オルタナティブの卵1-3「どうした」
彼の方から声をかけてくるのは、初めて出会った夜以来のことだった。
私の方がまともに言葉を発することができないぐらいにむせび泣いていた。彼の方も声をかけるのをしばらく待っていたぐらいだ。
どうしたと問われても、私はしばらく答えられなかった。どうしようもなく、彼に言いたくなかったからだ。
でも言わなければもっと後悔する。息を整え、こぶしを握りしめ、意を決して口を開いた。
「あのね、今日はお別れを、言いに来たの」
「……どこへ行く」
「お城だって」
彼はただ「そうか」と答えた。今はその無感動な声が少しだけ恨めしかった。
黒リザルフォスを手刀で仕留めて以来、彼の体勢は変わらない。本当に動く気がないらしい。せめて最後ぐらい私の方を見てくれればいいのに、彼はうつむき加減のまま指に絡まり始めた蔓草の先っぽを見ていた。
「王様に子供が生まれたんだって。だから私が下女で行くことになったの」
「……そうか」
ドッと倒れ込むように彼の隣に座った。少し前に振った雨のせいで、おしりも背中もびしょびしょになる。でも気にならなかった。本当はずっと彼の隣にいたかった。
「村々から一人ずつ娘を下女として召し出すようにって、お触れが出たの」
「そうか」
「私ようやく、村のみんなに恩返しができるの」
「そうか」
「他の娘たちは、親兄弟みんないるから、身寄りがないのは私だけだから。後腐れなくお仕えできるのは、私だけだから……!」
行きたくない、遠いお城なんて怖いと言えるわけがない。慈しんでくれた村の人たちを裏切るわけにはいかない。でもそんな遠くへ行ったら、もう二度と故郷の土は踏めないだろう。
自分が何のために大事に育てられてきたのか理解してしまうと、自然と足取りは遺跡の方へ、彼のところへ向かっていた。そうして今に至る。
膝を抱えて顔をうずめた。
「嬉しいはずなのに、辛いよ」
「村の人たちを憎く思うか?」
「……思わない。今まで良くしてもらったから、思わないようにしている。だから行くの私、お姫様の下女になりに行く」
そのことを彼に伝えるのが、正直一番辛かった。いつも泣いているときに寄り添ってくれたのは、青い瞳の人形だけだ。
良くしてくれた村の人たちへの恩は返せるだろう。だが彼には何も返せていない、返せないまま私は中央ハイラルに行って、多分そのまま一生戻ってこられない。今からでも何か返せるものは無いか考えたが、良い考えは思い浮かばなかった。出発は明日だ。
「一つ聞きたい」
葉の擦れる音がしてふと顔を上げると、彼がこちらに顔を向けていた。
黒リザルフォスを倒した時以外に動いたことがない彼が、私にただ質問するためだけに顔をこちらに向けている。これはきっと、とても大事なことを聞かれる。
そう直感した私が緊張で固まっていると、一拍遅れで頭の上から羽虫が飛び立った。
「そのお生まれになった王の子供は姫君だと言ったが、お名前は聞いたか?」
「えっと確か、ゼルダさまって言ってたと思う」
「……そう、か」
今まで微動だにしなかった頬がほんのりと緩む。見ようによってはどこか諦観した淡
い笑みだ。もう何年も通い詰めていたが、彼がこんな表情を浮かべたのは初めてのことだった。
彼は立ち上がった。
めりめりと土から剥がれる音がして、絡まっていた蔓草も容易に引き千切る。いきなりのことで呆ける私をよそに、彼は腕に生えた草を払い首回りに絡みついた苔を叩き落とす。今まで首の角度すら変えなかったのが、嘘みたいに彼は滑らかに体を動かし始めた。
「主人の元へ行きたい。城まで案内を頼んでもいいか?」
彼が人ではなく人形だということを、その時はすっかり忘れていた。
静かだが真摯な瞳に頼まれたら、恩義も何もかもすっ飛んでしまう。ああ、この人は必ずお姫様の元へ連れて行かなければいけないのだと、妙な確信を抱いてしまった。
首を縦に振りながら立ち上がり肩を並べると、意外にも彼は小柄だった。私と同じぐらいの背丈しかない。
「私の方こそ、礼を言わなきゃ。ありがとう」
「礼などいらない。君とはどうやら仕える者が同じようだから」
「じゃあ仲間だね」
こうして私は異様な風体の青い目の彼を連れ、ハイラル城に奉公に上がった。
彼とは城門のところで離れ離れにされてしまうのだが、後に彼が勇者と呼ばれるようになるとは、この時の私は想像すらしていなかった。