オルタナティブの卵2‐2 滑りやすい石の階段も難なく上り、日差しの元へ出る。眩しい光に目を細める動作が、彼の妙な人間臭さを浮き彫りにしていた。
「……ああは言ったが、もちろん尋問などする気はない。ただユーのボディーには大変興味があるので、研究には協力してもらえると助かる」
「約束を守ってもらえるのならば問題ない」
「すぐに会うのはさすがに無理だぞ?」
「猶予はある。すぐでなくともゼルダ姫様にお仕えできるようになるれば、それでいい」
「ハードだが、善処しよう」
二人して肩を並べ、意気揚々と監獄を後にする。オホリ橋へ続く小道を行く彼の足取りは、心なしか嬉しそうに見えた。
ふと思う。
「ミーを疑ったりはしないのか?」
橋を渡り、貯水池のあたりで、ふと彼は足を止めた。きょろきょろ周囲を見たあとで、遠目に見えるハイラル城に目を細めている。それは初めての場所を見回しているというよりも、どこか懐かしい風景を探しているように見えた。
そんな彼の横顔を覗き込むと、無表情を装っていたが浅く小さく眉間にしわが寄っている。今さら疑念が湧いたのだろうかと思ったが、彼は首を横に振った。
「私は、私を作った研究者に散々こき使われたので、多少の無茶は慣れているだけだ」
思わず高らかに笑ってしまった。こいつはいい。
人形のくせにうっすらとだが本物の感情があるみたいだ。作った研究者にどんな扱いを受けていたのか知らないが、憮然とした表情が実に人間臭い。
ゲラゲラと笑っていると、彼は表情を消して不思議そうにミーを見上げる。ソーリーソーリーと適当に謝りながら、落とし損ねた苔の残る頬を人差し指でつついた。人の肌のように柔らかかったが、やはり温度は無かった。
「では最初の無茶を言い渡そう。頭のてっぺんにマッシュルームが生え始めているから、下女殿に身体を洗ってもらってくれ。全てはそこからだ」
「下女殿?」
「ここまでユーを連れてきたガールだ。すでに洗濯女として立派にお役目を果たしているぞ!」
青い目が一瞬丸くなったあと、安堵した様子で彼は「そうか。それはよかった」と呟く。どこか安心した感じだ。まぁ彼女の方も不審者を連れてきたことでお咎めはあったが、手を回しておいたのが功を奏した次第だ。
そのあとすぐ、彼は大きな洗濯用の桶に入れられて、新人下女殿の手で頭からつま先まで洗われることになった。その際に判明したのだが鎧は着脱式で、脱いでも一向にかまわないらしい。
「んもう、脱げるなら最初から脱いでよ!」
一週間先に働き始めていた下女殿に丁寧に咎められると、彼は一瞬とてもびっくりしていた。だがすぐにムッと俯きながら鎧の紐をほどく。
「誰も脱げとは言わなかった」
「遺跡に転がっていた時から草取りしてたんだから、少し考えれば分かるでしょう? そんな小汚い姿じゃ、いつまでたってもお姫様になんか会えないよ」
「……そう、なのか…………?」
「普通そうでしょ。あと体は自分で洗うこと」
唖然としながら彼が脱いだ鎧を、ミーは下女殿と一緒にたわしで洗う。ごしごしと苔と土とを落としながら、つぶさに彼の体を観察した。
継ぎ目のない滑らかな体は生身の人間を見ているようだ。作った人間の設計思想が垣間見えるようだ。無論あとでじっくりと見せてもらおう。
その後、鎧は一般的ではないのだと諭して研究員の予備の服を着せると、やはりどこからどう見ても十五、六の少年にしか見えなくなった。ひとまずはこれで、研究部の見習いの振りをしてもらおう。
「さて、色々聞きたいことはあれど、まずはユーの目的が知りたい」
「それは先ほども述べたが――」
「もっとディティールが聞きたいんだ。ユーはずばり、勇者か?」
「えっ!」と明らかに黄色い声を上げたのは、彼の濡れた髪を拭いていた下女殿だ。それもそのはず、巷では勇者の話でもちきりだった。
二か月ほど前に姫殿下がお生まれになった際、幾度も王国を危機に陥れてきた厄災の復活が予言された。それ自体は凶事であったが、予言を授かった大聖堂の司祭によれば姫殿下が厄災を封じること、そして姫殿下の元には退魔の剣を携えた剣士、つまり勇者が現れることも同時に予言された。
おかげでいまハイラルは姫殿下誕生のお祝いと同時に、伝説の剣探しで沸き上がっている。猫も杓子も退魔の剣探しに繰り出して、我こそが勇者だと名乗りを上げた者は一人や二人ではなかった。しかし未だ本物と判じられた者はいない。
そこに現れたのが、この不可思議な彼だ。
予言とほぼ同時に現れたとはいえ、人形を勇者と結びつけるのはいささか酔狂かもしれない。だが過去の厄災討伐時に古シーカー族が助力した経緯から鑑みるに、古シーカー族製の装備一式を身に着けた人形が勇者と何も関係ないとは思えなかった。
ところが彼は明瞭に首を横に振る。
「違う」
「えー違うの? なんだ、残念……」
驚いたりがっかりしたり、下女殿は多忙だなと横目にちらと見る。あらかた髪を拭き終わると、今度は奥の休憩室に勝手に入り込んでお茶を入れ始めた。不審者を招き入れた疑惑で拘束されていた時には相当怯えていたのに、一週間でずいぶんと慣れたものだ。
かたや彼の方はというと、ひとこと「違う」言ったっきり口を噤み、ミーの研究室をぐるりと見回す。研究員がもう一人在籍しているが長らく別の場所で研究を行っていて、いまこの部屋を使っているのは実質ミー一人だった。
「勇者ではないのか……、しかし何かリレーションシップがあるのでは?」
否定された仮説にこだわり続けるのは建設的ではないが、かといって別の考えもない。諦め悪く問うと、彼はミーの方へ向き直り、青い目で貫くようにこちらを見据えた。
「それについて知ってはいるが、口外禁止条項に抵触するから言えない」
「今度はノーではなく、ノーコメントか」
つまり、勇者と何らかの関係はあるということだ。言えないというだけで、過去の資料を掘り返せばいくらか期待できそうだ。
これは面白くなってきたぞと思ったが、如何せんどこから手を付けたらいいのか分からない。彼のような精巧な人形に関する記述を見た記憶はなく、数千年にわたる古シーカー族の資料全てに目を通していたらしわしわの老人だ。
「だとしたらせめて、手がかりぐらいは教えてもらえるか?古シーカー族のレコードは膨大すぎてどこを探せばいいか分からん!」
半ば駄目元で叫んだ言葉だが、意外にも効果があった。
彼はふむと一息ついて考える素振りをした後で、お盆替わりの試料トレーで湯呑み《マグ》を持ってきた下女殿の前を素通りする。彼女が「どうしたの?」と問うのを無視していったん研究室の外へと出ると、干していた兜を抱えて戻ってきた。
「……彼女の性格を考えると、もしかしたらこの辺りに」
すでに乾き始めた兜を、中身をこちらへ向けて差し出してくる。覗き込むとどうやら兜の内側の奥の方に何か文字が彫ってあった。たわしで擦っているときには気が付かなかったが、どうやらシーカー族の暗号文だ。
「クレバーなのかルーズなのか分からんな」
「非常に優秀だが、非常に適当な女性だった」
「ふむ、読んでみよう。少し待っててくれ」
彼のように目自体が光ったりはしないので、診察用のライトをカバンから取り出した。その際にバサバサと音を立てて紙の束が崩れる。三人分の湯呑み《マグ》を狭い机の隙間に並べようとしていた下女殿が、あーと天を仰いだ。
堆積物の雪崩だ。研究室では稀によくある。
「じゃあ博士が解読している間、お部屋のお片づけ手伝ってください。ちょっとこのお部屋はひどすぎます」
「了解した。この部屋の状況については、下女殿に大いに賛同する」
散々な言われようだが、真摯に研究と向き合っていると片づける暇などないのだ。フンっとそっぽを向いて、目の前の暗号分に集中することにした。
暗号文自体はさして難しいものではなかった。現在のシーカー族が使っているものと大きく変化はない。古い時代から我らシーカー族が同じ構造の暗号を使っていることにセキュリティ的な危機感も抱いたが、今は読み解くことができるのでありがたい。
問題は字の汚さだ。
何を思ってこんな場所に言葉を残したのか分からないが、非常に判読しづらい。そもそもなぜ兜の中なんだ。肩当てとかコテとか、もう少し書きやすい場所があっただろう。それに兜に書くためには彼に兜を外させる必要がある。散々無茶を言われたと彼は憮然としていたが、なんとなく当時の様子が想像できた。
そんな雑念を振り払いながら、数千年前に彫り込まれたであろう汚らしい文字を読み解いていく。気付けば夕方で、ヤマガラスが仲間に呼びかけながら寝床へ帰る時刻になっていた。
「ユーは!」
兜から顔を跳ね上げた。
咄嗟に出た言葉がどれだけ彼を傷つけるかなど、その瞬間は考えられなかった。
「勇者の、代替者なのか……!」
何千年もの時を経て目覚めたというのに、オルタナティブと呼ぶのはあまりにも失礼だ。言葉を発してから非常に申し訳ないと思った。ミーの言葉は彼の存在自体を蔑ろにする発言だ。
それでも数千年前の衝撃的なメッセージを読み解いたばかりのミーには、それ以外の言葉が見つからなかった。事実メッセージには、明確に彼が『代替者』であると書かれていた。
「それについては口外禁止条項に抵触する。……だが、否定はしない」
下女殿と片づけをしていた彼は、ぴたりと動きを止めた。
あらかたの物は種類ごとに端に寄せられていて、久しぶりに研究室の床が広く見えている。彼はその真ん中に立ち尽くし、真正面からミーを見据えた。
「ノーではないのだな……」
「貴方なら理解できそうだと思ったのは、間違いではなかった」
「随分と買いかぶってくれるな」
「だが貴方は理解した」
「ああ確かに、知りたくもないが、知ってしまった。理解してしまった」
彼のいう通り、ミーには理解できた。
あまり理解したいとは思えないことだったが、知らなければ対策の打ちようもない。知ることができてよかったと思う反面、知ってしまった責任で押しつぶされそうだった。
ところが下女殿は言葉自体が分からないのか、ミーと彼の両方を見比べて首を傾げている。
「おるたなんとかって、どういう意味です?」
これが一般的なハイリア人の反応だろう。古シーカー族について研究し、ある程度ハイラル城の情勢について頭に入っているミーだから、彼が存在することの危うさが瞬時に理解できた。
あるいは、彼自身がそれを発さないように口外禁止条項に設定されたのは、彼女のような無垢な民草の不安をむやみに煽らないためかもしれない。ミーが今たどり着いた結論は、本来であれば然るべき地位の人物が、然るべき手順で慎重に公開しなければならない情報だ。
だが残念なことに、下女殿は聞かなかったことにはしてくれないようだ。押し黙ってしまったミーへ、何度も何度も聞き返す。
ならば仕方がない、聞いたら後悔するだろうが、聞いてもらおう。
彼の方を伺うと、ミーが口を開こうとすることに対しては、特に止めるつもりはないようだった。
「非常に最悪なことに」
厄災が目覚めようとしていることが危機なのではない。
厄災に対抗する手札が揃わないことが危機なのだ。
だから彼が目覚めるしかなかった。
「今のハイラルに、勇者が存在しないってことだ」
誰とも視線を合わせることなく、彼はゆっくりと首肯した。