合わせる御印だ。しかしながら王妃様だけがその御印を苦々しく眺めていた。
「あの子に厄災を封じさせるなんて……、そんな恐ろしい日が来なければよいと願うのは、罰当たりなのでしょうか」
わたくしにも子があるので、王妃様の気持ちは痛いほどわかった。
厄災と言えばおとぎ話にも出てくる悪意の象徴である。姫様は生まれながらに、その悪意と対峙することを運命付けられたお子だ。それを苦々しく思うのは母としては当たり前の感情であろう。
しかし国母たる王妃様のお言葉としては、いささか不適切であった。
「それを言うてはならぬ」
誰よりも先に、陛下が低く短くおっしゃった。
王妃様は普段では考えられぬほどきつく口を結び、姫様が出て行った扉から視線を逸らす。
「……そうで、ございましたね」
謁見の間に重苦しい沈黙が淀んだ。
それが病のように心を蝕んだのだろうか、王妃様がお隠れになったのはそれからほどなくのことであった。病に倒れてから、まさに坂を転がり落ちるような勢いで、たった九歳の姫様を置いて逝かれてしまったのだ。
「どうして、どうして女神さまはお母様を連れて行ってしまったのっ」
甲高い泣き声が城に木霊する。
わたしくしはただ姫様のそばにあるだけで、その疑問には答えることができなかった。口をつぐみ、言葉を発さず、ただ姫様の嘆きが収まるのを待つ。まかり間違っても、王妃様が罰に当たったなどとは言いたくはない。かといって、姫様を満足させられるだけの答えも持ち合わせていない。
自分でも納得のできる答えを持たぬまま、わたくしは姫様の背を撫で続けた。
「どうしてお母様はお亡くなりになってしまったの……?」
色が変わるほど涙を吸った枕から上げた顔は、ぐしゃぐしゃに乱れている。おいたわしい。
「わたしが悪い子だったから?」
「いいえ、そのようなことはございません」
「でも女神さまはお母様をわたしから取り上げてしまわれた……、それって、どういうことなの……」
人には決められた命の定めがきっとある。でもそのことを飲み込むには、姫様はまだ年齢が足らないのだろう。
泣き疲れて寝たのを確認すると、ああ、ため息と安堵の息のないまぜになったものを吐き出しながら寝室から出る。
そこには最近ではよく見知った勇者の少年が立ち尽くしていた。
「乳母殿」
王妃様が病でお倒れになった時も、彼は騎士団と共にマモノの討伐に出かけていた。その後も『王妃様の快癒を願って』などと文言は多々あれど、結局彼はひたすら遠征を繰り返していた。
もちろんそれが彼の仕事であるのは理解している。それに彼が勇者として剣を振るうようになってから、マモノが減ったのも事実だ。
しかしこうも無表情でいるのを見ると、少々腹立たしくなってしまう。――姫様と共に戦う者であるのなら、姫様を気遣う言葉の一つぐらい言いなさいな、と。
「ああ、勇者殿ですか。姫様はいましがたお休みになったばかりです。もし用があるのならば出直してくださいませ」
実にぞんざいな言い方をしてしまったと、あとから反省した。あれはよくなかった。
だが勇者殿は「はい」と律儀な返事をするだけで、やはり表情は変わらなかった。それが逆に憎らしくなった。
王妃様の葬儀が終わったぐらいからだったか、彼は気づくと姫様の居室の前に立つようになっていた。
「姫様は」
「お変わりありません。誰にも会いたくないとおっしゃられておりますので、どうかお引き取りを」
会いたくないというのは方便だ。あんな涙と鼻水でぐしゃぐしゃな姫様と誰かを会わせるなんてとんでもない。
いずれ時が心の傷をいやし、相応しい振る舞いができるようになるまでは、わたくしがお守りせねばと思っていた。
が、ある日、わたくしがいつもの断りの口上を勇者の彼に述べようとした瞬間、居室の扉が内側から押し開かれた。
「リンク……?」
扉の隙間から、鳥の巣みたいに乱れた金の髪と、今日も今日とて涙と鼻水でぐしゃぐしゃのお顔がひょっこりと覗いていた。
「姫様! なりません、せめて御髪とお召し物を!」
「ずっと会いに来てくれてたの?」
毎日のように泣いて、風邪をひいたように声も枯れている。何度もこすり上げたせいで、目の端も鼻の下も真っ赤だ。嫁入り前の娘が見せてよい顔ではない。
こんなあられもないお姿を、家族でもない男に見せるわけにはゆかぬ。慌ててわたくしは文字通り体を盾にして、開いた扉の隙間を隠した。
「どうかお引き取りを! これ以上は見てはなりません!」
「でも、リンクが……」
「姫様も! ご自身のお姿をもう少し顧みてくださいませ」
わたくしの必死すぎる声のあとで、部屋の中から「ひゃっ」とかわいらしい悲鳴が上がった。ようやくご理解いただけたようだ。
他方、扉の前で首を傾げた少年の方は、いまだ理解していないらしく首をかしげている。どうして分らぬのか、この朴念仁め!
「また明日、お尋ねしていただけますかっ。姫君が殿方に会うには相応の準備というものが必要なのでございます!」
久々に大声を上げた気がする。
一気に吐き出したわたくしに対して、彼は優に三拍以上の間をおいてから、ゆっくりと首肯した。
「……理解しました。ではまた明日」
「それから!」
言って即座に立ち去ろうとする少年の後頭部に向って、わたくしは鋭い声を投げつける。
彼はぴたりと止まると、まるで規律訓練のごとき精密さでこちらを向いた。
「はい」
笑みもなく、困惑もない。こんな少年のどこがよいのかわたくしには分からない。
しかしながら、姫様がなついているという一点については、わたくしは彼を評価していた。不思議なことに、姫様はリンクというこの少年をいたく気に入られていた。
おそらく厄災を封印する姫巫女と勇者の間には、常人では考えられぬ何かがあるのだろう。それをわたくしは知りたいとは思わないし、知ることができるとも思わない。
だが、一国の姫君から並々ならぬ温情を賜っている彼が、毎度毎度手ぶらというのはいかがなものであろうか。
「明日訪ねてくる際には、姫様のお心を慰めるものの一つぐらいはもっていらっしゃいませ!」
無論、高価な物を寄こせなどとがめついことは言わぬ。だが見舞いには何か持ってくるのが礼儀というものでしょうが!
……とまで叫ぶことはなかったのは、彼が初めて困惑した表情を見せたからだ。
「何、か……?」
「そうです、何かです。人に聞いてもかまいませんし、自分で考えてもよいでしょう。何でもよいから、姫様のお心を慰めるられるようなものを持っていらっしゃいませ!」
さて、いったい彼は何を持ってくるのであろうか。
気の利いた菓子でも持ってくれば、おいしいお茶でも振る舞ってやろうと思っていた。逆に宝石の一つでも持ってきたときには、叩き出そうかと思っていた。そんな金に物を言わせるような見舞いはいらない。そもそも姫様はこの国で一番高貴な方である、そのようなものはすでにすべて持っておられる。
あるいは花束でも許そうと思った。きっと姫様のお好きな花など知りはしないであろうから、城下の花屋でいっとう大きな花束を作ってもらう程度で十分だ。
果たして彼が持ってきたのは、根っこが付いたままの一輪の花だった。
「乳母殿が、姫様に何かをとおっしゃるので……」
そなた、引っこ抜いてそのまま持ってきたのか! その手で、その辺の道端から どういう感性をしているの、おのれの常識は母御の腹の中に忘れてきたのか
怒り狂いそうになったわたくしが寸前のところでこらえられたのは、本日は朝から泣くまいとこらえていた姫様がぎゅうっと花ごと少年に抱き着いたからだった。
「ありがとう、枯れないお花嬉しい」
泣いたら目が赤く腫れて、そんな顔では会えないからと今日は頑張っていたのだ。それが決壊したダムみたい涙があふれ出てくる。ああもう、また台無しだ。
しかし、続く姫様のわたくしは彼を許した。
「ねぇリンク、お願いです。貴方はわたしを置いて先に死んだりはしないで。お母様のように、わたしを置いていかないで」
そうか、と己の愚かさを恥じる。
切り花は時が経てば枯れてしまう。だから姫様は根っこが付いたままの花を、泣くほど喜ばれたのだ。それが分かると少し前まで煮えたぎっていた怒りが、嘘のように凪いだ。部屋に控え目なすすり泣き声と時折鼻をすする音が響くので、わたくしはわざと音を立ててポットに湯を注いだ。
勇者の少年はひざを折ると姫様と視線を合わせ、しっかりと首を縦に一度振って「はい」と答えた。