その次の世界、フロイドはいつものように、出会った頃からボクにかまってきては、からかって笑っていたけれど。その視線に含まれたじっとりとした熱は、前の世界よりずっと鳴りを潜め。ほんの少しだけ、最初の世界のフロイドに戻ったような、そんな印象を抱かせた。
まるで今までの数千回繰り返された世界が嘘かのように、フロイドが呪石に操られてボクと肉体関係を結び、ボクが妊娠するという事件が起こらないまま、前の世界では超えるのことできなかった時間を、その世界のボクは超えて生きながらえた。
初めて訪れた、超えることのできなかった先の未来……そこにはナイトレイブンカレッジらしい問題が日々積み重なっていたけれど、表面上では彼との初めての世界のように、彼を苦手に思うボクと、そんなボクをおもちゃにする不愉快な同級生という立ち位置に戻り。もう二度とフロイドを巻き込むことはないんだろうと、ボクは魂の奥深くでそっと、その事実に安堵しながら同時に、どこかさみしい気持ちを抱えていた。
だから、フロイドが彼の瞳の色のまま、ボクの手を引いてあの青いケーキの元に連れて行ったハロウィーンも、ウィンター・ホリデーで帰宅者で列ができた鏡の間に、わざわざボクを探しにやってきたフロイドがボクをからかった事も。フロイド本来の瞳がボクを見つめ、踏み出せない先に連れて行こうとするその行為が、嬉しくて、それ以上に怖くて……また呪石のせいでおかしくなってしまうかもしれないボクたちの関係を考えると、魂の奥底に刻まれた、フロイドの絶望した顔を思い出し、どうにか今のボクがフロイドを巻き込みませんようにと、そう祈ったせいか? ボクは無意識にフロイドを避けるようになっていた。
だからかは分からないけれど、ボクとフロイドは間違いを犯すこともなく季節は流れ、文化祭も終わった一ヶ月後にその事件は起こった。
ブロットの研究をしている魔法技術機関による、学園内でオーバーブロットした生徒の拉致——
これによってボクと、他四名が被験体として嘆きの島に秘密裏に作られた『S.T.Y.X.』で検査を受けることになった。がその途中、所内で保管されていたファントムの暴走に対処する事になったボクたちは、タルタロスという、『S.T.Y.X.』地下のファントム収容施設へと降りることとなった。
そこで一緒にタワー最下層を目指したのは、フロイドとジェイドとともに海からやってきたアズールだ。
アズール・アーシェングロット……
二年に上がると同時に、前オクタヴィネル寮長から任命され寮長となったこの男は、ボクをからかい人のことをオモチャのかなにかのように扱う自由人のフロイドとその兄弟のジェイド……この二人と悪さを企ては、あくどい事をしている、そんな最悪な印象の男だった。
そんな彼にはじめて話しかけられたのは、学園に入学して初めてのテストの結果が張り出された日だった。
ボクのテスト結果が、絶対に揺るぎない一番であることは分かっていた。だから張り出されたテスト結果を横切って、今晩から取り掛かる予定の参考書に必要な書籍を、図書館に行って揃えて置かなければと、お母様に指定された参考書のタイトルを思い出していた時だ。
「リドル・ローズハートさん」と、背後から呼び止められて振り返ると、そこに立っていたのがアズールだった。
アズールは、やたらと胡散臭い笑顔で「はじめまして、アズール・アーシェングロットと申します」とにこやかに挨拶してきた。うっすらと記憶にあったその名前は、次席入学者と同じ名前だった。
そして彼は、「学園に入学して初めてのテスト、一位おめでとうございます」とボクのテストの順位を称賛し、テストの難易度の話や、どこがどう難しかった、解き方がどうだとベラベラと一方的に話し最後、「僕達、お友達になりませんか?」なんて言ってきた。
胡散臭い笑顔が一瞬、「友達になりませんか?」なんて言いながら人を見下し軽んじる目つきにに変わったのを、ボクは見逃さなかった。
その顔に、ボクは一気に思い出した。この男が、フロイドとジェイドと共に、ここ最近、学内の生徒に対し、今と同じ様に胡散臭い笑顔で「困ったことはありませんか?」「なんでもお力になります」と声をかけている姿を……絶対に裏があると確信したボクは、「キミたちのことは信用できない」と、目の前で胡散臭く笑顔を浮かべたアズールにきっぱりと言い放って、「では、それ以外に用がないなら失礼するね」と、彼を無視してその場を去ろうとしたその時、狡猾で……どう考えても詐欺師特有の顔が、『今に見てろよ』とでも言いたげに一瞬表情を変え、ボクを睨みつけた。
その後、事務的な接触以外、アズールの方もボクに話しかけることなんてなかったけれど、その時最後に見たアズールの表情が、ボクの記憶に引っ掛かるように残っていた。その正体を、ボクはその後遠目に知ることとなった。
海から来たアズールたちは、殊更、飛行術が苦手だった。
それでも運動神経の良いフロイドは、ただ高く上がることだけはできたので、人魚という種族自体が飛行術を苦手としているわけでなないだろうに、双子の片割れであるジェイドは飛行術の授業自体好まないのか、飛ぶことを最初から諦めていた。
けれど、アズールは違った。
授業で足りなければ放課後、グラウンドの端で同じクラスのジャミルに、うんざりされながらも必死に食らいついて教えを請いながら練習している姿を、ボクは馬術部の部活中に見かける事が多かった。
それだけじゃない、放課後の錬金室でできるまで試行錯誤する姿や、ボクしか訪れない様な時間帯の図書館で必死にかじりついて勉強する姿を、一度や二度じゃない回数遭遇した。
その姿は、普段の紳士ぶった彼とは違う、泥臭いまでの必死さがあった。そして、その必死さは、お母様に望まれて勉強するボクとは決定的に違った。彼はずっと、自分自身のために勉強しているんだ。
その瞬間、ボクの中でほんの少しだけ、彼への印象が変わった。継続して努力する事の厳しさを知っているからこそ、彼のその他に問題があれど、ボクは彼のその一点を評価した。ボクにはきっと出来ない、一〇〇パーセント自分のための努力ができるアズール・アーシェングロットへの再評価……
だから、タルタロスの下層を目指して、二人してあの長い階段を下っていた時だって、貪欲なまでに自分の為の努力を惜しまず研鑽を積んできたキミのことだから、そう簡単に怪我なんてしないだろうことは分かっていた、が——
もしも、何かの不意打ちでアズールが負傷なんてしたら、彼の治療に当たるボクが法律違反を犯してしまう。人魚の治療には、専門資格を持ったものでなければ処置に当たれないのだから……
だったら、法律違反にならないためにも、ボクが前に出ればいいだけのことだと、ルールに則り動いたボクに対して、何故かアズールが「僕を弱い物扱いするな!」と怒った。
キミ、何か勘違いしてるんじゃ……と、勝手に怒り出したアズールに反論しようにも、ボクの言葉に耳を傾けそうにない今の彼に言い出せないまま、原初のファントムである『ファントム・タイタンズ・マグマ』を二人で退け更に下層に向かう際、ほんの少しだけアズールの機嫌が戻っているように思えたので、そこでやっと「キミ、やっぱり何か勘違いしているようだけど」と、話を切り出した。このまま、勘違いされたままなのもよく無い事は、ボクがオーバーブロットした後に、重々に学んだ事だったからだ。
だから、誤解を解くために説明したのになぜか、その後のキミときたら、急に腹を抱えて大声で笑いだして、こともあろうにボクのことを〝変〟だなんて言うんだ。どうみたって、急に笑い出したアズールのほうが変なのに。
それからのアズールは、なんだかずっと上機嫌で、今までにない距離感で話すキミは、ボクに自分事や未来の事を語って聞かせ、同時に「人生は一度きり、欲張らなければ損ですよ!」と強欲な彼らしい話を語って聞かせた。
この時、きっとキミはただ思ったことを話しただけだろうが、ボクにとってその言葉で、生まれて初めて、目の前が開けたような気さえした。キミのこんな、何気ない言葉にだ。ボクの未来、こんなにもたくさんの選択肢を当たり前に選べるなんて考えたこともなくて……この時のボクには、未来をこうやって夢描くキミが、ほんの少しだけれど輝いて見えたようにさえ思えた。