また会う日まで 戦いは終わった。
けれど僕たちの戦いはまだ終わらない。
ひとりのエルフの青年は、焼け落ちた故郷の大樹を見上げた。焼け焦げた枝々の隙間から見える空が真っ青だったから、その暴力の跡がひどく浮かび上がってくるようだった。
『赤月帝国』というひとつの国が滅び、この地が『トラン共和国』と称されることが決まった頃のこと。解放軍の一員としてその終焉を見届けた青年──キルキスは、戦いのさなかに喪われてしまった故郷を訪れていた。度重なる争いに訪れる時間すらなかったのは事実だけれど、やはり生まれたこの地の変わり果てた姿を見ることを避けたい心があったのもまた事実だった。それでも、今は向き合わなければならない。エルフの、いやこの世界で暮らす存在の一員として、新たな生活のためにこの一歩を踏み出さなければならない。この地に残る同胞たちの無念に引き込まれそうになるのを、キルキスは自身を鼓舞することでそれに耐えようとしていた。
そんな彼の耳に、軽やかなリズムで近づいてくる足音が届く。その足音の主を振り返ろうとして、不意に背中に少しの重みがのしかかった。緩やかに巻かれた銀糸がふわっと彼の頬にかかる。彼の一番大切な恋人、シルビナが駆け寄った勢いのまま後ろから彼のこと抱き締めたのだった。
「キルキス!」
朗らかな笑みを浮かべる彼女が目に入る。キルキスはつい緊張していた頬を緩ませた。
「シルビナ。いきなり飛びついたら危ないだろう?」
「いいの。キルキスなら絶対にわたしのこと受けとめてくれるでしょ」
言いながら、シルビナはぎゅっと腕の力をわずかに強める。その腕の温もりからは同時に彼女の不安がわずかに感じ取れる気がした。
口調はいつも通り明るく思えるが、やはり焼け落ちた大樹を目の前にすればその時の記憶が鮮やかに甦ってしまうのだろう。黒く焼け焦げてすっかり生気を失った木々の枝も、同胞の営みの跡である家屋や道具の残骸とおぼしきものも、いまだに生々しく残っている。故郷が喪われる姿を間近で見ることのなかったキルキスですら、それを見るのはあまりにつらい。目の前でそれを見た彼女の辛苦は計り知れない。それでもシルビナはここに来ることを拒まなかった。故郷の再建のために故郷へと帰ることを決めたキルキスに同行するとはっきりとした口調で告げたのだった。
「シルビナ」
キルキスは自身を抱き締める愛おしい細腕を優しくほどいてから、彼女に向き直った。
「シルビナ、僕たちはここでまた暮らすんだ。喪われてしまったものは戻らないけれど、ここで新しい未来を僕たちが作り出すんだ」
不安そうに揺れる瞳をまっすぐに見据えて、青年は静かに、しかし力強く語った。少女もまたその瞳を見つめて、ただ一度こくりと頷いた。
「うん、うん……そうよね」
シルビナは目の縁に溜まっていた雫をそっと拭い取った。そして焼け焦げた大樹の根元を見つめるようにしゃがみこんだ。
「むかしね、おじいちゃんが言っていたの」
小さな声で、少女はぽつりと呟く。
「わたしたちはエルフの大樹の上に暮らして世界を見渡すけれど、木の下には人間やドワーフやコボルトみたいな別の生き物が暮らしているって。あいつらとわたしたちは違う世界に暮らす、違う生き物なんだって」
思わずキルキスは目を伏せた。未だに残る焼け焦げた木々の臭いがツンと鼻をつく。古くから信じられてきたエルフたちの言葉、意識。エルフの一族の誇りと言われたそれは、同時に彼に同胞の傲慢さを突きつけたものだった。キルキスの表情に陰が差したのを察したのか、シルビナはあえて明るく続けた。
「それからね、木の下にはまた違う世界が広がっていて、亡くなった人たちがみんな大樹の根を支えているんだって。わたしね、その話を聞いたときに思ったの。『エルフも人間もドワーフもコボルトも、みんな死んじゃったら同じ世界に行くのね』って。それってなんかおかしいなって思ってたの」
でもね、とシルビナは続けた。その軽やかな鈴の音のような声にキルキスはこわごわ目を開く。そんな青年に、彼女はほんの少し眉を下げなから微笑みながら振り返っているのが見える。
「あの戦いでわたしたちは木から降りて……人間もドワーフもコボルトも、みんなみんなたくさんいなくなって……目の前で見たら気が付いたの。わたしたちはみんなみんな同じなんだって。だからね、全然おかしくなかった。みんなおんなじ世界に暮らしているから、死んだあとも同じ世界に行くんだって、今なら理解できるの」
それから、少女は花の綻ぶように笑った。
「すごいね、キルキスの言ったとおりだった」
それはキルキスにとって、すべてが焼け落ちてしまった目の前の光景のなかで一輪だけ咲く鮮やかな花のように映った。
「シルビナ……」
「だからね、キルキス。わたしはね、」
──また大樹の上で暮らすようになっても、木の下の世界のことも忘れたくないの。
──人間も、ドワーフも、コボルトも。みんな生きる長さは違うけど、同じ時を生きてるなら、同じ世界を見つめたいの。いつかまた、別の世界でもまた仲良く暮らせるように。
そう言いながら、シルビナは木の根元にそっと触れる。その木の下にはきっと彼女の祖父や同胞たちが眠っている。キルキスにはそんな気がした。青年は彼女に歩み寄って、その肩をそっと抱き寄せた。
喪われたものは戻らないけれど、これからきっと新しい生活を作り出せる。この胸の痛みは消えないけれど、同じ痛みを乗り越えた僕たちなら、きっと──争いのない新しい世界を作り出せるはずだ。
エルフの青年と少女はしばらく焼け落ちた故郷の下で、同じ世界に生きたものたちのことを想った。
◇ ◇ ◇
それからしばらく二人は焼けた大樹の根元に佇んでいた。日はだいぶ傾いて、青かった空は橙色に染まり始めていた。そのとき、遠くから誰かの声が風にのって彼らの耳まで届いた。
「────ぉぉーーーーーい!!!!」
先ほどまで遥か遠くから聞こえていたはずの声が、驚くほどの速度でだんだん大きくなってくる。それに伴ってキルキスとシルビナのしゃがみこんだところにまで地響きが届く。二人が何事かと立ち上がる。振り返れば、青い影が物凄いスピードで真正面からこちらに駆け込んでくるのが見えた。赤々とした夕陽の下を不釣り合いなほど鮮やかな青が、速力を増した馬車のように駆けてくる。
「おーーーい!!!!!!」
目に見えないほどの速さで両足を動かしながら、エルフの青年が右手を振っている姿が飛び込んでくる。近づいてくると思った次の瞬間には、彼はもう目の前で立ち止まっていた。キルキスはその一瞬の出来事に呆気を取られる。
「スタリオン! なんでここに?」
声を上げたのはシルビナだった。目をぱちくりとさせている彼女に、エルフの村一の足自慢──韋駄天スタリオンは心外だと言わんばかりに大袈裟に肩を落としてみせた。
「おいおい、全然帰ってこないから一応迎えに来たんだぜ? いちおう心配したっていうのにさ」
「そうだったのか。それはごめん」
落ち込んだ様子のスタリオンにキルキスは軽く頭を下げた。正直に言えば、自身の足の速さにしか興味の無さそうな彼が自分たちの身を案じてくれたことをほんの少しだけ意外に思った。もちろん彼は心温かいエルフであるとは思っているが、少しの間留守にした程度で心配をかけることになるとは思わなかったのだ。
だが、すぐにキルキスはその理由に気が付いた。ふと見たスタリオンはかつて村の形をしていた大樹を見上げていた。あの日の彼は命からがら襲撃から逃れたばかりだというのに、いつもの変わらず飄々としていた。だがやはり、この地にはその胸を刺すものがあるのだ。
「見事になんにもねぇな」
ぽつりと、スタリオンは呟いた。まるで今日の天気を話題にするときのようななにげない言い方だったけれど、キルキスはそこにほんの少しの寂寥を感じとった。
「おれ、別に村からの景色は嫌いじゃなかったよ。おれが走り回るには狭すぎたけどな」
だからさ、と言葉が続く。
「キルキスが村をまた建てるっていうなら、それはいいんじゃねえかと思うよ」
スタリオンはニッと口角を上げて笑った。その様子を見ていたシルビナが一歩前へ歩み出る。
「当然でしょ。だってキルキスが作るんだもん。今まで通り、ううん、今までよりもっといい村になるのよ」
そして、少女は得意げな顔で胸を張って言った。スタリオンはそんな彼女の肩を軽く小突きながら笑っている。キルキスもまたそんな二人につい笑い声を溢した。焼けた故郷に立っているはずなのに、なぜか昔に戻ったようなそんな懐かしさに包まれていた。あの何も知らず、何も起きていなかった神秘の森での日々のようだった。そんな郷愁なのか、寂寥とも言えるようなもの喜びとない混ぜなったような心地で、エルフの青年は仲間たちと笑いあった。
そうしてしばらく過ごしていたときのことだった。
「…………おい」
夕空の下で三人が笑い合っている背後から不機嫌そうな声が聞こえてくる。そこにはいつの間にか緑髪の背の高いエルフが腕を組んで立っていた。
「あれ? ルビィ、なんでここに?」
きょとんとした顔でスタリオンが言うと、ルビィは呆れた様子で彼へ顔を向けた。
「おまえ……自分が『二人を連れてくるから待ってろ』と言ったのを忘れたのか?」
「うん? そういえばそんなこと言ってたっけか。うっかり忘れてた」
ごめんごめん、とあっけらかんとスタリオンは笑う。ルビィは額に手をやって、はぁ、とあからさまなため息をついた。それから軽く頭を振って今度はキルキスに向き直る。
「まぁ、いい。……感傷に浸るのは勝手だが、いい加減戻らないと今夜は野宿する羽目になるぞ」
「あぁ……うん。分かってる。そろそろ行こう」
そもそもきょうここへやってきたのは、自分のなかに未だ残る懸念を断ち切るためだった。言うなればそれは自分の我が儘で、恋人である彼女はともかく気ままな友人や皮肉屋の青年までもがそれを許してくれたのはある種の奇跡のようでもあったのだ。突然やってきたからと言って何ができるわけでもないので尚更だった。それでも、一度しっかりと今の故郷の姿を見ておきたかった。そして、そのおかげでようやく決心がついた。
「僕は、この村を再建するよ」
キルキスはその決意を彼らに告げる。たった三人だけになってしまった同胞たち、そして今はこの地面の下に眠る無数の同胞たち。そのすべてに向かってそのふ意志をはっきりと伝えた。
しん、とその場が静まり返る。シルビナも、スタリオンも、ルビィも、ただじっとキルキスを見つめていた。言葉はなくとも、同じ宿命を背負うからこそ理解できる何かがそこにはあった。
「おれはいいと思うぜ。さっきも言ったけどさ」
長い沈黙の口火を切ったのはやはり韋駄天のエルフだった。彼の飄々とした態度はいつも場の緊張を解してくれる。
「うん、うん。わたしも同じ気持ち。キルキスが作る村を見たい。一緒に作っていきたい」
シルビナは両手でキルキスの左手を取る。彼女の薬指にある指輪がきらりと夕陽を受けて輝く。シルビナの純粋な明るさはいつも行くべき道を指し示してくれる。彼女の手を握り返しながら、キルキスはもうひとりのエルフに顔を向ける。
「ルビィ……あんたは?」
問いかけられた青年は、すっと顔を背けた。それからぶっきらぼうな物言いで語り始める。
「俺は一度村を出た。かつて、おまえたちと共に生きることはできないと思っていたからだ」
そこまで話して、彼は小さく息を吐いた。諦めの入り交じるため息のようで、キルキスは少し身を固くする。ルビィの生き方までをも強いることは自分にはできない。だから、彼がどんな決断をしようと、彼からどんな否定の言葉を浴びせられても仕方のないことだ。キルキスのそんな様子を見て、ルビィはふっと小さな笑みを溢した。
「だが、それはもう過去に存在したこの大樹でのことだ。俺が再びおまえたちと生きると決めるかは……キルキス、これからのおまえ次第だ。新たな大樹がどんな姿になるかを見てから、俺は俺の生き方を決めさせてもらう」
はぐれエルフの物言いは相変わらずぶっきらぼうであったが、キルキスにはその言葉の奥に確かな信頼があるのを感じ取っていた。キルキスは安堵して彼に笑顔を返す。
「ああ……それでいいさ」
「あ、でもおれは村が再建してもしばらくは帰らないつもりだぜ? 世界一速い男になるって決めたからな!!」
「おまえ……」
突然言葉を差しはさんできたスタリオンに、ルビィが訝しげな目を向ける。どこまでも空気の読めない朗らかな彼に、シルビナがあははと声を出して笑い出す。それに調子づいたのか、青髪の青年は自慢の鼻を高々と掲げるように胸を張った。
「まあでも、帰る場所はあったほうがいいんじゃねえの!」
ははは、と闊達に笑いながら、スタリオンはくるりと彼らに背を向ける。それから弾むような足取りで真っ先に歩き始めてしまった。走っているというほどではないのに、あっという間にその影は離れていってしまう。どこまでも自由なことだ。
「じゃあ、帰ろっか。いつかまたみんなでここに帰る日まで、しばらくのお別れね」
シルビナはそっと大樹の幹に触れる。そしてほんの少しだけ名残惜しそうな瞳を向けてから、先を行くエルフの背を追いかけた。ルビィもまた、それに続く。
四人は焼け落ちた大樹を背に帰路につく。先を行く三人の先に見える夕空を、キルキスは見つめながら歩いた。
あの日、故郷へと向かう山道から見えた光景。大樹のから高く伸びて空を赤く染めんばかりに燃え上がる炎。きょうの夕空はその惨劇をただ見つめることしかできなかった自分を思い出させた。
それでも、その空の先にはまた青空が待っている。何度黄昏と夜を繰り返そうと、その後には必ず太陽が昇る。だから自分はもう歩みを止めることはしないのだ。
エルフの青年はこれから来る朝日を夢見て、赤く染まる空へと手を伸ばした。
──終──