邂逅Ⅰ: If one believes in the path before them,
they follow it.
As this is human nature.
あるときは、栄華を極めた黄金の都が。
あるときは、人々の手によって文化を興隆してきた大きな都市が。
またあるときは、密やかに隠れながらも生活が営まれてきた小さな村が。
自分の記憶にある場所も、まだ見知らぬ場所も。その『夢』の中ではただ平等に、安らかに、静かに停止していた。確かにそこにあるはずなのに、生命の存在も色彩も流れるはずの空気も全く存在しない灰色の世界が瞼を閉じるたびに眼前に広がってくるのだ。かつて、隆盛を誇った都や都市が戦によって荒廃する様を見たことがある。自分勝手に拓いておいて自分たちの手でまたそれを壊す人間の心理に共感こそしなかったが、それでも人の手によるものであったからその在り方は理解できた。しかし『これ』は違う。人の手による破壊でも、自然が猛威を振るった跡でもなく、そもそも純然たる破壊ですらなく。ただそれまで脈打っていたはずの鼓動を止められたような、そもそも『生命』という概念が奪われてしまったような。そんな光景だった。
目が覚めたとき、それがようやく夢であったと思えて安堵する。しかし単なる悪夢ではないということを自分は知ってもいたから、暗澹としたものが身体を蝕んでいるような気分になった。それはこの肉体に深く結びついた『真なる風の紋章』の記憶であり、その存在を意識したときから見えていたものでもあった。ただ以前はごく稀に忘れた頃に見る夢のようなもので、ぼんやりとした色彩のない光景が広がるばかりであったはずだ。それが時間を経るごとにだんだんとその頻度を増して、更には自分の見知った場所が、記憶にある場所が虚無に侵食されていく様をありありと見せつけられるようになっていった。今ではそれが紛れもなくこれから訪れる『未来』であるのだと、まざまざと見せつけられているのだと感じていた。
色も感触も音を失って、ただ横たわっているだけの景色。自分以外に生きているものが存在しない世界、いや自分も生きていると言ってよいのだろうか?僅かな息遣いも髪が肌を触れる感覚も、手の先に感じるはずの温度も自らの鼓動さえも感じられない、ただ視覚だけが置き去りにされたような状態で、自分は果たして生きていると言えるのだろうか?
目を閉じれば再びその光景が瞼の裏に甦る気がして、感覚を失った手足を寝台から引き摺り出すようにして立ち上がった。まだ力の入らない身体は少し足を踏み出そうとしただけで容易に揺らいで、ままならない自分の身体に苛立ちを覚えた。もっとも、この『器』として造られた身体が自分の思い通りになったことなどないのかもしれないけれど。
まだ薄暗い部屋の唯一ある窓に目を向けると、地平線の合間から光がぼんやりと覗き始めて曇り空を照らしている。まだ目覚めるべき時間ではなかったが、それほど早すぎるという訳でもなかったので身仕度を整えることにした。いつも着ている緑のローブを身に着けて、自室を出る。薄く照らされた通路を歩いて、物置から箒と取手のついた水桶を取り出した。
魔術師の弟子としての一日は塔の中を巡って辺りを掃き清めるところから始まる。この広さにたった二人しか生活していないのだからこの高い塔の上から下までを毎日全て掃除する必要はないのだが、一通り見て回る必要はあるのでそれなりの時間を要する。朝にはこうして必要な箇所を片付け、日が落ちてくれば部屋や通路に灯りを入れ、眠る前にはそれを消して回る。一人でこなすにはかなりの労力が必要だが、慣れてしまえばそれほど苦労もしない。それに、長年続けるうちにある程度は魔法を使って手を抜く方法も身に付けていた。師はそれを知るとあまり良い顔はしないのだけれども。そんなことを考えながら歩いて階段の手前までやってくる。そこから階段を上ろうと目を向けると、視界の端に砂利のような細かな塵が映ったので風を少し巻き上げてそれを下から浚う。巻き上げられたそれがまだ空の桶に入ってカランと乾いた音を立てた。
おおよそ一刻ほどかけて塔を巡り、最後に最上階にあるひときわ広い部屋に辿り着いた。色とりどりのガラスで青い竜を描いたステンドグラスが頭上から陽の光を透かして、床を鮮やかに照らしていた。かつてトラン共和国がまだ赤月帝国と呼ばれていた時には、毎年求められる星見の結果をしたためるために師が寝食も忘れてこの部屋に長く籠っていたのを覚えている。何をそんなに没頭するのかと部屋から彼女を引っ張り出しながら考えたものだが、今思えば当時帝国にいた師の姉に思いを馳せていたのかもしれない。
ゆっくりとステンドグラスの下に置かれているテーブルへ歩み寄る。そこにはいつも置かれている水晶玉の他に、儀式で用いたのだろうか、いくつかの道具が散らばっていた。
「また、出しっぱなしにして……」
つい不平が口に出てしまっていた。いくら師に言ってもこればかりは直った試しがない。置かれたままの道具を手に取っては、元の場所へ戻していく。ふと、最後に手にした儀式用のナイフを片付けようとして、その刃が僅かに錆び付いているのが見えた。何かを切る訳でもないから支障はないのだが、柄に繊細な装飾が施されたその美しさを損われるような気がしたので、軽く刃を研ぐために自室に持ち帰ることにした。
一通りの仕事を終えて部屋を出る。そんなに切れ味の良いものではないが、抜き身の刃物を持ち歩いておく趣味もないので早々に自室に置きに戻った。自室の机に腰掛けて、大した時間も掛からないだろうしそのまま手入れをしてしまおうかと思ったその時、部屋の外から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。何か用向きでもあるのだろうか。
「はいはい、今行きますよ」
少し声を張り上げて返事をする。そのまま錆び付いたナイフを机の上に置いて、部屋を後にした。
ハルモニアに『魔女』と恐れられ、幽閉されている少女がいる。そう師が告げたのはその日の夜のことだった。空気が肌を刺すように冷えていたので、寒さを凌ぐために暖炉の火を入れていた時。窓の傍らに身を寄せた師が唐突にそう語り始めたのだ。そう多くはない燭台の青白い光で照らされた部屋では窓からの月が明るく見える。夜露に濡れたガラス窓にそっと手を掛けながら、レックナートは語った。
「かの国は彼女の持つ力を求めてはいますが、その無垢なる意思に手を焼いているのも事実なのでしょう」
声のある方へ目を向けると、憂いを帯びた横顔が月明かりに照らされて鮮明に浮かび上がって見えた。彼女の目に外の景色が映ることはないが、それでも彼女にしか見えていないものも存在している。婉曲的ではあるが予言めいたその言葉は、世俗から隔絶したこの塔にいながら遥か遠くの閉ざされた国で起きていることを確かに『見ている』のだと思わされる。はぁ、と息をひとつ吐いて立ち上がり、近くの壁にもたれ掛かった。何となく持て余した腕を胸の前で組む。
「つまり、勝手に連れてきておいて手に余ったら腫れ物扱いで幽閉していると。相も変わらず良い趣味をしているようですね、ハルモニアは」
おおかた、その少女とやらもどこかの国か辺境の村かを侵略したついでに見つけたか、特殊な力を持った人間がいることを聞きつけて侵略したかのどちらかなのだろう。どういう意図があったかは知らないが結果としてやることは同じなのだから手に負えない。ハルモニアという国の在り方はきっかけなど些細なものであると言わんばかりに強固なものだ。どんな意図があろうと一つの結果に集約するように『定まっている』のだと、あの男が考えていると言わんばかりに。組んでいた腕を掴む指先に思わず力が入る。
「それで? レックナート様は僕にその話をしてどうしたいと言うのです?」
彼女に対するものではなかったが、胸がじりじり疼くような嫌な感覚があってつい言葉に刺々しさが表れてしまっていた。底意地の悪い言い方であったはずだが、それを気に留めた風でもなく師はなおも窓の外に顔を向けたまま答えた。
「あなたが何を感じ、何を思い、どう動くのか。それはあなた自身の意志に委ねられたものです」
「はあ、そうですか」
いつものことではあるが、レックナートの意図を尋ねたところでその答えは返っては来なかった。彼女の行動原理には彼女自身の意志だとか感情だとか、そういう曖昧で不確かなものは一切ないとでも言いたげで、ひどく焦れったいような嫌な胸の疼きが染みのようにじわりと広がった。暫く部屋を流れた沈黙と、その胸の疼きに居たたまれなくなって口を開こうとしたその時、背後にある暖炉の薪の一つがカタンと音を立てて燃え落ちた。少なくなってしまった火の勢いを取り戻すために、一度熱を帯びた薪の前で身を屈める。燻っていたそれを混ぜると再び赤々とした炎が勢いを増した。
「あなたはいつだってそうですね。きっかけだけを与えて、その人間がどういう運命を辿るかは流れるままに委ねている」
揺らめく炎を見つめたまま、背にした師に問いかける。窓から伸びる影の先が僅かに足下で揺れた。
「それが運命の輪から外れた私の在り方なのです。運命とは人の意志によって動くもの。そこに観測者たる私が介入する余地はないのですから」
「では、なぜあなたはその行く末が平穏ならざるものであると知りながら、『彼ら』にきっかけを与えてきたのですか。ただあるがままに任せるというのなら、他人の運命なんかに一切介入しなければいい」
変わらない口調で淡々と告げられた言葉に、思わず立ち上がって声の方へと振り向く。自分の胸の奥で燻っていた感情に火が付いたのを感じた。
堅実な地位と平穏な未来が保証されていたはずの少年は突然祖国を追われ、彼に気付きを与えた女性も信頼を寄せていた従者も尊敬していた父親も唯一無二の親友すらも運命の糧とされ、戦いの末に一人きり姿を消した。また、血の繋がらなくとも深い信頼で結ばれていた家族と親友と平穏な日々を過ごすはずだった少年は、親友と道を違えて血で血を洗う戦いを強いられ、唯一の家族だった姉もその親友も喪って一人国を治める王に祭り上げられた。レックナート自身が何か選択を強いたのではないが、彼らに選択肢を与え、導いたのは確かであったはずだ。彼らの名を告げた訳ではなかったが、自分が誰のことを話しているのかは分かっているという風に、師は一度だけ小さく頷いた。
「世界は大いなるバランスの元に成り立っているからです。そしてそれは移ろいやすいもの。いとも容易く均衡は崩れ、その先にあるのは紛れもない世界の終わりであるのです」
「だから、あなたは『バランスの執行者』として世界の均衡が崩れないように最低限の介入をすると。それは確かに理屈は通っていますが……」
そこまで話して、これ以上言葉を重ねるべきか一瞬躊躇った。ただ、勢い付いて口にしてしまった言葉をここで呑み込むのも腑に落ちない。一度息を吸って、出来るだけ冷静にその続きを紡ぎ出した。
「それはあまりに無責任ではないですか。あなたが世界のバランスを保つために始まりを与えた人間は常に運命の犠牲になってきた、違いますか」
「…………」
師はただ頭を下げて黙してしまった。努めて感情を抑えたつもりではあるから、答えが返ってこないのはその言い方のせいではないはずだ。適当に折り合いすら付けようともしないのは、そこに良心があるからではないのか。自分は人ではないと言いながら、感情などないと言いながらその良心の呵責に苦しんでいるのは矛盾ではないかと、次々に沸き上がってくる疑問がないまぜになる。一度呼吸を整えたはずなのに、脈打つ鼓動が耳元に聞こえるほど煩わしく、喉が詰まるような息苦しさを感じた。
「……あなたはどうして、僕を救ったのですか。あのまま何も知らずに朽ちるはずだった人形を連れ出したのは、何故ですか。ただ、世界の均衡を保つためにあなたが成すべきことをした、そうだったのですか」
ひどく掻き乱された胸の内から不意にその問い掛けが溢れ出た。自分でも思いがけない言葉を口にしたことに戸惑いながらも、もしかするとそれが一番聞きたかったことなのかもしれないと思った。
それまでただ視線を落としていた師が、こちらを見据えるように身体ごと向き直った。自分の真意を問うような、本心を見透かすような『視線』を感じて、意味もないのに顔を背けてしまう。
「この身は、すでに人ではない者。共に分かち合う喜びも、流すべき涙も持たぬ者。ですが……」
逡巡しているのか、少しの間沈黙が流れる。この人にしては珍しく、慎重に言葉を選んでいるかのような言い方だった。そして、再び口を開く。
「私にも、人が持つべき憐れみを抱くことがあるのでしょう」
それはひどく他人事めいた言い方だと思った。それは彼女自身の意志ではなく、人ではない身が仮初めに宿した一時の情であると言われたような気がした。
「あなたは、狡い人ですね」
伝えようとも思っていなかった言葉がぽつりと溢れた。暖炉の火が小さく爆ぜる音がはっきり聞こえるほど静まった部屋の中でも、彼女の耳にその言葉が届いたかは分からないほどだった。窓辺の方を横目で見ると、ただ、なにも答えない師匠がただ微笑んでいた。微笑んではいたけれど、その顔は少し寂しげでもあった。
あなたは明確な答えを述べようとはしない。いつだってそうだ。
──教えてください、運命とは定められたものなのでは……
──いかに無力を感じようとも、人は意味なき存在ではありません。
かつてのやり取りが脳裏に甦った。自分の問い掛けに対して返ってきたその答えは、全く的の外れたものではないのだろう。先の戦争で自分が見てきたのは確かに人々が歴史を動かす姿ではあったからだ。ただ、そこには運命という無慈悲な力に狂わされた人々もまた存在していた。だから、自分はまだ、その言葉の意味を図りかねている。
その日、暗闇の中から滲み出すように広がったのは、いつものような息絶えた灰色の世界ではなかった。かといってそれは健やかで平和なものであるとも言い難い。奥が見通せないほど長い通路で繋がれた白い石造りの神殿。窓枠に嵌め込まれた透き通った青いガラス。絵の具を流し込んだような模様の入った艶やかな石の壁や床も、装飾の施された窓を通って色づいた光がその白い石床を照らす光景も確かに美しいのだろうが、生気の感じられないという点ではいつも見る『灰色の未来』と同じくらい違和感と嫌悪感を覚えた。ただ一つ違うのは、この光景を自分はよく知っているということだ。霧に覆われたような朧気な記憶ではあるが、もう既にこの目で見たことがある。
どこまでも続くかと思われる冷たい部屋の中、自分は一人取り残されてぽつんと立ち尽くしていた。そのまま動かずにいることも出来たのかもしれないが、その場に留まっていると自分の存在が周囲に溶け込んで自我を失ってしまうように思えて、足を前に進めた。素足の裏にひやりとした石の感触が伝わってくる。ひたひたと自分が歩む音だけが辺りを響いていた。
感覚が狂うほど同じ景色が暫く続いて、どれだけの間どれほどの距離を歩いたかも分からなくなってきた時、永遠に続くと思われた部屋の突き当たりが見えてくる。少し開けたその空間はとりわけ大きな青のステンドグラスで飾られていた。中心の深い青から淡い空色へと移り変わりながら細やかなガラスが放射線状に伸びて、一つの巨大な円形を描いている。その青い太陽に照らし出されるように、目の前に人の頭より一回りほど大きい水晶玉のような物体が置かれていた。それを囲うには不釣り合いなほど大きな台座がまるで木の根の這うように水晶玉を支えているのが見える。ゆらりとした光がその球面を撫でるように揺らめいていた。ぞくりと背筋に嫌な汗が流れ落ちる。見てはいけないと本能が告げているのに、足は勝手に前に歩み出していた。
近付いて見ると、水晶玉だと思っていた球体は中が空洞になっており、その中を満たしている乳白色の液体が光の揺らめきを生み出しているようだった。ゆらり、ゆらりと揺蕩う濁った液体から、時おり何かが見え隠れしている。浮かんではまたすぐに沈んでいくそれは、どこか見覚えのあるものだった。繊細な丸みを帯びた薄い桃色の何か、まっすぐに伸びて先に向かっていくように広がった肌色の何か、乳白色の海に溶け込むほど白い、掌に乗るくらいの大きさの球体──その白い小さな球体が波打つ液体に揺られてくるりと翻った。中心に円い緑色の薄いガラスを貼り付けたそれが見えて、確かに目が合った。それは、人の眼球だった。よく見れば、他にも耳、鼻、口──中で揺らめいていたのはどれも人体を形作るためのパーツだった。
そうだ、自分は知っている。
この景色を知っている。
この部屋の光景も、今目の前で揺らめく乳白色の液体も、その中に溶け込んだ人の材料も。
かつてこの中から、見たことがあるからだ。
あっ、と叫び出しそうになって思わず口を開く。しかし声は出ることはなく、代わりにごぽりと音を立てて口から気泡が溢れ出した。いつのまにか視界は乳白色の世界に包まれていて、自らの吐いた息が丸く上へと浮かび上がって行くのだけが見える。それまで石畳の冷たい床の感触を覚えていたはずの足が行き場を失って身体が宙に浮き上がった。肺の中の空気がだんだんと奪われ、闇雲に伸ばした手はただ水を掻くばかりだった。どこが上で、どこが下かも分からなくなって、意識が遠ざかりそうになったその時。突然背後から伸びてきた影が首元に絡み付いた。後ろから抱きすくめるように身体を縛り付けてくるそれを、どうにかこの目で確かめようと朦朧としてくる意識の中で首を回した。眼前には、濁った液体の中でふわふわと髪を浮かせた青白い顔が迫っている。それは目を開いてはいるが瞬くこともせず、ただ無感情な顔をしてそこに存在していた。唯一はくはくと小さく口を動かしているのが、ひどく不気味だった。影に縫い止められたままもがいていると、いよいよ肺が潰れされているかのような痛みに襲われる。ぼやけた乳白色の視界の中で、息苦しさに見開いた目は焼き切れそうなほど熱くなっているのにもかかわらず、何か言葉を紡ごうとしている影の姿は妙に鮮明に映し出された。その血の通っているとは思えないほど蒼白な顔は、その目の色も鼻の形も、それを構成する全てが確かに自分と同じものだった。
底の見えない穴のようにどこまでも深い闇が続いていそうな目が、ひどく腹立たしい。もう少し恨めしそうな目をしたらどうなんだ、どうして自らの置かれた状況に怒りもしないのだ。苛立ちと息苦しさから奥歯を噛み締めると、残っていた僅かな空気が泡となって浮かび上がる。肺から喉までが燃え上がるように熱くなって、視界が白く塗り潰されていった。
喉の奥で塞き止められていた空気が一気に流れ出した。荒い息を吐きながら目を開くと、見慣れた寝室の天井が飛び込んでくる。全身から噴き出した汗が肌を伝い、まるで水に浸かっていたかのように皮膚がじっとりと冷えきっていた。それなのに、自分の身体の奥はいやに熱く感じられる。纏わりつく不快感を払うように頭を振って、その先にふと、師がかつて使っていた大きな鏡が目に入った。そこに写った自分の姿はあの影と同じ、青ざめた顔をしていた。
「ぐ、ぅうっ………」
喉にせり上がってくる熱を抑えるために右の手で自らの口を強く押さえつける。それでもなお込み上げる不快感をはね除けるように、枕元にあった燭台を反対の手で乱暴に掴みとった。意識したときには鏡に駆け寄って、燭台を投げつけていた。思いのほか鈍い音を立てて鏡は割れ、燭台はそのまま落ちた。ガシャンと金属が石畳の床にぶつかる音がする。
真夜中であるというのに、周りを憚らずに大きな音を立ててしまったことを後悔する。師は眠りから覚めたかもしれない。ただでさえ、眠りの浅い人である。朝になったらどう言い訳をすべきか、考えなくてはならない。そう思いながらふらつく身体を支えて割れた鏡まで歩み寄り、月明かりに煌めく破片を集めようとしゃがみこんだ。
その時、確かに視線を感じた。どこからか見下ろされているような、そんな気味の悪さを覚えて、振り払うように思いきり顔を上げる。目が合った。鏡の割れた部分を避けるようにして、立ち上がった自分が、自分を見下ろしていた。虚ろな顔をして、なにも感じていない顔をして、鏡の中に『それ』は立っていた。
──違う。自分は違う。同じであるものか、僕はお前とは、お前たちとは違う。
──目の色も髪の色も何もかもが同じだ。違うはずがない。だってお前は『複製』に過ぎないのだから。
感情を微塵も感じさせない声が、そう言ったのを聞いた。
「う、ぅあ、あああああぁっっ!!!!!!」
それはまさしく衝動だった。すぐそばの机の上にあった刃の錆びついたナイフを手に取って、無造作に反対の手で髪を掴む。そして力任せにナイフを押し当てる。儀礼用の、切れ味など二の次のものであるから半ば引きちぎるように髪が切り取られようとした。ぶちぶちと音を立てながら刃が髪の束を通り抜けようとする。もどかしくなってナイフを引き抜くようにして右手を動かすと、一気に抵抗が失われて勢いよくナイフは振り払われた。その弾みで頬を僅かに掠めた刃が皮膚を薄く裂く。
「はぁっ……はあ…っ…………」
荒い息を吐きながら、虚ろな目をした同じ顔を睨み付けるように鏡を見た。
「お前らと、……同じであって、たまるか」
割れた鏡の中にはただナイフを手にした自分がただ肩で息をする姿が映し出されるのみだった。無造作に片側だけ切り取られた髪を見ると、少しだけ心が安らぐ気がした。
もっと早くこうすれば良かったんだ。あの何も知らずにのうのうと暮らしているだろう『兄』と、同じ姿でいることがこんなにも忌々しかったのだ。ただ髪を切るというそれだけで、少しでも違うところを作れたということに僅かに心が安らいだのだった。子供騙しに過ぎない手段であったとしても、これは決別だ。
まだ切り取られていない髪を今度は右手でまとめて掴んでナイフをそこに滑らせた。やはり切れ味はあまり良くなかったが勝手知ったる今は比較的容易に切り離すことが出来た。掴んでいた手を離すとぱらぱらと生気を失ったそれが床に落ちた。
床に髪が散らばるのと同時にふっと身体から力が抜けて、足から崩れ落ちる。手にしていたナイフが床にぶつかって乾いた音を立てる。床に崩れ落ちた身体は足から順に凍りついていくように痺れ、再び力を入れることもままならなかった。生気を失った自分の一部だったものと、割れた鏡の破片と、折れ曲がった燭台と、少し錆び付いたナイフの間でただ力なく身体を丸まらせていた。
コンコン、と控えめに扉を叩く音が耳に入ってくる。まだ遠くに聞こえる音を確かめるために、ずきずきと痛む頭を持ち上げた。床に踞っていたせいで気が付かなかったが、部屋は既に高く昇った陽の光で照らされていた。
「ルック、そこにいますね。ルック──」
なかなか自室から出てこない自分を案じたのであろう声が、木製の扉越しに聞こえてくる。
「ええ……僕はここにいますよ、レックナート様」
痛む頭を抱えながら、扉の先に居る師に返事をする。眠ったというより気を失った状態で一夜踞っていた身体は重く、一歩も動きたくない気分ではあった。だが、ただでさえ世を憂いがちな師に余計に心配を掛けるのも面倒な気がした。だから努めて普段通り過ごそうと、余計なことも言わずにいようと心に決める。ただ、盲目であるからこそ僅かな機微を捉えるのに長けた彼女には全てを隠し通すのは難しいだろうとも思ったし、そもそも真夜中に鏡を割った音は彼女の耳にも届いたのであろうから、異変があったことには気が付いているのは確かだ。それでも自ら口にしないのは、有り体に言えば意地以外の何物でもなかった。
「ただ、少し夢見が悪かっただけですよ。……すぐ、行きますから。だから先に行っていてください」
暫くの沈黙の後、ただ「分かりました」という返事があって、ゆっくりと部屋を離れる気配がした。
ふう、と息を一つ吐くとようやく現実味が感じられるようになってくる。少しふらつきながら立ち上がって、身仕度を整えるために歩き出す。すぐに行くと言ってしまったからには、あまり時間を掛けてはいられない。とりあえず人前に出られる程度に着衣を整えて足早に部屋を出た。
階下にある部屋へ赴くと、その気配を感じ取ったらしいレックナートがこちらを振り向いた。
「ルック、こちらへいらっしゃい」
窓の近くの椅子に腰かけていた師は手をこちらに差し出して小さく手招きしているようだった。返す言葉もなく、ただ言われるがままにゆっくりと歩み寄る。
そして目の前に立って、何かご用ですかと声を掛けようとした。その前におもむろに立ち上がった彼女が、手を伸ばして両手で自分の頬を包み込んだ。突然のことに言葉を失う。呆然と眼前の師の白い顔を見つめていると、左頬が仄かに熱を帯びた。魔力の奔流を感じた次の瞬間にはひりついた痛みが引いていって、そこでようやく昨晩出来た傷を治療されたのだと気が付いた。
「これくらい、自分でも治せますよ」
礼より先に少し咎めるように憎まれ口を叩いてしまうのは自分の癖だ。それでも師は気を留めた様子でもなくこちらに顔を向けていた。
「でも、そうしていなかったでしょう?」
「忘れていただけです。大したことのない傷でしたから」
頬を両手で包まれたまま、手を振り払うことも目を反らすことも出来ずに沈黙するのが気まずくなって、ありがとうございますと小さく言葉を漏らすと彼女は満足げに眉を下げて微笑んだ。余計に居たたまれなくない気分になる。白い手が頬から離れ、今度は頭の形を確かめるように耳の横から髪に手を差し入れられる。そしてバラバラに切り取られた毛先に触れた。
「少し整えた方が良いですね」
「まあ、そうでしょうね」
しかし、手を離してくれないものだろうか。感覚のないはずの毛先を確かめるように触れる手がむず痒い気がした。そんな自分の思いを知ってか知らずか、両手が静かに離れていった。
「そうですね、では私が整えて差し上げましょうか」
「…………は?」
何を言われたのか一瞬理解できずに間の抜けた声を漏らしてしまった。
「流石にそれだけ短いと、あなた自身で整えるのも苦労するかと思いまして」
髪を切る道具はどこでしたか、とか、自分で長年使っていないと場所の見当がつきませんね、などと言いながら辺りを見渡し始めた。冗談でないのだと気付いてぎょっとする。
「やめてください、怪我でもしたらどうするんですか」
反射的に語気を強めてしまって、後悔した。出てしまった言葉がなかったことになる訳でもないのに、咄嗟に口に手をやってしまう。
「……耳を切られたら堪ったものじゃないので」
そう付け加えたのは少々わざとらしかったかもしれない。ふふ、と小さく笑みを溢した師の声が聞こえてくる。
「ええ、そうですね。貴方は手先が器用ですから、自分で出来ますね」
微笑みを湛えたまま、ただそう言った。それから、先ほどまで彼女が座っていた椅子の前まで連れてこられる。ここに座れと促すように軽く両肩を押されて、されるがままに椅子に座り込んだ。
「今日はゆっくり休みなさい。最近、あまり眠れていないのでしょう?」
「あなたはどうするんですか」
自分がいろいろ世話をしなくてもいいのかという言外のニュアンスを受け取ったのか、「私のことは気にする必要はありませんよ」と師は言った。
「今は……何も。考える必要はありませんよ、ルック」
言われるがままに椅子に身体を預けると、僅かな温もりを背に感じた。そういえば、つい先ほどまで師はここに腰掛けていたのだったか。開け放たれた窓から穏やかな風が吹きこんできて、重くなってきた瞼を閉じる。するとすぐにあらゆる音が遠くなるのを感じた。風が前髪をくすぐる感覚を覚えながら、意識を手放した。
どれくらいの間眠っていただろうか。日は少し傾いたもののまだ辺りを明るく照らしているから、眠りについていたのは一刻ほどだったのかもしれない。それでも幾分か軽くなった身体を起こす。
自室に戻るとそこは酷い有り様だった。目覚めてすぐは目に入っていなかったが、窓からの陽光に明るく照らされた部屋には、中央が大きく割れた鏡の前にひしゃげた燭台が落ちたままになっている。石畳の床には破片が散らばってキラキラと光を反射しており、その合間にぱらぱらと色素の薄い髪が落ちていた。
立ち上がった状態で鏡をふとを見ると、割れた部分の上の無事だったところに自分の顔が写っていた。お世辞にも顔色が良いとは言えない自分の顔にばらばらに切られて左右の長さも違う髪がかかっている。切り口も刃物で切り裂いたというよりは引きちぎったように疎らで、いかに冷静さを欠いていたかをまざまざと見せつけられた気がした。
「これは酷いな……」
鏡に寄せた顔が自嘲的に笑う。島の外に出る機会は少ないとはいえ、師匠のように外界との関わりをほとんど絶ってしまっている訳でもないからとにかくこのままでは出歩くこともままならないだろう。とにかく、どうにか見られる形に整えなければならない。
いつも長さを整える程度にしか使ってこなかった鋏を手に取る。既に衝動的に切り落とした後だというのに、改めて鋏を入れようとすると僅かに鋏に通した指が強ばるのを感じた。今更何を恐れることがあるのか。たかだか「髪を切る」程度の変化を恐れているのだろうか。
ふと、脳裏にかつて戦場で見た兄の姿が過った。自分と同じ顔で、同じ髪を持った姿でなんの疑問も抱かずに存在している兄。長い間互いの存在を見ずに過ごしていたはずなのに瓜二つの姿に嫌悪感というか、気味悪さを覚えたのも確かだった。「そういう風に出来ている」とでも言われているような気がしたからだ。だから、昨夜衝動的にでも髪を切り落とした時に僅かに安堵を覚えたのは、与えられた宿命めいた呪いを自ら断ち切ることが出来るのだと気が付いたからなのだろう。
「僕はあなたとは違うんだよ、『兄さん』」
鏡の中の顔にそう言葉を告げる。その先に兄が居るわけでも彼に伝わる訳でもないけれども、そうするべきだと思っていた。
シャキン、と耳元で刃が擦れる音がする。髪とともに迷いや躊躇いというものも削ぎ落とされていくような気がした。
「まあ、こんなものかな……」
鏡を前に無心に鋏を動かし続けると、すっかり髪の短くなった自分の姿が見えた。かなり短く切ってしまった部分があったためバランスを取るために髪の分け目を変える必要があったし、自分では見えない後ろ髪はは文字通り手探りでの作業になったから思いの外時間がかかってしまった。今まで髪に隠れていた首筋に空気が直接触れる感覚に違和感がある。
「ルック」
突然すぐ後ろから声を掛けられて、びくりと身体が震えた。いつからそこにいたのだろうと驚きながらも、返事をしようと振り向く。その時には既に白い右手が自分の顔の辺りに伸ばされていて、思わず声を飲み込んでしまった。避けることも出来ずに固まったままでいると、頭の左側の辺りをそっと撫でるように触れられた。
「せめて、一言断ってからにしてくれませんか」
「あら。声を掛けたつもりだったのですが」
声を掛けただけで相手に触れてもいいと思わないでほしい。世間から離れて暮らしているわりに、こういうところの距離感がおかしいところはあるのは知っているつもりではあるのだが。
「ええ、よく似合っていますよ」
「あなたには見えていないでしょうに」
「私の盲いた目にも映るものはあるのですよ」
だったら目が見えないからとなんでも手に触れて確認しようとするのも止めてほしい。
そうは思ったが、妙に機嫌良さげにしている師の姿を見ていると言葉を返すのも憚られた。今回くらいは、いつもの口答えは心の中に留めておいても良いのかもしれない。
その日の夜。部屋で一通りの装備を整えて、長い間使っていなかった外套をクローゼットから取り出した。師と共にいくつか使っている拠点を移動する間、身を隠す必要があるときに使っていたものだ。全身を覆い隠すための丈の長いもので、背に付いているフードを被ってしまえばある程度顔を隠すことも出来る。普段レックナートが纏っている白いローブと似た形のものだが、自分のものは師のそれとは違って人目に付きづらい地味な色をしている。長いことトランにあるこの島を拠点としていたから、その間しまい込まれていた外套は少し埃っぽくなっていた。構わずにそれを羽織って、自室から階下の師のいる部屋へと降りていった。
また窓際の椅子に腰掛けて身を休めているかと思ったが彼女の姿はなかった。それならばと今度は階段を上って星見の間へと入ると、広い部屋の頭上にある青いステンドグラスを見上げるレックナートの後ろ姿が目に入ってきた。
「行くのですね」
静かにこちらを振り返った師がそう口にした。部屋の入り口からまっすぐに歩んで彼女に近付きながら言葉を返す。
「何十年も同じことを繰り返しているあの国に少し嫌がらせをしてやりたいだけですよ。それに、」
師と同じようにハルモニアに『魔女』と称された存在がいかほどのものか、この目で確かめてみたかった。だが、そこまでは蛇足だと感じたので口にはしなかった。
「ルック、いいですね。かの国では決してその右手の紋章は使ってはいけませんよ。失われた真の紋章の糸口を掴んだ彼らがあなたを逃すとも思えません」
「そんなに脅さなくても分かっていますよ。そのためにこれがあるんですから」
額に宿している『蒼き門の紋章』に手をやると今までなら触れなかったはずの前髪がくしゃりとかき乱された。この紋章の扱いならばそこら辺の魔術師では到底自分に及ばないものだと自負している。『門の紋章』を持つ師の弟子として、そうでなくてはならないものだとも思っている。異世界へと繋がる門を開くことでかの世界の存在を召還するという魔術の特性を空間転移に応用するのは難しいことではない。それなのに、どこか煮え切らない態度の師の姿は少々違和感があった。
「あなたはこうなることを想定した上で、少女の存在を僕に教えたのでしょう? 何を恐れているというのです」
ステンドグラスを通した青い月光を受けたレックナートを見上げて、はっきりとそう告げた。
「それも、そうですね」
師はただそう言って、また少し眉を下げて一瞬困ったような顔をした。が、すぐにいつものように真剣な顔付きになる。
「あなたが成すべきことを……正しいと思うことを成し遂げるのですよ、ルック」
どこか固い口調でそう告げられた言葉になんと返すべきか分からなかったので、ただ「はい」とだけ答えた。それから額の紋章に意識を集中させる。すると目の前の景色が溶けるように歪んで、一瞬でかき消えた。
◇ ◇ ◇
見慣れた光景が消えて、次の瞬間に目に入ったのは人気のない暗い森だった。手入れもされずにただ伸びるままになっている木々の合間に、古ぼけた神殿のような建物が一つ隠れるように存在している。ハルモニア神聖国の首都クリスタルバレー。その中心地こそ文化の花開く大都市であるが、その郊外には多くの人間が足を踏み入れようとしない場所もまた存在していた。肌を刺す空気の冷たさが嫌でも今いる場所の記憶を呼び起こした。この国は吸う息に肺から凍っていくように自分の意思というものが蝕まれていく場所だった。そもそもそういった感情を始めから与えられていなかったのかもしれないけれど。
『一つの神殿』から離れたこの建物はそれほど重要視されてもいないのだろう、奥まったこの場所には見張りの人間すらいなかった。
人の気配の薄いその建物へ静かに歩み寄る。その場所を一回り大きく取り囲むように仄かに光る障壁があるのを視認できた。乳白色の魔力で編まれたそれは見た目こそは美しい天蓋であるが、その機能は檻であった。外部からの侵入を防ぐためのものであり、内から保管している『道具』が逃げ出さないようにするためにあの男が施した結界だ。自らが持て余した力が他者の手に渡ることは許さないハルモニアがその保管に人員を割かないのは、この強固な檻に絶対的な自信があるからに違いない。
ハルモニア国内でも唯一の力を持つ神官長が織り上げたものだ、檻そのものを消し去ることは難しい。だが、そこに裂け目を作る程度なら可能だろうと左手を翳す。伸ばした手に魔力を込めて、仄かに光る檻に手を掛けようとしたその時だった。手応えを感じるはずの左手はするりとその障壁をすり抜けていた。
「どうして……」
魔力で編まれた檻に貫かれたままの左手を呆然と見つめる。確かに自分は結界に裂け目を作ろうとした。だが作ろうとしただけでまだ魔術を行使した訳ではなかったのだ。僅かに力を込めただけで裂け目が出来るほどの弱いものだったのか?いや、むしろ始めからその必要すらなかったとでも言うような──
ぞくりと背筋が凍る感覚を覚えた。まさか、ここに来ることを悟られていて『罠』を張られているのか?ならば、早々にこの場所から立ち去らなければ師の懸念は現実となるのかもしれない。ただ、ここまで来て手ぶらで帰るつもりも毛頭なかった。意を決して身体を光の檻の中へ滑り込ませる。ほんのりと熱を帯びた魔力が身体を通り抜ける感覚があっただけで、何事もなかったように隔たれたはずの空間の内側へと入り込むことが出来ていた。緊張からか僅かに鼓動を早めた心音を聞きながら古びた建物を見上げる。体裁こそは神殿と同じように作られてはいるが、この建物はただ持て余したものを保管しておく倉庫にすぎないのだ。最低限の人間しか出入りのしないせいでところどころ崩れかけた壁やひび割れたままの扉のガラスを見ると造りだけは豪奢な建物との不釣り合いさが浮き上がるようでひどく滑稽でもあった。
「ここも、全く変わっていないか……」
かつて自分が閉じ込められ、師によって連れ出された場所は十年以上の時が経ってもその在り方を変えていないようだった。それならば、少女が居るであろう場所にも検討がつく。空間転移のために静かに目を閉じて額の紋章へ意識を向ける。すぐに空間に溶け込む感覚がして周囲の景色が一変した。
長年降り積もっていただろう埃が少し舞って、思わず小さく噎せ込んだ。石造りの冷たい部屋には、一つ二つ疎らに蝋燭の灯りが見える他には物らしい物はない。室内だというのに、外よりも冷ややかな空気が漂っている。満足に暮らせるような環境ではないことはどんなに鈍感な人間でも容易に察することが出来るだろう。柱の影から疎らに照らされた部屋を見ると、金属の格子が嵌められた窓の前にある小さな人影が目に入った。月明かりに照らされて、微動だにすることなくただそこに踞っている。生きているか死んでいるかも分からない。人の気配がないことは分かっていたから、忍ぶこともせずに柱の影から奥に一つだけある窓に向かって歩み出した。コツコツと踵が石畳を叩く音が辺りに響き渡る。
耳慣れない音を聞き付けたのか、踞っていた影が動いた。人影が頭を上げる。床に頭を埋めていたせいでばらばらになった薄い金髪の中からこちらを見つめる二つの瞳が垣間見えた。
その瞬間、彼女の足元から周囲に広がるように氷柱が地面を迸るように貫いた。自らの身を刺し穿とうと生えてきたそれを抑えるために右手を翳す。
──かの国では決してその右手の紋章は使ってはいけませんよ。
瞬間、師匠のそう諭す声を思い起こしてはっとする。咄嗟に一歩下がって巨大な氷柱を避けたが、一瞬判断が遅れたために翳した右手の指先が先端に触れて僅かに皮膚を裂かれた。が、大した傷でもないのでそのまま右手の紋章ではなく額の紋章から魔力を引き出して、なおも目の前に現れようとする氷塊をまとめてかき消した。
「あなたは、だれですか」
少し離れたところで少女は踞った姿勢のまま肩を激しく上下させていた。月明かりに半分だけ照らされた彼女の顔は蒼白で、唇は僅かに震えているのが見える。額に紋章を宿しているのだろう、たった今発動したばかりのそれがまだ魔力を溢れさせて額で明滅していた。彼女の場合、「意図して魔法を行使した」というよりは「意思に連動して魔法が暴走した」というのが正しいのだろう。事実、溢れる魔力が抑えられないまま垂れ流されているせいで心身を酷く消耗した様子だった。
「ここに閉じ込めれている人間がいると聞いたから、興味が湧いてね」
ただ、その発動の早さは間違いなく類い稀な素質のためだろうということは理解できた。少女の様子を見ながら歩み寄ると、凍りついた床が僅かに砕けて音を立てる。近付いて見た少女は息を切らしながら、ただ困惑したような表情を見せていた。
「あなたは、いったいだれですか?……いきている、ひとですか」
「幽霊や幻覚の類いではないよ。……まあ、人間であるとも保証しないけれどね」
思わず自嘲めいた言い方をしてしまう。少女はどう捉えたら良いのか分からなかったのか、僅かに首を傾げた。
「ここにはだれも、はいってこられないはずです。いきているひとはここにはいません」
まだ幼さの残る話し方ではあるが、存外にはっきりとした物言いをするのが意外ではあった。少なくとも、最近まで周りに人間らしい言葉を話す存在がいたのは間違いなさそうだと思った。どういう扱いを受けていたかはともかく。
「へえ、君は自分が人間じゃないと?」
荒い息を落ち着かせるためか、少女は深く息を吸い込んだ。
「わたしは、『まじょ』ですから」
それから何も感じていないような顔で背後にある窓を見上げてそう言った。彼女の視線を追ってそちらに目を向けると、金属製の格子とガラスの間を埋めるように窓が凍りついているのが見えた。彼女の持つ力がただ目の前の見知らぬ存在への攻撃に留まらず、周囲まで凍てつかせてしまったということが明白だった。やはり自らの力に振り回されているような状態であるのだ。
「魔女、ね……」
『魔女』。彼女はそう自分を称した。自覚するにはあまりにも幼いそれは、他者から掛けられた言葉をそのまま鵜呑みにしたのだろう。自分から見れば彼女の使うそれは全うな『魔法』ですらないのだから、その呼び名はあまりに歪に思えた。自らの理解できない存在を正しく分かろうともせず、ただ『魔女』と称して排除しようとする人間が彼女の周りに多く居たにすぎない。
「馬鹿馬鹿しい」
苦々しく吐き捨てた言葉に少女はびくりと身を震わせる。そして後ろに後ずさろうとして身を起こしたが、腕で身体を支えることで精一杯のようだった。
「ただ、稀に生まれつき紋章を宿して生まれてくる子どもがいる。魔法の使い方の分からない子どもが、ただその魔力を抑えられないというだけじゃないか」
苛立ちを覚えたせいか足早に歩みを進めて、少女の目の前にしゃがみこんだ。ひどく怯えた様子ではあったが、逃げることもなくただ彼女は力なく顔を背けた。
「君は人間だよ。ただ稀な素質を生まれつき持っているというだけのね」
背けられた顔の前に右手をかざして、溢れたままになっている魔力の流れを留めた。この程度、魔術師であれば紋章を使わずとも行えることだ。それでも少女には未知の感覚ではあったのか、驚きに目を見開きながら額に手をやっていた。
「わたしが、ひとをきずつけてしまうのは……わたしがわるいこだからじゃないんですか」
「そんな訳ないだろ。人の性質の良し悪しで勝手に魔力が暴走するはずがない」
彼女の額にあるのは『水の紋章』、否、それよりも上位の『流水の紋章』だった。人を癒すことを主体とした水魔法の中でも唯一『氷の息吹』と称されるそれは他者への攻撃のための力であり、『流水の紋章』が元来備え持つ力でもあった。だからこそ彼女が最初に使えた魔法の性質は他者を排除し退けるためのものであったのだろう。もし彼女が生まれ持っていたのが『水の紋章』であったなら、最初に顕現したのは水魔法の本来の力とでも言うべき癒しの力だったのかもしれない。より上位の紋章を宿していたがために、他者から疎まれる存在となったのだとしたら皮肉な話だと思った。勿論、全ては仮定の話で、今さらそれを考えたところで意味などはないのだけれど。
「あなたは、ほかのひととはちがうんですね」
少女はようやくこちらの顔を正面から見て、そう小さく呟いた。まだ幼いはずなのに、感情の起伏のあまりに乏しく思えるような張り詰めた表情をしていた。かつての自分も似たようなものではあったが、ただ彼女の目はその奥に静かながらも意志というものが脈打っているような、そんな人らしい輝きを持っていると感じられた。
少女はまっすぐにこちらを見据え、淡々とした口調で続けた。
「あのひとたちと『おなじかお』なのに」
そして、その真っ青な瞳に射抜かれたような心地がした。
「それは、一体どういう──っ」
突然、背筋を這うような不快感に襲われる。思ってもみなかった言葉に驚く暇もなく、その奥底から湧き上がってくる感覚が表層に染み出してくるようだった。
ひた、ひた、と地面を踏みしめる湿った音が辺りに響いてきた。薄汚れた、しかもこんな冷えた石畳の床を裸足で歩んでくる存在というだけでも気味の悪さを感じるが、それだけではないもっと本能的な拒絶が自分の中に生まれる。
目の前の少女が息を飲んで自分の背後を見つめていた。だが、吐き気となって込み上げる生理的な嫌悪感を抑えるのに暫くただ身体を丸めざるを得なかった。
ひた、ひた、ひた、ひた。
一歩ずつ歩み寄ってくるそれが、ぴたりと自分の真後ろで立ち止まった。弾かれたように振り返って、後ろに立っている存在を見上げた。
かつての自分がそこに立っていた。いや、その身体は成人のそれではあったから、それがかつての自分であるはずがない。ただ、意思も感情も存在していないとでも言うような虚ろな瞳をした、自分と同じ顔をした人形がそこにいた。
あの日見た悪夢が、鏡の中に見た自分と同じあの男の複製が、あの夜と同じように光のない瞳でこちらを見下ろしていた。
「あ、あぁ、」
声にならない声が喉から絞り出た。「来るな」とか「どうして」とか、言おうとした言葉はあったのだろうが明確な形となって出ることはなかった。その場が時を止めてしまったように思えた。もともと色の乏しい部屋が、時間という概念も色彩も生命の鼓動さえも停滞してしまったあの未来の悪夢を思い出させて、言い様のない絶望感に支配される。永遠かと思われる時間が続くと思った。
「きゃああああっっ」
小さな悲鳴とともに床についた腕を掴まれる感覚を覚えて、我に返った。虚ろな人形が伸ばした手はただ目を見開いて呆然としゃがみこんだままの自分の目前まで迫っていた。
「こないで、こないで……っ!!」
腕にしがみついたまま、少女が叫ぶ。その瞬間、自分たちを取り囲むように氷柱が地を貫く。伸ばされていた腕は鋭く突き出た氷の刃に強く弾き飛ばされ、その反動で身体ごと背後の床に強かに叩きつけられていた。だが僅かに呻き声を上げただけで、それは再びゆらりと立ち上がった。おぼつかない足取りだが、氷の刃に切り刻まれて無数の傷で覆われた腕をなおも前へ差し伸ばしながらこちらへ近付いてくる。
「いや、いや、いや!! こないで、こないでこないで!!!」
声を痛々しいほどに擦りきらせた少女はなおもその力を解放し続けていた。腕に押し当てられた小さな額から先ほど抑えたはずの魔力が再び堰を切ったように流れ出ているのが分かった。流れ出るそれはもはや魔力というより、生命の維持に必要な精気というに等しい。
「やめろ、やめるんだ!!!!」
抜けてしまっていた力を込めて後ろの少女へ振り向き、左手をその額に押し当てる。傷口から溢れ出る血を抑えるように流れ出る魔力を止めようとした。だが、彼女の恐怖に引き出されるようにして溢れるそれは留まることを知らずに押し当てた手をすり抜けていく。直接触れた流水の紋章から放たれる力が冷気となって手を蝕んだ。
「っ…ぐうぅ……っ…!!!」
急激に冷やされた皮膚に突き刺すような痛みが走る。その間にも少女のただ来ないで、来ないでと繰り返す言葉がだんだんと掠れていく。
『この程度、魔術師ならば紋章を使わなくても出来ることだ』。つい先刻そう思ったばかりのことが上手くいかないことに苛立ちを覚える。
「どうして、思うようにならない………っ!?」
焦りから出た言葉はがくんと身体を揺さぶられてはね上がった。ずるりと纏っていた外套ごと、後ろへ強く引っ張られたせいで少女の額から左手が離れる。その弾みに彼女がその場に崩れ落ちたのと同時に、視界の端に背後からずたずたに引き裂かれた両手が伸ばされたのが見えた。それを認識したときにはもう既に両肩にずしりと重みがかかっていた。頭だけを動かして背後を振り返る。そこには無数に生えた氷柱の隙間を掻き分けるようにして乗り出した身体と、眼前に迫った光のない両目が見えた。その虚ろな瞳に自分を捕らえているの見た。あの時の悪夢と同じだった。乳白色の液体に溺れたときのような息苦しさに喉が詰まり、酸素が薄くなったかのように頭にずきりと鈍い痛みが襲ってくる。
『複製』はあの時と同じようにただその口をはくはくと動かしている。声にならないそれが耳に届くはずはない。そう思っていた。なのに、それがなんと話しているのかを自分は知ってしまった。脳に直接語りかけられたように、直感的にそれを悟ってしまった。
──ほしい。なかみが、ほしい。
聞こえないはずの声が頭に響く。そしてその瞬間に自分と、その人形の唯一異なるところに気が付いた。
こいつには、中身がない。『器』として作られたそれが納めるべき『真の紋章』がないのだ。そもそも、複製として作られた身体は脆い。核となる真の紋章がなければ、それは術者のいない土人形のようにすぐに崩れ落ちる。中身のない器に存在意義などありはしないのだ。ただ、人の形をした器が容易に作れる訳でもなく、いざ必要となったときに器がないのも困る。では、どうするのか?答えは簡単だ。ただ常に複製を用意し続ければいい。中身のないものはただ使い捨てられる、否、使われる間もなくそのまま朽ちていくだけのことだ。ただ用意して、人目のつかないところに置いておくだけ。それは人の形をしながらも『彼ら』にとってはただの道具にすぎないのだから。しかし人としての形を与えられた器は、人の形を与えられたがために備えてしまった『生きる』という本能に従って、ただ生きるために『中身』を求めている。そこには真の紋章が持つ強大な力を得たいという意志も、その力を思うままに振るいたいという欲望さえもない。
「……ふざけるな」
それはなおも欲しい、欲しいと口を動かしながら空を掻くように闇雲に手を動かしている。今自分を捕らえているそれと、自分と、異なるのはその中身の有無だ。それが決定的な違いでもある。では、自分の存在意義は?ただ生まれながらに押し込められたこの忌まわしい紋章のためであると言うのか?これがあるから、自分は生きていても良いとでも言うのか?
「っ僕は、お前たちとは違う!!!!! 僕は、僕は!!!! こんなものにすがって生きている訳でもない!!!!」
ただ生きるために真の紋章を求めるそれと自分は違うと、誰に伝わる訳でもないのに叫ぶ。思い通りにいかない焦りとやり場のない怒りに支配されていく。それは自らを律していた師の言葉を一瞬忘れさせた。
沸き上がる熱に頭が白く塗り潰されたその瞬間、自分の奥底から溢れる激情が魔力の奔流となって流れ出す。ぶわりと室内の空気に存在していなかったはずの流れが生まれ、鋭い一陣の風となって自らを縛り付けていた影を切り裂いた。背後でぐしゃりと鈍い音が響く。どうやらその強い衝撃に人形は壁に叩きつけられたようだった。解放された身体を起こして音のした方を見る。部屋の暗闇に紛れてはっきりとは確認できなかったが、首から胸にかけて一閃に切り裂かれたそれはもう動くことなく壁を滑り落ちて力なく項垂れていた。身体を斜めに走る傷から、まだ赤々とした血潮が滲み出しているようだった。
「はあ……っ………はあっ……………」
荒い息と滝のように流れ落ちる汗がまるで他人事のように遠く感じられる。部屋の床のほとんどは凍てついて、その冷気が体温を奪っているはずなのに身体がひどく熱い。命あるものとは言い難い存在であるはずなのに傷口から流れ出る鮮血はまさしく人間のものと相違なかった。床を静かに這うそれが罪悪感となって自分までもを赤く汚すような気がしてくる。
「うぅ……」
か細い声が聞こえて、はっと息を飲んだ。踞ったままの少女へと駆け寄ってその様子を伺う。立て続けに魔法を放ったせいで体力を消耗してはいたが、恐怖の対象が消えたことで落ち着いたのだろう、暴走していた額の紋章は今は静かにその光を仄かに放っているばかりだった。彼女を助け起こして、両腕でその身体を支える。
「もうだいじょうぶ、ですか」
少女が閉じていた目をゆっくりと開いた。
「ああ。……もうあれはいなくなったよ」
彼女の視界に部屋の奥で事切れたそれが入らないように僅かに身体をずらして、もう懸念することはないと伝えたつもりだった。が、少女は僅かに頭を振ってからこちらを見上げた。
「いえ、あなたは……あなたは、だいじょうぶですか?」
思いがけない言葉に思わず目を丸くしてしまう。彼女自身、かなりの力を消耗していて見ず知らずの他人を案ずる余裕などないはずなのに。人が良い、というよりはあまりに自分を顧みることが希薄なように思えた。
「僕のことはいいから。それよりも……」
彼女の有り様が少し鼻についたので、自分を案ずる問い掛けを冷たくあしらってしまった。事実、それよりもまず先に考えるべきことがあるだろうと彼女に気付かせなければならない。
「君がもうここにいることは難しいだろう」
これだけの騒ぎを起こしてしまったのだから、もうここに留まるという選択肢はないに等しかった。しかしそれを察してはいたのか、少女は驚くでもなく静かに頷いた。その姿がかえって後悔を募らせた。自分についてくるかどうかは彼女の意志に委ねるつもりであったのに、その芽を潰してしまったのだから。
「悪いね、僕が上手くやれなかったせいだ。僕があいつを呼び寄せてしまった」
謝罪の言葉を口にすると、少女はふるふる首を横に振って否定する素振りを見せた。
「いいえ、『あのひと』たちは、いつもここにいるんです。でもいつもは……とびらをあけてもへやのそとにいるだけで、はいってこないのに……きょうは……」
彼女の言葉を聞いて理解した。この少女は日常的にあの『複製』たちを目にしていたのだ。だから自分の顔を見て「あの人たちと同じ」と言った。
「ああ……そういうこと」
そして、もう一つ分かったことがある。あの複製たちはこの場所に『保管』されていたということだ。それと同時に普通の人間であるこの少女が死なない程度の、最低限必要なものをここに運び込む役割をしていたのだ。神殿の人間はこの不浄の場所へ、『魔女』と恐れたその存在がいる場所へ少しでも関わりを持つことを厭んだ。かと言ってただ死なせるのもそのまま手放すのも惜しかった。だから作り出して持て余していた『複製』を使ってこの場所へ送り込んでいた。
「ただ『合理的だった』。それだけのことだったって訳か」
複製である人形たちは、この場所を覆い隠す結界を素通りできたはずだ。魔術を行使することはできなくとも、腐ってもあのヒクサクの複製であるから、あの男の張った魔術の檻を通り抜けられる。自分が素通りだきたあの乳白色の檻は『罠』ですらなかった。ただ、合理的に作られた仕組みについでのように組み込まれていただけだ。
「どこまでも……僕はあの男の『複製』なんだな」
乾いた笑いが溢れ出る。自分はいつだってその元となった存在を忘れることが出来ないのに、あちらからすれば取るに足らない、記憶にすら残っていないのかもしれない。ただの路傍の石ような存在なのだと思い知らされた気がした。
「わたしには、あなたがだれなのか、わかりません。……でも」
その小さな声に、絶望的な思考に捕らわれていた意識が現実に引き戻された。そうして顔を上げて見ると、彼女はぽつりぽつり言葉を探しながら口にしている様子だった。
「あなたには『なかみ』があります。……あのひとたちとは、ちがいます」
中身がある、という言葉がざわりと剥き出しになった傷に触れた。笑いにもならない乾いた息が溢れる。
「ははっ、君にも僕の中に何があるかは分かるんだ?」
ただ、その言葉を使ったのは偶然かもしれないが、自分の中にある真の紋章の存在を幼いながらに直感的に感じ取っている彼女の才能は素直に感心させられた。感情に乏しい顔がほんの少し戸惑ったような顔を一瞬見せた。
「それに、あなたは……とてもくるしそうだから」
少女が支えられていた身体を自分で起こして、その場に座り直した。そして今まで自らの身体を支えていた手の片方を包みこむように手に取った。
「ごめんなさい……」
少女の目線が右手に注がれる。冷気に晒されてひび割れ、氷に裂かれた指先から僅かに血が流れ出ていた。彼女は掌の中にある手の傷が自分の魔法によって出来たものだと気が付いたのだろう、申し訳なさそうに瞳を伏せた。すると、彼女の額の紋章が仄かに光を帯び始めた。
「何を……」
また魔法が暴走するようなことがあればと思わず身を固くしたが、現れたのは鋭い氷の刃ではなく、清らかな水の流れを思わせる光だった。それは水魔法本来の力である癒しの力であることはすぐに理解できた。両手に出来てそのままにしていた傷が塞がっていく。柔らかな光が消えると、少女が再び倒れ込みそうになったので再び両手を差し出して肩を支えた。
「他人の傷を癒しておいて、自分が倒れたらどうしようもないだろ……」
「よく、わかりません。ただ、やらなきゃっておもっただけだから」
初めてのことなので、と小さく付け加えた少女が上目にこちらをみて様子を伺っていた。別に責め立てたつもりもなかったのだが、申し訳なさそうにしている姿にこちらが悪いことをしたように思えて居たたまれなくなる。
「……ありがとう。助かったよ」
その言葉に少女はようやく安堵の息を吐いた。らしくない言葉にどこか居心地の悪い思いがするが、彼女を落ち着かせるために必要だったのだと自分に言い聞かせる。一つ咳払いをしてから、少女に問い掛ける。
「僕と一緒に来る気はあるかい?……もしその気がなかったとしても、ここからは出してあげるよ」
彼女の選択肢を奪ったのは自分なのに、この問い掛けをするのは間違っているとは思った。ここに残るという選択肢はないのだから、一時的にでも彼女はこの手を取らざるを得ない。だからせめて、その先は少女自身の意志を問うておきたかった。未だ所在の知れないトランの英雄はともかく、その知己を頼ればこの小さな子どもを受け入れてくれる場所は見つかるだろうし、まだ若いデュナンの大統領などは鬱陶しいほどのお節介なので喜んで世話を焼いてくれるかもしれない。
「わたしは……」
少女は俯いて、自らの足下を見つめながら言った。それから顔を上げてこちらをしっかりと見据えた。
「あなたといっしょにいきたいです」
「そう……」
存外早く意を決した少女に、もう少し慎重に考えるべきなのではないかとは思った。だが、それが彼女の選択であるなら自分が否定する権限もない。何より、その青い瞳が確かな意志を湛えているのをはっきりと見た。
「なら、ついて来るといいさ」
言いながら右手を差し伸べると、少女はどうすべきなのか迷うように一瞬身を固くした。それからおずおずとその白い手を伸ばす。小さな手が控えめに右の手を掴んだ感触を覚えてから、額の『蒼き門の紋章』に意識を集中させる。転移のときにはぐれないように、少女の手を握り返す。周囲の景色が溶けていく感覚に彼女が目を固く閉じるのを見ながら、ただ公使した魔術に身を任せた。
◇ ◇ ◇
二度の転移を経て、ようやく目の前に見慣れた黒い森が広がった。その先に高い石造りの塔が青白く夜闇に浮かび上がっているのが見える。
少女を連れていたために、あの乳白色の魔力で編まれた結界を破壊する必要があったが、始めからそのつもりではあったから特段の問題はなくハルモニアから抜け出すことが出来た。あの国に漂っていた刺すような冷気が緩んで、今は周囲の空気が生暖かく感じられる。無事に帰還したのだと安堵する一方で、先刻の出来事が生々しく感じられていたのも事実でまだ残る緊張感が自らの鼓動を早めていた。
もっと上手くやるはずだったのに、不測の事態に心を乱してしまったのが悔やまれた。やるせない気持ちにはあ、とため息が溢れる。
「レックナート様のようにはいかないものなんだな」
「れっくなーとさま……?」
耳慣れない響きに、少女は首を傾げていた。きょとんとした顔でこちらを見ている。
「ああ、僕の……魔術の師にあたる人だよ。僕もまた、君のようにあそこから彼女に連れ出された」
そう彼女に説明していると、かつてレックナートに手を引かれて初めて外に出たときの記憶が思い出された。この黒い森を師に手を引かれながら歩いていたときのことだ。まだ何が起きているのか朧気でつい足を止めてしまった自分を呼び掛けようとして、彼女はそれが出来ないことに気が付いたのだろう。足を止めて振り返ると、静かにこう言った。
『あなたにはあるべき名がまだないのですね。では、私があなたに名を授けましょう』
そうして師の口に紡がれた言葉が自分の名前となったのだった。それがここにやって来たときの初めての記憶だった。
「そういえば。君、名前は?」
かつての記憶から、まだ少女の名前を知らないことに気付かされた。彼女は足下を見つめながらぽつりと呟いた。
「………セラ。そうよばれていました」
「そうか。君には与えられた名があったんだね」
自分とは違い、彼女にはここに来る前に生まれついた故郷があり、親がいたのだろう。ハルモニアは『道具』に名前を付けようとはしないからだ。
「どんなものであれ、それは捨てるべきではないよ。セラ、それは君に授けられたものだろうから」
少女──セラは俯いたまま、「はい」と小さな声で答えた。それから何かを思い出したように、はっとした様子でこちらを見上げた。
「あなたのことは、なんとよべばいいですか」
大したことではないのにあまりに真剣な顔で見つめてくるのがおかしくなって、まだ残っていた緊張が解れた。
「ルック。それが僕に与えられた名だよ」
そう答えると、彼女は暫し考え込むように口元に手を寄せた。そして、納得がいったというように頷くと再びこちらを見上げて、
「るっくさま」
と、妙にはっきりとした声で言った。その大袈裟な響きに少しむず痒い気分になる。
「なんか、大仰だな……」
「あなたは、あなたをたすけてくれたひとのことを『れっくなーとさま』、と」
確かにその通りだが。理屈は通っているので否定しづらいうえに、代わりにどんな呼び名があるかと言われればそれも思い付かない。セラは至って真面目な顔でじっと次の言葉を待っている。
「まあ……好きに呼べば」
考えることを放棄してあまりに適当な返答をしてしまった。だが、彼女のほとんど変わらない表情が少しだけ明るくなったような気がした。
「はい、るっくさま」
そう言って頷いたセラの手を引いて、薄暗い森の中をゆっくりと進んでいった。この、人を寄せ付けないような黒い森も、涼やかな青白い光に照らされた冷たい石造りの塔でさえも。自分にとっては一時の安らぎを与えてくれる場所であった。多くの人々が故郷に対して感じる郷愁というものが自分にあるとすればこういう感情なのかもしれない。この場所が自分にとっての『帰る場所』で、これからはこの少女にとってもそうなればいい。
我ながら、らしくないとは思ったけれど、心からそう願った。
Ⅱ: Reality flows from cause to effect like a mathematical equation.
Mortals can't comprehend this.
They're pathetic.
今日もまた、同じ夢を見る。
全てが停滞した灰色の世界は、もはや自分のよく知る光景ばかりを映すようになっていた。かつて自らが歩いた街が、森が、記憶の奥底にしか残っていないようなただの変哲のない街道さえもが、色を失ってただ静かにそこに佇んでいた。耐えきれなくなって、目を開く。いつもの見慣れた天井に反射して揺らめく僅かな灯の色が、ここがあの悪夢の中でないことを認識させて思わず安堵の息を吐く。だが、『それ』は確実に近づいていてもはや一刻の猶予はないのだと同時に思わせた。ただ世界が停滞するだけではない。そこに溶け込んで自分というものが失われていく感覚。それをありありと感じられて、目が覚めたというのに指先から塵となって消えていくような感覚は消えず、恐ろしさと焦りから高鳴る鼓動を抑えられずにいた。
その時、控えめなノックの音が響いた。
「ルックさま……大丈夫ですか」
閉じられた扉の先からセラの自身を案ずる声が聞こえた。まだ荒い息を整えながらどうにか寝台から体を起こす。それから大丈夫だよ、と声を掛けると小さく扉が開いた。遠慮がちに中を窺うセラの姿がまだ彼女が塔に来たばかりのときを彷彿とさせた。
彼女をこの塔に迎え入れてから十数年。師とともに彼女に魔術を教え、彼女がそれをすっかり己のものとするまでに必要すぎる時間が経っていたのだった。
「ルックさま。随分とうなされていらっしゃったようですが……」
「すまない、心配をかけたね」
幼い時分に全てを奪われて幽閉されていた少女が他者を気遣うことができるようになるほどの時間が経ったというのに、自身はといえばただ過ぎていく日々の中でただ漫然と身を蝕まれていくばかりであることに不甲斐なさを感じた。居たたまれなくなって彼女から視線を外す。
「ルックさま……」
セラがゆっくりと歩み寄り、それから寝台の傍らで身を屈めた。
「私の力では……あなたの苦しみを癒すことは叶わないのですね」
両手を握り込んで視線を落としたセラを見て、胸の奥がじり、と焼けるような感覚を覚えた。
「セラ、いいんだよ。その気持ちだけで充分だ」
恐らくそれは申し訳なさなのだろうと思いながら、彼女の髪が蝋燭の灯に薄く照らされているのをただ見つめていた。
このまま、自分の意思というものが真の紋章に飲み込まれようとするのなら。自分が自分でなくなり、世界が今ある形を失おうとするのなら、そこに存在する自分の価値は一体なんなのだろうか。人とは、真の紋章の前にはあまりに小さく無力なように思える。それこそ逆らうことの出来ない神の意思とでもいうかのように。
ある時は親友から与えられた運命として一人の少年に過酷な人生を課し、またある時は世界の根源にある絶対の争いの象徴として二人の少年にどちらかが倒れるまで終わらない戦いを強いた。世界の絶対の意思とでも言うべき『真の紋章』は、今度は自身の体を静かに蝕んでいる。
──いかに無力を感じようとも、人は意味なき存在ではありません。
かつて、師から返ってきた言葉が頭を過る。その意味をずっと図りかねていた。だが、今になって——どんな過酷な運命の中にあろうと前を向き続けた彼らを知り、自身もまた運命に飲み込まれようとしている今になって、思うことがある。
ただそれを待つばかりでなく定められた運命に足掻いたならば。もし全ての根源たる真の紋章を破壊したならば。価値のない自分の存在にも、なにか意味を見出だすことができるのだろうかと。
◇ ◇ ◇
「これも違うか……」
手に取った本を棚に戻しながら、振るわない成果に思わずぽつりと呟く。
ふと視線を横に向けると、これまで目を通してきた壁一面にずらりと蔵書の並ぶ景色が気が遠くなるほど先に続いていた。
あらゆる知識の集うと言われる、ハルモニアの『一つの神殿』。自分にとって因縁深いこの地に足を踏み入れたのは有り余る嫌悪を堪えてでも得るべきものがあると思ったからだった。運命のくびきから自身を、否、人々を解き放つこと。そのために自らに絡みついた真の紋章を砕くこと。それが紋章に囚われた自分にできる唯一のことだと感じていた。そう意気込んではるばるやってきたわけだが、ここにある全てをあたったところで望んだ答えは得られないだろうとも確信し始めていた。『表』に出ている情報は、この程度が限界だということだ。
はあ、とひとつ息を吐いてから、少しだけ首を回して後ろを見やる。
カウンターに神官とおぼしき男が一人。その後ろにある扉は、限られた人間しか足を踏み入れることのできない禁書棚だ。ハルモニアという国が他国を侵略して奪った叡智の一端が、一般の目に触れられることがないように収められた場所だ。自分が求めるものがあるとすれば、あの中だ。それからその近くの棚の前で蔵書を片付けている男が一人。
本当は使いたくない手段ではあるのだけれども。
棚を見上げたせいで少しずり落ちていたフードを引いて改めて深く被り直す。それから静かにカウンターに近付いた。
「何かご用でしょうか?」
訝しげな表情でこちらを窺う声を聞いて、出来るだけ人当たりの良さそうな穏やかな笑みを作る。神官将ササライが、何も知らずに平穏に暮らしてきただろう兄がそういう顔をしているのだということは知っていた。まず普段の自分ならば絶対にしない表情を作ることに僅かな抵抗を感じるがやむを得ない。
「すまない、少し用があってね」
言いながら少しだけフードを持ち上げる。切ってしまった髪ばかりは誤魔化すことが出来ないので慎重に、顔だけが見えるように気を付ける。
「! あなたは、ササ──」
信じられない、というように目を見開いた男が声を高くしたので、口許に指を当ててそれを制する。
「静かに。ちょっとした、私用でね。どうか僕がここに来たことは内密にしてくれないかな」
「は、はい。かしこまりました」
「悪いね」
こちらから名乗り出たわけではなく向こうが勝手にササライだと判断したのだから罪悪感を感じる必要はないはずだ。
「あ、あの!」
不審に思われないうちに足早に扉の奥へ入ろうとすると、背後から思い立ったような声音で呼び止められる。
「……何か?」
何か違和感を持たれたかと声が強ばりそうになったが、どうにかそれを抑えて振り向いた。
「私のような、末端の人間にお声がけ頂けるとは思ってもおらず……そのお顔を拝見することができて、本当に幸せです」
神官の顔は驚くほど親しみや信頼、尊敬といった感情が溢れていて、最初に見た訝しげな表情がもう嘘のようであった。それほどまでに心酔しておきながら少し表情を取り繕っただけの他人に気が付くことが出来ないのはあまりに滑稽だと思った。
「そう……それは、何よりだね」
罪悪感とは違った疼きがずきりと胸に蟠ったような気がした。
後ろ手に厚い扉を閉めると、バタンと大きな音が埃っぽい部屋に響いた。
流石に禁書棚となれば自分の他に人影も見当たらず、知らず知らずのうちに詰まっていた息を吐き出す。
棚にうず高く積まれた膨大な量の書物は、彩りもそれらが重ねてきた年月もバラバラでどこか雑多な印象を受けた。表に出ている本が整然と並べられていたのとは対照的でもあった。しかしこれらの出自を考えればそれは自然なことである。ここにある書物はほとんどはハルモニアという国に取り込まれて消えた文化の残滓だ。今は名もなき国や民族、言語、そういったものがここには雑然と並べられている。
様々な国の言葉が並ぶ背表紙を辿り、ある一角に目を留めた。それはグラスランドと呼ばれる地域に関する歴史書だった。
グラスランドはシックスクランと称される六つの民族によって成る地域だ。六つのクランそれぞれが独自の文化を形成し、時に対立しながらも外敵に対しては団結してそれを退けてきた。独立性の強い集団が一つの共同体を構成しているという点ではかつてのジョウストン都市同盟と似通っているが、グラスランドは近代的な都市国家というよりはその土地に関わりの深い『精霊』という存在への信仰が彼らを結びつけているという点で大きく異なっている。
「精霊、ね……」
一つの神を信仰するのではなく万物に精霊が宿っているという考え方。一つの絶対の力による秩序ではなく、あらゆるものが混在しひしめく混沌。それこそが『真なる五行の紋章』が起源となった思想なのではないかと思っていた。性質の異なる『五行』が互いに影響を与え合い、仮初めの調和を保つ。それこそがこの世界の根源たるもの、師の言葉を借りたところの『バランス』だ。
この土地にはこの世界の縮図とも言える仕組みが長い歴史の中で形成されてきたのだろう。真なる五行の紋章が集ってきた歴史が、この土地にそういう性質を与えたと言っても良いのかもしれない。とすれば、それを収める神殿や遺跡の類いがあってもおかしくはないはずだった。
古びた本のページを捲り、それらしい記述がないかを辿っていく。
「随分と熱心に辺境の地の歴史書などをお読みになるのですね。あなたのような、神官将ともあろうお方が」
突然、頭上から淡々とした声が降ってくる。本に没頭していたせいか人が入ってきていたことに気が付かなかった。思わずびくりと身体を震わせる。見上げると、この国ではあまり見掛けない赤毛の男がこちらを見ていた。こちらの反応を窺っているような真意を図ろうとするような、そんな嫌な視線であった。こちらのことを『神官将』と言ったのだから、この男は自分のことをササライであると認識しているのだ。何か言葉を継がなくてはならない。
「グラスランド」
手の中に開かれたままになっていた本を、長身の男は覗き込んでそう言った。
「ハルモニア神聖国にとっては五十年程前に手痛い反撃を受けた、因縁深い土地ではありませんか?そんなかの地にご興味を抱かれるのは、御身に宿されている『真なる五行の紋章』に縁ある土地であるからですか?」
そして言いながら今度はこちらをまじまじと見つめてきた。随分嫌な聞き方をするものだ。ササライを指して言っているはずなのだが、わざわざ『真なる土の紋章』と言わずに『真なる五行の紋章』と言ったのは対峙している男が件の神官将でないことを分かっていて揺さぶりをかけているようにも思われた。
「まあ……そんなところだよ。こちらが神官将であると分かっていて、君はそんな不躾に詮索をしてくるのかい?」
手にしていた本が思いのほか勢い良く閉じられた。天井近くの窓から太陽の光が差し込む静かな部屋にバタンという音が響いて、探るような視線が一瞬だけ逸れた。だが彼は何でもないという顔でこちらに向き直ると再び口を開いた。
「私は軍師としてこの国に士官しに来たというだけの身。あなたが本当に『神官将』であるならば、確かに私の行いは不敬以外の何物でもないでしょうね」
「何が言いたい?」
じり、と頬がひりつく感覚を覚える。自身のほとんどを覆い隠しているはずのフードが酷く頼りなく思えた。
「端的に言うならば、あなたは神官将ササライ殿ではありません」
無慈悲なほどはっきりと述べられたその言葉に、どくりと心臓が鳴るのを聞いた。
「何を根拠にそう思う? 僕が別人だというのなら外にいる見張りの神官にでも確かめてみるといい。それとも、僕を警吏に突き出してみるかい?」
無論、そうされれば困るのはこちらだ。ここで弱みを見せれば面倒なことになる。転移魔法を使えばこの場から離れることはできるが、下手に魔力を感知されて存在を辿られるのも望ましい展開とは言えない。思わず手に力が入って掌に爪が食い込む。それを知ってか知らずか、男は変わらぬ調子で続けた。
「確かにあなたの顔は神官将ササライのものかもしれませんが、その在りようは彼とは程遠く思えるのです。生まれながらにこの国の頂点の近くに君臨する神官将が、まるで敵地に置かれているかのように神経を尖らせる必要はないでしょう。勝手知ったる庭のようなものなのだから、どんな状況であろうと堂々としていれば良い」
淀みなく理屈を語る彼の口調は、確かに軍師らしいものだと感じた。それから男は目線を本棚に向けて、ぽつりと呟くように付け足した。
「それに……恵まれ、満たされた人間は自らの起源や由来を進んで辿ろうとはしないものですから」
その言葉にそれまで強張っていた身体が少しだけ解れた。それまでの明瞭さが少し影を潜め、どこかやるせなさや諦めが姿を見せたような気がしたからだ。自分を問い詰める男の真意を図りかねて、ついその横顔を観察してしまう。
どうやら思っていたよりもまだ年若いようだった。感情を表に出さない冷静な態度は彼を幾分か歳上に見せているが、特徴的な癖のある赤毛は張りがあって若々しい。その髪の掛かる横顔も、最初の印象よりは幼く、そしてどこか頼りなく見えた。軍師として士官しに来たというのだから、二十そこそこの年齢でもおかしくはないとも思った。
「へえ……知ったような口を利くじゃないか」
だからこそ、老人めいた諦観を感じさせる最後の一言が興味を引いた。身体ごと目の前の男に向き直る。男に自分を咎めるつもりがないのだと思えてくると、自然と彼がどういう意図をもってこちらに接触してきたのかが気に掛かった。
「その慧眼に免じて聞いてあげるよ。何が望みなんだい?僕がササライでないと分かっていて僕に話しかけたからには、何か目的があるんだろう?」
「声を掛けるまでは五分、といったところでした。ですが、貴方がササライ殿かよく似た別人であるかは大きな問題ではありませんでした」
もしササライ殿本人がお忍びで来ているなら恩を売れば良いだけのことです、と彼は何でもない顔でそう付け加えた。端からハルモニアに忠義を尽くすつもりはないようだった。
「なかなか計算高いね。全ての人間は駒に過ぎないとでも言いたげだ。自分にとって利用価値があるかないか、それだけが重要だと」
「少々誇張が過ぎる気もしますが、全てを否定はしません」
「明言しないんだね。そういう冷徹さは確かにこの国……いや、軍師としては必要だろうね」
この後に継ぐべき言葉がふと頭を過って、一つ息を吐いて会話を切った。それはもしかしたら、という不確定なものに過ぎず、普段の自分なら口にすることのないものだった。だが何故か、この時はそうすべきだとも思ったのだ。
「流石、軍師の名門シルバーバーグの名に恥じない逸材だ」
この世界において、その名が持つ意味は大きい。歴史の中であまりに多く登場するその名は、世界の均衡が崩れようとする星々の集う戦乱においても、重要な意味を持っていた。目の前の青年がその名を背負っているかは確かではないが、ただ、彼は『あの男』に良く似ているとも思っていた。
「おや、私は軍師として仕官しようとしているということしかお話していないはずですが」
青年は否定も肯定もせずに淡々とそう述べた。特段表情を変えたという様子もなかった。ただ思うところはあるのか、口許に手を寄せて視線を外して考え込むような仕草をしている。その様子を見て、自分の言ったことは的外れではないのだと手応えを感じていた。
「君の言葉を借りるなら『直感』というやつだよ。まあ、君はレオン・シルバーバーグという男に似ているんだ。味方であっても敵であっても食えない男だったよ」
「他人の空似ということもあるでしょう?」
「それを言うなら僕とササライも他人の空似かもしれないよ?それなら君の望む利用価値は、僕には存在しないことになるけど」
息を継ぐために肺に僅かに空気を取り込む。書庫に染み付いた黴っぽい香りが鼻についた。
「別に僕はシルバーバーグの名が欲しいわけじゃない。君のような男は興味深いけれどね」
深い緑色の目に僅かに見開かれたのを捉えた。何気なく口から出た言葉ではあったが、彼にとっては予想外だったようだ。が、男はすぐに表情を戻して口を開く。
「私もあなたという存在には興味があります。神官将ササライは円の宮殿で生まれ、幼いときに両親を失ったと言われていますがその親族関係ははっきりしておらず、真偽も定かではありません。そこに彼と瓜二つのあなたが現れた。ハルモニアという国への警戒と敵意を抱いてもいる。しかも祖父のことを知っているということは、」
「へえ、やっぱりレオンの孫か。顔立ちはあまり似ていないね。その赤毛は親譲りなのかい?」
全てを知っているとでも言いたげな滑らかな弁舌が少々鼻についたので、つい口を差し挟んでしまった。すると、意外なほどあからさまに非難がましい視線を送られた。彼の語りを遮ったからなのか、それともあまり触れられたくない部分であったのか。少々大人げなかったとは思ったので軽く心にもない謝罪してから話の続きを促す。
「十五年前、デュナン統一戦争においてハルモニア正規軍はハイランド王国の援軍として出陣しています。その時の将はササライ、ですが同盟軍側と本格的に交戦する前に撤退しています。公の記録には『伏兵による奇襲を受け、甚大な被害を負った』とのことですが」
「『奇襲』ね……ハルモニアもたった一人のせいで退却したとは言わないだろうね。とんだ赤っ恥だろうさ」
「それもあるでしょう。しかし、今の言葉でハルモニアが隠したかったのはただ一人の人物なのだろうと確信しました。当時同盟軍としてたった一人でハルモニア正規軍を一つ退けたあなたという存在をね」
青年の瞳に期待の色が浮かんだのが見えた。いや、期待というほど他力本願なものではない。これは『上手く利用できるものを見つけた』というのが正しいのだろう。
「あなたは恐らくこの国の都合の悪い部分を知っているのでしょう。そして、それは強大なハルモニアという国の致命的な弱点となり得る」
初対面の男に思いのほか高い評価を受けたものだ。
「それは買い被りすぎかもしれないね……それならばあの男が長年僕を野放しにする筈がない。でもこの国が長年隠し続けてきたことを知っているのは事実だよ。それこそ、ササライも知らないことをね」
「なるほど、それはますます興味深いですね。高位の神官将すら知り得ない事実とは。充分に一国を揺るがしかねないものかと思われますが」
「その高位の神官将様がなにも知らずにお気楽に暮らし続けているというだけさ……まあ、いい」
何も知らずに今まで生きてきた『兄』のことを思うと、苛立ちや哀れみがない交ぜになったような、そんな複雑な思いに駆られる。長々と立ち話をしていたら少し疲れが出たのもあって、本棚を背にして寄りかかることにした。
「君の目的はハルモニアで軍師としての地位を築くことか?」
「それも大いなる旅路の一歩です」
思いのほか大仰な物言いをしてみせるのだと思った。それを自信たっぷりに言うでもなく、まるで他人事のように語る姿が不釣り合いでどこかおかしくもあった。
「見た目以上の野心家のようだね。それならば君にしてやれることがあるかもしれない」
「見ず知らずの男に恩を売るつもりで?」
青年は腕組みをして、訝しげな視線を隠すこともなくそう言った。
「勿論、見返りは求めるよ。僕は無償で他人を助けるほどお人好しでもない……軍師ならばその策を振るうべき戦場が必要だろう?」
一度目を伏せて次に紡ぐべき言葉を考えた。さて、この男を納得させられるだけの『材料』を提示してやることはできるだろうか。今一度目を開いて、青年の顔を見据える。
「僕はハルモニアを利用して、ある目的を果たす必要がある。その過程で戦乱は避けて通れないものとなるだろう」
「なるほど、私に『仕事場』を用意してくださると。その場所は先ほどから熱心にお調べになっていたグラスランドですか」
「まあ、そういうことさ。僕にはグラスランドで成すべきことがある。その為にはかの地に隠された真の紋章を手にする必要がある」
「あくまで真の紋章を手にするのは手段であると?」
「まあね。僕の望みは大いなる支配を断ち切ること、とだけ言っておこうか。それ以上は答えられないな」
自らの目的を軽々しく口にするつもりはなかった。自身に絡み付いた真の紋章のことも、『灰色の未来』のことも、この男が信用する試しはないのだから口にする必要はないと感じてもいた。目的をはぐらかしたことに対して不信感を抱かれるかと思ったが、青年はただこちらをじっと見据えて言葉の一つ一つに耳に傾けているのみだった。その様子を見る限りでは特に問題はないようだ。必要以上に素性を明かさないのは『お互い様』ということなのかもしれない。
何気なく見上げた天井が、幾分か濃くなった陽の色を反射していた。陽が傾きかけてくるほど、この閉ざされた空間に長居してしまったらしい。
「先ほど、僕にこの国に対する敵意を感じると言ったね」
天井近くまで積まれた書物を上から辿るように視線を落としていけば、そこにありとあらゆる言語が並んでいる様子がよく分かる。様々な国であったものの名残がただバラバラに横たわるこの書庫は、気味の悪いほど調和の取れたこの国の有り様からは外れた存在だった。それが僅かばかりにこの国への敵意を一時的に削いだのは事実ではあった。だが、それでも拭い去ることのできない本能的な恐怖とでもいうべきものが自身にわだかまっているのは感じている。
「確かにその通りだ。だが、成すべきことためならば表立ってはハルモニアに協力してやるつもりだ……たとえハルモニアの駒と成り果てたと言われてもね」
だが、今置かれた状況が偶然であろうと必然であろうと、全てが定められた運命なのだとしても。自分はどんなものであろうと利用してやるのだと決めたのだ。
「あなたも、目的のためならば手段は選ばないと」
降ってきた声に改めて青年に視線を向けると、傾いた陽光が舞う埃を透かしながら目の前の男の顔を照らしていた。それまで俯いて考え込むようにしていたはずの顔がこちらをじっと見据えていた。
「ですが、物事とは常に原因から結果へと美しく流れ続けるもの。あなたは既に作られたそれを、人が人たるゆえの限界を超えようと言うのですか」
感情の揺らぎを感じさせなかった声が、ほんの僅かではあるが色を帯びたような気がした。
「それが『運命』だというのなら、僕はそのくびきを解き放ってみせるよ」
「……なるほど、分かりました」
青年は静かにそう言って、ゆっくりと頷いた。
それから「あなたに協力しましょう」と短く述べた。
これで話は済んだだろう。『軍師』という存在に共感が持てるかといえばそうではないが、情を排除して勝利への確かな道筋を優先するという点では信頼を置くことができるのに違いはない。ただ、そういう人間との対話は酷く気を使う。
長く本棚に寄りかかっていたせいで自身の肩に積もっていた埃を払う。すると、赤毛の男がこちらに近付いて思い出したように言った。
「一つ、確認したいことがあります」
「なんだい?」
「ササライ殿によく似たあなたのお名前を知っておきたいのですが」
互いに名前を知らぬ状態なのだからそれを問うのは当然としても、わざわざ「ササライに似た」というのは皮肉のつもりなのだろうか。
「人に名を尋ねるときは自ら名乗るものだよ、シルバーバーグの『お坊っちゃん』」
嫌味を言われたのだと思ってこちらも皮肉で返すと、青年は眉を寄せてあからさまに怪訝な表情を作った。それまでほとんど表情を変えてこなかった人間が、今までになく反応を見せるのはなかなか面白い。思わず口許に笑みが浮かんでいた。
「まあ、いいよ。僕の名はルック。これで満足かい?」
「これは、失礼しました」
冷静さを欠いて表情を歪ませてしまったのがきまりが悪かったのだろうか、彼は一度目を伏せて素直に謝罪の言葉を述べた。それからアルベルト、という自らの名を明かしたのだった。
「このアルベルト・シルバーバーグ、持てる知識の全てと比類なき策をもって、あなたが作る未来へと確かな因果を作り出してみせましょう。ルック様」
アルベルトと名乗る青年は真摯な眼差しを向けてそう語った。それに応えながら、どこか他人事のように「軍師に仕えられるとはこういうものなのか」と思う自分がいた。それはかつて見た『彼ら』の姿であり、当時は自身が同じような立場になるとは夢にも思っていなかったものだ。
「そろそろ行かなくては。流石に不審に思われるかもしれませんね」
アルベルトは扉の方を一瞥した。確かにその通りだった。
「ああ、詳しいことはまた後ほど話そう。僕の目的の全てもね」
そう告げると、男は軽く頭を下げてから身を翻して扉の方へ歩みを進めた。その背をただ見つめた。
自分が憎しみを抱いてきた国の片隅で、これだけの『出会い』があるのは随分と奇妙な巡り合わせだった。だが、影に潜みながら静かに、しかし確実に運命に抗うための刃を研ぎ澄ませていく感覚には高揚すら覚えてもいた。ただの机上の空論でも、口だけの理想だけでなく。自分の成すべきことが現実となっていくのを確かに感じていたからだ。
Ⅲ: As long as I get to see the chaos you'll cause,
I am pleased to help you.
「ルック様、あなたにはご自身を守るべき『盾』が必要です」
そうアルベルトが告げたのは、ハルモニア神聖国の首都クリスタルバレーの外れにある宿屋の一室だった。グラスランドにて自身の持つ真の紋章を破壊するためには、他の五行の紋章を集める必要がある。しかし遠い異国の地に隠された紋章を見つけ出すには、ハルモニアという国に取り入ることが不可欠であった。その下準備のために一度ここを拠点として動くのが良いだろうとアルベルトが判断したのだった。
彼に呼ばれたからセラを伴ってやって来たのだが、本人は合流して早々に「すべきことがあるのでしばらくお待ちください」と言って出ていってしまった。アルベルトが出ていったのは昼過ぎであったが、すっかり日も暮れ、夜も深くなっていた。窓辺に置かれた椅子に腰掛けて、明かりの乏しい黒々とした外の景色をただ見つめるばかりになった頃、ようやくアルベルトは戻ってきたのだった。
「随分遅かったね」
「申し訳ありません。思いの外、手間が掛かるものでしたので」
アルベルトはそう言いながら軽く頭を下げた。言葉の上では謝罪しているのだが、彼がただ淡々と述べるばかりにあまり誠意は感じられない。だが、それを咎めるつもりもない。アルベルトは辺りを見渡しながら言った。
「彼女はどうしたのです?」
「セラなら隣の部屋で休んでいるよ。流石にもう夜更けだからね」
「そうですか。では彼女に話すのは明日で良いでしょう」
一つ息を吐いて、アルベルトはこちらを向き直った。そうして『盾』の存在を口にしたのだった。それから彼は自身が入ってきた扉を見やる。その視線の先に目を向けると、少し開いたままになっていた扉の向こうの闇から溶け出すように一人の男が現れたのだった。
「お前は……」
それは決して小柄とは言えないアルベルトに負けず劣らず長身の男だった。長い金髪が腰まで垂れた、年若い風貌の男。だが左右で色彩の異なる瞳の片方は、瞳孔が縦に裂けたように細い。そして何よりその瞳が宿す冷酷さは人ならざる怪物を思わせた。この男のことは知っている。かつて戦場で見たことがある。
「『ユーバー』………」
十八年前の戦争でも、そして十五年前も。漆黒の甲冑に身を包んだ金髪の男は戦場でただその刃を振るい、辺りを血に染め上げていた。戦場でその姿を遠目に見るばかりではあったが、躊躇いなく兵士を斬り付けていったその姿は鮮烈に記憶に残っていた。一つ、目の前の男が記憶と異なっていたのは、全身を覆っているのは甲冑ではなく、街中でも目立たないような漆黒の衣服を身に付けていたことだ。
遠い記憶を辿っていると、アルベルトがこちらに話しかけてきた。
「ルック様はやはりご存知でしたか」
「まあね。……大した縁はなかったはずだけれどね」
そうですか、と答えながらアルベルトは軽く目元を押さえるように手をやった。
「大丈夫かい」
「ええ……ですが、申し訳ありません、今日は休ませて頂きます。慣れないことをしてしまったもので」
アルベルトはそう言って部屋を辞した。明かりの乏しい部屋に得体の知れない男と二人だけ残される。若干の居たたまれなさを感じながら男に目を向けると、彼は無感情な瞳で部屋を見渡していた。が、すぐにこちらに目を留めて僅かに口角を上げて薄く笑った。
「お前の顔は見覚えがある」
左右の色彩の異なる瞳を細め、底意地の悪い笑みでこちらを見下ろしてくる。その視線が酷く煩わしく、不快で仕方がない。
「今度は『こちら側』なのか?抗えぬ運命にでも悲観して自棄でも起こしたか」
心底愉快だという声音で語りかけてくる男を睨み付ける。
「ああ、そういう君はいつだって歴史の中で敗北する側に付いてきていたじゃないか。自分が率いていた十万の軍勢を一瞬で失ったときはどんな気分だった? お仲間を元の世界に返されたのは同情するよ」
男の浮かべていた薄ら笑いがその言葉でかき消えた。十八年前、彼の率いていた軍勢──その大半は異世界から召喚された魔物だった──を師が自身の紋章の力で元の世界へ還した出来事は今だこの男の記憶の中に残っていたようだ。どうやら怪物と言えども、過去の失態を指摘されるのは面白くないらしい。それが滑稽で思わず笑みが溢れた。
「それに。君が苦し紛れに置き土産に置いていった魔物だけど、あれも大概見かけ倒しだったな。あんなのしか喚べないなんて、魔物には召喚魔法は専門外みたいだね」
「ふん、生意気な人間だ……」
「生憎、僕は『人間』ではないよ。君が言う人間に気紛れに造られただけの、ただの出来損ないさ」
言葉尻を拾ってそう吐き捨てるように言う。ユーバーはといえば憮然とした顔のままこちらに足早に歩み寄ってきたかと思うと、向かいに置かれた椅子を乱暴に引いて腰掛けた。それから目の前のテーブルに両足を勢い良く置いた。テーブルがガンッと大きな音を立てて揺れる。行儀の悪い奴だ。
「お前は人間を憎んでいるのか」
ユーバーは机上に置いた脚をこちらに向けたまま、品定めするような視線を向けてそう言った。不遜な態度で問い掛ける男にまともに言葉を返してやる義理もないのだが、態度に反してその言葉は妙に真摯さを帯びていた。それが少しくらいなら答えてやっても良い、と思わせた。
「僕はこの世界が憎い。この身を縛り付けている真の紋章が憎い。その点で僕と君は同じだよ」
「お前は、始めからそういう存在だったと?」
「そうだよ。僕は、生まれたときからずっと一人だった。生まれたときからこの世界が憎かった。だから、この身ごと真の紋章を砕く。それだけだよ」
「まあ、いい。過去のお前がどうだったかはさほど重要ではなかったな」
自分から聞いておいたくせに全く興味がないというようにユーバーは顔を背けた。
「お前が忌まわしい真の紋章の破壊を望む限り、私はお前の盟友であり続ける。それで良いだろう?」
「構わないよ。こちらはお前が僕の望みに反することをしなければそれで良い」
そう答えて目を伏せる。これで話は終わりだろうと席を立って、部屋で休息を取ろうと扉へ向かって歩き出したときだった。
「しかし、お前は……どうやら『姉』の方に似たようだな。己の無力さを嘆きながらただ運命を傍観することではなく、混沌を望んだのだから」
背後から掛けられた言葉に足が止まった。
十八年前、この男が仕えていた赤月帝国の宮廷魔術師ウィンディを指してそう言ったのだということに考えついた。そして師であるレックナートを揶揄するためにわざわざその言葉を選んだのだとも容易に想像がつく。あからさまな挑発だとは思いながらも、僅かな苛立ちが身体の奥底で渦巻いていくのを感じていた。言葉を返すために背後に視線を移すと、部屋の微かな明かりに照らされた口許が愉快そうに歪んでいるのが見えて、余計に苛立ちが増した。
「お前にレックナート様の何が理解できる。死に損ないの怪物のお前に、あの人の何が分かる」
「おや、気に触ったか?」
分かりやすい挑発に乗ってやるのも癪に触るので、努めて冷静に口を開いた。だが、その様子すらも楽しんでいるようなのがひどく腹立たしい。
「お前に『人』の何が分かると言いたいだけだよ、悪鬼」
「お前だって人間ではないのだろう、『出来損ない』?」
先ほど自分が言った言葉を繰り返されて歯噛みする。その通りなのだから、こちらから返す言葉はなかった。ぎり、と奥歯が軋む音を感じて、恐らく今の自分は苦虫を噛み潰したような酷い顔をしているのだろうと思った。
「俺からすれば、お前は人間に見えるがな」
フッと嘲りを含んだ笑いを一つ溢すと、ユーバーは机上に乗せていた脚を下ろして立ち上がった。そしてあの不快な笑みを浮かべながらこちらに近付いてくる。全てを内側から抉り出そうとするような視線に生理的な嫌悪が込み上げてくるのを感じた。
「いや、人間になりたくてなれない哀れな人形が必死で足掻いているように見える」
それ以上言うな。そんな目で僕を見るな。
「そんなお前が本当に人間を、世界を憎みきれると言えるのか?」
近付いてくる視線と腹の底から掻き回されるような不快感に耐えきれなくなった。右手に力が籠る。
「黙れ」
耐えきれずに口にした言葉とともに、右手が熱を帯びる。視線を振り払うように振り向きざまに右手を翳す。籠められた魔力が風の刃となって迸った。眼前の男の表情がかき消え、僅かに首を傾けてそれを避ける姿が目に入る。首を落とすつもりで至近距離で放った魔法を避けられたのは癪に触った。だが、避けた際になびいた髪が代わりに刃を受けたようだ。長い金髪の一房が首の辺りで寸断され、風に揉まれながら床に落ちる。その様子を横目で見たユーバーが小さく舌打ちした。それが少し愉快だった。
「その邪魔くさい髪を切ってやったんだ。……感謝してくれてもいいんだけどね」
嘲りの言葉を浴びせたその次の瞬間、背中に強い衝撃が走る。背骨から滲むように痛みが広がっていく感覚と、目の前に伸びている男の右手。そして自身の喉を締め上げられる感覚。それを自覚してようやくユーバーが自分の首を掴んで壁に叩きつけたのだと理解できた。
「調子に乗るなよ、出来損ないが」
明確な怒気を含んだ声とともに首を締め上げる力が籠められる。
気道が詰まっていくのと同時に急速に息苦しさが襲ってくる。自身を締め上げる腕を引き剥がそうと両手を伸ばしてそれを掴む。だが、びくともしない。
それならばと再び右手の紋章に魔力を籠めた。そして直接触れている腕に風の刃を走らせる。腕を包んでいた黒い布地が裂けた。
「チッ……」
小さく舌打ちしてユーバーは手の力を緩めた。支えを失って身体が床に崩れ落ちる。急に開かれた気道から空気が流れ込んできて、噎せ込んでしまう。呼吸を整えようと荒く息を吐きながらユーバーを見やると、裂かれた腕に不快感を覚えたというように眉をひそめていた。痛みによってというよりは、触れられたくないものに触れられたというようなそんな様子だった。
「そのお方から離れなさい」
聞き慣れた、だがいつになく張り詰めた声が部屋に響いた。床に座り込んだまま声のした方を見ると、いつの間にか開かれた扉の前に杖を構えたセラが立っていた。その背後にはアルベルトの姿もある。これだけ騒ぎ立てれば隣室からでも異常は窺えたのだろう。
「なんだ? お前は」
ユーバーはセラの姿を認めると、ぞんざいに吐き捨てた。威圧的な視線を向けられた彼女は一瞬たじろいだ様子だったが、引くことなくしっかりと目の前の男に対峙していた。幾分整った息を吸いこんでから、彼女に声を掛ける。
「セラ、大丈夫だ。この程度、大したことじゃない」
「ですが……」
セラは戸惑ったような視線をこちらに向けた。
「良いんだ。だから今は抑えてくれ」
「……分かりました」
静かに目を伏せて、彼女は杖を収めた。それから後ろで部屋でのやり取りを漫然と眺めていた男に向き直る。
「アルベルト、あなたもあなたです。こうなることは予測できたのでしょう。何故止めないのですか」
表情こそ普段と変わらなかったが、セラの言葉には咎めるような響きがあった。アルベルトは一つ息を吐いた。いかにも面倒事はごめんだとでも言いたげだった。
「久しぶりの再会に水を差すのも悪いかと思ったからな」
「あなたという人は……」
ただ淡々と告げた男にセラは頭を振って応えた。
「話は済んだか?」
騒ぎを起こした当の本人は、つまらなそうな様子で暫くやり取りを見ていたのだった。アルベルトが部屋の中に歩みを進めて、退屈そうにしている男に近づく。
「ユーバー、力を振るうべき相手を見誤らないでもらいたい。こちらも主を殺されては元も子もないのだから」
それから今度はこちらに視線を下ろして言った。
「ルック様も、あまり挑発には乗らないでください。おおかたこの男が余計なことを言ったのだとは思いますが」
「いや……悪かったよ。僕も冷静さを欠いていたようだ」
長らく座り込んでいた床から立ち上がって、言葉を返した。安い挑発に乗って感情を露にしてしまったのはこちらの落ち度だ。
「詳しい話は全て明日にしましょう」
重苦しい沈黙を破ったアルベルトのその言葉を最後に、それぞれが部屋に戻ることになった。一人残された部屋の中が異様に広く感じられる。部屋の隅に置かれた寝具に横になると、先ほど浴びせられた言葉が脳裏に甦ってきた。
──人間になりたくてなれない哀れな人形が必死で足掻いているように見える。
──そんなお前が本当に人間を、世界を憎みきれると言えるのか?
ああ、そうだ。悔しいがその通りだ。一番突かれたくない核心に触れられて、冷静さを欠いたのも事実だ。自分に残された時間を考えれば、迷っている余裕などないのは分かっている。自分の価値を見出だしたくて、それでいて、運命に抗うことを恐れている自分がいる。それが酷く腹立たしい。
「だけど、もう僕に戻るという選択肢はないんだ」
ぽつりと溢れ出た言葉は、誰に伝わる訳でもなく、部屋に響くこともなく、ただ薄暗い部屋の隅に落ちていった。
「ハルモニア本国を動かし、グラスランドにて真の五行の紋章を集めながら、かの地にあるという真の紋章を破壊するための遺跡を探し出す。それが我々のすべきことであるのは間違いありませんね?」
「ああ、その認識で構わないよ」
アルベルトがユーバーを連れてきた翌日、クリスタルバレーの外れにあるこの拠点でこれから遂行する計画について一度確認すべきだと軍師から提言があった。綿密な下準備と迅速な遂行が必要だと述べた彼は、宿屋の一室でグラスランドの地図を広げて口火を切った。
セラは椅子に浅く腰掛けて話に耳を傾けていたが、時折ユーバーに訝しげな視線を投げかけていた。昨夜の出来事から、彼女のこの男に対する不信感は募るばかりなのだろう。当のユーバーはといえば、そんなセラの視線を気にする素振りもなく、椅子にもたれ掛かりながら行儀悪く足を机に乗せていた。そして退屈そうな表情を隠そうともせず、漫然と部屋を眺めている。どこか張り詰めた雰囲気が漂っていたが、それを振り払うようにアルベルトに語りかけた。
「ハルモニアに、真の紋章を手に入れられるとグラスランド侵攻を持ちかけるわけだね」
「はい。ハルモニアとグラスランドの不可侵条約が失われようとしている今ならば、それも現実的になります」
軍師はゆっくりと頷いた。
「ルック様。ハルモニアの後ろ楯を得るならば、本国での地位を確立する必要があります」
「地位、ね……それは可能なのかい?」
あれだけハルモニアを忌み嫌ってきた自分が目的のためとはいえそこで地位を得ようとは、皮肉なものだと思った。思わず自嘲的な笑いが口から出た。
「ええ。グラスランドがゼクセンとの戦いに疲弊している今、彼らはその場しのぎの休戦協定を結ぶことになるでしょうから」
「それが何か関係あるのか?」
つまらなそうに話を聞くばかりだったユーバーが突然口を挟んできた。話を遮られたアルベルトは僅かに眉をひそめたが、すぐに表情を戻して再び口を開いた。
「グラスランドとゼクセンの休戦協定をどちらかが反故にしたなら、両国は再び戦争になる。疲弊しきった戦力を回復させる間もない。そこにハルモニアが侵攻してきたとなればグラスランドがどういう状態になるか、流石に分かるだろう」
アルベルトは目を細めてユーバーを一瞥した。そこには明らかに皮肉が込められていたが、言われた本人は全く気にも留めていない様子で返した。
「狂言か。使い古された方法だな」
「だが、確実であると言える」
アルベルトは再びこちらに顔を向ける。
「ゼクセンとグラスランドの戦乱を手土産に、あなたはハルモニアでの神官将の地位を得るというわけです。ハルモニアにとっては両国の戦争に乗じて真の紋章を手に入れるという非常に合理的な状況が出来上がるのですから、これ以上の成果はないでしょう」
「ああ………そうだね」
「争いの芽を、私たちが作り出すということですね」
それまで静かに耳を傾けていたセラが、ぽつりと呟いた。それまで続いていたやり取りが止んで、部屋が一瞬だけ静まり返った。アルベルトは、返すべき言葉はないというようにただ目を伏せている。
「気に食わないならさっさと出ていけばいい。それだけのことだろう?」
沈黙を破ったのはユーバーだった。珍しいことに、セラは咎めるような視線を声を掛けた男に向けるのを隠さなかった。
「あなたが思うような意図はありません。私に迷いなどないのですから」
強い意志を持った瞳で、セラははっきりと言った。だが、その言葉に偽りはないとしても、彼女が心を痛めているだろうことは僅かながら理解できた。
「セラ。たとえそれが正しい行いでなかったとしても、どんなに理解されなかったとしても、僕にはそれを成し遂げなければならない理由がある。ただ、それは僕の都合だ。君が必要以上に責任を感じることはない」
彼女は静かに頭を振った。
「いいえ……私は望んであなたについていくのです。ですから、その責任をあなただけに背負わせるわけにはいきません」
まっすぐな青色の瞳がこちらを見据えていた。その視線は、初めて彼女に出会ったときのことを一瞬だけ思い出させた。
「話は済んだようですね」
腕を組んでやり取りをただ観察していたアルベルトが再び口を開く。無駄口を叩いている時間はないということだろう。その言葉を受けて椅子から立ち上がった。
「ああ、これ以上ここで語るべきことはないだろう」
計画は成った。ただ後は事を始めるだけでいい。自らの理想のために戦乱を巻き起こす。いつか灰色の未来へ至る世界を変えるために、奪われる必要のない命を奪う。決して許されない道をもう既に歩み始めている。そしてその歩みを止めることは、もう出来ない。
「さあ、行こうか。我々が、未来を変えるために人の道から外れた……最初で最後の存在となるために」
こちらに見つめる三人の視線を受け止めて、始まりを告げる一言を紡いだ。それぞれがただ頷いて、その言葉に応じた。
目指すものが全く同じとは言えない者たちが、これから暫しの時を共に歩む。人に許されない道を歩む者の行き着く先は、誰も理解されることのない深淵だ。そして異なる理想を抱く者たちが最後までそこに同道することもないだろう。だが、それはかえって都合が良いと感じてもいた。
こんな選択をする者など、この世界で僕だけで良いのだから。
こうしてグラスランドとゼクセン、そしてハルモニアを巻き込んだ戦火の幕は密かに切って落とされたのだった。
別離
休戦協定の破綻によって再び対立したグラスランドとゼクセンが、新しい『炎の英雄』の誕生によって一時的とはいえ手を取り合うまでになったのは彼らにとっては大きな誤算であった。また後ろ楯にしていたハルモニアに計画の内情が知れ、神官将ササライが炎の運び手に力を貸すことになったことも、勝敗をはっきりと決することになったのは間違いないだろう。炎の運び手たちがその対立を乗り越えて心からの信頼で繋がったとは言い難かったのかもしれないが、利害の一致のみで結び付いていた彼らの目的を打ち砕くにはそれでも充分なものだったのだと言えるとしたら、それは皮肉なことなのかもしれない。
ともあれ、全ては終わった。『儀式の地』は彼の理想とともに崩れ落ちようとしていた。
「結局はこうなるのか。人間とは、どこまでも愚かな生き物だ」
音を立てて崩れ始めた遺跡を見上げ、ユーバーはひとり呟いた。儀式の地の中心から解き放たれた力が忌まわしい真の紋章がひとつ破壊したのではなく、ただ今いる場所を崩壊させるに留まっていることは嫌でも理解できた。あの男の望みが叶えられたのならば、この身を焦がすような渇きが少しは癒されたはずだった。それは叶えられなかったのだ。もっとも、世界が憎いと口にしながら人間を憎んではいなかったあの男が本当にそれを望んでいたと言えるのかは定かではないのだが。人でないユーバーにとって、人間であった彼の心理を理解することも、否、それを理解しようとすることすら始めから存在し得ない感情であった。人の形をした怪物は、崩落する遺跡の中をものともせず、悠然と歩みを進めた。
剥がれるようにこぼれ落ちてきた石塊の奥で、呼び出された異形の者たちが溢れだしてきているのを目の端に認めた。制御を失ったそれらが、ただ生あるもののその命の流れを断ち切らんと本能のままに獲物を探し求めている。
あれを制御していたはずのあの女も既に息絶えたのだろう。まだそうでなかったとしても、このザマではその息の根が止まるのもそう遠いことではないのだから。
あの軍師は誰よりも早くこの地から去ったのだろう。どこまでも周到なあの男は、取り入るのも見限るのもあれだけ早かったのだから。
そう僅かに意識を目の前の景色から外した。それは人ならざるものである彼にとってほんのまばたきのような一瞬であったはずだった。その刹那の思考に気を取られたうちに、ユーバーの眼前に白刃が迫った。制御を失った人骨の形をした魔物が、その錆びついた刃を目の前の生き物に振り下ろしたのだった。それを容易に避けた男は、いつの間にか右腕に握られていた細身の刃でその魔物の髄を横一文字に断ち切る。乾ききった骨が断ち切られたところから綻び、その場に崩れ落ちた。
「襲うべき相手も見失うとは、見下げ果てた奴だ」
怪物なら怪物らしく本能のままに動けばよいのだ、とユーバーは床に散らばった白い塊を見やった。それから不意に自らの髪止めを後ろ手に引きちぎった。枷の外れた髪がするりと解けて、彼の黒衣の背中に流れ落ちる。
自ら人ならざる者であると言うのなら、そういう生き方をすれば良いのだ。それを理性だの情だのに流されるからそうすることもままならず、満足な結果も得られない。その中途半端な有り様は、間違いなく、これ以上なく人間らしい愚かさだった。
人の形をした獣は、本能のままに生きる永い時のほんの一瞬だけ共に歩んだ人間のことをそう思った。
男は小高い丘の上でひとり、崩れ落ちていく遺跡を見下ろしていた。眼下の光景とは裏腹なほど穏やかな風が、彼の暗い赤毛を揺らす。
これで全てが終わったのだ。自分の成すべきことも、そしてつかの間、主としたあの男の人生もまた、終わりを迎えたのだ。アルベルトは崩落する遺跡の姿を心に刻んで、それから静かに目を伏せた。
もっとも、彼のすべきことは彼の主がこの遺跡にやってきたときにはもう終わっていたはずだった。最後にこの地のことを『炎の運び手』に伝えたこと──言うなれば主を後ろから撃つ真似をしたこと──が彼の仕事の仕上げであった。これはアルベルトが『破壊者』の一員として動きながら、始めからハルモニアにとっては突然現れた素性の知れない神官将を監視する役割であったということの証左だ。無論、それもまたひとつの口実に過ぎないのだが。
「とうに逃げおおせたと思っていたぞ」
閉じた視界の中で思索に耽っていると、思いがけず声を掛けられる。視線だけを横に向けると、いつの間にか傍にあった岩に黒衣の男がもたれかかってアルベルトを見つめていた。見慣れた光景ではあったが、唯一、編まれていたはずの金髪が解かれて肩から背中に流れ落ちているのだけが目についた。まるで今回の役割は終わったとでも言いたげだと、アルベルトは思った。
「これがお前が望む結末だったのか?」
言いながらユーバーは既にその姿のほとんどを失った遺跡を見やった。
「そうだ。これが正しい結末だった」
「負けるために戦に臨む軍師というのも考えものだな」
その存在に意味はあるのか、と男は左右で色彩の異なる瞳を細めた。安い挑発に反応してやる義理はないと、アルベルトは冷静に言葉を返す。
「戦争に勝った者がいるということは、敗れた者が必ず存在するということ。表に語られる歴史ばかりが世界を作るわけではない」
「俺には、負け惜しみにしか聞こえないのだがな」
ざっ、と背後からの風が長い金髪をさらった。風に煽られて顔にかかった髪をユーバーはひどくつまらないといった様子で振り払った。
「しかし、始めから汚れ役をやってみせるとは、つくづくお前は人間らしくない。その在り方は生まれつきか?それとも全てを諦めてしまった者ゆえの自棄なのか?」
ユーバーには眼前の赤毛の男が物珍しく映ったのだろうか、その言葉は先ほどまでとは違い、揶揄いも皮肉の意図もない、恐らく純粋な興味から来るものだった。
「人間として生まれた俺には、答えようのない問いだ」
その好奇に対するアルベルトの言葉はひどく素っ気なかった。だが風に吹かれて露になった彼の左目は、なんでもないという顔で崩れ落ちた遺跡を見つめるその目は、どこか切実な色を帯びていた。
「ただ、哀れみなどという不確かな感情に囚われるのが人間ならば……それは紛れもなく不幸だ」
その姿を見たユーバーはくつくつと楽しげに笑う。
「お前たちは怪物にでも生まれてきたほうが幸せだったのかもしれないな?シルバーバーグ」
揶揄するような調子で語りかけるそれに、アルベルトはゆっくりと頭を振る。
「歴史とは常に人の手で作られるべきものだ。見えざる者の手に委ねられるものではない」
そして、先ほどまで見つめていた景色に向き直った。
そう、歴史とは、運命とは、常に人の手によって作られるべきものだ。しかし同時に、神という絶対の意思がそれを容易く手折っていくのを見過ごすことしかできないのもまた事実である。それこそが人間の——人間である己の限界でもあった。
──それが『運命』だというのなら、僕はそのくびきを解き放ってみせるよ。
あの日、ろくに管理もされず埃にまみれた禁書庫の中で、その男はまっすぐな瞳でこちらを見据えてそう言った。あまりにも愚かで、途方もない選択だと思った。だがそれと同時に、自身が早々に諦めてしまった世界の摂理に挑もうとするその姿を羨む自分がいた。彼は未だ自らの限界などというものが存在することさえ理解していない弟とも違い、自らの無力さを知りながらも世界に牙を突き立てようとしていた。その姿を見たとき、「それが可能であるか」という理性ある判断や論理を超えて「それを可能にしたい」という人間らしい欲望が確かに自らの中に息づいたのを感じた。分の悪い賭けに乗ってみたいと、そう思わせたのだ。
だが、結局その理想は叶うことのなかった。つい先ほど眼下に広がる瓦礫の中に理解されることないまま埋もれてしまった。分の悪い賭けはやはり始めから叶うものではないのだ。
「後悔しているのか?」
背後から掛けられた声に振り返ることもなく、アルベルトはただ黙ってその彼の見た夢の跡を眺めていた。人の心を理解するはずもない人の形をした獣は、時折自身の思考を見透かした言動を取る。それが不意に神経を触れられたようで僅かな苛立ちを覚えたのだろう、アルベルトは僅かに眉を寄せた。
「後悔などするはずがない」
それから溜め込んだ息を吐き出すように、呟いた。
「ただ……ただ、人とは一縷の望みを抱いてしまう愚かな存在だと思っただけだ」
「お前たちはいつも、力のないくせに大きなものを望むからな」
その言葉にアルベルトが振り返る。が、応えたはずの男の姿は、始めから存在しなかったかのようにいつの間にか消え失せていた。アルベルトは一つ息を吐いた。そして、ざわめく草の音を聞きながらこれまでのことを、そしてこれから訪れる未来を思う。
叶わない願いを抱いてしまうのが人間であるならば、その夢が形作るのを見ることができないのが人間であるならば、せめてその生きた末に救いがあってほしいと。歴史の狭間に消えていった主と、彼に最期まで寄り添った少女を思い、男はひとり残された丘の上でそう願った。
周りの瓦礫の崩れ落ちる音も、舞っているはずの砂塵もどこか遠くの出来事に感じられるほど、自分のあらゆる感覚というものが失われていっているのだと感じた。自らの中に流れていたはずの魔力の奔流はもう僅かにも感じられず、魔術を行使するのに必要な言葉を詠じる口ももう開いてはくれなかった。
ユーバーも、アルベルトも、もう自らの果たすべき目的はないと既にこの場所を離れたのだろうか。最期まで彼に寄り添おうとする私を愚かだと笑うだろうか。彼らは自身の理想にどこまでも貪欲な──否、それは彼や私も同じである。元より私たちは全員が同じ場所にいながら、それぞれが全く違うものを見ていた。彼の理想に殉じようとする自身すらも、彼と同じものを見ていたわけではないのだ。ただ互いの利害が一致していたから、ほんの一時だけ共に歩んだ。私たちはそういう関係にしかなれなかったし、それが正しい在り方だったのだろう。
ふと、感覚も朧気になっていた頬に微かな温もりを感じた。目の前の愛しい人が手を伸ばしてくれたのだと分かって、そっと伸ばされた手を握り返す。繋がれた掌だけに失われていくはずの体温が残っているような気がした。
目蓋が重くなって、急速に霧が掛かったように視界がぼやけていく。まだ開いておきたかった目を閉じざるを得なかった。
「セラ………?」
弱々しく自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「ありがとう……僕の魂も救われる………」
感謝されることなどないのです。私は、ただ、私の生きたいように生きただけなのだから。
そう応えたかったけれど、その言葉を紡ぐ力さえも自分には残されていない。
「僕にはないと思っていた、魂の存在を……今は、確信できる」
暗くなった視界の中で、何もかもが彼方へ消え去ってしまったかのような世界の中で、そう小さく呟く言葉だけが聞こえてきた。誰に向けるでもなくこぼれ出た言葉。それを聞いて胸の奥がほんの少しだけ焼けつくような思いがした。
あなたは、他の人とは違う。あなたには『中身』がある。
あの日差し伸べてくれた温かな手も、その確かな意志の輝きを秘めた深い瞳の色も、その不器用なまでの優しさも。あなたを形作る全ての奥底に根付いていたものを、もし『魂』と呼ぶのなら。
私は初めて出会ったときから、その存在を確信していましたよ。あなたに初めて出会ったあの日にそう伝えたはずだったのに、ルックさまは気が付いていなかったのですね──
そこに一抹の寂しさが存在しないかといえばそうではない。私が想うのと同じように、あなたが私を想っていてくれたとは思わない。けれど、それでも。私に生を与えてくれたのは間違いなくあの日のあなたで、最期まで傍にいたいと願うのは目の前のあなただけだった。
最期に見た世界はその瞳が優しく揺らぎながら私を見つめていて。それは美しい輝きに満ちていて。これで良かったのだと、後悔はないと。ただあなたの傍に居られて、あなたが傍に居てくれて。私は本当に、本当に。幸せでした。
Even though Destiny can be brutal,
it will allow you to rest.
──終──