女神の愛する庭で 少年が瞬きをしたそのとき、目の前の猫がごろんと転がった。白猫はとても心地よさそうな様子で青々とした芝生に四肢を伸ばしている。少年はあっ、と声を上げた。そして黒炭を持ったままの右手で、汚れるのにも構わず自身の金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。そしてまだ余白の多い自らのスケッチと眼前の白猫を交互に見た。集中して書き込んでいた背中側の毛並みは、今はすっかり芝生に埋もれて隠れてしまっている。というより、もはや彼が描き込んでいたポーズとは端から変わってしまった。少年は深いため息をついた。
少年と白猫の出会いは数十分前のことだった。港町ビネ・デル・ゼクセ生まれのごく普通の少年──リアンは、その日路地裏で一匹の白猫を見つけた。緑の目をした真っ白の猫で、その細身でしなやかな身のこなしから雌の猫だろうと思われる。ほの暗い路地裏の、建物のすき間から昼下がりの陽光が差している一角に白猫はごろんと転がって毛繕いをしている。彼は白猫が逃げないように少し距離をとり、そして脇に抱えた自分の顔くらいの大きさのスケッチブックを取り出してその場にしゃがみこんだ。
リアンが他の同い年の子どもたちと違ったのは、絵を描くことが何よりも好きなことだ。その日も近所の子どもたちはかけっこやかくれんぼ、そして誉れ高き六騎士ごっこに興じていたが、今日の彼はそんな子どもたちとは少し違った。リアンはときおり、誕生日に父親から与えられたスケッチブックと木炭ひとつを手にゼクセの街をあてもなく歩くのだ。もちろん、彼も子どもらしい遊びもたくさんしている。昨日は二つ隣に住むフィンリーと坂道のてっぺんから競走をして勢いあまって転んだし、おとといはドナウ通りのライラが主催したお茶会──という名のおままごと──に無理やり付き合わされて、花を潰した汁──彼女いわくハーブティー──を飲まされそうになりもした。
同い年の子どもたちとなんだかんだ楽しい日々を過ごしているリアンだったが、絶好のかけっこ日和のはずの今日は、ひとり路地裏でスケッチに興じている。友人たちと外で遊べる貴重な晴れの一日ふいにしても構わないと思えるくらい、少年にとって絵を描くということは欠けがえのない存在だった。例えるなら、かけっこやおままごとがマカロニグラタンやコーンスープなら、スケッチは毎日欠かさず食べるライ麦のパンなのだ──そんなことを考えながら、リアンは黙々と右手の木炭を動かす。数分もすると、少し黄ばんださらさらの紙に、日向ぼっこをしている白猫のシルエットが浮かび上がっていた。
(よし、いいぞ)
リアンは手応えを感じて頷く。そして細部を描き込もうと、思わず身を乗り出したその瞬間のことだ。
「ニャッ!」
それまでくつろいでいたはずの白猫は、見知らぬ闖入者を許さなかったらしい。突然の鋭い鳴き声がリアンの耳に刺さる。彼女はそれまで横たえていた体をあっという間に起こすと、シャーっと少年に向けて威嚇の姿勢をとる。リアンは驚いて尻もちをついた。
「ごめん、ごめんって! 昼寝のジャマをするつもりはなかったんだって、」
少年はまるで大人に叱られたときにするように、スケッチブックと木炭をそれぞれの手に持ったまま両手を上げて振った。彼としては降参の意を表したつもりではあったが、猫は依然として戦闘態勢だ。さっきはふんわりして見えた背中の毛も今は鋭く立っている。
どうしたものかと思案していると、左手のスケッチブックに描かれた絵が目に入る。リアンは考えるより先にそれを眼前の小さな獣に見せるように掲げた。
「ほら、きみの絵を描いていただけなんだ……! ね、見てよ」
言いながら、リアンは絵のほうを上にしてそっと地面にスケッチブックを置いた。それから相手の威嚇を強めないように、そっと地面に滑らせるように絵を猫の近くに寄せる。
スケッチブックだけを残して、そのまま後ろに下がる。するとそれまで背中を丸めてこちらを威嚇していた白猫が、ようやくほんの少しだけ警戒を解いた。そしておそるおそる少年のスケッチブックに近づき、顔を寄せる。しばらくの間、その周りを歩き回りながら鼻をふんふんと鳴らして匂いを確かめていた。それからスケッチブックの正面に戻ってくる。驚いたことに、白猫はすとんとその場に座り込んだ。緑色の両目がスケッチブックの黄ばんだ画面をじっと見つめている。
(まるで、絵を見ているみたいだ)
少年が猫に自らのスケッチブックを差し出したのは、攻撃の意図がないことを示すためだった。言うなれば兵士が降参の意を表するために武器を置いたようなもので、「絵を鑑賞してほしい」と伝えたつもりではなかった。だが、路地裏の白猫はまるで批評家のように言葉もなくただ絵の細部を眺めているようだ。時おり顔を寄せて頷いたり首をかしげたりする素振りを見せてもおかしくない──リアンにはそう感じられた。
互いに言葉もない時間がしばらく過ぎる。路地裏の砂埃を舞い上げるようにそよ風が吹く。わずかに潮の香りがする風を感じられる。
その時、彼女はすっと立ち上がった。そしてニャ、と短く鳴くとゆっくりとした足取りで家々の間をすり抜けていった。リアンは思わずそれを目で追う。すると白猫は少し先でこちらを振り返っていた。
(ついてこい、って言っているのかな)
リアンはまるで猫の言葉が分かるかのような錯覚を覚えた。このまま路地裏で座り込んでいたら、もうこの白猫とは一生出会えないんじゃないか。彼女の絵を描かないと一生後悔するんじゃないか──そんな思いがなぜか彼の頭をよぎった。何かに突き動かされるように地面に置いていたスケッチブックを手に取り、立ち上がる。そしてそっと白猫のあとを追いかけた。少年がついてきているのを確かめると、白猫は軽やかな足取りで路地を抜けていった。
港の喧騒を遠くに聴きながらしばらく白猫の後を追って辿り着いたのは、ゼクセの大通りから一本外れて少し奥まったところにある住宅地だった。建国当時からの貴族の邸宅も並ぶエリアで、リアンからすれば少し縁遠い場所ではあった。とはいっても全く近寄りがたいわけでもなく、父親と一緒にこの近くの店を訪ねたときに来たことのある場所でもあった。リアンがきょろきょろとあたりを見渡しているのにも構う様子はなく、件の白猫は通りを悠然と歩いていた。どうやら、彼女が根城にしているのはこの辺りなのだろう。首輪もないから野良猫だろうと思っていたが、実は貴族の飼い猫だったりするのだろうか。なんとなくついてきた足でそんなことを思っていると、白猫はある邸宅の前でぴたりと立ち止まる。そして黒い金属の門の隙間にするりと白い身体を滑らせて、その先にある芝生へ足を踏み入れた。それからひとつ大きなあくびをして青々とした芝生に寝転がる。しばらくすると先ほどしていたようにのんびりと背中の毛繕いを始めた。
リアンは見知らぬ庭を眺める。色鮮やかな芝生は綺麗に切り揃えられ、まるで若草色の絨毯のようにふんわりとして見える。芝生の近くに時植えされた色とりどりの花や背の高い鉢に植えられた淡い花弁が静かに風に揺れて邸宅へ続く石畳を彩っていた。花を育てたことなどない少年にも美しいと理解できる、手入れの行き届いた庭だった。ひとたび風が吹けば爽やかな緑の香りを辺りに運ぶのだろう。白猫はそんな庭の一角の、地植えされた桃色の花が咲く隣で白い身体を横たえている。
少年は思わず、ほう、と息を漏らした。派手さはないが整然とした佇まいの庭でくつろぐ一匹の白猫の姿は「とても絵になる」さまだった。考えるより先に脇に抱えていたスケッチブックを取り出して、先ほど描いていたページを開く。その場にしゃがみこんで右手の黒炭を握り直す。それから少年は無心で右手をスケッチブックの上に走らせた。門の隙間から見える白猫の姿を、リアンは無心で写しとっていた。幸いにも白猫は、路地裏でしていたときと似たポーズを取っていたから先ほどまでの絵の続きを書くことができた。むしろ埃っぽい路地裏よりもこの整然とした庭のほうが、彼女を彩る背景には似つかわしいと思われた。
そうして十分ほど時間が過ぎてリアンが白猫の背中の毛を描き込み始めたとき、彼女は無情にもごろんと転がってポーズを変えてしまったのだった。黒炭を持ったままの手で頭を掻いたために、リアンの金髪に泥に転がったような黒い跡ができる。
「はぁーー………」
少年は心底残念そうにため息をついた。だがそこですべてを投げ出して、中途半端な絵を片手に帰るのも憚られる。諦めずに顔を上げると、先ほど寝返りを打った猫の身体は視界から外れて半分ほど見えなくなっていた。
(もうちょっと、こっちからなら見えるかも──)
そうして黒い金属の門に手を掛けて、そこに顔を寄せたときだった。
「何をしている?」
「うわっ!?!?」
突然頭上から降ってきた声に、リアンは文字通り飛び上がった。右手にあった黒炭がその弾みでぽろりとこぼれ落ちて、地面で割れる。そこでようやく少年はとんでもないことを仕出かしたのだと気がついた。ここは貴族の邸宅の並ぶエリアで、あろうことか自分は他人様の邸宅の門扉に手を掛けて中を覗き込んでいる真っ最中なのである。不躾だと叱られるならまだ万々歳、最悪なら泥棒と勘違いされて騎士団に突き出されるかもしれない。思わず、恐ろしく屈強な騎士に自分の首根っこを掴まれる姿を想像してしまう。幼い少年の頭は一瞬のうちにそんな悪い想像で埋め尽くされた。
顔を真っ青に染め上げた少年は、おそるおそる背後を振り返る。昼下がりの陽光が視界を覆い尽くすようにカッと照りつける。眩しい視界の中に浮かび上がったのは、騎士団の鎧のシルエットだった。リアンはひっ、と喉を鳴らす。どうしよう、謝らなきゃ。誤解を解かなきゃ。そうしないと悪い想像がそのまま現実となって襲ってくる──そうして、どうにか声を振り絞ろうとした瞬間。
「にゃあ」
と、間延びのした猫の鳴き声がする。その小さな声はどくんどくんと鳴る鼓動ばかりに囚われていた彼の耳にも届いた。それと時を同じくして、目を焼くほどの光に目が慣れて、ようやく目の前にいる人物の顔が認められるようになる。
少年は眼前にいたのは確かに白銀の鎧に身を包んだ騎士であった。だが、屈強な体躯や恐ろしい顔を持っているわけでもない。それは鎧と同じくらい目映い銀色の髪を結い上げた、一人の女性だった。その凛とした佇まいはリアンもよく知っている。むしろ、このゼクセの街に暮らす人なら知らない人はいない。ゼクセン騎士団の誉れ高き六騎士の一人、クリス・ライトフェローその人が、彼のすぐ後ろに立っていたのだ。
リアンがゼクセン連邦の誇る英雄──クリス・ライトフェローの姿を初めて目にしたのは、一年ほど前のこの街の広場でのことだった。騎士団の拠点であるブラス城へと向かおうとする彼女の、騎士団の鎧を身につけた白馬上の姿を遠巻きに見たのみだった。その後、クリスは戦の勝利とともにビネ・デル・ゼクセの街を凱旋した。そのときのパレードの様子は今でもよく思い出せる。『銀の乙女』と讃えられ、紙吹雪の舞うなか歓声に包まれながら進んでいた銀髪の騎士の姿も、それを人ごみに潰されながら垣間見たのもまだ記憶に新しい。
そんな彼女が、目の前に立っている。
「……? どうした?」
少年にとって遠い絵姿のような存在であった騎士の声は、存外穏やかなものだった。戦場では数多くの敵をその剣で屠ってきたという鋭利さは、少なくとも今は感じられなかった。クリスはわずかに困惑したように眉をひそめながら、少年の目の前にしゃがみこむ。そして少年の黒炭まみれの金髪と右手を一瞥した。
「怪我でもしているのか?」
言葉を失って立ち上がることもできなかった少年を、どうやら彼女は気遣ってくれたらしい。リアンは思いがけない優しさに戸惑いながらも、どうにか誤解を解こうと口を開いた。
「あ、あの、ケガはしてないし、別に泥棒ってわけでもなくって、ええと…………」
しどろもどろになりながらもどうにか言葉を紡ぐ。
「ただ……猫が」
「猫?」
言いながら、クリスが首を傾げた。薄紫の瞳がじっとリアンを見据える。そこに咎める意図はなく、ただ少年の言葉の続きを待っているのだと感じられた。それでも上手く説明ができそうもなかった彼は、先ほどまで虜になっていた庭を指差した。
クリスは立ち上がって彼の指差す先へ視線を向ける。それから少年のそばに転がっていた黒炭やスケッチブックの姿を認めて、小さく頷いた。
「とりあえず、どうぞ。入って」
鎧に包まれた銀色の手が、黒い金属の門扉に手を掛ける。そしてギィ、と音を立ててそれまで閉ざされた庭への道が少年の眼前に開かれた。リアンは依然として呆気に取られていたが、ハッと我に返ると慌てて自身の周りに散らばっていた画材を拾い上げる。それらを胸に抱えると、騎士が開いてくれた門の隙間へそっと体を滑り込ませた。肩を縮こまらせながらおそるおそる敷居を跨いでいる自分はどうにも泥棒めいているじゃないか、と気恥ずかしいやら緊張するやらで少年の頭のなかは忙しかった。あの『銀の乙女』が見ず知らずの平民である自分を招き入れた事実はどうにも受け入れがたかったし、そもそも自分が不躾にも覗き込んでいたのはよりによって彼女の邸宅だったのだと思うとどうしたらよいのか分からなかった。
そんな少年の瞳に、改めて庭の景色が広がった。白猫は依然として柔らかな草の中で健やかな寝息を立てている。思いきって芝生にそっと足を踏み入れて近づいてみる。外から眺めるばかりだった青々とした世界の、その芝生の柔らかさが足裏に感じられる。植物たちのまとう爽やかな空気も先ほどより鮮明に鼻腔を通り抜けた。路地裏のときのように近づいたはずなのに、白猫は警戒することもない。まるで絵の中に入り込んだような、ふわふわとした夢のような心地だった。そんな浮かれた気持ちが胸に湧き起こりながらも、リアンはすぐに自らをここに招き入れた騎士を振り返った。
「あ、あの……どうして……」
どうしてここに招き入れてくれたんですか、と言おうとするも舌がもつれて上手く回らない。それでも銀髪の騎士は彼の言わんとすることを理解したようだ。
「その猫の絵を描いていたのだろう?」
クリスは庭先に手を向けながら言った。よく通る声ではあったが、極めて穏やかな口調だった。
「門のところから見るよりは、庭からのほうが見やすいでしょう?」
「でも、勝手に庭を覗いちゃって……」
「構わないよ。この庭はじい──我が家の執事が気合いを入れて手入れをしているんだ。見る者が彼と私しかいないのは、もったいないと思っていた」
それからクリスは庭の一角に置かれているテーブルに近づいた。門扉と同じ黒い金属製の、草の蔓や葉の意匠が取り入れられたものだ。同じ作りの椅子がテーブルの両脇に置かれている。クリスはそのひとつに腰を下ろした。
「その野良猫は気まぐれなんだ。私が幼い頃からこうして我が家に顔を出しに来るんだが……いつも気が付いたときにはいつの間にかいなくなっている。だから、どこかに行かないうちに絵を仕上げたほうがいい」
「は、はい」
つい反射でそう応える。いつの間にか、なし崩しに庭に入り込んで絵を描くことになってしまった。リアンは戸惑いつつも芝生の上に腰を下ろした。白猫は彼の座っているところから少し離れたところでのんびり転がっている。見れば、また姿勢を変えて最初に描いていたポーズとそっくりの寝姿をしていた。絵の続きを描き出すにはおあつらえ向きの状況だ。リアンは思いきって落として半分に砕けた炭と砂っぽくなったスケッチブックを取り出す。戸惑いはあるがせっかくの機会だから、と彼が身を正したとき。
「良ければ、あなたが絵を描くところをここで見ていても構わないだろうか?」
背後からさらに思いがけない言葉が飛んでくる。再び心臓ごと飛び上がりそうになるのを堪えて、少年は努めて冷静に返事を返した。
「えっと、あ、はい。もちろんです」
彼の喉から溢れたのは、緊張がそのまま形になって表れたような固い声音だった。それを気に留めた様子もなく、この家の主はテーブルに肘を置いた姿勢でただ頷いた。
短くなった木炭を握り締めて紙の上を走らせると、リアンは思いのほか無心になることができた。戸惑いやら気恥ずかしさやら緊張といった感情は確かに存在してはいるはずだが、雑踏のような僅かなざわめきが遠くからぼんやり聞こえてくるくらいの感覚でいられた。絵を描く少年の耳にはっきりと聞こえるのはざらついた紙の表面を筆が走る音のみだった。白猫の柔らかい毛並みに反して筆圧が強くなってしまったところを指で擦ったり、光に照らされて白く浮いて見える部分は爪の先で紙を削ってみたり。主役である猫を引き立たせるために周囲の景色は描き込みすぎないようにしつつも、彼女の身体の下から延びている芝生のシルエットはしっかり描いてもみたり──リアンはすっかりそんな試行錯誤の虜になっていた。頭のなかにあるイメージがそのまま写し出されないことはもどかしいけれど、彼にとってはそれもまるっと含めて楽しい時間だった。猫は夢の世界に旅立っているのか、白い腹を小さく上下させながら健やかな寝息を立てている。リアンもまた夢中で絵の世界に没頭した。細く短い木炭は手汗にまみれてつるりと右手から滑り落ちてしまいそうなはずなのに、まるで自分の右手の一部かのような錯覚さえ覚えている。
しばらく呼吸するのも忘れて、手を動かしていたような気がした。そんな折にさっと庭に吹き込んだ風が彼の額に触れる。前髪がうっすらと額に張りつくほどに汗ばんでいたことにようやく気が付いて、少年の意識は現実に引き戻された。夢から覚めたような心地で向かい合っていたスケッチブックを見ると、そこには白と黒のコントラストによって描き出された白猫の姿がそこにあった。
「上手いものだ」
いつの間にか彼の背後に立っていたクリスが、じっとリアンの膝の上に置かれたスケッチブックを見下ろしている。
「私はあまり芸術への造詣が深くないのだが……よく猫の特徴を捉えていると感じられる。周りの芝生が書き込んであるのもいいと思う」
「あ、ありがとうございます」
律儀に感想を述べる騎士に、リアンは恐縮してしまう。だが筆を走らせているうちにだいぶ気持ちが落ち着いたのか、少年の心には思いきって真意を尋ねてみようという勇気が湧いてきた。
「あの……クリス、さま」
「なんだ?」
「クリス、さまは、どうして……ぼくが絵を描くところを見ててくれたんですか?」
ああ、とクリスは納得したように頷く。それから答えるより前に少年を自身の向かいの席へ座るよう促した。緊張した様子で少年が椅子に浅く腰かけたのを見ると、彼女は口を開いた、
「私にはできないことだから興味深かったんだ。邪魔をしてしまったなら申し訳ない」
「そ、そんなことないです!」
絵描きの少年は金髪を振り乱すように必死で左右に首を振った。そんな必死な様子にクリスは小さく微笑んだ。
「自分には縁遠いものだが、絵が完成するまでの過程には興味がある。前に評議会お抱えの画家が肖像画を描きに来たが、少し首を動かすこともままならなくて……絵を描いている様子をじっくり眺めるどころか視線を向けることさえ叶わなかった」
「でも、『できないこと』って……ゼクセの人たちはみんな……お父さんたちも近所の子どもたちもみんな、『クリスさまはすごい』『完璧だ』って言ってるのに……できないことがあるんですか?」
「当然だ。むしろ、私が胸を張って『できる』と言い切れることのほうが少ないくらいだ」
騎士の女性はテーブルに掛けていた両手を軽く合わせた。鉄に包まれた指どうしが触れて、カチャリと小さく音を鳴らした。
「あなたのように絵を描くこともちろん、新しく何かを生み出すなど私にはできない。私があなたくらいの子どものころ、聖歌隊に入っていたときなんて……」
そこで言葉を切る。うっかり口からこぼれ出てしまったという様子で、クリスは一瞬ばつが悪そうな顔をした。
「まぁ、とにかく。私は芸術の女神にはとことん愛想を尽かされているようなんだ」
そして困ったように眉を下げて小さく笑う。リアンは『銀の乙女』が自分ひとりに語りかけている状況を夢心地で聴いていたが、だんだんと地に足が着いてきたような感覚も覚えていた。こんな風に笑ったり喋ったりする様子は想像だにしなかったが、どこか遠くて近づきがたい、厳格な騎士たちの印象を払拭するには充分だった。新緑の香りを含んだ風が、さっと二人の間を通り抜ける。
「周囲からどう映っているかは分からないが……私はゼクセンとその民を守る騎士のひとりであり、ゼクセンに生まれた民のひとりであることは変わらない」
少年の胸中を見透かしたように、クリスはそう続けた。春風がそよそよと花たちを揺らすだけの、穏やかな沈黙が辺りを包む。少年は、何か目の前にいる騎士に問いたいことがあるような気がしていた。しかしそれは明確な言葉とならなかった。水面を浮きつ沈みつしているひとひらの葉のように、彼の心のなかをとりとめもなく漂っていた。
「あの……クリス、さま」
それでも何かを口にすれば、とリアンは彼女の名を呼ぶ。クリスは目を伏せて小さく首を横に振った。
「言いづらかったら、無理にそう呼ばなくてもいい」
「え?」
「私たちはあくまでゼクセンを守る騎士だ。民からの敬称も賛辞も、受けて然るべきだとは思わない──少なくとも私は、そう考えている」
声音こそ柔らかかったが、そこには毅然とした響きがあった。リアンは目を丸くしたまましばし逡巡した。そんな折、眠っていたはずの白猫が老猫らしいゆっくりとした歩みで彼らのもとへ歩み寄ってくる。リアンの足元をするりと抜けて、白猫は騎士の銀の鉄靴にすりすりと頬を寄せた。クリスは少し困ったように笑いながら、静かにしゃがみこむと鉄に包まれた指でそっと白猫の顎を撫でた。そして口を開く。
「ええと、じゃあ……クリス『さん』」
ゼクセンに住むすべての人々が賛辞を送る彼女であったが、彼にとっては不思議とこの呼び方のほうがしっくりと馴染むような気がした。胸にすとんと落ちる感覚は、自然と少年に言葉を紡がせた。
「またここに来てもいいですか。絵を、描きたくて」
しゃがみこんだ彼女と少年の目線がまっすぐに合う。クリスは彼の言葉に頷く。その顔には優しい微笑みを湛えていた。
「もちろんだ。じいにも話を通しておこう。この場所を気に入ってくれたなら、私も嬉しいよ」
リアンは彼女の微笑みに応えるように、ぱあっと顔を輝かせる。そんな少年の反応に応えるように、クリスはまた頷いた。
「そうだ、あなたの名前を聞いてもいいだろうか」
「あ、ええと。リアン、っていいます」
「わかった、リアン。あなたが来たいときにいつでも我が家を訪ねてくれて構わない。執事に名前を伝えてくれればいい」
クリスの足元の白猫は満足そうににゃあ、と鳴いた。
すっかり日が傾いた頃、リアンはオレンジ色に染まった石畳の道をひとり歩いていた。あの後、クリスは彼を自らの邸宅に招いて紅茶を振る舞ってくれようとしたのだが、さすがにそれは不相応に思われて断った。そろそろ家に戻っているはずの父を置いてお茶を飲むのもちょっとばかり申し訳ない気がしたのだった。リアンは小走りに自らの家に繋がる路地へと駆け込んだ。
家の重い木の扉を開けるやいなや、食欲をそそる匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
「ただいま」
台所に顔だけを出してそう言った。鍋をかき回している父親の姿がこちらを振り返る。
「おかえり、リアン」
父はただそう言って再び鍋のほうへ視線を戻した。手を洗うのもそこそこに、リアンは棚に置かれている食器を人数分取り出した。
食卓について家族で夕食を食べる折になって、リアンはきょうあった出来事を父親に伝えた。父親ははじめ半信半疑といった様子だった。まさか、とか、そんなことあるわけが、といった言葉をしきりに呟いていた。しかし彼が黄色い表紙のスケッチブックを開いて本日の成果を見せると様子が変わった。父親はしばらくその絵をまじまじと見つめる。そしてようやく彼の言うことが本当らしいことを認め、困ったような表情を一瞬浮かべた。だが真剣な顔をしてスケッチブックを抱えているリアンを見て、すぐに小さく笑った。
「お礼を言わなきゃいけないなぁ」
それからリアンの頭にぽんと手を乗せて「良かったな」と言った。「あのクリスさまにお会いするなんて、父さんは緊張してしまってしょうがないぞ」とも付け加える。それは本気で困っているというよりちょっと冗談めかした言い方であった。それから再び二人は匙を手にとって夕食を再開した。二人は茶色いシチューを口に運びながら他愛のない話に花を咲かせた。
ふと、彼の父が明るい表情で言った。
「ゼクセンはグラスランドと休戦協定を結ぶことになったんだよ。これもクリスさまたちのおかげだな」
先の戦いでの、クリスをはじめとする騎士団の奮闘は耳に新しいものだった。しかしその戦いも終わりを告げた。そうして平和になったら、きっとゼクセン騎士団の人々が戦いに遠くに行くこともなくなって、ゼクセにある家々ももっと賑やかになるのだろうか。あの庭の主が穏やかに花たちを愛でる時間も増えるのだろうか。生煮えで固い人参を無理やり飲み込みながら、リアンはぼんやりとそんなことを思っていた。またあの庭を父と訪ねたら、そうしたらあの人にまた会えるだろうか──そんな少し先の未来に思いを馳せた。
しかし、それは現実にはならなかった。グラスランドが一方的に休戦協定を破りゼクセン騎士団が奇襲を受けたのだという知らせが彼の耳に届いたのは、それからたった数週間後のことだった。
◇ ◇ ◇
窓からのうっすらとした光が、彼女の手元を照らしている。まだ午前中の柔らかな陽光は薄曇りの空に覆われてぼんやりと辺りを照らすのみだった。ブラス城の談話室の窓辺に佇んでいたクリスは、珍しく漫然と窓の外を眺めていた。先の休戦協定の決裂、グラスランドの奇襲、その最中に燃えるカラヤの村──そして先日評議会から騎士団長就任の『祝い』と言わんばかりに命じられたリザードクランでの戦闘。ほんのわずかの期間にあまりに多くのことが起こってしまった。必死に手を伸ばして掴んだはずの平和は、いつの間には手元からすり抜けていたらしい。先の見えない霧のなかに置かれたような、そんな漠然とした不安がうっすらと彼女の胸に広がっていた。
部屋のなかにコンコン、と控えめなノックの音が響く。
「クリスさま、ルイスです。今よろしいですか?」
扉の外から騎士団の従士として働く少年の声が聞こえてくる。クリスが入室を許可すると、騎士団を象徴する橙色の制服を身に付けた少年の姿が顔を出す。彼はクリスが窓際に佇んでいるのを確認すると、足に身につけた鉄のすね当てを鳴らしながら小走りにやってきた。
「どうした、ルイス。届いた物資の整理を手伝いに行ったんじゃなかったのか」
「そのつもりだったんですけど、別の用事を頼まれたんです」
ルイスが一通の手紙を取り出して彼女に見せた。
「クリスさま宛てに、お手紙が届いていたそうで」
「手紙?」
ルイスの手のなかにあるのは、いつも騎士団に届く評議会からの通告などとは違って柄もない質素な古い封筒だった。長らく仕舞い込まれて黄ばんだであろうそれがひどく珍しいもののように思われた。クリスは首を傾げる。
「なんだ、これは?」
「普通ならクリスさま宛てのお手紙は、危険がないように先に中身を確かめてしまうこともありますけど……」
従士の少年は手紙を持っているのとは反対の手の人差し指をピンと立てて説明を始めた。一市民からクリス含め六騎士個人に宛てられるの手紙は一方的かつ極めて個人的な手紙──いわゆるファンレターめいたもの──が一定数含まれる。だから、もともと知り合いだとか家どうしの繋がりのあるかなどが明確でない限り、中身を事前に改めてしまうことも多い。
「今回は騎士団が懇意にしている職人のお子さんが、ゼクセの警備隊の人に直接渡しに来たそうで。『知り合いじゃないと届かないぞ』って言っても『知り合いだからぜったい大丈夫だ。名前を見れば分かってくれる』って必死にお願いされたようで……身元がはっきりしないわけでもないし、それならクリスさまに直接ご覧いただくのが一番かな、ということみたいです」
「わかった。確認しよう」
クリスは手紙を受け取ると、古ぼけた封筒を裏返して差出人の名前を確認した。ああ、と得心した様子で頷く。そして封筒を開けて中に入っていた一枚の紙を開いた。しばらくその紙面をじっと見つめてから、顔を上げた。
「ルイス。お前にもぜひ見てもらいたい」
「えっ? クリスさま宛てのお手紙なのにいいんですか?」
促されるままに、従士の少年は騎士団長の手元を覗き込んだ。それからわぁっと声を挙げた。
「すごい! きれいな絵ですね」
ルイスの目の前にあったのは、一人の男性と一匹の白猫が描かれた絵だった。棚に並んだ鉢植えの花々に水をやっているのは、ライトフェロー家に長年仕える執事の男性だ。その足元には、彼を見上げる一匹の白猫がちょこんと座り込んでいる。黒一色の濃淡と余白の色で仕上げられた一枚の絵は、彼らの温かな雰囲気をそのまま切り取るように柔らかなタッチで描かれていた。写真ほど明確に顔が分かるわけではないのに、不思議と彼らを知る人ならその姿を思い出させてしまうものだった。
称賛の眼差しを絵に向ける少年を見て、クリスは小さく微笑んだ。
「ああ。将来有望な画家の作品だからな」
ルイスは目を丸くしながら、彼女を見上げる。
「クリスさまに画家のお知り合いがいたんですね」
「そんなに意外か?」
「いえ、そんなことは!……実をいえば、ほんの少しだけ」
「ふふ、私も意外に思っている」
一瞬互いに目を合わせて、それから二人は弾けるように笑い出した。ひとしきり笑うと、それまで胸に広がっていた霧がほんの少しだけ晴れたような気がしてくる。クリスはそんな心地を覚えていた。
ルイスは窓の外に広がる景色に目を向けて言った。
「きょうは曇り空ですけど、外は穏やかで良い空気でしたよ。クリスさまもお散歩にでも行かれたらいいんじゃないですか?」
息抜きになりそうですし、と言いながらこちらを見上げる少年にクリスは頷いた。
「ありがとう、ルイス。たまには慣れないことをしてみることにするよ」
それからクリスは再び手にしていた一枚の絵に目を向けた。その絵の下には短い言葉が書き付けてあった。
──あなたに女神の加護がありますように。
◇ ◇ ◇
実を言えばリアンは『女神』が具体的にどんな存在で、どんな恩恵を与えてくれるかは理解していなかった。毎日父と食事の前には祈りを捧げていたが、その祈りは形式化していたから対象もどこかぼんやりとしていた。それでもゼクセンでは父をはじめとした周りの大人が昼夜決まった時に祈りを捧げていたし、路地裏を走り回る子どもさえもが困ったときには彼女の名を呼んで助けを求めもする。人々の尊敬と祈りを一身に受ける存在こそ女神なのだろうと、今の彼は理解していた。
そして今、ひとつ確信していることがある。穏やかな光が照らす庭園で、人々の祈りに静かに耳を傾けているだろう女神は──光を優しく反射して輝く銀色の髪を春風に揺らしながら、菫色の瞳で遠巻きに優しく見守ってくれたあの日の彼女と、きっとよく似た姿をしているのだ。
欠伸をした猫のにゃ、という鳴き声に少年は振り返る。そして傍らに寝転がる白猫を何度か撫でてから、再びスケッチブックに向かい合った。すっかり彼に気を許しているのか、芝生を背にしながら気まぐれに足でリアンの身体を蹴ったり手でちょっかいを出したりしている。そんな彼女の戯れに笑いながら、紙の上に右手の木炭を走らせていく。
たとえ曇り空の下であっても、少年は女神の愛する庭で絵を描いている。
──終──