しっとりとしてほろ苦い、酔いつぶれた常連や眠りこけた酔っぱらいを追い出した真夜中のエンジェルズシェアに、皿やグラスを拭いて重ねる音だけが響いている。
戸にはCLOSEDの札をかけ、手伝ってくれていたチャールズにも先に上がってもらったので、今この店にはオーナーであるディルックしかいない。
最後のグラスを磨き終わり戸棚に仕舞ったところで、不意にドアベルが軽やかな音を立てた。
「閉店の札が見えなかったのか? 今日はもう店じまいだ。帰ってくれないか」
ディルックはそちらに一瞥もくれず冷ややかに言い放つ。
姿を見ずともこんな時間に悪びれもせず入ってくる人間が誰かなどわかりきっていた。
「つれないな。あえて誰もいなくなったのを見計らって来たんだから、飲みに来たんじゃないのは分かってるだろう?」
「ここは酒場だ。飲みに来たのでなければ客ですらないだろう」
ディルックの声の棘など意にも介さず、真夜中の客人……ガイアはディルックの目の前のカウンターへ座った。
同時になにやら持ち込んでいたらしい白い箱をカウンターへ置かれ、そこでようやくディルックの視線が動く。
氷元素を纏わせているらしい箱からは何やら甘い香りがする。
面倒事ではなく菓子を持ち込むなど珍しい……と問いただすように視線をやれば、ガイアはにんまりとした笑みをたたえたまま箱を開け、中からやや小ぶりなホールケーキを取り出した。
「美味そうだろう、誕生日だからって張り切って旅人が作っていたのをもらったんだ」
あの旅人は常日頃料理が得意だと言っているが、実際凝り性なのかいつも店の料理として客に出しても遜色ないものを作り上げる。
ガイアの持ち込んだケーキを見ても、クリームはムラなく塗られているし上に乗っている果実は飾り切りされていて見栄えが良い。
さらに真ん中にちょこんと添えられた花がディルックの目を引いた。
「これは……ドドリアンか? 砂糖漬けとは随分洒落ているな」
「酒漬けにして砂糖をまぶしたんだと。これは俺に渡す分だからってわざわざディオナに頼んだらしいぜ」
あの酒嫌いの少女が渋りながらも旅人に手を貸している様子が目に浮かんで微笑ましさに口元が緩みかけたが、何故自分に頼まなかったのだろうとディルックは密かに眉を寄せた。
主に扱っているのがワインだから漬けるためのものとしては適さないと思われてしまったか。
もちろんワイン以外も多数取り扱ってはいるのだが、酒を飲まない旅人には分からなかったかもしれない。
それともワイナリーのオーナーとしてだけではなく、日々夜闇に紛れてモンドの治安維持に奔走している一面を知っている彼らに、忙しいだろうと気を使わせてしまったか。
……あるいは、ガイアへの分だと知ったら断られるとでも思ったのだろうか。
「……そうか、君宛てのものなら自室でゆっくり食べればいいだろう。わざわざ自慢でもしに来たのか? 騎兵隊長様は随分と暇を持て余しているようだ」
「そう拗ねるなよ。だいたいホールケーキなんて一人で食べるもんじゃあないぜ」
思いの外声色が固くなったことをさらりと突っ込まれ、ディルックの眉間の皺が深くなる。
拗ねていないなどと反論しようものなら言葉巧みにからかわれるのが目に見えている。
黙り込んでいるといつの間に取り出したやら、ナイフを片手にガイアがにやりと隻眼を細めた。
「まあ見てろって。これは俺の分でありお前の分でもあるんだからな」
ナイフが柔らかくケーキに沈むのを訝しげに眺める。
切り分けられたケーキの白いクリームの下から現れたのは淡黄のふわふわした生地……ではなく、しっとりとした茶色だった。
それが何層にも重なり、間にクリームが挟まれている。
「ほら、お前の得意料理にそっくりだと思わないか?」
「……流石にそれはこじつけじゃないのか」
甘やかなショコラを肉に見立てろというのか。
なおも疑り深い義兄に、とどめと言わんばかりにガイアはフォークでクリームの層をつついて何かを引きずり出した。
自分たちしかいないとはいえ行儀が悪いと窘めようと開いた口に、無遠慮に何かが刺さったままのフォークが突っ込まれる。
「ん…………これは、イグサの実か?」
「御名答。あまりデザートに使うもんじゃないが、わざわざシロップ漬けにしたんだと」
むぐむぐと噛み締めていると、ガイアが今しがた断面を崩したほうにドドリアンの砂糖漬けを乗せ、もう片方を別の皿に取り分けてディルックの前へ差し出す。
イグサはディルックが好んで料理に使うものであり、そして旨味を引き出す食材のためデザートに使われることは殆ど無い。
ここまで来ると疑いようがなく、旅人の意図するところを察してディルックは小さくため息を吐き出した。
「旅人も細かいよな。酒が苦手な旦那のために酒漬けにしてあるのはドドリアンだけなんだとさ。チョコレートの香り付けなんてよく使われるのに、だぜ」
「はぁ。僕に言わず君に持たせたのもわざとだろうね、随分気を使わせたらしい」
自分の誕生日くらいは冒険を休んで皆に穏やかに過ごしてほしくて、と笑っていた旅人を思い出してガイアの口角がゆるく持ち上がる。
双子の片割れと離れ離れになった旅人にとって、義兄弟の確執は心を痛めるものがあったのだろう。
旅人に免じて今日くらいは……と言い聞かせるようにして呟いたディルックがカウンターから出てガイアの隣に座った。
ガイアもからかうのは野暮だと思ったのか、楽しげに細めた目を向けただけで黙々とケーキを咀嚼する。
静かな、しかしさほど重くもない空気の中、食器のぶつかる軽い音だけが響く。
「……二人で一つのケーキを分け合うなんて、子供の時以来だな」
沈黙を破ったのは、懐かしそうな義弟の呟きだった。
少し前に行った金リンゴ群島でも似たような発言を聞いた気がして、ディルックの赤い瞳がガイアの隻眼を捉える。
少しでも馬鹿にするような素振りを見せたら叩き出してやろうかと思ったものの、特徴的なその瞳に映るのは懐旧の情だけだ。
義兄さん義兄さんと小鳥のようについてきたあの日の愛らしさはすっかり失われてしまったが、義兄弟としての情まで全て捨ててしまったわけではない。
「そうだな」
いつもどおり普通に返したつもりだったが、自分の口から出たのは思ったよりも随分と柔らかい響きをした音だった。
ガイアもそれに気づいたのか驚いたように数度瞬きをして、しかし楽しそうに笑い出した。
なぜだか少しばかり恥ずかしさを感じ、ごまかすように立ち上がってカウンターの中へ戻る。
「営業時間外ではあるが、ケーキで喉も乾いたことだろうし一杯だけならいいだろう。”午後の死”で良かったか?」
「いいや、久しぶりに葡萄ジュースが飲みたくなった。たまには揃いってのもいいだろう、義兄さん?」
今度こそからかうような声色にいっそ安心すら覚えながら、大きなため息と共にグラスを2つ用意する。
酒とジュースでもグラスを合わせることはできる。
このケーキと”午後の死”が合わないというわけでもない。
口調は軽いが、発言の中身はそのまま彼の本意だろうということはディルックも理解をしていた。
「……いつもそのくらい素直なら可愛げもあるのにな」
「んん? 何か言ったか?」
「いいや別に。それが気に入ったら今度ワイナリーの方にも顔を出すといい。アデリンも喜ぶだろうしそろそろ葡萄の収穫も近い」
労働力としての頭数か?と笑う義弟は、それでも確かに頷いてみせた。
メイド長たるアデリンは未だ彼を様付けで呼ぶ。帰還を知れば大層喜んでくれるだろう。
屋敷の玄関に飾ったままの花瓶を見て彼はどう思うのだろう。
彼の部屋はあの日のままにしてある。泊まっていったりなどしないだろうか。
あるいはまた――……
些細なことがいくつも頭の中を通り抜けていくが、ディルックはそれらをため息と共に飲み込んだ。
ごちゃごちゃとしたことは夜が明けてからでいい。
今だけはいろいろな肩書や確執を横に置いて、義弟と夜を語り明かすのも悪くない。
そういえば、とグラス片手に話し始めたガイアを満足気に見やりながら、ディルックもグラスを傾けるのだった。