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    アンドリュー(鶏)

    @KpaM9hx9

    たまに字や絵を投げます。

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    POIPOI 5

    Ⅲ本編5年くらい前の赤毛軍師兄弟の話。
    シーザーから見た兄の話と、アルベルトから見た弟の話の2本立て。
    実在する某超有名推理小説が作中に出てきますが、ゲーム本編にもロミジュリとかが脚本として出てくるのでいいかなと思ってやりました。細かいことは気にしないスタンスで見ていただけると嬉しいです。

    いつか来る瞬間のためにⅠ.いつか来る瞬間のためにⅡ.いつか来る瞬間の先にⅠ.いつか来る瞬間のために 目の前の本を開くと黴臭い埃の匂いがした。鼻の奥と喉がむずがゆくなって、ごほごほとむせ返る。舞い上がった埃が窓から射し込む午後の陽光に白く照らされていた。

     シーザー・シルバーバーグは生まれ育った家の自室でひとり机に向かっていた。目の前には先ほど開いた一冊の本と、広げられた一枚の紙。開いたままのインク瓶の隣には、なかなか書くべきことが思いつかずに投げ出されたペンが転がっている。開いた本から舞い上がった埃に出鼻をくじかれたシーザーだったが、めげずに開いた本を文字を追い始める。ある国の興亡が記された何十年も前の歴史書はところどころページが黄ばんでいて、書かれている言葉遣いもそれはそれは古めかしいものだ。普段の彼なら望んで手にしないようなその本は、彼の家庭教師が手渡してきたものだった。指で一行ずつ、ところどころ掠れた文字を辿る。が、開いたページの次もめくらないうちに十二歳の少年は椅子の背に勢いよくもたれかかった。
    「あーーー………やっぱめんどくせえ……」
     つい口から出た言葉は誰に聞かれることもなく部屋に溶けていった。そもそも、自分の考えをいちいち文章にまとめることに意義が見出だせない。手を動かすよりも口を動かすほうがずっと早いのだし、それで相手を納得させられればそれで良いだろうと自分は思うのだけれども、彼の家庭教師はそれを許してはくれなかった。シーザーは椅子にもたれかかったまま今朝の出来事を思い出す。
     
     それは、今朝ひとり少し遅めの朝食を終えて、ふらふらと外へ出ようと玄関の扉を開けたときのことだ。今日は特段用事というものもなかったし、外はよく晴れていたから外でぼうっと過ごすのも悪くないと思っていた。家庭教師の女性には「休みのときにもしっかり勉強して学ぶ習慣をつけなさい」と言われてはいるものの、せっかく課題もないのに自ら机に向かうのも馬鹿らしいじゃないかと頭の中の教師の姿を振り払って玄関の扉を開けた。すると、ついさっき思い浮かべていた人物──家庭教師のアップル本人が扉の前に立っていたのだ。自らの甘い考えを見透かされたような気がして、シーザーは思わずぎょっとして後ずさる。言葉を失っていた少年に気を留めた様子もなく、女性はにっこりと微笑んだ。
    「あらシーザー、こんにちは。どこへ行くのかしら?」
     口元は確かに微笑んでいるのに、丸眼鏡の奥の瞳にどこか圧を感じる。まるでサボりを咎められたようで焦ったが、少し考え込んで今日はそうではないことに思い至った。少年は一度深呼吸をしてから慎重に言葉を返す。
    「授業は休みだろ?」
    「そうだけど。きのう休みのあいだの課題を渡し忘れたから。はい、手を出して。ほら。早く」
     有無を言わせない口調で畳み掛けてくるので、彼は言われた通りに手を差し出さざるを得なかった。手が伸びたのを確認するやいなや、アップルは持っていた本をその上にパッと落とす。見た目どおり重いそれをどうにか受け取って顔に近づけると、古ぼけた箔の題字が革の表紙にうっすらと浮かんでいるのが見えた。
    「なに? 歴史書?」
    「しっかり読みこんで内容をまとめてきなさい。明後日までにきっちり三枚分ね」
     少年が顔を上げて問いかけると、家庭教師はご丁寧に指を三本立てて突き出してきっぱりと言った。言われた側はあからさまに気落ちした。
    「ええ……なんでそんな面倒なこと……読んだらちゃんと感想言えばいいんだろ?」
     それなら読み終わりさえすれば済む話だ。しかしそう思っているのを見越したのか、アップルは呆れた顔で静かに首を横に振る。
    「シーザー。言葉を文字にするというのは大切なことなのよ。声は目の前にいる人にしか聞こえないけれど、文字になっていれば遠くにいる人にだって届くのだから」
    「遠くに声を伝える手段だってあるじゃん。ほら、魔法とか使えばさ、きっといけるんじゃない?」
    「そういう具体性に欠ける話は反論の根拠になりません」
    「アップルさんは固いなぁ」
    「あなたが柔らかすぎるだけです」
    「良いことじゃん。頭が柔らかいのは」
    「シーザー」
     アップルがぎろりと目の前の少年を睨んだ。面倒事を舌先三寸で誤魔化そうとしているのが分かっているらしい。彼の家庭教師はとても真面目でしたたかな女性だった。しかし、たとえ誤魔化しがきかなかったとしても、彼女がそれに少しでも付き合ってくれるのが楽しいとシーザーは思っていた。
    「はいはい、ちゃんと書くって」
    「返事は一回」
    「分かってるよ」
    「シーザー、これは真面目な話なのよ」
     アップルは額に手を当てて頭を軽く振った。それから真剣な面持ちでまっすぐに教え子を見据える。
    「あなたはもう十二歳になったでしょう。あと二年もすれば、クリスタルバレーに留学することは分かってるわよね」
     切々と諭すような口調だった。彼女のことは嫌いではないし、むしろ好ましいとさえ感じてはいるものの、こういう厳格な雰囲気は居たたまれなくなってしまう。まっすぐな視線に耐えきれなくなって、シーザーはわずかに顔を背けた。開いた扉から差した光が、玄関の白いタイルに吹き溜まった塵を照らしているのをただ見つめた。
     彼女の言うことはまだ子どもという枠から抜けきれない彼にも理解はできていた。シルバーバーグ家の人間として自分がこの国の同年代の人間より恵まれすぎた環境で学んでいることも、ある程度の年齢になったらハルモニアに留学することもちゃんと分かっていた。七歳上の兄の存在は、自分のこれから辿る道を否応なしに理解させていた。少年の長い沈黙を肯定と受け取ったらしく、アップルはそのまま語り続けた。
    「ハルモニアに行ったら、あなたはひとりの人間として見られる。それもシルバーバーグ家の人間として。色眼鏡で見られることもあるでしょう。理不尽な言いがかりをつけられることだってあるかもしれない」
    「そんなの慣れてるよ」
    「それでもよ。これまでの比じゃないと思いなさい。でもね、どんな状況でも積み重ねた知識と論理は裏切らないの。それを形にして叩きつけてやれば中途半端な奴らはみーーんな黙るのよ。見た目や名前だけで判断するような人間なんて、所詮口だけの奴が多いんだから」
     教え子を諭す口調がだんだんと崩れてきて、少々愚痴っぽくなってきていた。居たたまれなさが若干和らいだのでシーザーは床の埃から視線を上げて尋ねる。
    「それはアップルさんが長年生きてきたうえでの経験談?」
    「そうね。ひとこと余計だけど」
     アップルは堂々と腕を組んだ姿勢で答えた。
    「あなたに足りないものがあるとすれば経験と、頭の中にある知識を形にする方法よ」
    「それで、この課題? まぁ理屈は通ってるけどさ……」
     道理だろうと面倒なものは面倒に違いなかった。
    「別にどう言われようと俺は俺なんだから別にいいよ。赤の他人からの評価なんて気にすることないだろ?」
    「それでも、駄目なものは駄目なの」
    「シルバーバーグの名前に傷が付くから?」
     アップルはその言葉を聞いて目を細めた。名の知れた家に生まれた少年としては、半分くらいは本気で尋ねたことだったのだが、家庭教師は心底呆れたという様子だった。
    「シルバーバーグの名が半人前のあなた一人の行いくらいで簡単に傷つくはずがないでしょう。せいぜいシーザーの名前に傷が付くだけよ」
    「じゃあ、なんでそんなにムキになるのさ?」
    「ムキになんてなってません。私はただ、あなたの力が目に見えないせいで不当に評価されるのが我慢ならないだけ」
     シーザーはきょとんと深い緑色の瞳を見開いた。
    「なんでアップルさんがそんなことを気にするわけ?」
     心底分からないという風に尋ねた言葉に、アップルは訝しげな表情を隠しもせずに言った。
    「当たり前じゃない。私はあなたの先生なんだから」
    「うーーん……?? なんか、よく分かんないや」
     その答えを聞いても釈然としなかった。だが、分からないなりに彼女が教師として自分を気に掛けてくれていることだけはまだ幼い少年にも理解できたのだ。
    「あ、もしかしてアップルさんって俺のこと大好き? 目に入れても痛くないってやつ?」
    「馬鹿言わないでちょうだい。あなたみたいに手のかかる生徒、目の上のたんこぶみたいなものよ」
    「ひどいなぁ」
     口ではそう言ったものの、シーザーの頬は自然と緩んでいた。ばっさりと切り捨てられても、不思議と少しも悪い気はしなかった。
    「そんなアップルさんの厄介ごとの俺は、今から真面目にこの課題やってくるからさ。まぁ休み明けを期待して待っててよ」

     
     だから、三時間ほど前の彼は浮かれたままの頭でそんな大口を叩いたのだった。分厚くて古くさい歴史書も文章に考えをまとめる課題も煩わしいことには違いないが、期待されて悪い気はまったくしない。挨拶もそこそこに自室へ戻って、シーザーが珍しくやる気を出して机に向かったのがその直後のこと。期待してくれている人がいるなら頑張ってやろうじゃないかと、意気揚々とページを開いたのだが──結果は無惨なものだった。
     それでも机に向かった時間の大半をかけてどうにか見開き一ページ分の文字を追いきった。そして頭の中に浮かんだものを書き出そうとペンを手にする。が、今度はなかなか書くべき言葉が出てこない。いざ文字にしようとしても手は止まったままだった。紙に押し付けたままのペン先から出たインクがじわじわと紙に染み込んでいく。それがごまかしの効かないくらい大きくなってから、ようやくシーザーははっと我に返った。文字が綴られることもなく、ただ左上に大きなインクの染みが出来ただけの紙を見つめて、大きくため息をつく。
    「やっぱり向いてねえよ……こういうの」
     呟きながら、ペンを手にしていないほうの手で髪をかく。もともと無造作に跳ね放題の赤毛が余計にぐしゃぐしゃになった。出たはずのやる気はすっかり萎みきっていた。それでも約束してしまったからには途中で投げ出すのも憚られる。せめて気分でも変えよう、そう思い立ってシーザーは椅子から立ち上がった。
     自室から廊下へ出ると、昼下がりの強い夏の陽射しが窓から明々と差し込んできていた。思わず眩しさに目を細めながら向かったのは、しばらく歩いた先にある一室。軍師の名家らしく古今東西の蔵書が大量に保管されているこの家の中でも特に多くの書物が収められている部屋だった。本棚ばかりの部屋ではあるが、その場ですぐに本を読むための椅子や机もそれなりに揃っているから、ちょっとした課題をやるにもちょうど良い部屋だった。ものぐさな自分でも小難しい本に囲まれていれば否応なくやる気になるかもしれないし、なによりここはほとんど日が当たらないから涼しい。そんな期待を込めて、人気のない廊下を進む。ほどなくして目当ての部屋の前に辿り着くと、シーザーは持っていた歴史書を小脇に抱えてから扉を開いた。まず、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。そのまま昼のわりにほの暗い室内に一歩足を踏み入れる。その奥に目を凝らしたところで、彼の身体は固まった。
    「げっ」
     そう半分くらい言いかけて、慌ててその言葉を飲み込む。誰もいないと思っていた部屋の隅に人影を見つけてしまったのだ。壁一面に並んだ本棚のすぐ近く、部屋の奥の窓際にひとつ置かれた椅子に腰掛けている兄──アルベルトの姿を認めてしまった。
     ──そういえば、帰ってくるって言ってたっけ。
     数年前にハルモニアでの留学を終えてから家を出たままの兄が、一時的に戻るらしいことは父から聞いていた。それが今日のことだったようである。一月ほど前に話を聞いたときはどこか落ち着かない気持ちになったものだったが、いざ当日になってみたらすっかり忘れていた。
     なんとなく気まずくなって扉の隙間からこっそりと様子を伺うと、アルベルトが椅子に座って手元の本に視線を落としているのが見えた。読書に集中していて扉が開いたことに気が付かなかったのか、それとも七歳下の弟が不躾な声を上げたことに気を留めるまでもないと考えたのかは、シーザーには判断がつかなかった。
     さすがにこのまま扉を開けたままの姿勢で立ち止まっている訳にもいかず、かといってそのまま引き返すのも遠慮しているようでなんだか悔しい。シーザーは意を決して勢いよく扉を開いて、ずかずかと部屋に入り込んだ。そして、本棚の前に置かれた広めの机の前に座る。机の上は片付けられないままバラバラに積まれた本でいっぱいになっていたから、とりあえず手近なものをさらに適当に重ねて僅かに隙間を作った。ガタガタと音を立てたせいでアルベルトがちらりと視線を向けた気配がしたが、シーザーはそれを無視して紙とインクを並べる。それからアップルから預かっている大きな古い本を開いてその視線を遮るように積まれた本の上に立てて置いた。そうして即席の学習スペースが出来上がった。少々居心地は悪いが、本に囲まれたわずかな机の隙間は飽きっぽい少年の意識を課題に向かわせたのだった。
     少年が部屋にやってきてから半刻ほど経った頃、持っていた紙を一枚と半分ほどを埋めたところで、それまで進んでいた彼の筆が止まった。シーザーは一度休憩しようと読んでいたページを開いたまま、立てかけていた本を手前に倒す。パタンと分厚い歴史書が音を立てたその瞬間だった。
    「本を開いた状態で伏せるのはやめておけ」
     静かな室内に、淡々とした声が響いた。
    「アップル女史から借りているものだろう。傷んだらどうする」
     久しぶりに会った兄の第一声は小言だった。それはただでさえ生意気盛りの少年には面白くないものだったから、なおさら彼の気分を悪くさせた。
    「借りた本だなんてひとことも言ってないけど?」
    「お前が好き好んでそんな分厚い本を読むとは、とうてい考えられない」
     苛立ちを隠せないままに返した言葉は、それを気に留めた様子もないあっさりとした反論で返されてしまった。確かにそれはその通りではあるのだが、改めて他人から指摘されるとなんとなく腹が立つものだ。
    「別に俺がこういう本読んでたっていいじゃん。会ってないうちに成長したーって可能性も普通にあるだろ? シルバーバーグの次期当主にして稀代の天才とも言われるアルベルト様はこんな簡単なことも分からないんですかね?」
     せいいっぱいの嫌味だったが、まったく歯が立たないだろうことは彼自身も分かっていた。事実、目の前のアルベルトは全く表情も変えずに少しこちらに顔を向けただけだった。座したままの兄はまじまじと弟をしばらく見つめる。どんな皮肉が返ってくるかと身構えていると、
    「育ち盛りのわりには大して背も伸びていないし、相変わらず落ち着きのない様子でのんきな顔をしているなとは思った」
     涼しい顔で、少しも悪びれた様子もなくそう言われた。育ち盛りのはずの少年は思わずうっと呻く。それは目下のところ彼が一番気にしていることだった。机の上にある本を何冊か投げつけてやりたい衝動に駆られる。
    「本っっっ当にムカつくんだよなそういうところ……!」
     それでもどうにかその衝動を抑え込んで、変わらない表情で座ったままの兄をじっと睨みつけた。このように、中途半端に噛みついて手痛い反撃を受けるのはいつものことだった。それでも分かっていて背伸びをしてしまうのは、七年という歳の差以上に自分の実力が兄に及んでいないことをありありと見せつけられ続けてきた焦りからだった。自分に足りていないのは頭ひとつ分は違う身長だけではない。兄が家を出てからは余計にその差を感じている。
     ただ、それでも二年の時を経た兄の姿はシーザーが最後に見たときとほとんど変わっていなかった。自分よりも幾分か暗く癖の少ない赤毛も、ほとんど動くことのない表情も、もともと高かった身長も、そして他人の心の柔らかいところにお構いなくナイフを突き刺してくるような言動も少しも変わっていなかった。その全てに腹が立つのは事実だが、同時にシーザーはほんの少しだけ安堵を覚えた。
    「というかさ、数年ぶりに会った弟に最初に言うのが小言? お兄様は『帰ったぞ』の一言もかわいい弟に言えないわけ?」
    「昨晩帰ったときに出迎えもせず、今朝の朝食の席にも現れずに眠っていた奴には言われたくないな」
     安心したらしたで、今度は何を言ってもこの調子なのでシーザーはさすがに辟易した。
    「あーはいはいゴメンナサイ。じゃあ俺アップルさんに言われた課題やんなきゃいけないから、もうほっといてくれる?」
     相手をするのもすっかり面倒になって、虫を追い払うようにしっしっとに手を振る。だが、アルベルトはその場から離れようとはしなかった。
    「ただ漫然と机に向かっていても、筆が進むわけではないだろうに」
    「そんなん分かってるよ。だからほっとけって」
    「目の前でそんなに唸られていたらうるさくてかなわない」
    「じゃあどっかいけばいいだろ」
    「なぜ後から来たお前に場所を譲る必要がある?」
    「未来ある若者に学習の場を譲ってくれてもいいじゃん」
     その言葉に、それまで視線をまともに返さずに滑らかに弁舌を振るっていたアルベルトがわずかに首を傾げて考え込む。
    「未来ある、若者…………」
     それから、椅子の上で背中を丸めているぼさぼさ髪の弟を一瞥してぽつりと呟いた。重い瞼の下の瞳が、何か物言いたげにこちらを見つめていた。まだ嫌味でも返してくれたほうがずっとマシだ、とシーザーは思った。押し黙っている弟の姿を見て、アルベルトは目を閉じてひとつため息をつく。
    「そもそも、何をそんなに迷うことがある? 本を一冊読んで考えをまとめる程度のことだろう?」
     さすがにムッとした。机に両手をかけて身を乗り出し、シーザーは反論する。
    「あのなぁ、アップルさんが渡してきたこれ、内容以前に言葉が古くて読みづらいんだよ。字だってところどころ欠けてるしさ?唸りたくもなるだろこんなの。まあ? 完全無欠冷血のアルベルトお兄様には出来の悪い弟の気持ちなんて分からないかもしれないけど、さ、」
     シーザーが言い切るより前に、ガタン、と年代物の椅子が床を叩く。アルベルトが椅子から立ち上がっていた。突然行動を起こした兄に少年はびくりと体を振るわせる。さすがに怒らせたのだろうかと思うと先ほどまでの苛立ちがすっと消え失せてしまい、再び椅子の上にすごすごと沈み込んだ。そのまま様子を伺っていると、アルベルトは淀みない足取りである本棚の一角まで近付いていく。それから棚に並ぶ背表紙をざっと眺めて彼は一冊の本を抜き出し、つかつかとシーザーのいる机まで歩み寄った。
    「な、なんだよ」
     シーザーは椅子の背もたれに身を寄せて、眼前に佇む兄を見上げた。だがその剥き出しの警戒心に構う様子でもなく、アルベルトは机の本の山の上に先ほど取り出した本を無造作に置く。
    「アップル女史が渡した本は一番古い版のものだ。その本は年月を経て何度か書き直されている。当然、それに際して時代に合った表現に改められてもいる」
    「…………へ?」
     思ってもみなかった言葉に、シーザーは目をぱちくりさせた。しばらく理解の追いつかなかった言葉をようやく飲み込んで、慌ててアルベルトの置いた本を引き寄せた。そして自身の手にしていた本を見比べる。表紙の革の色は長年の手垢や埃で変色したせいかかなり違いがあったが、箔で押されていた文字の場所やその内容は確かに同じらしいと判断できた。つまり、アップルから預かっている本とアルベルトが目の前に置いた本はその新旧に差はあるものの、まったく同じものだった。
    「ほんとだ……アップルさん、古いやつしか持ってなかったのかな」
    「そんなわけないだろう」
     目を白黒させた少年が驚くままに口にしたことは、すげなく否定されてしまった。アルベルトは腕を組みながら、少し呆れた様子で付け加えた。
    「アップル女史はあえて一番古いものを渡したんだろう。お前がその新しい版を見つけられるかも見越してその課題を与えたんじゃないのか」
    「ふーーん……そんなもんか」
     アルベルトの言葉には小言めいた響きがあったのだが、彼の弟はまだ紙のほとんど黄ばんでいないページを眺めることにすっかり夢中になっていた。シーザーは先ほどまで読むことにも苦労していた内容が驚くほど自然に頭に入ってくることに感動を覚えていた。これならば、と机の上に転がしてあったペンを手に取ったところで、シーザーは違和感を覚えた。なんだか妙に視線を感じる。
    「あ」
     それを辿ってこちらをじっと見つめる兄の姿を認めたとき、彼はまだ感謝の言葉を口にしていないことに気が付いた。成り行きとはいえ、不本意ながらも、曲がりなりに助けてもらったのは事実だった。アルベルトは謝礼を求めるタイプの人間ではないが、気が付いてしまったからにはそのまま無視するのもなんとなく居心地が悪い。シーザーは平然とした顔を装って、何事もなかったかのようにアルベルトを振り返った。
    「まぁ一応少しは助けてもらったし? 代わりに俺もなにかひとつくらい、お前の疑問に答えてやるよ。等価交換ってやつ」
     素直に「ありがとう」とは言いづらい年頃の少年は、少し背伸びをした提案で感謝の意を表すことにした。それまでほとんど表情を変えなかったアルベルトが、あからさまに眉間に皺を寄せる。
    「それは本当に等価交換になるのか……?」
    「うるさいな、細かいことはいいんだよ」
     もちろん、それが礼に見合う提案だと心から思ってはいなかった。貸しを返すという態度だけは示しておいて相手から「不要だ」と言われても一応の誠意を見せたことにはなるだろうと判断してのことだ。知らぬことなどないという顔で他者と関わっているような兄が出来の悪い弟を頼ることはない。遠く及ばないという点で悔しさが勝るのは事実だが、上手いこと自分の思い通りにはなるだろうとシーザーは確信していた。それからしばらく、彼の兄が言葉を返すことなく口元に手を寄せて考え込んでいるのを気分よく眺めていた。だから、アルベルトが不意に口を開いたのはまったくの予想外だったのだ。

    「比類なきほどに神々しい瞬間が訪れるとしたら、そのとき人は何を生み出すとお前は思う?」

     まさか本当に疑問を投げ掛けてくるとも思っておらず、しかも訳も分からないことを脈絡なく話し始めるものだから呆気に取られてしまう。
    「は? なに、いきなり?」
    「お前が言い出したことだろう。何か疑問にひとつ答えると」
    「いや、確かに言ったけど……そんなよく分かんない質問来ると思ってなかったし。というか小難しい言い方してるけど、要は『人生で最高の瞬間が訪れたら人はどうするか』ってことだろ?……そんなん人によるとしか言えないじゃん」
    「思考を放棄するな」
    「そんなこと言われてもさぁ……」
     兄の頭の中で一貫した論理に基づいてその質問がなされたとしても、その結果だけを唐突に口にして「さあ俺の満足のいく答えを言ってみろ」と言わんばかりに相手に投げかけるのは横暴だと思う。まして相手は七歳下の弟である。相手への配慮というものに欠けるのではないか。シーザーの顔にはそんな言外の不満があからさまに浮かんでいた。それを見てとったのか、アルベルトは軽く首を横に振って言った。
    「お前が思う答えで良い。それ以上のものは始めから期待していない」
     相変わらず思いやりの欠片もない言い方が鼻についたが、自ら言い出した手前、それを放棄するのもなんとなく悔しいものだった。シーザーは答えを出すべく思案を巡らせ始めた。
    「そもそも『人生で最高の瞬間』がどういうときか分からねえんだよな……何か嬉しいことがあったときだろうけどさ。欠けがえのない存在に出会ったとき、っていうのも月並みだけどあるっちゃある……けど今ひとつピンとこないんだよなぁ」
     ぶつぶつと独り言を言いながら思考をまとめる弟の姿を、アルベルトは言葉もなくただじっと見つめていた。しばらくして、天井の梁でも数えるように顔を上に向けていたシーザーがあっと声を上げる。
    「長年ずっと願い続けていたことが叶ったとき……とか?」
     人差し指を立てて、自ら作った本の山に身を乗り出す。少年は自らの答えに手応えを感じていたようだったが、青年にはまだ足りないようであった。
    「それで、どうする」
    「どうするって……そりゃ嬉しいんじゃねえの? 『これからもっと頑張ろう』みたいな、生きる希望が生まれてくるみたいな……?」
    「なにかを成し遂げたとして、それが世に受け入れられるとも限らないだろう。その時本当に生きる希望など生まれてくるのか?」
     アルベルトの反論にシーザーは再びきょとんと目を丸くした。
     ──そんなことを考えてるなんて、少し意外かも。
     てっきり兄は自分以上に周りの目などどうでも良いと思って生きているものだと思っていたから、そんな発想があること自体にシーザーは驚いた。
    「お前が勝手に何を想像しているかは知らないが、一般論として述べたまでのことだ」
     彼の内心を見透かしたように、アルベルトは少し眉を上げてすかさず言った。シーザーは面白くないヤツ、と心の中で悪態をつく。それからひとつ咳払いをして、口を開いた。
    「それだけの想いが積み重なって出来たものなんだったら、やったことそのものに意味があるんだろ。別にいいじゃん、自分が納得してるならさ。そういうもんなんだろ」
     それが彼がそのとき感じたありのままのことだった。多分、と小さく言葉を付け加えたところも含めて、それが十二歳の少年にいま出せる答えの全てだった。まったく実感の伴っていないことが傍目にも明らかだったのだろう、アルベルトはふっと小さく息を漏らした。
    「なに笑ってんだよ」
    「別に……お前らしい、短絡的で思慮に欠ける答えだと思っただけだ」
     机の上に積み重なった本の山の向こうから、アルベルトは語り掛けた。ほんの一瞬少しだけ表情が緩んだ気がしていたが、それが嘘だったかのようにいつも通り冷たい印象のそれに戻った。兄は何か思案を巡らせるように視線を落として、口元に右手を寄せたまま黙り込んでいた。
     束の間、外で鳴いているだろう虫の声が遠くから聞こえてくるだけの時間が過ぎた。この部屋の中では夏の強い日差しすらどこか感じられる。ふと、アルベルトがこちらを向き直っておもむろに口を開いた。
    「シーザー、お前には願い続けてやまない悲願があるのか?」
     そう言って弟を見下ろす彼の目は、どこか切実な色を帯びているようでもあった。シーザーはそれを正面から受け止めた。
    「……あるよ。昔からずっと、思ってきたことがある」
     その本意を知る由もない弟は、ただまっすぐに兄の姿を見上げた。『悲願』という切実な響きが相応しいかは分からないまでも、それなりに長い年月の間ずっと思い続けてきたことは確かに存在した。それは、いつか兄を超えること。そして彼の見ているものを理解すること。今の自分では及ばない思考の全てを知ること。「いつか見返してやる」とまではよく口にしたけれど、どうしてそう思うのかまでかは話すつもりはなかった。それは追いかけている人間なりのプライドで、決意でもあった。
    「──そうか。なら、せいぜい励むといい」
    「お前なんかに言われなくとも、そうするさ」
     その言葉に答えることはなく、アルベルトは黙って部屋を出ていった。外から切り離されたひやりとした空気のなかに、少年と無造作に置かれた本だけが取り残された。
     それが、当時の彼が兄と交わした会話の最後の記憶だ。


     五年前の記憶がふと甦ったのは、偶然手に取った一冊の本のせいだった。
     新生『炎の運び手』が湖畔の古城を本拠地としてからの数週間、ほぼ勢いと成り行きで正軍師の座に収まった十七歳の少年はその立場の負けないくらいの仕事に追われていた。昔の彼ならばすぐに投げ出していただろう各地に書状を送って根回しをするといった地道な作業も、求められるままにとにかくこなした。こういった地味な書類作業に向く人材が圧倒的に不足しているこの集団の中では、いかに経験不足であろうと即戦力なのだ。必要ならば、何よりも大切にしたい睡眠時間だって削った。
     昨晩はようやくその根回しが一段落して、久しぶりにベッドで眠りに就いたせいだろうか。目を開いたときにはすでに日が高く昇りきっていた。目覚めたばかりの身体は空腹を訴えてはこなかったし、差し迫ってすべきことも思いつかなかったシーザーは、城の二階にある図書室に足を踏み入れた。実家に比べれば数少ない蔵書が疎らに並ぶ本棚に、地図やらトランプやらが投げ出されたままの机と、いつも通りの景色が広がっている。だが、普段は司書やら学術指南役やら本好きやらが何人かは常駐している部屋は、珍しく誰もいなかった。時間帯を考えると昼食でも取りに行っているのかもしれない。そう考えながら、シーザーは目についた棚から本を一冊取り出した。それから、すぐ近くにあった適当な椅子に腰掛けてパラパラとページをめくった。
     それは、古い推理小説のようだった。実家にもこういう娯楽小説の類いはあったと思うが、シーザーはほとんど手に取りはしなかった。余暇の読書にまで頭を使うのは性に合わなかったからだ。それでも読み続けようと思ったのは、少なからず経験を積んだことによる心境の変化だったのかもしれない。退屈なところは飛ばし飛ばし読み進めて、残りのページが三分の一ほどになったときだった。漫然と紙をめくっていた手が止まる。

     『比類のない神々しいような瞬間』。

     古ぼけたページの隅のそのたった一言が、ひどくはっきりと浮かび上がって見えた。それは五年前のあの日の兄の言葉とよく似ていて。もしかすると当時兄が読んでいた本はこれだったのかもしれないと、シーザーは飛ばしていた数ページを少し遡ってその言葉の前後を注意深く読み返した。
     ある男がテーブルの上の砂糖壺の中身をひと握り掴んで事切れていた。探偵は推理の果てに、被害者が最期の力を振り絞って掴んだ砂糖が自らの命を絶った殺人者の常用していた粉薬の暗喩であると見抜いた。そして、その手がかりを元に犯人の存在は明らかになったという。人間には襲撃から死に至るまでのわずかな時間に驚くほど鋭いアイデアがひらめくこと──死の間際になってその頭脳が限界を超える瞬間がある。おおよそこんな内容が書かれていた。
     机に置かれた本を食い入るように見つめていた少年は、本の隣に腕の伸ばしてその上に頭を預けた。机に突っ伏して居眠りをするような姿勢だったが、どこか落ち着かない心地のまま本を横から眺める。
    「じゃあ、『比類なきほどに神々しい瞬間』って死ぬ直前ってわけ?」
     つい口から溢れた言葉はそれに答える人間に届くこともなく、ただ部屋の隅に溶けていった。ほんの少しだけ開いた窓の隙間から吹き抜けた風が、手を離した本のページを撫でて揺らしている。
    「ほんと、訳分かんないヤツ」
     机に頭を預けたまま、シーザーは空いていた手で本の表紙を持ち上げて先ほどのページを再び開いた。
     比類なきほどに神々しい瞬間。いつか来る死の瞬間。人生において唯一無二の瞬間。五年前のあの問いにそんな意味が含まれていたことを知ってなお、アルベルトがどういう意図をもってあの質問をしたのかは分からないままだった。むしろ、謎が深まったとさえ感じていた。
    「死ぬときに最高の瞬間が来たって、残した結果を自分で見られないなら意味ないのにな」
     自らの死を持って何かを成そうとすること。その意味はシーザーには分からない。そこに自分の命の意味を見出だしたとしても、命潰えた後にその価値を認めるのはその後に生きる人間のはずだ。命を賭してまで遺したものを彼らがちゃんと受け取ってくれるとは限らないし、それが正しく伝わったかを自らの目で確認することも出来ないのだ。所詮、手の中に握られた砂糖は砂糖でしかない。
     だからこそひどく気に掛かった。兄は最期のときを見据えて何を生み出そうとしているのか。世界の終末になんて荷担するはずなどないから、そこには恐らく別の目的が存在しているはずだ。でも不確かで曖昧な可能性に賭けるような真似をしているのが全くらしくなくて、余計に分からなくなる。考えれば考えるほど、手順通りに編んでいたはずの思考の糸が絡まって解けなくなった心地がしてくる。
     だからシーザーは一旦それを放り出すことにした。考えていても材料が足りなければ答えに至らないものだし、結論分からないなら本人に答えを問いただせばいい話だ。それならば、すべきことは最初から変わらない。
     少年は椅子から立ち上がる。そして後ろにある窓のそばまで歩み寄って、思いっきりそれを大きく開けた。照りつけてくる夏の日差しはあの日のそれとよく似ていたけれど、見渡す景色は昔見えていたものとは比べ物にならないくらい広くなっていた。シーザーはすうっと息を吸い込んだ。
    「俺がお前を超えるより先に死ぬことなんて考えるなよな」
     そして、決して大きな声ではなかったけれど、窓の外の景色に向かってはっきりとそう声に出した。今はまだこの声が届かなくてもいい、けれどいつかそれが叶う日が来ることを少年は信じていた。彼の長年の願いが叶う瞬間。そして、彼の悲願が実を結ぶ瞬間。いつか来るその瞬間は、きっとまだ先のことだ。

    Ⅱ.いつか来る瞬間の先に 久しぶりに見上げた実家の姿は、夜闇に紛れていたせいもあっただろうけれど彼の記憶の中の姿からほとんど変わってはいなかった。

     数年前にハルモニア留学を終えたアルベルト・シルバーバーグは、そのままかの国へ留まって独自に兵法や戦術を学んでいた。ハルモニア留学を終えたということはシルバーバーグ家の人間にとってはある種「必要な知識は全て与えた」という証でもあり、そこから先に何を成すかは個々人に委ねられている。祖国へ戻ろうとどこかの国へ軍師として仕官しようと──最終的に家の受け継いできた理念と叡智を蔑ろにしない限りは──自由だった。それに逆らうつもりもなかった青年にとって、ハルモニアに留まって実地で経験を積むことはただ己の能力を磨くのに一番合理的だったのだ。
     そうして数年の時が過ぎたのだが、ある折にアルベルトは自らの生家であるトランの邸宅へと一度帰ることにした。留学を終えても戻らなかった実家を今になって訪れるのは、ただそこに再度目を通しておきたい書物がいくつか存在していることを覚えていたからと──あとは近隣に寄ったついでに現当主である父親に少しは顔を見せておく必要があると判断してのことだった。一月ほど前に便りを出しておいたためだろうか、帰郷の日にアルベルトが夜更けに門前に馬車で乗りつけたというのに、まるで昨日まで実家で暮らしていたかというほど自然に迎え入れられた。
     馬車の扉を開けて地面に降り立つと、夏草の香りが夜の空気に混じって辺りに漂っていた。そのまま門の前まで歩み寄って邸宅を見上げる。屋敷の二階の一番奥の部屋はまだ灯りが煌々と照っていた。他の部屋の照明が全て消えても、この部屋だけはずっと燭台の炎が揺らめき続けている。アルベルトは誰にも聞こえないほど小さく息を吐いてから、鉄製の門扉に手を掛けた。ひやりとした感覚が妙に生々しく感じられた気がした。
     屋敷のなかに足を踏み入れると。ひっそりとした玄関ホールの空気が青年を迎え入れた。昼間なら明るい光の差し込むこの場所もこんな夜更けでは薄暗く、隅に吹きだまった埃も目に入ることもない。最低限の灯りに照らされた階段を上り、人気のない廊下をゆっくりと進む。古めかしい床板がわずかに軋む音だけが辺りに響くのを聞きながら、アルベルトは目指していた部屋の前に辿り着いた。木目の際立つ重厚な扉を、アルベルトは控えめに叩く。返事は返ってこない。だが部屋の主が在室しているのは確かだから、構わずに扉を開けることにした。壁に並んだ本棚に囲まれるように置かれた執務机がまず目に入ってくる。その上に置かれた燭台が、机に向かっている影を仄かに照らしていた。
    「…………戻ったのか」
     机の上に散らばった書類のひとつに視線を落としたまま、青年の父親は固い口調で言った。アルベルトは頭を下げる。
    「お久しぶりです。父上も、壮健そうでなによりです」
     自身の言葉が極めて形式的であることは自覚していたが、同時にそれ以上のものは求められていないことは理解しているつもりだった。頭を上げると、父親はようやく書類から目を離して息子の姿をじっと見つめていた。半分ほどまで溶けた蝋燭の火に、無表情な父の右半分だけが照らされている。男は淡々とした口調で短い質問を投げかけた。
    「変わりはないようだな」
    「おかげさまで」
    「いつまでここに?」
    「明後日の朝には発ちます」
    「……まだ、続けるつもりなのか」
     矢継ぎ早に問いかけてきた父であったが、最後の問いかけだけはほんの一瞬の間を置いてアルベルトの耳に届いた。それまで間を置かずにすぐに返事を返していた彼もまた、そこで一度深く息を吸い込んだ。
    「はい。私のすべきことは、まだ成し遂げられていませんので」
     そして、はっきりとその意志を告げた。しばらくの間、まるで海の底にいるような沈黙が重くのしかかってくるような時が流れる。二人の間に置かれていた蝋燭の芯がぱちんと音を立てて小さく爆ぜた。椅子に座っていた男は、息子の視線から逃れるようにその背もたれに身を沈み込ませた。
    「お前もあの人と同じように生き……死のうとするのか」
     男はつねづね自身の父親──アルベルトにとっては祖父であるレオン・シルバーバーグ──を『あの人』と呼んだ。かつて赤月帝国やハイランド皇国で軍師を務めたレオンという男は、シルバーバーグの名を歴史に刻んだ存在には違いなかったが同時に良い父親とは言い難かったのだろう。そんな父親の影を、自分の息子が追おうとしている。それは目の前の男にとって耐え難いものであるのは紛れもない事実なのだった。
    「どうせ『やめろ』と言っても、聞き入れないのだろう?」
     言いながら、彼の父親は空いているほうの手をひらひらとぞんざいに振ってみせた。アルベルトはそれにただ父親の顔を見つめることで返した。
     しばらくして「好きにしなさい」と父親はただそう告げた。そして椅子をくるりと回して窓の外へと視線を向けてしまう。見つめるものもないはずなのに、男は夜闇に目を向け続けていた。青年は、燭台に照らされて揺らめく父親の後ろ姿をただしばらくの間じっと眺めた。
     「好きにしなさい」という言葉は父親としての期待でも、「自由に生きよ」という許しでも、まして愛情などでもなく──恐らく『諦め』なのだろうとアルベルトは思った。
     振り返ることのなかった父親の背中に一言挨拶を述べて、息子は静かに部屋を辞した。


     翌朝、長らく使われていなかった自身のベッドでアルベルトは目覚めた。もともと寝覚めが良いほうではなかったが、五年ほど家元を離れてひとりで過ごしているうちに自然と決まった時間に意識が覚醒するようになっていた。久方ぶりの自室ではあったが、特別なんの感慨も抱くことはなかった。ただ、長い年月留守にしたとは思えないほど部屋の印象は変わっておらず。机の上に置いたままのペンやインクさえも当時のままの姿で鎮座しているのが却っておかしいと感じたくらいだった。
     家族や使用人以外に会う者もいないが、そのまま外に出ていっても恥ずかしくのない程度には身仕度を整える。それがそれなりに名のある家に生まれてからの習慣だったし、なにより自分の気性に合っていたから苦ではなかった。皺ひとつないシャツに腕を通し、襟元まできっちりとボタンを留める。
     朝食のために食堂へとやってくると、広い室内のわりには人は疎らでどこか寂しげな雰囲気が漂っていた。長テーブルの前で何人かの使用人が食事の準備をしているのだが、その上にはたった二人分の食事しか用意されていない。アルベルトは自分に用意された席に着きながら、隣の一番奥の席──いつも父が座っている席──にはなにも置かれていないことに気が付いた。
    「ジョージ様は、朝早くからお出掛けになりました。領地の見回りに向かわれるとのことで」
     アルベルトが空いた席を眺めているのを見て、近くで配膳をしていた使用人のひとりがそう声を掛けた。「今の時期は特にお忙しいですからね」と彼女が付け加えたのは、おそらく彼に対する気遣いだったのだろう。そんなすぐに分かる嘘ならつく必要などないのにと思いながら、今度は自分の正面の席に目を移した。こちらには自分の席に置かれたものと同じ食事が置かれている。だが、やはりそこに座っているはずの人物は見当たらない。先ほどの若い使用人はアルベルトの皿の上に焼き上がったばかりのパンを置きながら、少々気まずそうに言った。
    「ええと、シーザー様は……まだいらしていないようで」
    「…………そうか」
    「起こしてきましょうか?」
    「いや、いい」
     伝統行事だろうとなんだろうとお構いなしに朝食の席をすっぽかす七歳下の弟が唯一自ら起き出してくるのは、家庭教師の授業が午前中にあるときくらいのものだった。今日はその授業もないのだろう、シーザーはアルベルトの帰郷もすっかり忘れて、いつも通り惰眠を貪っているようだ。
     父や弟のいないひとりの食卓も、家を出る前からわりとよくあることだった。それに二人が同席していたからといって特段話が弾むわけでもない。それならばひとりだろうとそうでなかろうと大して変わりはない。
     アルベルトは少し冷めたスープに掬って、一口分だけ口に運んだ。


     静かな朝食を終えたアルベルトは、家の書庫へと足を踏み入れていた。そこに収められた書の数々は、この地がむかし赤月帝国と呼ばれ始めた頃から積み重ねられたシルバーバーグの叡智の象徴でもある。太陽が真上に昇る時間帯でも光の届きにくいように作られた薄暗い室内を、アルベルトは淀みない足取りで進んでいく。訪れるのは久方ぶりでも、幼い頃から長い時間を過ごしたこの部屋のことはよく覚えている。どこになんの本が収められているかも、新しく本が増えたとしてどの辺りに置かれるかも手に取るように分かった。そして無数の蔵書のなかから素早く目当ての本を見つけると、数冊かを選んで棚から抜き取った。
    「…………?」
     ふと、最後の一冊を手に取ろうとしたところでその部分がぽっかりと空いていることに気が付いた。そこにあるはずだったのは赤月帝国の古い時代の兵法書で、祖父がよく手にしていたものだ。今この家で必要とする人間など自分以外に考えられないはずだが──
     アルベルトはすぐに後ろを振り返った。そこには読書用の机とその上に無造作に積まれた本がある。本の種類にも大きさにも構うことなく乱雑に積まれたそれは、読んだそばから適当にその場に置いたといった風情だった。その真ん中あたりに窮屈そうに目当ての本が挟まっているのを見て、アルベルトは小さく息を吐いた。机のそばまで歩み寄って、平積みになった本の隙間から一冊の革表紙を引き抜く。少々無理に引っ張り出したせいか、上に積まれていた本が机の上を滑るように崩れた。
    「………………」
     そもそも、読み終わった本を元の位置に戻さないのが悪いのだ。この山を作った人間が片付ければ良い話である。アルベルトは机の上にできた書の山を後にしようとしたときだった。崩れた兵法書や歴史書の隙間から、表紙に大きく題字の書かれた本が覗いているのが目に留まった。
     それは古い推理小説だった。娯楽小説の類いがこんなところに紛れ込んでいるのも異質に思えるが、本と名のつくものは一通り集めるのがこの家の昔からの習わしらしい。アルベルト自身も幼い時分はこれらの推理小説を余暇に楽しんでいた。なんとなく懐かしい気分になって、青年は紙の装丁の本を手に取った。
     推理小説というものは、起こった事実を積み重ねてひとつの結末を導き出すものだ。物によってその巧拙に差はあるとはいえ、目指すところの基本は全て同じである。現実には起こりえないような不確定な事象がさも当たり前に起こる時点で創作に過ぎないことは事実ではあるが──例えば「検死によって被害者が『二年前』に手術をしていたことが分かる」とか──それでもあらかじめ提示された論理が巧みに積み重なっていくさまを見るのは嫌いではなかった。アルベルトは窓際に置かれた椅子に腰掛けると、古い紙の表紙を何気なくめくった。
     幼い頃にこの話を読んだ彼にとって一番印象的だったのは、探偵の鮮やかな推理でも哀れむべき犯人の犯行の動機でもなかった。それらがまったく目を惹かなかったといえば嘘になるが、それ以上に少年の心に残ったのは作中で探偵がしたある話だった。

     今際の際になって被害者がとっさに握り締めた砂糖。その死の間際の悲痛な叫びを、最終的に探偵が受け取って見事に真実に辿り着いたという話。死に至るまでのわずかな時間に、人の頭脳に驚くべきほどの鋭いアイデアのひらめく『比類のない神々しいような瞬間』が訪れるのだということ。

     それなりに厚みのある本のたった一ページを、そしてそこに書かれた一節をそっと指でなぞった。日陰になってほとんど光の射さない窓の外から、風に木々の揺れる音がする。まるで外の世界から遠く切り離されたような心地だった。隔絶された世界のなかでかつてのアルベルトはこう考えたのだった。
     もし本当に人の最期に限界を超える瞬間が訪れるならば。生前成し得なかったようなものを遺すことができて、それが後の世に伝わるのならば──その瞬間こそ、比類なきほどに神々しいものではないだろうかと。
     そんな幼い頃の夢物語を思い出して、珍しいほどに感傷的になっていたときのことだ。
    「げっ」
     古い木の扉が軋む音に次いで、ひどく不躾な呟きが聞こえてくる。顔を本に向けたまま、少しだけ視線を上に動かすと七歳下の弟──シーザーが扉を少し開いたところで中に入るか入るまいか逡巡している姿が目に入った。少しの間があって、勢いよく扉を開いたシーザーはずかずかと室内へと入ってきた。どうやらアルベルトのことはいないものとして扱うことにしたらしい。机の上に広がっている本を雑に重ねてスペースを作ると、そこにペンやインクを並べ始める。そして、課題に取り組むために持ってきたのだろう、ずいぶん古めかしい歴史書を壁にして隠れるようにうずくまった。そんな弟を一瞥してから、アルベルトは再び手元の本に視線を戻した。向こうがこちらをいないものとして扱うなら、こちらもそれに倣うのが良いのだろうと判断してのことだった。
     それから、半刻ほど時間が経った頃。壁にしていた古い本を開いた状態で伏せたのを見て、アルベルトはつい弟に声を掛けてしまった。
    「本を開いた状態で伏せるのはやめておけ。アップル女史から借りているものだろう。痛んだらどうする」
     五年ぶりに掛けられた言葉が小言だったことに弟はひどく気分を害したのだろう。微塵も不快感を隠そうともしない顔で言葉を返してきた。
    「借りた本だなんてひとことも言ってないけど?」
    「お前が好き好んでそんな分厚い本を読むとは、とうてい考えられない」
     シーザーがわざわざ自身が読むのに苦労するような本を知識を得る手段として選ばないのは自明のことだった。小賢しいことだが、彼ならば求める知識を持っている人間からそれを聞き出すことを第一の手段に選ぶ。おそらくアルベルトの推測は正しいのだろうが、生意気盛りの弟はそれを認めるのをよしとしなかった。
    「別に俺がこういう本読んでたっていいじゃん。会ってないうちに成長したーって可能性もあるだろ? シルバーバーグの次期当主にして稀代の天才とも言われるアルベルト様はこんな簡単なことも分からないんですかね?」
     シーザーはたびたび自身の兄に対してこういう言い方をした。『シルバーバーグの次期当主』だの『稀代の天才』だの、周りの人間が好き勝手に彼を評する言葉をそっくりそのまま使ってくる。その言葉の数々はアルベルトだけでなくシーザー自身にも返ってくる言葉であるというのに、幼い弟はまだそれを理解していない。
     アルベルトは久方ぶりに見た弟の姿をまじまじと見つめた。起きてから櫛を通したとも思えない跳ね放題の明るい赤毛。襟元がだらしなく開いたシャツの袖は、皺になるのも構わずに適当に折り返されている。それなりの年月が経って少し手足が伸びたとはいえ、少年の中身はさほど変わっていないように思われた。
    「育ち盛りのわりに大して背も伸びていないし、相変わらず落ち着きのない様子でのんきな顔をしているなとは思った」
     身長については多少の推測も混ざっていたのだが、ぐっと押し黙った少年の姿を見る限りではどうやら正しい指摘だったらしい。それまで滑らかに口を開いていたシーザーは、下を向いてなにかぶつぶつと呟いていた。
     それから弟が何度か噛みついてくるのを軽くあしらっていたのだが、しばらくそうしているうちに課題に取り組みに来ているはずの彼がこうして手を止めているのも本末転倒だろうと思い始めた。はぁ、とひとつ息を吐いてからアルベルトは言った。
    「そもそも、何をそんなに迷うことがある? 本を一冊読んでまとめる程度のことだろう?」
     なんでも口先で解決しようとするシーザーに対して、彼の家庭教師が自身の考えを言葉でまとめることを課したのだろうことは容易に推測できた。アップルが彼に手渡した本の内容から考えるに、それ以上のことは課せないと判断できたからだ。アルベルトからしてみれば、彼がシーザーほどの年齢のときでさえその程度のことは簡単にこなせたものだった。得意不得意はあるのは事実としても、どうしてそこまで苦労するのか甚だ疑問だった。
     シーザーはその言葉に苛立ちを覚えた様子で机に両手をかけて身を乗り出す。そして、少し荒い声で反論してきた。
    「あのなぁ、アップルさんが渡してきたこれ、内容以前に言葉が古くて読みづらいんだよ。字だってところどころ欠けてるしさ? 唸りたくもなるだろこんなの。まあ? 完全無欠冷血のアルベルトお兄様には出来の悪い弟の気持ちなんて分からないのかもしれないけど、さ、」
     弟の言葉を最後まで聞く前に、アルベルトは椅子から立ち上がった。言い訳に過ぎないことをよくもまあ恥ずかしげもなく話すものだと思った。『出来の悪い』などと自分を卑下するのも、甘えに過ぎない。目先の出来事や周りの風評に囚われて本質を見誤っている。
     突然立ち上がった兄に今さら恐れを成したのか、シーザーは先ほどまでの威勢をすっかり潜ませて再び椅子に沈み込んでじっと兄の様子を伺うばかりになった。アルベルトはそれに構うことなく、壁に並んだ棚のひとつに歩み寄って本を一冊抜き取る。それはシーザーが必死になってかじりつくように読んでいた本の一番新しい版のものだ。それを手に本の山の前で小さくなっている弟に近づく。
    「な、なんだよ」
     訝しげに睨みつけてきた少年の目の前に、アルベルトは手にしていた本を無造作に置いた。彼にしては珍しく少し荒い仕草は、胸の底にわだかまったわずかな苛立ちがそうさせたのだった。だがそれ以上の感情は表に出すことはなく、アルベルトは努めて冷静に言った。
    「アップル女史が渡した本は一番古い版のものだ。その本は年月を経て何度か書き直されている。当然、それに際して時代に合った表現に改められてもいる」
    「…………へ?」
     シーザーはぽかんと口を開けて間の抜けた声を上げた。手酷く叱られるとでも思っていたのに予想外の言葉が降ってきたとでも言わんばかりだった。しばらくして、自身の手元にある本とアルベルトが置いた本をきょろきょろと交互に見つめていた。
    「ほんとだ……アップルさん、古いやつしか持ってなかったのかな」
    「そんなわけないだろう」
     目を白黒させた少年が驚くままに口にしたことを、青年はすげなく否定した。アルベルトは少し呆れた様子で腕を組んだ。
    「アップル女史はあえて一番古いものを渡したんだろう。お前がその新しい版を見つけられるかも見越してその課題を与えたんじゃないのか」
    「ふーーん……そんなもんか」
     アルベルトからしてみれば「そんなことも分からないからお前は半人前なんだ」という小言のつもりだったのだが、シーザーはそんな兄には無頓着にただ真新しい情報源にすっかり夢中になっていた。一応助け船を出してやったというのに、感謝の言葉のひとつもない。人心を蔑ろにしがちな弟に思うところがないわけでもなかったが、ただ彼が瞳を輝かせて新しい知識を吸収しているさまを見ていると、それ以上に何か言うべきことはないと思えてくるのもまた事実だった。
     しばらく食い入るように文字を追っていたシーザーが机の上に転がしてあったペンを手に取る。だが、ようやく課題に取り組むのだというところでぴたりと動きを止めてしまった。弟の様子をじっと見つめていたアルベルトがいったいどうしたのだろうと少し首を傾げていると、
    「あ」
     と、にわかにシーザーが声を上げた。そして彼はゆっくりとこちらを振り向いた。
    「まぁ一応少しは助けてもらったし? 代わりに俺もなにかひとつくらい、お前の疑問に答えてやるよ。等価交換ってやつ」
     幼い弟は少し気取った風に言った。アルベルトは思わず顔をしかめた。
    「それは本当に等価交換になるのか……?」
    「うるさいな、細かいことはいいんだよ」
     シーザーはペンを持っていない方の手をひらひらとぞんざいに振っている。おそらく彼は、自分が何も言ってこないのだと確信した上であえてそんな提案をしたのだろう。ハルモニアへの留学を終えたアルベルトが実家でずっと暮らしているシーザーに尋ねたいことなど、確かにないのかもしれない。アルベルトが生意気な弟にどういう言葉を返そうかと少し考え込む。
     そのとき、ふと先ほどひとりで思いを巡らせていたことが脳裏を過った。そして、考えるより先にその言葉は口から溢れ出ていた。
    「比類なきほどに神々しい瞬間が訪れるとしたら、そのとき人は何を生み出すとお前は思う?」
     そう言葉にしてから、アルベルトははっと我に返る。半ば無意識にそう問いかけてしまったことに自分自身が驚いてしまった。普段なら口にしないであろうことを弟に尋ねてしまったのは、恐らくたまたま古い小説を見つけたからで──他ならぬ弟が「なにか聞きたいことはないか」と問いかけてきたからだった。それはアルベルト自身にもまったく予想のできなかった偶然の出来事だった。
    「は? なに、いきなり?」
     尋ねたアルベルト以上に驚いたのはシーザーの方だったらしい。呆気に取られた様子で、ただそう答えた。アルベルトはわずかな動揺を気取られないように、目を伏せて軽く頭を振った。
    「お前が言い出したことだろう。何か疑問にひとつ答えると」
     そして、さも始めからそうするつもりだったというように静かに言葉を継いだ。不意に口を衝いて出た言葉とはいえ、シーザーがどう答えるのかは純粋に興味が湧いた。未熟とはいえ、同じシルバーバーグの血を分けた人間には違いない。じっと見据えられた少年は、戸惑いを隠せない様子だった。
    「いや、確かに言ったけど……そんなよく分かんない質問来ると思ってなかったし。というか小難しい言い方してるけど、要は『人生で最高の瞬間が訪れたら人はどうするか』ってことだろ?……そんなん人によるとしか言えないじゃん」
    「思考を放棄するな」
    「そんなこと言われてもさぁ……」
     彼の弟の顔には「横暴だ」と言いたげな、そんな言外の不満があからさまに浮かんでいた。兄は軽く首を横に振って言う。
    「お前が思う答えで良い。それ以上のものは始めから期待していない」
     少しムッとした顔を見せると、シーザーは天井を見上げてああでもない、こうでもないと思案を巡らせた。ぶつぶつと独り言を言いながら思考をまとめる弟の姿を、アルベルトは言葉もなくただじっと見つめる。しばらくして、天井の梁でも数えるように顔を上に向けていたシーザーがあっと声を上げた。
    「長年ずっと願い続けていたことが叶ったとき……とか?」
     人差し指を立てて、自ら作った本の山に身を乗り出す。少年は自らの答えに手応えを感じていた様子だったが、青年にはまだ足りなかった。その先に見ているものが知りたい。
    「それで、どうする」
    「どうするって……そりゃ嬉しいんじゃねえの?『これからもっと頑張ろう』みたいな、生きる希望が生まれてくるみたいな……?」
    「なにかを成し遂げたとして、それが世に受け入れられるとも限らないだろう。その時本当に生きる希望など生まれてくるのか?」
     アルベルトの反論に、シーザーは身を乗り出した姿勢のまま再びきょとんと目を丸くしていた。

     その姿を見て、アルベルトは気が付いた。シーザーは自分の理想が他者に否定されることなど微塵も考えてはいないのだと。自分が心から願ってやまない理想が、ときに他人にとっては他愛のないもの──それどころか忌むべき存在として眉をひそめられるものであることを、幼い弟はまだ知らない。そう想定できるだけの挫折や諦めを、彼はまだ感じたことがない。そして、アルベルトの理想はこの世界のなかで──少なくとも彼の父にさえ受け入れられていない。それもまたシーザーにとっては預かり知らぬところで起きている、彼の世界の外の出来事だった。
     だが、それもまた、この世界にはひどくありふれたことでもある。どんな理不尽も、不幸も、希望も絶望も、すべては当たり前の因果が巡った結果に過ぎない。

    「お前が勝手に何を想像しているかは知らないが、一般論として述べたまでのことだ」

     そう、だからこれは一般論に過ぎないのだ。すべての原因と結果が数式のように美しく流れ続けるのは、この世界の変わらぬ理なのだから。
     その言葉は──青年が意識していたかは定かではなかったが──これ以上は不可能だという断念を抱きながらも、なおそれを可能にしたいと願ってしまう自身へと言い聞かせるような響きをわずかに持っていた。だが、そのささやかな感情の発露はただその場の空気に紛れてしまう。
     そんな折に、シーザーは妙にはっきりとした口調で言ったのだった。

    「それだけの想いが積み重なって出来たものなんだったら、やったことそのものに意味があるんだろ。別にいいじゃん、自分が納得してるならさ。そういうもんなんだろ」

     十二歳の少年からしてみれば、ただ思ったことを素直に口にしただけなのかもしれなかった。多分、と自身なさげに付け加えたところも、それを証明しているかのようでもあった。まったく実感の伴っていないことが傍目にも明らかで、アルベルトはふっと小さく息を漏らした。
    「なに笑ってんだよ」
    「別に……お前らしい、短絡的で思慮に欠ける答えだと思っただけだ」
     机の上に積み重なった本の山の向こうにいる弟へ、兄は静かに語り掛けた。そんな短絡的で思慮に欠ける答えに救いを見出だしてしまったのも、また確かだった。
     束の間、外で鳴いているだろう虫の声が遠くから聞こえてくるだけの時間が過ぎた。この部屋の中では夏の強い日差しすらどこか遠くに感じられる。アルベルトはおもむろに口を開いた。
    「シーザー、お前には願い続けてやまない悲願があるのか?」
     そう問いかけた彼の言葉を、シーザーは正面から受け止めた。
    「……あるよ。昔からずっと、思ってきたことがある」
     弟は、ただまっすぐに兄の姿を見上げた。その視線を受け止めながら、アルベルトは思った。もし彼のなかに長年秘めてきた切実な願いがあるならば、それが叶えばいい。それは背中を追いかけられている人間なりの餞別で、唯一の願いでもあった。
    「──そうか。なら、せいぜい励むといい」
    「お前なんかに言われなくとも、そうするさ」
     窓からの仄かな陽光を受けた弟の緑色の瞳が、まっすぐに突き刺さってくるように感じられる。それが今の自分には少し耐えがたくなってきて、アルベルトは言葉もなく部屋を辞した。
     それが、弟と交わした会話の最後の記憶だ。


     あの日以来、ずっと思ってきたことがある。
     もしかしたら、彼ならば。
     限界など知らずに、ただまっすぐに未来を見据えている弟ならば。
     たとえ自分が悲願を遂げられずとも、その言葉を失った自分の骸から──その掌に握られたただの砂糖から──意味を見出だしてくれるのかもしれない。この世界の他の人間には理解できずとも、彼だけは正しくその意味を見出だしてくれるのかもしれない。まるで、探偵が死者の遺した難解な言葉を読み取って真実を明かすように。

     いつか来る瞬間のその先にそんな未来があれば良いと、青年はひとり誰にも知られないように願った。


    ──終──
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    アンドリュー(鶏)

    DONE2025年5月30日~6月1日開催の『星の祝祭Ⅵ』に併せて公開の新作です。
    ビネ・デル・ゼクセに住む絵描きの少年とクリスのお話。

    この絵描きの少年は、ゲーム本編ビネ・デル・ゼクセのクリスの邸宅近くにいるモブの少年がモデル。名前などの設定は個人の妄想ですが、彼が絵を描いていてクリスに見てもらっているらしいセリフは本編で見られます。
    よかったら幻想水滸伝3のゲーム本編で確かめてね!リマスターほしいね
    女神の愛する庭で 少年が瞬きをしたそのとき、目の前の猫がごろんと転がった。白猫はとても心地よさそうな様子で青々とした芝生に四肢を伸ばしている。少年はあっ、と声を上げた。そして黒炭を持ったままの右手で、汚れるのにも構わず自身の金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。そしてまだ余白の多い自らのスケッチと眼前の白猫を交互に見た。集中して書き込んでいた背中側の毛並みは、今はすっかり芝生に埋もれて隠れてしまっている。というより、もはや彼が描き込んでいたポーズとは端から変わってしまった。少年は深いため息をついた。
     少年と白猫の出会いは数十分前のことだった。港町ビネ・デル・ゼクセ生まれのごく普通の少年──リアンは、その日路地裏で一匹の白猫を見つけた。緑の目をした真っ白の猫で、その細身でしなやかな身のこなしから雌の猫だろうと思われる。ほの暗い路地裏の、建物のすき間から昼下がりの陽光が差している一角に白猫はごろんと転がって毛繕いをしている。彼は白猫が逃げないように少し距離をとり、そして脇に抱えた自分の顔くらいの大きさのスケッチブックを取り出してその場にしゃがみこんだ。
    13250

    アンドリュー(鶏)

    DONEルックがセラ、アルベルト、ユーバーと出会ったときの話。それからほとんど言葉を交わすことのないまま彼らが別れたときの話。
    私の夢と願望を特盛りにしたルックの断髪ネタやレックナートさまとのやりとりも出てきます。

    記念すべき2冊目の同人誌。相も変わらずⅢと破壊者への愛だけはせいいっぱい込めました。
    彼らの業ごと愛している破壊者推しとして、個人的に書いておきたかったお話でもあります。
    邂逅Ⅰ: If one believes in the path before them,
    they follow it.
    As this is human nature.

     あるときは、栄華を極めた黄金の都が。
     あるときは、人々の手によって文化を興隆してきた大きな都市が。
     またあるときは、密やかに隠れながらも生活が営まれてきた小さな村が。
     自分の記憶にある場所も、まだ見知らぬ場所も。その『夢』の中ではただ平等に、安らかに、静かに停止していた。確かにそこにあるはずなのに、生命の存在も色彩も流れるはずの空気も全く存在しない灰色の世界が瞼を閉じるたびに眼前に広がってくるのだ。かつて、隆盛を誇った都や都市が戦によって荒廃する様を見たことがある。自分勝手に拓いておいて自分たちの手でまたそれを壊す人間の心理に共感こそしなかったが、それでも人の手によるものであったからその在り方は理解できた。しかし『これ』は違う。人の手による破壊でも、自然が猛威を振るった跡でもなく、そもそも純然たる破壊ですらなく。ただそれまで脈打っていたはずの鼓動を止められたような、そもそも『生命』という概念が奪われてしまったような。そんな光景だった。
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    アンドリュー(鶏)

    DONEⅢED後の大統領2主が15年ぶりにかつての本拠地を訪れるお話。
    (2主→リオウ、ぼっちゃん→ティル)
    Ⅱ軍師組やぼっちゃん、フッチなどが出ます。タイトルと時系列で察せられるかもしれない、あの人の話でもあります。

    令和になって突然小説を書き始めたわたしの、人生初同人誌だったりします。Ⅲの結末への愛と祈りをせいいっぱい込めました。
    そういう意味でも個人的に思い出深くて好きな作品です。
    風の在る理由 斜陽が草原を明々と染める中に草の香りを孕んだ風が舞っている。デュナン共和国、サウスウィンドゥ市に続く街道を青年はただ一人で歩いていた。風が優しく包み込むように過ぎて行って、彼の黒髪を包んだバンダナが宙に舞う。
     突然、穏やかだった風が鋭さを増して青年に襲いかかった。一瞬の出来事であったが、その風に立ち止まった彼──ティルの表情は少しばかり翳ったように見えた。
    「……そうか」
     街道の先にあるデュナン湖を見据え、ティルはぽつりと呟いた。
    「君も、逝ってしまったんだね」
     彼はしばらくその場で風に吹かれるまま佇んでいた。そしてまた、一人でゆっくりと街道を進んでいく。これから訪れる夜を思わせるような冷たさが降り掛かってくる。風はただひたすらに彼の背を押すような追い風だった。
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    アンドリュー(鶏)

    DONEⅢ本編5年くらい前の赤毛軍師兄弟の話。
    シーザーから見た兄の話と、アルベルトから見た弟の話の2本立て。
    実在する某超有名推理小説が作中に出てきますが、ゲーム本編にもロミジュリとかが脚本として出てくるのでいいかなと思ってやりました。細かいことは気にしないスタンスで見ていただけると嬉しいです。
    いつか来る瞬間のためにⅠ.いつか来る瞬間のために 目の前の本を開くと黴臭い埃の匂いがした。鼻の奥と喉がむずがゆくなって、ごほごほとむせ返る。舞い上がった埃が窓から射し込む午後の陽光に白く照らされていた。

     シーザー・シルバーバーグは生まれ育った家の自室でひとり机に向かっていた。目の前には先ほど開いた一冊の本と、広げられた一枚の紙。開いたままのインク瓶の隣には、なかなか書くべきことが思いつかずに投げ出されたペンが転がっている。開いた本から舞い上がった埃に出鼻をくじかれたシーザーだったが、めげずに開いた本を文字を追い始める。ある国の興亡が記された何十年も前の歴史書はところどころページが黄ばんでいて、書かれている言葉遣いもそれはそれは古めかしいものだ。普段の彼なら望んで手にしないようなその本は、彼の家庭教師が手渡してきたものだった。指で一行ずつ、ところどころ掠れた文字を辿る。が、開いたページの次もめくらないうちに十二歳の少年は椅子の背に勢いよくもたれかかった。
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    アンドリュー(鶏)

    DONE幻水1のエルフたちがエンディング後に自分達の故郷に帰るお話。
    幻想水滸伝1のエルフたちは四者四様といった趣で個性豊かですが、彼らに共通して眼前に横たわっている悲しみあるのだと思うとなんだかしんみりしてしまいます。特にあんなに明るいスタリオンにもおそらくは表には見えづらい切なさや寂しさがあるのかな、なんて思いながら書いた作品です。
    また会う日まで 戦いは終わった。
     けれど僕たちの戦いはまだ終わらない。
     ひとりのエルフの青年は、焼け落ちた故郷の大樹を見上げた。焼け焦げた枝々の隙間から見える空が真っ青だったから、その暴力の跡がひどく浮かび上がってくるようだった。
     『赤月帝国』というひとつの国が滅び、この地が『トラン共和国』と称されることが決まった頃のこと。解放軍の一員としてその終焉を見届けた青年──キルキスは、戦いのさなかに喪われてしまった故郷を訪れていた。度重なる争いに訪れる時間すらなかったのは事実だけれど、やはり生まれたこの地の変わり果てた姿を見ることを避けたい心があったのもまた事実だった。それでも、今は向き合わなければならない。エルフの、いやこの世界で暮らす存在の一員として、新たな生活のためにこの一歩を踏み出さなければならない。この地に残る同胞たちの無念に引き込まれそうになるのを、キルキスは自身を鼓舞することでそれに耐えようとしていた。
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