「はぁ!? ふっざけんなッ!!」
朝、フロイドの怒鳴り声で目が覚めた。
起き上がって辺りを見回せば、ベッドから離れたフロイドが、スマートフォンを手に電話の向こう側の相手と口論している。電話の相手もかなり怒っているのか、ボリュームの大きな声は、スピーカーを通してうっすらと聞こえてきた。その内容は、こんな状態になったボクと学校を抜け出した事への叱責ばかりだ。この先どうするのかと問われ、フロイドが「陸の家に連れて行く」と言えば、それもまた相手の怒りを買ったのか、レシーバーから男性の怒鳴り声が聞こえた。
「うるせぇなぁ! あ〜分かった……もう親父には頼ンねぇから」
スマートフォンの通話を切るが、その後も何度もコールが鳴るスマートフォンに苛立ち、フロイドが電源を落とす。
「電話……キミのお父様から?」
「んぁ? 金魚ちゃん起こしちゃった?」
ごめんねと謝りながら、フロイドが背後からボクを抱きしめた。半日にも満たない時間で、やたらとボクに深くスキンシップをしてくるようになったフロイドに、ボクも特に手を払い落としたりせず好きにさせた。
「キミのお父様、凄く怒っていらしたけど……」
スピーカーから漏れる怒号だけで、電話の向こうにいるフロイドのお父様がどれぐらい怒っていらしたか、それは離れて聞いていただけのボクでもすぐに分かる程だった。だが、心底怒ってはいたけれど、その言葉の節々にはフロイド……我が子への心配が滲み出ていた。
「親父はさぁ、いつもああなの。だから気にしなくていいよ」
そうは言うが、フロイドを心配するご両親の事を思えば、今ボクがしていることは絶対に正しい事ではない。それが分かっているなら、フロイドがなんと言おうが学園に戻る判断をする事が最も正しいはずだ。
「フロイド……やっぱり学園に戻った方が……」
「大丈夫だって! それに金魚ちゃんもあんな奴らのとこに行くのは嫌なんでしょ? 学校戻ったらさぁ、すぐに連れてかれちゃうよ」
大丈夫とそう繰り返すフロイドの言葉をいつもの様に跳ね除けられず思考停止してしまうのは、この世界では初めて接触したダーハム・グレイソンへの、前の世界で魂に刷り込まれた嫌悪や、モルモットとして扱われたトラウマのせいだ。
「親父に頼ンなくてもどうにでもなるって! それより、もうそろそろ到着するから準備しよう?」
ニコリと笑いかけたフロイドは、話をここで切り上げて、バスルームに顔を洗いに行ってしまった。
ひとり、部屋に取り残されたボクは、昨日よりもまた少し大きくなったように感じるお腹を、フロイドのパーカーの下に感じ。好転する兆しのない現状から目をそらすことしかできなかった。
下船してすぐ、目の前に広がった初めて見る景色に驚く暇もなく。パーカーのフードで顔を隠し、フロイドに手を引かれたボクは、隠れるように移動した先。たどり着いたホテルのフロントで、フロイドのクレジットカードが使えなくなっていることが分かった。フロイドのお父様が、この数時間の内にカードを止めたようだ。
受付のレセプショニストはフロイドのことを知っていたようで、リーチ家の子息なら宿泊自体問題ないとは言っているが、このホテルに泊まれば、ボクたちの所在はフロイドのご両親には筒抜けになるだろう。それが分かっていて、このホテルに宿泊するという選択肢はフロイドにはなく、苛立つフロイドが次に手を引いた先は、先程よりもずいぶんグレードの低い安ホテルだ。手持ちのマドルだけでは、この部屋ですらこの先のことを考えると長期間宿泊するのは難しいだろう。
それでも、部屋にシャワーもついていたし、水圧が低くほとんど水みたいなシャワーの水も、アトラクションか何かのように思えばそれなりに楽しかったようで、フロイドの機嫌も少しマシになっていた。ただ、ボクの方は慣れないことの連続で、夕食のサンドイッチを少し口にした時にはすでに熱が出ていて、ベッドから起き上がることができなくなった。ボクの熱を確かめるように触れたフロイドの手指が冷たくて、それが気持ちよくて額や頬を擦り付けると、それもフロイドの機嫌を良くするには十分だったのか、額や頬だけでなく首筋にも手を這わせて、ボクの熱を取るようにその手を動かした。
それが二日続き、三日目でやっと体調が落ち着き出したその日の晩、ホテルの部屋に初めて『anathema』からの襲撃があった。
深夜、部屋の入口から侵入した奴らが、ベッドの膨らみを確認してシーツをめくれば、出てきたのはボクやフロイドではなくクッションや枕の膨らみで……瞬間、フロイドがボクと一緒に隠れていたクローゼットを飛び出し、襲撃者二名を床に沈めた。
「雑魚がッ」
床に転がった襲撃者を踏みつけたフロイドは、部屋を出ようと自分とボクのバッグを掴み、未だ体調の戻らないボクを腕に抱えホテルを出た。
それからボクたちは、捕らえようとする『anathema』から逃げるために乗り物や徒歩で南西に向かい、ひたすら移動を繰り返した。半月もしない頃には、フロイドの家からも彼を連れ戻そうと動きがあり、黒服の集団に追われ。ボクの方はお母様から警察に捜索願が出されて、人の多い街中を安易に歩くこともできなくなっていた。
それだけじゃない、マドルも底をつき、ポーンショップで手持ちの持ち物を質に入れ、それだけでは足りなくなった頃。フロイドが動けないボクの代わりに、日中働いて日銭を稼いだ。しかし、それもことごとく上手く行かず、店側がフロイドの足元を見て、給金を少なく見積もったり、店の店長や従業員、お客さんとも言い争いがあったらしい。
苛立ちや機嫌の悪さを顔に貼り付けたフロイドは、それでも決して、今を投げ出すことはしなかった。言い争って水の入ったグラスを投げつけられ、怪我をしたフロイドが無言で帰宅した晩でさえ、フロイドはボクに「飽きた」とだけは絶対に言わず。ただ無言で、濡れた体のままボクに抱きついてきた彼の背を撫でることしか、身重のボクにはできなかった。それがとても苦しくて仕方ない。子供がお腹にいても、ボクたちはまだ一七歳の、世間一般では子供とされる年齢なのだから。
ボク達はこうやって、日々追い詰められ。気を抜くこともできぬまま、悪くなっていく現状を必死にしがみついて堪えることしかできなかった。
だが、ナイトレイブンカレッジを抜け出して三ヶ月経つ頃には、とうとう限界が来た。
ボクの目の前、資金が底をつき、日々の食事さえまともに摂れず、路地裏の階段に座り込んで無言で俯くフロイドは、精神的にも肉体的にも限界にしか見えない。
食事だって、ボクの分はなけなしの手持ちから出して買ってきていたが、フロイド自身隠してはいたが、ゴミ箱を漁って食べ残しや消費期限の切れた腐りかけを食べているのを知ってしまった時は、言葉にならない痛みが胸を締めつけた。
ボクの知っているフロイドは、自由人で、飽きたら一瞬で見向きもしなくなるような、不真面目な男だったはずだ。
あの時だって好奇心と気まぐれでボクのお腹の子を『産んで欲しい』と、そう言ったと思い込んでいたボクの中の彼が、分からなくなってしまった。
そして、この数ヶ月で心に生まれたフロイドへの情が、「もう、学園に戻ろう」と、この逃走劇の終わりを告げさせた。
「キミももう限界だ、ボクに巻き込まれたキミが、そこまでしなくていいんだよ」
そうだ、もともと恋人でも、友達ですらなかったボクたちの関係だ。たとえお腹の子がフロイドの子であっても、初めから双方が望んだ上での性行為で生まれた子ではない。だからキミが、ここまでする必要はないんだ。
この瞬間まで、ボクはきっと心の何処かで、フロイドのこの頑なさは、上手く行かないことへの反抗心か何か、意地のようなものだと思っていた。だから、ボクが終わりを告げれば、飽きて学園に戻るだろうとそう思っていたんだ。
だから……ボクから終わりを告げられ、顔を上げたフロイドのその左右色の違う瞳から、大粒の涙があふれる光景なんて、一欠片も予測していなかった。
「な……んで、なんでそんな、学校帰ったら、金魚ちゃんも、オレとの稚魚だって……どうなるのかわかんねぇのに……金魚ちゃんがいなくなるのが嫌で、一緒にいたくて、オレ、すっげぇ我慢したのに……なんで金魚ちゃんがそんな事言うんだよ……!!!」
グッと抱きしめられてフロイドの腕の中、フロイドの涙が雨のようにボクに降り注ぎ、限界だったフロイドの本音が溢れ出る。
「オレは、ほんとに、金魚ちゃんとオレに似た稚魚と三人、一緒にいたいだけなのに……なんで、なんでダメだって、金魚ちゃんまで言うんだよ……オレは……こんなに、一緒にいたいのに……一緒にいたいから、こんなに我慢したのに……ふざけんなッ」
学園を抜け出す時に聞いたあの言葉、同じ言葉であっても今聞くとそれはもっと違う形でボクの心に収まろうとしていた。
「ねぇ……フロイド……キミって、ボクの事好きなの?」
「はぁ? 今さら何? そんなのずっと言ってんじゃん」
ボクの思いもよらない言葉に、涙が引っ込んだのか、怪訝な表情のフロイドがボクを見る。その反応に、ボクはずっと理解できなかったフロイドの本質を理解した。そして、彼がどれほどの覚悟で、あの時ボクを学園から連れ出し、今の今まで頑張ってきた気持ちの正体……
彼のこのまでの誠実な想いを知ってしまえば、受け取ったボクは正しくその思いに報いらなければならない。
(だってボクも、フロイドが好きだから……)
そうだ、ボクはこの不真面目でふざけた、そしてどこまでも自由なこの男に憧れにも似た眩しさを感じていたんだ。
ルールに縛られたボクとは真逆の男に……だ。
この男に手を引かれ知ったボクの世界の広さと、眩しいまでの胸に募る『楽しい』と湧き上がる純粋な気持ち……今ならこれを、恋や愛なんて場所に置いても間違いじゃないと断言できる。
「分かった。キミが本気でボクを愛してるなら、ボクもその思いに報いるように覚悟を決める。キミの子を絶対に産んで、生まれてきた子とキミも、両方ボクが幸せにしてあげよう」
だから、本当にボクが好きなら、ボクと生きていくと言うなら、今ここで愛を誓えとフロイドに問えば、もう一度ぎゅっとボクを抱きしめたフロイドが「好き……大好き、金魚ちゃんの事、オレ、本当に好きだよ」と、いつもより熱い指先がボクの頬を撫でる。その指先にすら愛を感じ、そう思えるボクもキミを愛しているから分かるんだ。
「ボクもキミが好きだよ……」
ゆっくりと目を閉じれば、ボク自身に愛を誓ったフロイドが、永遠を誓うように、ボクの唇に唇を重ねた。