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    アンドリュー(鶏)

    @KpaM9hx9

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    POIPOI 5

    ⅢED後の大統領2主が15年ぶりにかつての本拠地を訪れるお話。
    (2主→リオウ、ぼっちゃん→ティル)
    Ⅱ軍師組やぼっちゃん、フッチなどが出ます。タイトルと時系列で察せられるかもしれない、あの人の話でもあります。

    令和になって突然小説を書き始めたわたしの、人生初同人誌だったりします。Ⅲの結末への愛と祈りをせいいっぱい込めました。
    そういう意味でも個人的に思い出深くて好きな作品です。

    風の在る理由 斜陽が草原を明々と染める中に草の香りを孕んだ風が舞っている。デュナン共和国、サウスウィンドゥ市に続く街道を青年はただ一人で歩いていた。風が優しく包み込むように過ぎて行って、彼の黒髪を包んだバンダナが宙に舞う。
     突然、穏やかだった風が鋭さを増して青年に襲いかかった。一瞬の出来事であったが、その風に立ち止まった彼──ティルの表情は少しばかり翳ったように見えた。
    「……そうか」
     街道の先にあるデュナン湖を見据え、ティルはぽつりと呟いた。
    「君も、逝ってしまったんだね」
     彼はしばらくその場で風に吹かれるまま佇んでいた。そしてまた、一人でゆっくりと街道を進んでいく。これから訪れる夜を思わせるような冷たさが降り掛かってくる。風はただひたすらに彼の背を押すような追い風だった。
      
       ◇   ◇   ◇

     時を同じくして、デュナン共和国ミューズ市。
     十五年前のデュナン統一戦争後。リオウを始めとする新同盟軍のメンバーが新しく成立したデュナン共和国の要職に就任し、国家としての土台が形成されるにあたってその中枢はミューズ市へと移行していった。先の戦争で滅亡したハイランド王国を吸収したデュナン共和国は広大な土地を有する国家となり、デュナン湖を隔てたノースウィンドゥの地からでは統治の手が及ばないことが懸念されたためである。戦後すぐは国家滅亡によって旧ハイランド領は混乱を極めていたこと、またミューズ市がジョウストン都市同盟時代からの中心都市としての機構を既に備えていたことを考えると、国家の中枢がかの地に置かれたのは自然な流れでもあった。こういった経緯があって、痛ましい市民虐殺によってひどく破壊の進んだミューズ再建にあたっては、かつてからの市庁舎に加えて新しく国として必要な施設が作られることとなった。そうして、ミューズは伝統と新しい気風が混ざり合う、デュナン共和国の中心都市となったのだった。
     青年がいるのは、ジョウストン都市同盟時代からの長い歴史を感じさせる建物の中でも比較的新しい執務室だった。それでも日々増え続ける棚の蔵書や少し黄ばんだカーテンには、積み上げられた十五年が確かに存在している。木製の肘掛けがすり減り始めた椅子の上で、新しい国の初代大統領は一人静かに思案を巡らせていた。
    「っ……」
     突然、開け放した窓から強い風が吹き込んだ。それまで穏やかに心地よい空気を運んでいた風が、突然鋭くなったのだ。机の上に置かれた書類が数枚舞い上がって床に落ちる。窓際にある椅子に腰掛けてなんとなく外を眺めていた青年は、折からの風に思わず目を瞑った。
    「……嫌な風だな」
     木々のざわめきに掻き消されてしまう程の声だったが、彼自身の中には深く落ちていった。何かを思い出させるような懐かしい、しかしどこか物悲しさを感じる風の音は、何かを失ってしまったような不吉さを予感させた。
    「リオウ様、」
     コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。不意に聞こえた音に彼──リオウが応えると、失礼しますという声とともに黒髪の青年がドアから姿を現した。リオウの直近で補佐をしているクラウスだ。穏やかな雰囲気を纏っているが、どこか底の知れないところがある。
    「グリンヒル市からの財務報告と今後の施策についての草案をお持ちしました。またフィッチャー殿からティント共和国との国境間の警備についての提案が……いかがなさいました?」
     彼が承認待ちの書類に囲まれながら考え込んでいるのを見て、クラウスは不思議そうに声を掛けた。
    「いや、何でもないよ。ありがとう」
     大丈夫、と言いながらリオウが書類を受け取ると、クラウスは悪戯っぽく微笑んだ。
    「リオウ様はこういったお仕事はあまりお好きではありませんか? 同盟軍を率いていた当時のあなたは、よく仕事を投げ出してシュウ殿に叱られていらっしゃいましたが」
    「クラウス」
     過去の自分を持ち出されて笑われるのは、リオウにとってあまり面白くないものだった。
    「僕は今だって、誰かさんのせいで一日中この部屋に籠りっきりで書類とにらめっこするのは嫌なんだよ。本当はこんなとこ抜け出して暴れたい気分なんだ」
     ラダトに隠居したあいつを殴りに行くとかさ、と続けたリオウの顔にあからさまに不満が現れていたのか、クラウスは穏やかに申し訳ありませんと言った。
    「そっちこそ、忙しい仕事が空いたその瞬間を見計らって突然現れる彼女のお相手はしなくていいのかい?」
     リオウも大人げないとは分かっていながらも、過去の話を持ち出して言い返す。
    「シエラさんですか? 定期的にいらしてましたが、最近はお姿を見ていませんね」
     旅のお好きな方ですからデュナンを離れていらっしゃるのかもしれませんね、とクラウスはさらりと続けた。今ではすっかり『正軍師』として板がついて余裕のある対応をしているが、昔はそうでなかったことを僕は知っているぞと言ってやりたい。内心リオウがそう考えていたのを知ってか知らずか、クラウスはその話題を早々に切り上げた。
    「私もリオウ様をこのような所に押し込んで書類の束を囲わせるのは大変心苦しいのです」
    「よく言うよ、全く」
    「いえ、これは本心ですよ」
     そう言った彼は微笑みこそ絶やさなかったが、真摯な瞳でリオウを見つめた。
    「それでもあなたはこの国に必要なお方なのです。それは今も十五年前も変わりません」
     突然真剣さを帯びたクラウスの言葉に、リオウは少し戸惑ったようだった。しかしすぐにその顔から戸惑いを消し口を開く。
    「その言い方、シュウにそっくり。君はだんだん彼に似てきたみたいだ」
     良くも悪くもね、と付け加えながらリオウは笑った。その様子を見て、クラウスは少し眉尻を下げた。リオウの言葉に微笑んでいたが、気を使わせてしまったのが申し訳ないといった様子だ。
    「私は……私達はあなたの背中に希望を見ました。そして十五年前の争いを戦い抜き、この国を築き上げたのです」
     クラウスはリオウの後ろにある開け放した窓に目を向けた。穏やかな風が変わらずに吹き込んで二人の髪を揺らした。
    「あなたには人々の希望たる器がある。だからこそ私達はあなたにその立場を強いてしまった。リオウ様には同盟軍リーダー以外の別の道を歩む可能性だってあったはずです」
    「確かにあの時、僕は若かった。途中で逃げ出せば別の可能性だってあったよ。だけどね、」
     くるりと椅子を回し、リオウもまた窓の外を見つめた。開け放した窓からは柔らかな風に乗って街から人々の賑やかな声が聞こえてくる。
    「僕だって、人々の期待を裏切りたくなかった。そして僕は人々に支えられたから戦い抜くことができた。君達が僕を信じてくれるように、僕もまた君達を信じているんだよ。……だからこの国は生まれ、そして今も続いている」
     そう言ってリオウは少しの間目を伏せた。外から聞こえる街のざわめきに耳を澄ましているようだった。
    「リオウ様……」
    「元は敵国の人間だった僕を……行き場を失っていた僕を受け入れてくれた人々に感謝しているんだ。どんな形であれ、同盟軍リーダーという役割を与えてくれた。ゲンカクの養子ということもあっただろう。だけど僕は、ただそれだけでなく、僕という人間を見て認めてくれた都市同盟の人々への恩返しをしたいんだよ」
     伏せていた眼を薄く開いて、リオウは軽やかに笑った。クラウスもまたそんなリオウの姿を見つめて微笑みを返す。
    「それは私も同じです。あの時、あなたが父と私を許して下さったから今の私があると言えるでしょう。……ありがとうございます、リオウ様」
     そう朗らかに言うクラウスの姿が、一瞬、十五年前に笑いあった時の姿に重なったような気がした。
     あの戦いから長い時が経った。移り変わっていくものが多い中で変わらない想いも、日増に強くなる想いもある。 変わらないのは、自分の姿だけではない。
     そう考えるとリオウはクラウスの笑顔を真っ直ぐ見つめられなくなって、再び窓に顔を向けた。
    「こちらこそ、いつもありがとう。クラウス」
     青年に向けられた彼の声は少しだけ震えていた。
      
     太陽がすっかり地平線に姿を消した頃、リオウはひとり執務室でクラウスが置いていった書類を眺めていた。街のざわめきもだんだんと落ち着いて、涼やかな風が外から静かな虫の音を運んでくる。
    「まさか、ね」
     驚きのあまり、つい口に出してしまうほどだった。クラウスがグリンヒル市の財務報告と一緒に持ってきた書類。それは簡単に言えば国内施設の視察の予定だった。視察自体はあまり珍しいものではない。もともと五都市一騎士団の同盟で成り立っていたこの国は、今でも各都市の力は強い——強すぎるがゆえにティント市は共和国として独立してしまったとも言えるのだが。そのためリオウは大統領として各市長と合議するために自ら各都市に赴くことも少なくなかった。今回の視察で彼をこんなにも驚かせたのは、その場所だったのだ。
    「このタイミングで、あの場所に行くことになるなんて」
     リオウはにわかに信じ難いと思いながら、そう遠くない出立に思いを馳せる。今回の視察の場所は旧ノースウィンドゥ——十五年前のデュナン統一戦争において同盟軍の本拠として防衛の要を担ったデュナン湖の滸の城だった。
     
       ◇   ◇   ◇
     
    「デュナン湖の城に? どうして今になって」
     昔話が過ぎましたと笑うクラウスから渡された書類を見つめて、リオウは驚きの声を上げた。
    「ノースウィンドゥは十五年前に同盟軍本拠地としての役割を終えてからも、その城下町を栄えさせています。ですが城自体の老朽化が危ぶまれて、ところどころ改修が必要なのだそうで」
    「ああ……まぁ、あの時からなかなか趣きのある風情だったから」
     リオウは当時を思い返して苦笑した。かの城はもともとノースウィンドゥにあった村を壊滅させた吸血鬼が根城にしていて、人間が住むには向かない状態になっていた。新同盟軍の本拠地に決定した際に城の修繕が行われたものの、戦時中だったこともあって最低限の補修しか出来なかったのだ。
    「でもどうして僕が? 正直視察に向かうものの程でもないだろう?」
    「えぇ、そうなのですが……実はこの十五年の間に何度か改修の案が出たのです。しかし『改修すること同盟軍本拠地としての伝統を損なってはいけない』という意見が市民から多く挙がったために度々見送られてきたのです」
     クラウスもまた苦笑しつつ、リオウに説明を続けた。
    「しかし今回、同盟軍リーダーであったリオウ様監修の下であれば、ということで改修が決定したという訳です」
    「なるほどね。そういえば前にもそんな話があったけど」
     その直後にハイイースト動乱が起こってそれどころじゃなくなったんだった。説明を終えたクラウスに礼を述べて、リオウは再び書類に眼を落とした。
    「今なら問題ないということだね。それならば僕も異論はないけれど」
    「けれど?」
     クラウスは少し首を傾げる。
    「いや、結構急な話だなって思って」
     普通、視察などの遠征の予定は最低でも一月前には決まることがほとんどだ。それなのに今回のデュナン城視察はたったの一週間後のことだった。
    「ただでさえお忙しいリオウ様の予定にそれをねじ込むのは、かなり至難の技だったのです」
     リオウは思わずふふっと笑い声を洩らしてしまう。「ねじ込む」という言い方が思慮深く言葉遣いも丁寧なクラウスらしからぬものだったからだ。
    「ですが、視察と言ってもそんなに計画の監修以外にすべきことは多くありませんので……どうか久しぶりの休暇だと思っていただければ」
    「久しぶり、か……」
     確かに、近頃リオウは遠征だの会議だのが立て込んで日々を忙殺されていたのも事実だった。デュナン共和国内は戦時下ではないものの、元は都市同盟に参画していたティントがグラスランドに出兵しているという状況は外交のうえで緊迫したものではあったのだ。一歩間違えば国境での戦闘が起こりかねない状態を、ミューズ市長フィッチャーが率先して各所に働きかけてどうにか均衡を保っている状態だった。
     リオウがはあ、と大きくため息を吐くと、クラウスが大丈夫ですかと声を掛ける。
    「いや、何でもないよ」
     クラウスが顔を覗き込んでくるのを軽くあしらいながら、リオウは先程の胸騒ぎを思い出していた。開け放した窓から吹き込んできた鋭い風。何か懐かしいような、だが何かが引っかかるような気がしたのだ。そして、今回の同盟軍本拠地の視察。これは偶然なんだろうか。それとも、
    「何かの巡り合わせなのか」
    「リオウ様?」
     ぽつりと出た言葉を聞いて、クラウスは心配そうな顔でリオウを見つめた。
    「ごめんごめん、大丈夫だから。気にしないで」
     少し懸念が顔に出てしまっている気はしたが、リオウは笑顔で応えた。そしていつまでもここで油を売っていてはいけないよと冗談めかして言うと、クラウスは軽く会釈をして部屋から出ていった。
     部屋に残されたリオウは一人、柔らかな椅子にゆっくりと身体を沈み込ませる。いろいろと思うところはあったが、今は深く考えるのは止めておこうと思い始めていた。その髪を風が緩やかに撫でる感覚を覚えながら、リオウはしばし安息の時を迎えることにした。
     デュナン湖の南の滸に栄える街、クスクス。港では漁師たちの大漁を喜ぶ威勢の良い声や貿易商たちが情報のやり取りをする囁き声が入り交じり、独特の賑わいを見せている。
     サウスウィンドゥの街道を進んでいた青年、ティルはこの賑やかな港町を訪れていた。当てのない一人旅であったが、久しぶりに故郷の姿を見ようとトラン共和国へ向かうその道中だった。
     港から少し離れて市街地を歩くと、港のざわめきとは違った人々の暮らしの音が聞こえてくる。ふくよかな店主のよく通る売り込みの声。無邪気に走り回る子どもたちの軽やかな足音。釣り人同士の他愛のないのんびりとした世間話。風が湖面を撫でる穏やかな音と混ざって聞こえてくるそれらは、至極当たり前で平和なものばかりだった。
     ティルはひとつひとつの音に耳を澄ませながらゆっくりと歩みを進めていく。
     ──変わったな、この街も。
     ティルが以前この街を訪れたのは十五年前、デュナン統一戦争の真っ只中だった。迫り来るハイランド軍の侵略。いつ軍が来るかも定かではない恐怖。デュナン湖を隔ててすぐにミューズ市──市民の大虐殺が行われた場所だった──が存在しているこの街において、その恐怖はより大きかったのだろう。だが、当時この街にあった焦燥や緊張も今となってはその影も形もない。ただ飽和しそうなくらいの平和がそこにあった。十五年前、戦いの末に彼らが勝ち取った平和だ。長い時が流れれば、人々は戦いの痛みを忘れるだろう。当たり前のこととして平和を享受していくことになるのかもしれない。
     しかし自分は決して忘れまいと。そして“彼ら”も決して忘れないだろうと。暮らしのざわめきと波音を運ぶ穏やかな風に、ティルはしばらく吹かれていた。
     緩やかな日差しの昼下がり。ティルは街の道具屋を訪れていた。長旅で少なくなっていた薬や食料を補充するためだ。トラン共和国に戻る途中にはラダトやバナーの村がある。そこで補充をすれば問題なかったはずだったが、少し予定が変わったのだ。久しぶりにデュナンに訪れたのだから、もう少し思い出に浸るのも良いだろうとティルは考えていた。
    「お兄さん、一人旅かい?」
     黙々と装備を整えるをしていたティルに、道具屋のおかみさんが声を掛けた。一人で旅の準備をする彼に興味を持ったらしかった。
    「はい、そうです」
    「へぇそうかい。いや、随分手慣れたもんだと思ってねぇ」
     感心したように彼女が頷く。そんな様子にティルは軽く微笑んだ。
    「一人で旅をして、長くなりますから」
    「あら、若いのにねぇ」
     興味深そうにおかみさんが言うのにただ笑って返す。
     自分の姿は十八年前から時が止まったままなのだ。自分はもう三十年以上生きているのだと言ったら驚くだろうか。いや、冗談だと思って信じないかもしれない。
     目の前で朗らかに笑う少年がそんなことを考えているとは、微塵も思ってはいないのだろう。女性は「若いのにしっかりしてるねぇ」と笑って、気前よく道具代をまけてくれたのだった。
    「ありがとうございます。助かります」
    「良いんだよ、気にしなくて」
     おかみさんは慣れた手つきで道具をてきぱきと包んで、恰幅の良い体を揺らしながら豪快に笑った。
    「しかしねぇ、最近グラスランドの方がゴタゴタしているだろ? ティントも軍を出しているそうだし……こっちはそんなに影響はないけど、商売柄仕入れのことは気になるしねぇ。早く落ち着いてくれるといいんだけど」
     やっぱり平和が一番だよ、と言いながら女性はティルに包みを差し出す。その言葉に深い実感が籠っているように感じられて、ティルは深い共感を覚えたのだった。そう思っていたら包みを受け取るのを一瞬忘れてしまい、慌てて手を出す。
    「そうですね。……すみません、それじゃ僕はこれで。おまけ、ありがとうございました」
    「あいよ。お兄さんも気をつけて」
     軽く会釈をすると、おかみさんは大きく手を振ってそれに返した。ティルが出口に向かって歩いて扉に手をかけた瞬間、おかみさんが思い出したと言うように彼の背中に向かって声を掛けた。
    「そうだ、お兄さん。急ぎじゃなかったら西のデュナンの古城に寄っていくといいよ」
     デュナンの古城。思いがけない懐かしい響きに、ティルはつい目を丸くした。
    「デュナンの城、ですか」
    「あぁ、なんでも大統領さんが視察に来るんだってさ。せっかくだからうちの国のお偉いさんを見ていっておくれよ」
     なんてったって十五年前に王国を打ち破った『英雄』なんだからさ──
     どことなく誇らしそうな彼女の言葉を聞きながら、ティルはこの符合に思いを巡らせていた。まさか、このタイミングで彼が近くに居合わせるなんて。 そして、この間の『風』。偶然にしては出来すぎているようにも感じられる。これは一体何の巡り合わせなのだろうか。
    「ありがとうございます。せっかくだから行ってみます」
     もし彼が自分の姿をみたら驚くだろうか。久しぶりに昔話をするのも悪くないかな、とティルは思い始めていた。
     全く懸念がない訳ではない。これだけの符合に何かがあるという気はしていたし、一人旅を続けているうちに彼はあまりにも良くない知らせには敏感になってしまっていた。
     ただ、これから訪れるであろう再会に純粋に嬉しいという感情が勝っていたのだった。思いがけない出来事に僅かに心を踊らせながら、ティルは再び街のざわめきと穏やかな風の中に身を任せて歩き出した。
     記憶というものは時間と共に薄れていくもので、あの時手に取るように感じられた感触はもう二度と帰ってくることがないと思っていた。しかしそんな曖昧な人の記憶とは裏腹に、確かなまま残されたものも存在している。当時よりも更に破れかかった、だがその佇まいに未だ威厳を残している古城をひとり見上げた。
     視察が決まってからの一週間は仕事に追われる内にあっという間に過ぎ、すぐに出発の時はやってきた。ミューズから大統領である自分に加えて、仕事の補佐をしてくれる役人や護衛の兵士たち、グリンヒルの学芸員なども集まって一行はそこそこ大きな規模の集団となった。馬を走らせ、さらに途中で船を使っての移動なども経て三日ほどで、ノースウィンドゥの地に一行は辿り着いたのだった。
    「大統領、よくお越しくださいました」
     入り口で城を見上げていると、一人の男性が声を掛けてきた。初老と言っても良い年齢のはずだが、きっちりと伸ばされた背筋や短く整えられた髪のせいか若々しく見える。こちらに深々と頭を下げる彼は、現在城の管理を任されている者だった。
    「久しぶりだね。案内をお願いできるかな」
    「リオウ様にこの城を案内するなんて変な気分ですな。もちろん、お役目は承りますが」
     快活な口調で応える男は、軽やかな足取りで城内へと招いてくれた。
     当時よりも一層風情のある佇まいになった城内を歩くとだんだんと懐かしい気分になってくる。ここで同盟軍が暮らしていたんだと思うと感慨深いなぁとつい溢すと、「今日はお使いになっていた部屋にお泊まりになりますか」と言われた。改修工事が必要な城に泊まっても大丈夫なのかと聞いたら、「今日明日に崩れ落ちるものでもないでしょう」とあっけらかんと返された。思わず頭を抱える。
    「当時お使いになっていたままになっておりますので。大統領も十五年前に戻った気分で楽しいのではないかと」
     管理人の男は綺麗に整えられた白髪まじりの髪を撫でながら楽しげに笑った。仮にも自国の大統領に対する扱いだろうか。ノリが軽すぎやしないか。
     頭に手をやったまま、傍らに立つ男に目をやる。にこにこと人の良い笑顔を浮かべる管理人からは悪意は全く感じられず、寧ろ心から嬉しそうにしているように見えた。この国の人間は良くも悪くも楽観的だから困る。勿論、全ての民がそういう訳ではないのだが。
    「では、軍主様のお部屋を掃除しなければ。すぐにでも使えるよう、急いで手配しましょう」
     きっちりと整えられた髪に対して何年も着古したシャツを纏っている管理人は、そう言って取れかかった袖のボタンを外して大袈裟に腕捲りをして見せた。
    「もう軍主様じゃないよ」
     そう言いながら、年齢に反して子どもっぽい姿に思わず笑みをこぼしてしまう。何処からか「この大統領にしてこの国民ありだ」と皮肉っぽく言われたような気がした。うるさいな、別にいいじゃないか。
     
     久しぶりに足を踏み入れた自室は、意外にも当時と変わりない姿を保っていた。ただ急ごしらえで整えてくれたのだろう、床の埃こそ気にならなかったが天井の隅にはうっすらと蜘蛛の巣が張っていた。疲れた身体を癒そうとベッドに倒れ込むと、長年使われないまま奥底に仕舞われていたのだろうシーツから少し黴臭い匂いがする。こういう寝具に包まれて眠るのもかなり久しぶりだなと思っていると、一気に眠気が襲ってくる。身体を動かすのも億劫になって、休む支度もそこそこに意識を手放してしまうことにした。

       ◇   ◇   ◇

     ──の、───殿──
     微かに自分の意識を呼び起こす気配を感じる。だがそれはまだ遠く感じられたので、逃れるように顔を埋めた。洗いたての石鹸の香りが残る枕に少々の違和感を覚えたが、それよりも睡魔が勝った。最近は大統領としての仕事がかなり立て込んでいて、まともにベッドに入ったのも久しぶりだったのだ。もうしばらく微睡んでいたい、と洗い立ての枕特有の石鹸と太陽の匂いに包まれながら目覚めと眠りの間をぼんやりと漂っていると、ゆっくりと世界が暗くなっていくのを感じる。やっぱり疲れが溜まっているのだなぁとどこか他人事のように感じながらまた意識を手放そうとした、その時のことだった。僅かに引っ張られるような感覚がして、その一瞬にして、世界はあっという間に逆転していた。
     強かに打ち付けた頬にひんやりとした石畳の感触。少し心地良くすら感じられる。先ほどまで温かく柔らかなベッドで二度寝を決め込もうと思っていた筈なのに。頬にじんじんとした痛みを感じながらも目を開く。綺麗に磨かれた石造りの壁も床も、人が多く集まってきて軍主としての『格』が必要だろうと設えられたばかりの自室のものだった。昨晩久しぶりに見たはずの部屋は、すっかり様変わりしている。まるで時が巻き戻ったとでもいうように。
    「……部屋の前についている見張りの兵士ですら姿を見ていない。何処をフラフラしてるかと思えば、まさかこんな時間まで部屋でお休みになっているとは」
     あまりの変わりように戸惑っていると、唐突に冷ややかな声が頭上から降ってきた。寝起きでぼんやりした頭を必死に働かせて、現状を把握しようとする。とりあえずなかなか開かない目を擦ってみると、少し視界が開けたように感じた。
    「良いご身分ですね、リオウ殿?」
     そうして目の前に広がる光景に、ようやく光に馴染んだ目を見開いた。穏やかな昼下がりには似つかわしくない禍々しいオーラを纏った同盟軍自慢の冷血正軍師殿が、十五年前の記憶のままの姿で目の前に立っていた。立っていらっしゃったのだ。
    「……えーと、その、シュウ……さん?」
     恐る恐る声をかけてみる。すると威圧感がぐっと強くなった気がして、思わず身を硬くした。顔からサーっと血の気が引いていくのがありありと感じられる。永遠にも感じられる沈黙を破ったのは向こうだった。シュウがすうっと息を溜めて——あ、やばい、来る、
    「いつまで寝てる気だこのお気楽軍主!!! さっさと起きて仕事しろ!!!!! 今すぐにだ!!!!!!」
     キーーーン、とシュウの怒号が頭に響いた。何回もエコーがかかって聞こえる気がする。うっかり耳を塞ぐのが一瞬遅れた。ぐらぐらする頭を抱えていたら、次の瞬間には容赦なく襟首を掴まれていた。そのままずるずると引き摺られ、大広間へと連行される。そういえば、抵抗する軍主の襟首を掴んで引き摺る正軍師はデュナンの城でわりといつも見られるお決まりの光景だった。お決まりすぎて懐かしい気すらするから、もういい加減放してほしい。逃げないから。

     あまりにも生々しい感覚で俄には信じがたいが、どうやら自分は『夢』を見ているようだ。十五年前、新同盟軍の軍主であったときの夢を。かつての自室で眠ったせいだろうか。しかし、こんな始まり方をするなんてあまりにも悪夢めいてやしないだろうか。


     結構な距離を引き摺られて二度目の階段の手前で観念し、シュウの後ろをとぼとぼ歩いて到着したのは大広間だった。軍議のために大勢が詰めかけてもまだ余裕のある広々とした部屋の中央に、大きな木製の机が置かれている。デスクというよりは六人は座って食事できるくらいの大きさのダイニングテーブルだ。机を挟んで向かい合わせに二つだけ置かれた肘掛け付きの椅子と粗末な丸椅子がどこか寂しげである。
    「わざわざ運ばせたの、これ……」
     思わず言葉が洩れ出たが、答えはなく。無言で顎をしゃくって椅子を示したシュウにすごすごと従った。
    「午前を無駄にした分はしっかりと働いてもらいます」
     言いながらシュウは広い机に大量の書類を積み重ねていく。広めのテーブルが紙の束で埋まっていく。
    「書類に目を通して承認の印を押すだけの簡単な仕事です。もっとも、軍主殿は最後までやりきったことはないが」
     はいはい分かってますそんな簡単なお仕事もできない軍主ですみませんね。それにどうして夢の中でまで仕事なんかしなくちゃいけないんだ。
     そう言いたかったが、口を開きかけたところで鋭い視線が飛んできたので口を噤まざるを得なかった。こちらの思うことはなんでもお見通しなのである。味方なら頼もしいが、敵には回したくない男だ。たまに味方すら欺くのがつくづく厄介である。
    「溜まっているここ一週間分の書類です。リオウ殿の承認がなくては先には進められないことが多いのです」
     彼が言い終える頃には、きっちりと一人が作業できるスペースを確保した他に紙束が隙間なく並べられていた。ご丁寧に日付順で、同じ種類のものは積み重ねられている。もう逃げられない状況に「あきらめる」の一言が頭を過った。「おかね」も「にげる」も効かない相手なのはよく分かっているので、ただがっくりと肩を落とす。
    「では、私はここで作業しますので。何か聞きたいことがあればおっしゃってください」
     椅子の背もたれに手を掛けながらシュウは言葉を重ねた。そして手近な書類を手に取るとごく自然な動作で腰掛ける。って僕の方が丸椅子使うの?これから缶詰めで仕事させられるのに?そう非難の声を挙げようと勢いよく頭を上げると、
    「あなた、背もたれがあると寝るでしょう」
     正軍師は視線を手元の書類に向けたまま、はっきりとそう言った。
     そんなところまで見通さなくて良いから。読むのは敵の策だけにしてほしい。
     心の中でそっと呟きながら、仕方なく目の前に整然と並ぶ敵と戦うために丸椅子に腰を据えた。
     この大広間の光景にもやり取りにも、自分には思い当たる節があった。というより、これはかつて実際に起きたことだった。ある日、城内をふらふらしていたら突然シュウに引き摺られ大広間まで連れてこられて、そのまま缶詰めで仕事をさせられた記憶がはっきりと残っている。きっとこれはその再現なのだろう。
     しかし、かつての記憶とはいえ細かい内容まではさすがに覚えてはおらず、作業は難航を極めていた。真摯に向かい合って一つ一つこなしていくしかない。そう決意して目の前の書類に目を通していく。
     
     武器や装備品の補充。これは最優先。承認。火炎槍のメンテナンスに必要な火の紋章片の購入。ツァイさんからだな。ジーンさんやラウラさんがその辺りは詳しいだろう。あとで話しておこう。承認。図書館に入れる絵本の購入。最近子どもたちも増えてきたしな、確かに必要かも。ボルガンも喜びそう。承認。酒が足りないので追加購入したい。……レオナさんかな?まぁ、確かに人は増えたし兵士の士気に関わるんだろうし。承認。但しワインの購入はグレッグミンスターで。ゴードンのツテもあるし安く済むんじゃないかな。……酒代を経費で落としたい?誰の要望か何人か心当たりはあるけども。頑張ってくれてるしちょっとなら良いかなとか思ったけどこの量はちょっと無理だなあ。却下。働かざる者食うべからず、嗜好品は自腹で払うべし。あとツケはほどほどにしないと痛い目を見るって誰かが言ってたよ。
     承認、承認、たまに却下。承認、承認、承認、承認。
     文字を辿って、決まった場所に勢いよく判を押していく。勢いづきすぎてドンッと机が何度も鳴ったときには「もう少し丁寧に仕事をしてください」との声が飛んできたので、反省して少し優しく押すことにした。いかんせん十五年前の出来事なので流石に記憶にない内情や詳しい状況を知りたいと思うものがあったが、こちらが疑問を投げ掛ければ軍師は自分の仕事をこなしながら適切な一言二言をすぐに返してくれた。「その件に関してはそちらの資料を確認してください」などと一瞥もくれずに必要な資料を指差してみせるので、つい目を丸くすることもあった。この男は頭の横にも目がついているのだろうか?ともかく、仕事のできる男がいるおかげで思いのほか作業は順調に進んでいた。一つずつ紙面の文字を追いながら必死で頭を働かせる。
    「あのさ、シュウ……」
     並べられた書類の半分程をこなしたところで、一刻ほど姿勢を変えていない向かいの男に声をかけた。黙々と書類を読み、内容を把握し、承認するものには印を押していく。却下するものは毅然と却下する。これもまた軍主としての仕事だと言われれば納得なのだが。あの時の記憶のままに、当時思っていた疑問を投げ掛けることにした。これが当時の再現だというなら、同じ答えが返ってくるはずだ。
     長時間の作業ですっかり丸まりきった背中を正して、目の前の男を見据えた。そしてこう言った。
    「これ、わざわざ僕の承認がいるのかな」
     軍主の承認印の横には、既に正軍師の印が押されている。また、自分でもこれは承認できないと分かるものにはシュウの印も押されていなかった。つまりここに並べられた書類の全ては彼が目を通したものなのである。シュウが許可したのなら、もうほぼ決定事項であると言っても過言ではないのに。彼は一刻ぶりにこちらへ顔を向けた。
    「それは勿論です」
     きっぱりとただそれだけ言ってまた手元の書類に目を向けようとしたので、なおも食い下がろうとする。
    「いや、でも──」
    「あなたがもし『自分以外の者が判断したものを許可する』という行為が無意味だと思うならば、それは違います。あなたはこの軍を統べるものであるからです。最終的な決定権はリオウ殿にある」
     こちらをまっすぐに見据えたシュウは、叱るでも咎めるでもなく、ごく当たり前のことを言うように言葉を重ねた。反論する前に反論を返さないでほしい。しかしここでめげてはいけない。
    「リーダーだとしても、僕は、例えばテレーズさんのように上に立った経験があるわけではないし……周りの皆の方が僕よりもよほど知識も経験もある」
     どこまでもお見通しな軍師殿の視線をしっかりと受け止めて、拙いながらも本心を吐き出していく。今でもシュウがどうして自分にリーダーという地位を求めたのか、図りかねている部分もある。
    「だから、そんな皆が求めることや決めたことを僕がわざわざ許可する意味は、ないんじゃないかって」
     言い切るまでに言葉はほとんど萎みきってしまっていた。そんな問いかけ未満の思いが口から溢れ出す。言い終えてしまったあとのその答えはもう既に知っているのだが、妙に緊張感があった。
    「意味はあります。何かを決めるということは責任を伴うことだからです」
     外からの喧騒が遠くに感じるほど静かな大広間に、シュウの声は重く響いた。傾いてきた太陽の光が窓から差し込んできている。夕日に照らされて薄い橙色に染まった紙束と彼の顔が、あの時も印象的だった。
    「我々はあなたに責任を負ってもらわねばなりません。責任を持たぬ主に命を預けて戦う者など、いはしない」
     シュウは斜陽の差し込んでくる窓の方へ一瞬視線を向けた。その先からは城下の賑わいが聞こえてくる。
    「戦争の最中であれば、旗印となって戦うということも一つの責任であると言えるでしょう。ですがそれだけに頼っていては、戦いが終わってからは無用の長物となる。平和な世界ではただのお飾りにすらなれません」
     随分な言われようである。「ただのお飾りにすらなれない」なんて、繊細な人間ならこの一言だけで心が折れるに違いない。実際、当時の自分も折れかけた。
    「だから自ら考えて判断し、その責任を負うことを今から学ばねばならないのです。それが国の上に立つ者に必要な能力なのですから」
     ただ、ある程度の付き合いを経てようやく理解したことがある。この男が厳しい物言いをするのは何かをこちらに伝えようとしているときなのだと。

    『あなたはこの国に必要な人間なのです』

     かの戦争の終わりに大統領となるよう求められた時、そう真摯な眼差しで言われたことを思い出した。
    「そういうところ、クラウスには似てほしくなかったなぁ」
     ぽつりと溢れた言葉は、まっすぐな視線をこちらに向ける男に届く前に広すぎる部屋の空気に溶けていった。
     この会話はよく覚えている。シュウはどこまでも先を見据えていると痛感させられた出来事であったからだ。皆が戦いに勝つという目的を皆が抱き、邁進するなかで彼はその先の未来を見ているのだ。こういうところはどうにも敵わないと、今でも思わされるのだった。
     先程までオレンジ色の光が差していた大広間も薄暗くなり、見回りの兵士が明かりを灯しにやって来る頃になった。一人で使うには広々としたテーブルに埋め尽くされた書類も、全て目を通されて一つに積み上げられている。だんだんと明るく灯されていく部屋で、凝り固まった背中を思いっきり伸ばした。そして腕を上に伸ばしきるとそのままテーブルの上に倒れ込む。
    「疲れた……」
     どうしてもこういう仕事はなかなか慣れないものだと思う。恐らく性に合っていないのだろう。自分に合っていない武器を使っているようで、気を使うというか必要以上の力を消費するのだ。
    「お疲れさまです、リオウさん」
     机に突っ伏したままぼんやりと壁の石の継ぎ目を眺めていると、聞き慣れた声と共に目の前にほんのりと温かいカップが置かれた。立ち上る湯気からほのかに香る茶葉の香りが心地よい。
    「あれ……? どうしたの、アップル」
     ゆっくりと起き上がり、座ったまま傍らに立つアップルに顔を向けて感謝の言葉を述べる。久しぶりに見た彼女の顔も、やはり当時の姿のままのように思えた。ただ、こんな出来事は自分の記憶にあっただろうかと首を傾げる。だがきっと忘れてしまっているだけだろうとすぐに思い直した。
     シュウはと言えば、一通り言葉を告げた後に「これくらいで宜しいでしょう」と言って早々に大広間を立ち去ってしまった。とかく忙しい身なのである。自分の仕事をしながらとは言え、よく軍主の仕事の見張りなどという雑務をやってくれたものである。言うべきことを言ってさっさといなくなってしまうところはあるのだが。シュウが去ってから温かいカップを手にしたアップルの姿を見ると、彼は良い妹弟子を持ったものだと謎の感慨深さに襲われる。今思えば、バランスの取れた飴と鞭にだったのだ。
    「ヒルダさんが淹れてくださった紅茶です。リラックスできるハーブが入っているのだとおっしゃっていましたよ」
    「その気遣いが嬉しいなぁ。さっきまで虎に睨まれたウサギの気分だったからさ」
     そう言って爽やかな香りのする紅茶に口をつけた。彼女の尊敬する兄弟子のことを悪く言ってはいけないとは分かっているのだが、ついからかってみたい気分だったのだ。カップから口を離してちらりとアップルを窺うと、彼女は口元に手を添えてくすくすと楽しげに笑っていた。
    「また、そんなことを言って。リオウさんはウサギというよりはむしろ、いたずらっ子のおサルさんでは?」
    「えっ、それどういう意味?」
     こちらも笑いながら軽く返したが、意外な反応だったので思わず言葉を遮る形になってしまった。優等生タイプのアップルのことだから、怒りはしないまでも少し厳しく「そんなことを言ってはいけません。シュウ兄さんもリオウさんのためのことにやっているはずです」というセリフが返ってくるかと思っていたのに。からかったつもりだったのにこちらの方が驚いてしまう。
    「なんかアップルに大人な対応されちゃったなぁ。年もそんなに変わらないはずなのに……やっぱり経験値の差?」
    「いえいえ、そんなことはないですよ」
     彼女ははらりと落ちてきた髪を耳に掛けた。
    「ただ、リオウさんはシュウ兄さんのことを信頼しているからこそ、こういう言い方をするんだなって今なら分かるんです」
     そう言ったアップルの表情が年下の男の子を見るような、子どもに対するような温かなものになっていて少し気まずさを感じた。
    「別に、そういうつもりじゃなかったんだけどなぁ……」
     手に持っていたカップに口を付け、勢いをつけて残っていた紅茶を喉に流し込む。勢い余って変なところに入ってしまったらしく、思いっきり噎せてしまった。その様子をアップルがなおも微笑ましげに見ているのに気が付いて、決まりが悪くなった。本当、こんなはずじゃなかったのに。
    「そういえば、クラウスはどうしてるかな?」
     いたたまれない思いを振り切るためにあからさまに話を変えてみた。この『夢』での彼がどうしているかも知りたいとは思ったのも事実だった。
    「クラウスさんですか? 彼ならさっき会いましたけど、忙しそうでしたよ」
    「やっぱり? 僕でも仕事してたぐらいだから、まぁそうだよね……」
    「いえ、仕事という訳ではなくて」
     アップルはきりっと眉を吊り上げた。そしてここだけの話です、というように少し顔を寄せてそっと話す。
     休憩しようと行く先々でシエラさんとミクミクさんが現れて、休むに休めないようですよ。
     アップルが真面目な顔で口にした言葉に、一瞬きょとんとしてしまった。次第にその意味が理解できてくると自然とその光景が頭に浮かんできて、それが面白くて仕方なくなってきた。しばらく真剣な顔つきのアップルと見つめあって、糸が切れたように二人で笑い合った。だんだん愉快になってきてしまって、思わず腹を抱えて笑い出してしまう。しばらく笑いが止まらずにいたら口元を綻ばせていたアップルも流石にそれは程度が過ぎると思ったのか、「そんなに笑ったら悪いですよ」と澄ました顔になって窘めた。その言い方が生徒を戒める先生めいていて、グリンヒルのニューリーフ学院に潜入したときの記憶が甦ってくる。あの時も授業中にうっかり居眠りをしかけて、先生にこんな風に叱られたのだったっけ。懐かしさに包まれて溢れていた涙を拭う。
    「アップルってさ、先生に向いていると思うよ」
    「なんですか、いきなり」
     頭の中で浮かんだ記憶のままに話したらかなり唐突な話題の振り方になってしまった。彼女が怪訝な顔をしたのも無理はない。
    「いや、なんとなく。今の言い方が先生っぽかったからさ」
    「あまり出来の悪い生徒は持ちたくないのですが……」
     アップルが目を細めて、こちらを見つめてきた。
    「さっきまで優しかったのにちょっと酷くない!?」
    「冗談ですよ」
     またやられてしまった。ちょっと見ないうちにかなり強かになっていないだろうか。アップルまで誰に似たんだ本当に。
    「アップル先生は聞き分けの良い優等生じゃなくて、ちょっと手を焼くくらいの生徒を持ったらいいんだ」
    「すぐそうやって拗ねるんですから。でも……まあ、」
     やれやれ、とため息をつきながらもアップルは慈愛に満ちた温かな表情をしていた。
    「案外その通りなのかもしれませんね」
     ああ、なんか敵わないなあ。すっきりとした彼女の表情と言葉に自分の子どもっぽさが浮き彫りになってしまったようで少しだけ悔しくなった。ただ、何かに吹っ切れたような晴れやかなアップルの姿に安堵したのもまた事実だった。十五年が経つ間に彼女もいろいろ苦労をしたと聞かされていたから、こうして明るい姿を見られたのが嬉しかったのだ。

       ◇   ◇   ◇

     残りの仕事を預かってくれたアップルと廊下で別れたときには、地平線をうっすらと染めていた夕日はすっかりとその陰を潜めていた。僅かに残った光が空を紺色に照らしていたが、まもなくそれも消えようとしている。城の廊下ですれ違う人の流れは一定で、みな食事を摂るために食堂へ向かっていた。賑やかな話し声と食堂から漂う香りに引き込まれそうになるが、そんなに空腹ではなかったし──そもそも夢で食事を摂ることはできるのだろうか?──少し外の空気に触れたい気分でもあった。だから食堂とは反対方向の、洗濯場へと足を向けることにした。重みのあるガラスの扉を開けると、すっかり闇色に染まった空と何も掛かっていない物干しとが目に入ってくる。昼間はたくさんの洗濯物が──たまにまるっと洗われたコボルトたちも──風を受けて翻っているこの場所は、この城の一つの憩いの場であった。だが穏やかな陽射しのないこの時間には誰もいない、そう思っていたのだが。どうやら先客がいたようだ。少し離れた薄暗い中でも、うっすらと浮かび上がった額当ての特徴的なシルエットで誰なのかはすぐに分かった。
    「フッチ!」
     駆け寄りながら呼び掛けると、彼はゆっくりとこちらに体を向けた。
    「リオウさん。こんばんは」
     小さく会釈をして挨拶をするフッチの腕には彼の大切な仔竜が抱きかかえられている。月明かりに照らされて白銀の鱗を煌めかせるブライトに視線を合わせて「こんばんは」と声をかけると、円らな青い瞳を瞬かせながら彼も小さく鳴いて応えてくれた。
    「こんな時間にどうしたの? 晩ごはん、食べなくていいのかい?」
     横に並んで柵に手をかけながら問いかけてみる。
    「少し、夜風に当たりたくて」
    「考え事?」
     その言葉を聞いて、フッチは眉を下げて少し照れたようにふっと笑った。隠し事が見つかってしまった子どもみたいな仕草が微笑ましい。お互いに目を細めて一瞬笑い合った後、フッチは静かに夜空を見上げた。自分もそれにつられて上空へ目を向ける。薄い雲の膜が空一面を張ったようで、月の輪郭も星の輝きもぼんやりとしていた。
    「僕はどうして戦うんだろう、って考えていたんです」
     ぼやけた空に反して、フッチの言葉ははっきりと聞こえてきた。フッチがこんなことを言い出すのは意外で、思わずそちらに顔を向ける。
    「リオウさんは、昔からずっと仲の良かった人と……親しい友達と敵対することになって。立場も掲げる正義も、全く異なるものになったんですよね」
     フッチは空から視線を外してこちらをじっと見据えた。
    「その中で戦い続けられたのはどうしてなんでしょうか。あなたには、いろんな選択があったはずなのに。それこそ、逃げることだって……」
     そう言いかけて、フッチははっとした様子で言葉を切った。すみません、と小さく声を洩らした彼に、いいんだよと返す。
    「僕はね、全く迷わなかった訳じゃないんだよ。まあそれはよく知ってると思うけど」
     つい自嘲めいた物言いをしてしまったせいか、フッチは少しいたたまれなさそうにしていた。
     一度だけ、軍主という肩書きも英雄ゲンカクの息子という立場も捨てて逃げ出したことがある。ティントに吸血鬼ネクロードが現れたときのことだ。ルカを倒してなお続く戦いに嫌気が差していたのかもしれない。周囲の期待に応え続けることも苦痛だったのかもしれない。自分のことのはずなのに、どうしてそんな大それた選択をしたのかははっきりしない。衝動的なものだったのだと思う。ただ、直後に敵の奇襲によって街が占拠されるという最悪のタイミングだったのは確かだ。軍主を辞めようとしていたことを知らずに身を呈して敵に向かっていった仲間からも、助けてくれと叫ぶ市民の声からも目を背けて走り出した。そのせいで喪われた命も多くあったに違いない。思い出すと今でも喉の奥がひりつくような焦燥感と心臓を鷲掴まれたような嫌悪感を覚える。そんな状況の中でただ逃げる自分を責めもせず、危険だからとついてきてくれたのはフッチだった。だから自分が迷っていた姿は彼もよく知っているはずだ。
    「でもね。僕には自分が正しいと思う道を進むしかなかっただけなんだ」
    「自分が、正しいと思う道……」
     フッチは静かに反芻しているようだった。彼にも何か自らの選択を悩むような出来事があったのかもしれないと、なんとなく思った。
     あの時、結局は逃亡者から『軍主』へと戻った。それ多くの同胞たちの死への拭いきれない懺悔の念と、一度全てを投げ出した自分でもまだ信頼を寄せてくれた仲間の存在があったからだった。その選択は間違っていなかったと今でも信じている。
    「あの日ジョウイが僕らの元から離れて、ハイランドという国をとしてこの地を統治しようとしたことも、彼と戦うことになったのも。僕たちが正しいと思って歩んだ道の末にあった必然だったのだと思う」
     くるりと身を翻して、手を掛けていた柵に今度は背を預ける。そうすると夜闇の中にところどころ光で照らされた石造りの城が浮かび上がる様子が目に入ってきた。
    「僕には『ジョウイと戦う』という必然を避けることはできなかったんだ。僕に選べたのは『戦いを続けるか否か』ということだけだった。前に進むか、それとも立ち止まるか。立ち止まっているうちにただ目の前で大切なものが失われていくのを見るのが嫌だったから、ただ前に進むことを選んだ。それだけなんだよ」
     そこまで言い切って一度息を吐く。もしかすると一方的に話しすぎてしまったかもしれない。不安に思って少年の様子を伺うと、彼は俯いて何かを考え込んでいるようだった。

    『しかし、リオウ。あなたには、多くの人々の運命、想いが集まっています。それを忘れないでください』

     ふと、ティントで逃げ出す前にレックナートから伝えられた言葉が思い出された。当時の自分には、言葉では分かっていてもその責任の重さを自覚できてはいなかったのだと思う。だから、結局は軍主という道を選んだのは今でも正しかったと思っている。
     ただ、それが本当に自分の選択だったのかといえば疑問が残る。自分が正しいと信じて選んだ道は、もしかしたら始めから一つに定まっていたのではないか。
     そう考えると、自分と言う存在があまりにちっぽけに感じられて仕方がなかった。結局自分は大きな時代の流れにただ流されてきただけなのかもしれない。つい、右手の紋章に視線を落としてしまう。

    「その必然を運命と呼ぶのかもしれない」

     ぽつりとそう呟く声が聞こえた。それは誰に宛てたものでもなかったのだろうが、彼が口にするには珍しい響きだったので妙に耳に残った。弾かれたように顔を上げる。だがフッチはそれを気に掛けた様子もなく、ただ「そうですか」と言うばかりだった。
    「お話を聞けて良かったです。僕も僕にできることをするしかなかったんだ、って思えたから……」
     にこりと優しく微笑むと、フッチは「少し冷えてきたのでもう戻ります」と言って軽く頭を下げた。腕の中のブライトもそれに合わせて小さく鳴く。そのまま踵を返して城内へ戻ろうとする背中に、とっさに声を掛ける。
    「フッチ、君の信じる道はいったいどこにあるのかな」
     それはあまりに唐突な問いかけだったと思う。だが、そう尋ねなければいけない気がしていた。
    「そう改めて言われると、まだよく分かってないんですけど」
     困ったというように少し肩を竦めてフッチは小さく笑う。そして腕の中のブライトへ目線を落として優しく抱きしめた。
    「ただ守るべきもののために、この子の背に乗って空を駆けること。それが僕にできることだと思います」
     凛とした言葉の響きが冷たい夜風と共に肌に伝わってくる。後ろ手に掴んでいた木の柵のざらついた感触が、手袋越しだというのに妙に生々しかった。
     何かがおかしい。そうはっきりと感じ始めていた。

     フッチを見送ってからしばらく一人考え込んでいたが、やはり肌寒さを感じて城内へ戻ることにした。すっかり夜の帳が落ちきって、先ほどまで賑やかだった食堂前の廊下はすっかり息を潜めたように静まり返っていた。それだけの時間を忘れるほど、深く考え込んでしまっていたのだろうか。静かに燃える蝋燭が小さく爆ぜる音と自分の足音だけが辺りに響いている。
     それならばすぐに自室に戻ろうかとも考えたが、あえて遠回りをして城の中をしばらく歩き回ることにした。途中、誰かとすれ違うことがないかと思ったからだ。だがどこも明かりは煌々と輝いてはいるものの、誰一人として姿を見ることはなかった。かつての仲間にしろ兵士たちにしろ、城の住民はおろか生き物の気配すら乏しいのだからどこか薄気味悪くなる。まるで、真夜中に一人で肝試しでもしているかのような気分になった。確かにこの城は吸血鬼の棲み家となっていた時期もあったのだから尚更である。「お化けが怖い」なんて歳ではないが、どこか得体の知れない状況に取り残された気がしたのだ。思わず右手の甲を左手で握り込んでしまう。自分にとっては『呪い』としか言い様のないこの紋章だが、窮地に立たされるとその存在に頼らざるを得ないというのも事実だ。それがひどく歯痒くもある。周囲に気を尖らせながら、少し早足で人気のない廊下を通り抜けた。
     自らの靴が石畳を叩く音だけを聞きながら、ただひたすらに人気のない城を通り抜ける。いつもはのどかに動物たちが草を食んでいる牧場も、ステージのパフォーマンスに熱狂する劇場も、どこもかしこもが息絶えたようにただそこに横たわるのみだった。
     おかしい。ただ真夜中になったというだけなら、こんなにも人の営みの気配すら見えないのは不自然だ。それにこれまで感じた違和感は一体どういうことだろう。これは、ただの『夢』ではないのか──
     焦りから高まる鼓動を抑えられなくなってくる。早く目覚めてここから抜けださなくてはならない。意識を集中させるが、覚醒には至らず、ただただ焦りだけが募っていく。
     息の詰まる思いで目の前の扉を開くと、一際大きな空間に出た。よく見慣れた、デュナンの城のホール。高い天井と上部の窓から差し込む光が暖かかったあの場所。今はやはりひっそりとしていて、人の影も形もない。
     しかし、ここまで来れば城の敷地の外へ抜けることができる。そうすれば事態も好転するのではないか、と期待を抱いて階段を下ろうとした。その時、階下の陰がゆっくりと動くのを目の端で捉えた。思わずびくりと体が震える。

    「………リオウ?」

     この場に不似合いなほど穏やかな声音だった。不意に自らの名を呼ばれて言葉を失っていると、壁にもたれ掛かるようにして床に座り込んでいたらしい人影がゆっくりと立ち上がった。
     涼やかな月の光がほのかにその人の姿を照らす。鮮やかな赤の胴衣と動きに合わせて僅かに揺れる緑色のバンダナ。

    「ティル、さん………?」

     自分の知らぬうちにいつの間にか姿を消していたトランの英雄は、自分の記憶しているままの姿でそこに立っていた。
    「久しぶりだね、リオウ。十五年ぶりになるのかな」
     ティルは昔と全く変わらない微笑みを浮かべてそう言った。
    「ちょ、ちょっと待ってください」
     階下でこちらを見上げる少年──の姿をした青年──の言葉は、かなりの衝撃を自分に与えた。階段を慌てて駆け下りて、彼との距離をつめる。途中で足がもつれそうになりながらもどうにか転げ落ちずに階段を下りきった。そうして改めて目の前の青年を見つめる。より近くで見ればティルは十五年前の姿のままだとまざまざと知らされて、まるであの時からそのまま連れてきたようだと思った。

    「本物のティルさん、ですよね。トランの英雄のティル・マクドールさんですよね?」
    「そうだね、それは間違いないと思うよ」
    「じゃあ、ちなみに今って何年ですか」
    「太陽暦四七五年」
    「つまりデュナン統一戦争は……」
    「十五年前だよ、『大統領殿』」
    「…………」

     矢継ぎ早に質問を浴びせると、ティルは何てことないという風にテンポよく答えを返してきた。そして、確信した。彼は自分と同じ時を歩んでいる人間だ。決して過去の人物ではない。
    「どうして僕の夢の中に現実の……『現代の』ティルさんがいるんですか」
    「それは、僕も知りたいかな」
     トランの英雄は少し困ったように眉を下げて笑った。その仕草も自分のよく知るティル・マクドールのものに違いなかった。

     まず、改修工事のための視察にこの城にやってきて、勧められるがままにかつての自室で眠りについた。そして次に目を開けた瞬間には、当時の記憶のままの部屋が目の前に広がっていた。実際には最初に見たのは床だったが。その後シュウに引き摺られてセッティング済みの作戦室で仕事をしたことも、その時のやりとりも過去に実際に起きたことだった。だからこれはいわゆる明晰夢──夢を見ている本人が「これは夢だ」と自覚している夢──であると思っていた。十五年ぶりにデュナンの城にやってきて、その懐かしさからかつての出来事を夢に見たのだと。
     しかし、夢から覚めたという自覚は全くなかったのに、何故か目の前には『現在のティル・マクドール』が存在している。いつの間にか目が覚めていたのだろうか?いや、そんなはずはない。突然城から人の気配が消えた瞬間から「早く目覚めなくてはいけない」と考えを巡らせて覚醒を試みたが、それは叶わなかったのだから。そこで自分の見ている夢の異質さが浮き彫りになったとも言える。だが、それが一体どういう意味を持つのかは全く見当がつかなかった。
    「ティルさんはどういう経緯でここに?」
     戸惑いを隠せなかったが、どうにか今何が起こっているのか把握したい一心でティルに問い掛けた。
    「今日はクスクスの街にいたんだけど、偶然君がデュナンの城まで来るって教えてもらってね。なるべく早く向かいたかったから、間に合わなかったら野宿すればいいかと思って出発しようとしたんだ」
     あっけらかんと言うティルに、少し頭を抱えたくなった。
    「トランの英雄がその辺で野宿しないでくださいよ……」
    「ひとり旅なんてそんなものだよ。まぁ、今回は宿のご主人が危ないから泊まっていきなさいって言ってくれたから、お言葉に甘えたんだけど」
     昔からこんなに自由な人だっただろうか。いや、でも確かに、いつの間にか勝手に自宅に帰っていることもままあったなと思い直す。この人はとても真面目で尊敬すべき人なのだが、それと同時にとてもマイペースなところもあった。
    「眠ってから目覚めたと思ったらここにいたんだ。夢かなとも思ったんだけど、いやに鮮明だから様子がおかしいなと」
     ティルは辺りをぐるりと見回した。
    「城はすぐに改修工事が必要だってほど破れかかった様子でもないし、偶然すれ違ったヒックスとテンガアールも昔の姿のままだったからね。だからきっとこれは『誰かの過去の回想』なんだと思って、いろいろ歩いて回っていたんだ」
     彼は自分よりもかなり早い段階で、ただの夢でないことは察していたようだった。そして冷静に状況を把握しようと動いていたのを知って、流石だなとも思う。自分はといえば、正直まだ頭がくらくらしていた。突然のことで理解が追い付いていない。
    「どうして僕の夢にティルさんが巻き込まれたんでしょうか。いや、でもそもそも、この世界は……」
    「そうだね、リオウ。ここは本当に単なる君の夢の中なのかな?」
     まとまらない思考のまま投げ掛けた疑問を、ティルが引き取る。彼は顎に手を添えて首をかしげた。
    「ちょっとお互いの情報を共有をしようか。何か分かるかもしれないよ」
     それからそう言って、にっこりとこちらに笑いかけてきた。彼との邂逅がこの事態を解決する足掛かりになるかもしれない。思いがけない再会を喜ぶ暇もないのは残念だが、この人とまた一緒に何かを出来るというのは少し嬉しくもあった。それこそ、十五年前に戻ったようで。
     
    「君が今日、最初に会ったのは誰だった?」
    「シュウでしたね。おかげで酷い目覚めでした」
     真面目な口調で話した先輩に対して、自分はつい冗談めかして答えてしまった。真剣に考えるようにと咎められるかと思ったが、ティルはそこではなく別のところに気を留めたようだった。
    「へえ、珍しいね。わざわざ軍師当人が起こしに来てくれるなんて」
     マッシュはそういうことはしない人だったから。そう言うが、そもそもこの人は寝坊して誰かに起こされるというイメージがあまりない。それはさておき、確かにティルの言葉は正鵠を射ていた。
    「言われてみればそうですね。シュウはどちらかと言えば誰かに起こしに行かせて、僕が慌ててやってくるのを鬼の形相で待ち構えているタイプだったし。まあ逃げ出したときは引きずられて連れ戻されることはよくあったけど」
     もしかするといくつかの『違和感』はここから始まっていたのかもしれないと思う。ティルはそっか、と苦笑していたが、すぐに少し視線を落として床の上を月明かりの揺れるのを見つめた。
    「じゃあ、それからは? その後はどういう風に過ごしたのかな」
     再び顔を上げた彼がそう尋ねたので、今日目覚めてからの経緯をかいつまんで話した。シュウに監視されながら仕事をしたこと(これは実際に過去に体験したことだとも話した)、その後すぐアップルがやってきたこと。それからフッチと少し会話をして、城内に戻ってみたら異変に気がついたということ。そしてここでティルと出会ったということ。ティルは時々相づちを打ちながら、聞き役に徹してくれた。時折思案を巡らせているのか、視線を右上に泳がせることもあった。
     話を一通り終えると、ティルは目を閉じて考え込んでしまった。一切口を開かずにいるので、少し居心地が悪くなる。彼にもどこか違和感を覚えるところがあったのだろうか。そしてその理由がティルには思い当たる節があるのだろうか。
    「これは確認なんだけど」
     しばしの沈黙の後、彼は口火を切った。少し躊躇うように一瞬視線を外したが、すぐに覚悟を決めたようにこちらをしっかりと見据えて、
    「今日はお姉さんには会ったのかい?」
     ティルはそう言った。てっきりアップルやフッチに関する違和感について言及されると思っていたので呆気にとられてしまった。それにしてもどういう意図だろうか。

    「お姉さん………?」

     一体誰の話をしているのか分からずに、ただ言われた言葉を繰り返してしまう。その反応を見たティルの表情が険しくなった。
    「リオウ、君のただ一人の家族だよ。ナナミのことだ」
    「ナナミ………」
     その名前は、どこか異国の言葉のようにさえ感じた。しかし口にすると、それは特別な響きを持って自らの体に染み入ってくるような心地がする。
     ふと、それまで固く閉ざされていた扉が勢いよく開け放たれたような感覚を覚えた。そこから溢れ出すように記憶が雪崩れ込んでくる。
     そうだ、そうだった。どうして気が付かなかったのだろう。

     ──おっはよーう!! リオウ、朝だよ!!!!
     ──ごめんごめん! 今日はうっかり寝坊しちゃった!!! リオウのがうつったのかなぁ。

     朝一番にいつも聞いていた姉の声。あの時までは毎朝彼女の明るい声とともにまどろみから覚めていたものだ。その騒がしさこそが日常の象徴でもあった。毎日聞いていたその言葉は明確に覚えている。

     ──もう、やめようよ。こんなの間違ってるよ。どうしてリオウとジョウイが戦わなきゃいけないの?

     ティントのときもそうだ。僕が逃げようと決意したのは誰の言葉がきっかけだったか? 確かに自分の責任の重さに耐えきれなかったという理由もあった。でも、一番の理由はナナミをこれ以上悲しませたくなかったからだ。いつも明るい彼女が、悲しい瞳でこちらを見つめてそう話すのが嫌だったからだ。
     あんなに大切な人だったのに、もうナナミの声はところどころが霞がかってはっきりと耳に届いてこない。彼女を喪ってからあまりに長い時が過ぎていたのだ。ナナミが死に、ジョウイもいなくなって一人だけ遺されたあの時から、ぽっかりと穴の空いたように感じていた日々もあった。当たり前のものが当たり前でなくなったあの嫌な喪失感と違和感。それなのに、いつしかその感覚を忘れつつあったのだ。いや、違う。言われるまでその存在が頭からすっかり抜け落ちていたかのようだった。まるで、始めから存在していなかったというように。
    「……会っていないですね。起きてから今まで城の中をかなり歩いたけれど、一度も、顔を、合わせなかった………」
     努めて冷静に話したつもりの言葉は最後の最後で掠れて消えかかっていた。
    「どうして、気が付かなかったんでしょうね。この場所にいて、ナナミがいないことを、おかしいと思えなかった……」
     息を継ぐのが苦しくなってくる。いつの間にか腹に大きな穴が開けられていて、内蔵がごっそり失われていたらこんな感覚なのだろうか。もしくは少しずつ身体の先からゆっくりと石にされて、気が付いたときにはもうどこも動かせなくなっているというような。いずれにせよ、知らずに無為に過ごした時間を恨めしく思うだろう。
     なんて薄情な人間なのだろう。欠けがえのない家族であった義姉のことをすっかり忘れていたなんて。さあっと血の気が引いていくのがありありと分かる。
    「君がお姉さんのことを忘れてしまった訳ではないんだよ。君のせいじゃないんだ、自分を責めては──」
     目の前の青年はこちらに目を合わせて言い聞かせるようにこちらに語り掛けていたようだった。だが、その言葉もだんだんと遠くなるような気がした。

     ──リオウ、お願い。一度だけで良いから、『お姉ちゃん』って呼んで………

     ナナミの最期の言葉が脳裏に甦る。でも、やはり彼女の声は霞がかったようで、はっきりとは思い出せないままだった。
     リオウ、リオウ──
     だらりと垂れ下がったまま動かない両腕を、掴まれてはっと我に帰る。ティルが両手でしっかりと肩の辺りを掴んで軽く揺さぶっていたようだった。
    「大丈夫?」
     深い茶の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでくる。
    「すみません、ちょっと、……動揺してしまっただけです」
    「無理もないよ。でもね、本当に君のせいじゃないんだ。それだけ大切な人のことを、君が忘れるはずがないんだから」
    「そう、でしょうか」
    「間違いない。僕が保証する。ねえリオウ、僕の考えを聞いてくれるかな」
     極めて穏やかな口調ではあったが、その響きは力強く、息の詰まるような焦燥感が少し解れたような気がした。その様子を見てとったのか、ティルは肩を掴んでいた手を緩めた。そして軽く一度とぽん、と肩を叩かれる。それからティルは「少し長くなるから、ちょっと座ろうか」と言って、近くの階段の下段に腰掛けた。邪魔にならないように自分は床に膝を抱えて座し、少し見上げる形で彼に顔を向けた。するとティルは息を一つ吐いてから口を開いた。
    「君が自分の回想だと思っているこの世界。恐らくこれは誰かの認識を元に成り立っている世界なんだ。リオウ、君ではない誰かの」
     自分ではない誰か。まさかここで第三者の存在が出てくるとは思わなかったので正直面食らった。だが彼の話はまだ始まったばかりなのでおとなしく耳を傾けることにする。
    「この夢に巻き込まれたとき、僕は真っ先にこれは君の回想の世界なのかと思ったんだ。ちょうど、君が近くにいることも知っていたからね。でも、君の思い出ならば必ず存在しているはずの君のお姉さんの存在が見えないことに疑問を持ったんだ」
    「……ナナミを知らない人間が関わっているということですか?」
    「いや、恐らく違う」
     ティルは静かに頭を振る。
    「君が十五年前の記憶だとずっと思っていたくらい、この世界は極めて忠実に再現されているよね。人物も、場所も、本当に『見てきた』ようだった。当時のこの城をこれだけ鮮明に認識している人物が、君のお姉さんのことを知らないはずがない」
     確かにその通りだった。ナナミの存在を知らない人はいなかったはずだ。それほど彼女は明るく無邪気で、皆にとって欠けがえのない存在だった。
    「これは推測に過ぎないけれども。その人物の現在の認識を元にしているから、当時亡くなったナナミやキバ将軍はこの世界には存在していないのだと思う」
     つまり、「亡くなった人はその存在すらなかったことにされている世界」ということだろうか。それがもし誰かの認識がそうさせるのだとしたらあまりにも悲しいと思った。
    「ここで少し見方を変えようか」とティルが切り出す。
    「リオウ、君が今日ここで出会った人物で『違和感』を覚えた人はいなかったかな?」
     いた。自分の認識よりもだいぶ大人びた印象を受けた人物が。そして、自分の記憶とは異なる言動をした人物もいた。
    「アップルとフッチ、」
     この夢は自分の過去の記憶なのだろうと思っていたから、シュウと入れ替わるようにアップルがやって来てからの彼女とのやりとりには「おや?」と思った。かつてのアップルはあんなに穏やかな瞳で僕を見つめただろうか。あれはまるで年下の少年を教え諭す教師のようだった。自分の記憶の中のアップルはこんなにあしらいが上手かっただろうかと少々疑問には思ったし、彼女とこんなやりとりをした記憶も思い出せなかったからだ。だが、まあ夢なんてそんな曖昧なものだ、とそこまで気にしてはいなかった。
     だが、ブライトを腕に抱いたフッチのあの言葉。

     ──ただ守るべきもののために、この子の背に乗って空を駆けること。それが僕にできることだと思います。

     記憶している限りでは、フッチはブライトが竜の仔であるかずっと確信を持てずにいた。戦争が終わった後はブライトが竜であることを調べるためにハルモニアへ旅立って行ったことも覚えている。そう考えると、ブライトのことを竜だ、と確信しているような言葉は当時の彼からは出ないような気はしていた。
     二人にはもう長く会っていないが、恐らくあれは『現在』の彼らである。アップルが精神的に大人びて見えたのも、フッチの「ブライトと共に空を駆ける」という言葉も、そう考えればこの『夢』で抱いた違和感に説明がつくのではないか。
    「つまり、この世界を成り立たせている人物はナナミやキバ将軍の死を知っていて、更に現在のフッチとアップルを知っているということですね」
     自分なりに考えたことをまとめるために、改めて口に出してみる。するとティルは頷いて同意してくれた。
    「そういうことになるね。デュナンにずっといたクラウスくんは昔の様子だったのだろう?ということは十五年間彼には会っておらず、認識が上書きされていない状態なんだろうね」
     現在のクラウスのことはよく知っているつもりだ。当時はあれだけ対応に困っていたシエラのあしらいも慣れたものだったじゃないか。つい最近の彼とのやりとりを思い出す。
     十五年前の戦争に最後までいて、デュナンを離れていた人物。これだけならかなり候補は多いが。思案を巡らせようとしたところにティルの言葉が続く。
    「ただ、いくらその人物の認識に基づいているとはいえ、ここまではっきりと亡くなった人が存在していないというのはおかしいとは思わないかい?」
    「確かに……それは変ですね」
     いくら亡くなったからと言ってその人物が記憶から一切消えてしまうことなんて本来なら起こり得ないはずだ。『認識』という自らの意思で変えることが難しいものが基づいているならそれは尚更である。自分が過去を振り返ったときであれば、そこに深く刻まれたナナミやジョウイの記憶を完全に切り離すことができないように。しかし、この世界の中ではナナミの存在がまるで始めからなかったように抜け落ちていた。ジョウイのことは確かに記憶に残っていたのに。

    「恐らくはこの世界における人の生死を明確に分ける『何か』……つまり、その人物の認識の元となるものがあるということ」

     その言葉にはっとする。その可能性は考えていなかった。だが、そう言われてみればティルの考えは自分にも察しがついた。その存在がすぐに思い当たったからだ。
     戦場において死は極めて身近なものであるが、それを自身の目で見なければ実感するのは非常に難しい。特に本陣に身をおいている軍主にとって、仲間の死とは全てをはっきりと確認できるものではない。多くは各部隊からの伝令によってそれが伝えられる。戦いの後に遺体を確認して連れ帰って丁重に弔うことが出来れば仲間の死を受け入れられる──受け入れざるを得ないというのが正しい──のだが、敵の進軍に撤退を余儀なくされるという場合はその亡骸を見ることさえ叶わないということもある。すると「本当に死んでしまったのだろうか」と疑問に思うことさえあった。だから、いつも自分は戦いが一つ終わる度にこの場所を訪れた。そしてその死が紛れもない現実であるということをいつも突き付けられてきた。キバのときもナナミのときも、仲間の死を誰よりも早く知っていたものがこの場所にはある。
     思わず立ち上がって、それのすぐ目の前に歩み寄る。

    「約束の石板……」

     久しぶりに石板に触れる。夜の冷えた空気を固めたような、ひんやりとした感触をほんのりと感じた。仲間の名前の刻まれた石板の、ところどころ色の消えた部分はすぐに見つけられる。
    「『約束の石板』から名前が消えた人は、この世界には存在しないんですね」
    「そう、君がここでナナミの存在を忘れていたように『そもそも存在しなかった』とされてしまう」
     思い返してみれば、自分が忘れてしまったのナナミだけではなかった。ティントで全てを捨てて逃げ出したとき、大切な仲間のひとりの命が喪われた。その存在は先ほどまでは認識することができていなかったように思う。だが、彼の息子であるボリスの名を見たとき、リドリーのことがありありと思い出された。 
     他にも当時死別してしまった仲間の名前を探してみる。石板を辿って一人一人の名に触れるとしっかりとその存在が自分の中に記憶されているのを感じた。一種の暗示のようなものだったのかもしれない。しかし、死んでしまったら存在していなかったことになるなんて、あまりに残酷な世界だ。そしてやはりとても悲しい世界だとも思った。
    「でも、よくティルさんはすぐに『亡くなった人が存在しない』ということに気が付きましたね」
    「ただ僕は比較的早い段階で『約束の石板』を目にしたというだけなんだ。だから、君のお姉さんのこともすぐに思い出して、その姿が見えないことにもおかしいと思えたのかもしれない」
     それに、少し気にかかっていたこともあったから。ティルはそう言って、静かに近くまで歩み寄り石板にそっと触れる。ただ言葉もなく、静かに冷えた表面を撫でる姿をただ見つめてしまう。何か思うところがあるのかもしれない。
     ナナミの名前もキバの名前もそれ以外の仲間たちも皆、あの時から光を失ったままだった。今でも激しい戦いの末に喪われた名前のひとつひとつを見ると、己の無力さと「自分が仲間に誘わなければこうならなかったのでは」という後悔に襲われる。正しいと思って歩んできた道のはずなのに「もっとできることがあったはずだ」とも思ってしまう。
    「ねえ、リオウ」
     不意に掛けられたティルの言葉は、強張ってしまった口を無理に開いたような硬さがあった。

    「もう一人、君が会っていない人物がいるんじゃないかな」

     ひどく言いづらいことを無理に言葉にしようとしているような、はっきりと明言するのを躊躇っているような言い方だと思った。
    「虫の知らせのようなものを感じていたからね。確かめるためにもずっとここにいたんだ。そして、君の話を聞いて……ここがどういう場所なのか、なんとなく分かってもきた」
     自分もそれは感じていた。何か良くないことが起こったのだろうという予感を感じたばかりだった。
    「今日この場所に来てから、ずっとここにいて……少し歩き回ったけれどなるべく戻ってくるようにしていたよ。けれど彼には一度も会わなかった」
     その言葉を聞いて、その正体がはっきりした。そして彼が言わんとしていることを察してしまった。
     約束の石板の前。いつもある人物がいた場所。
     しかしその場所に彼の姿はない。紛れもない違和感がそこに横たわっていた。
     
    「ルックは、死んだんですね」

     言葉に出すとそれがより現実味を帯びて重くのし掛かってきた。どんなに時が経とうとも長い間顔を合わせていなかったとしても、仲間の死というものはやはり受け入れ難いものがある。
     再び見上げた石板に刻まれた彼の名前。それはいつの間にか色褪せていた。ずっと昔からそうだったというように、自分の知らぬ間に失われていた。何故喪われてしまったものは、まるで最初から存在していなかったかのように目の前から消えてしまうのだろうか。
    「つまりこの世界は……『約束の石板』に基づいた、ルックの回想なんですか」
     もう見えない彼の姿、そして彼と関わりの深かった『約束の石板』が礎となった世界。そう考えるのが妥当ではないかと思い始めていた。
    「恐らく。ただ、回想というのが正しいのかは分からないけれどね」
     フッチとアップルは『現在の』彼らが少なからず反映されていたようだから、とティルは言う。
    「ねえ、リオウ。君は魂というものの存在を信じる?」
    「それは……」
     今一つ実感が湧かないのだが、もしこの世界がルックの認識に基づいているというのなら、その存在を肯定せざるを得ないのではないかとは思った。
    「僕はこれのおかげで、恐らく他の人よりはその存在を強く感じることができるんだ」
     ティルはそう言って、ひらりと手袋で覆われた右手をこちらへかざして見せた。生と死を司る紋章『ソウルイーター』。その名の通り、宿主の親しい者の魂を奪ってその強大な力を増すという呪われた紋章。その右手の紋章には彼の大切な人たちの『魂』が宿っているのだと昔聞いたことがある。
    「魂というものはいわゆるその人の残留思念のようなものなんだ。姿かたちはなくなってしまうけれど、強い意志や記憶だけはきっと魂として残る」
     断片的だけれど、今でもソウルイーターの中にいる人たちの記憶が見えることがあるから。そういうティルはうっすらと笑みを浮かべてはいたが、その目は少し悲しげに陰っているようにも思えた。
     自分にはそんなことを思う権利がないと分かっていながらも、少しだけ彼を羨ましいと思ってしまった。もしも死してなお遺したい想いが存在して、それを少しでも感じることが出来るのならば、自分には会いたい人がたくさんいる。でもそれは決して口にすることは許されない。それは彼にとっては望まずともただ与えられた呪いであるのだから。
    「いまルックは近くにいるんだよ」
     自分の考えていることを知ってか知らずか、ティルはどこか確信めいた言い方をした。やはり、自分とは見えているものが違うのだと改めて思う。
    「魂は帰るべき場所に帰ろうとするからね、その途中だったのかもしれない」
    「里帰りみたいなものですか」
     今一つ、月並みな言葉でしか表現することが出来ない。
    「あいつにもここを『懐かしい』と思う気持ちがあったんですね」
     帰るべき場所へ向かう途中でふと途中に足を止めて立ち寄ってしまうほど、彼にとってここは思い出深い場所であったのだろうか。

    『なに?何か用?』

     通りがかりに声を掛ければ、彼はいかにも面倒くさそうに決まってそう言った。挨拶に来ただけだと言えば『そんなに暇なの? 良
    いご身分だね』と決して優しくない言葉が返ってきたのも覚えている。
    「ああいう態度だから分かりづらいけど、愛着があったんだと思うよ。全く、素直じゃないよね」
     ティルもかつての彼の言動を思い出していたのだろうか、少し困ったように微笑んでそう言った。
    「まあ、でも。一人じゃないみたいだから」
     ぽつりと宙を見上げて呟かれた言葉の意味は、自分には分からなかった。しかしティルと会ったことで、この『夢』がどういう世界なのかを理解することは出来た。ただ、一つだけ引っ掛かる点がある。
    「僕たちは偶然この城の近くにいたから、ここに引き込まれたんでしょうか」
     それは、何故自分たちがルックの回想に巻き込まれたのかということだった。自分の問い掛けにティルは腕を組んで少し考え込むような仕草をした。
    「この場所に会したことが理由なのか、それとも僕たちの真の紋章がそうさせたのかは分からないけれど」
     腕を組んだままティルは語り始める。そして、こちらを見据えてこう言った。
    「一番の理由は僕らが彼の『仲間』だったから。だからこの世界に入ることを許された。そう思うと少し光栄だとは思わないかな」
     ルックの性格を考えると少々希望的な観測が過ぎるとは思った。だが確かに、そうだったら良いと感じてもいた。
     その矢先、辺りが光に照らされ始めた。昇り始めた太陽の光が窓から差し込んでくる。

    「さあ、夜が明けるよ。リオウ」

     ティルは天井近くの窓を見上げて言った。つられて、自分も光の差してくる方へ顔を向ける。
    「今度はちゃんと夢じゃなくて。現実で再会するのを楽しみにしているよ」
     昇る朝日の眩しさに目を閉じる。それがこの世界で見た最後の光景だった。
     
     
     はっと目を開く。真っ先に目に入ったのは少しひび割れた天井だった。窓から昇ったばかりの日の光が薄く部屋を照らしていた。ベッドの中に入ったまま、深く息を吸い込んで吐き出す。すると少し黴臭い枕の香りがして、『現実』に戻ってきたのだと感じることができた。
     果たしてあの夢での出来事は事実なのだろうか。まだ重い身体を無理矢理起こす。深く眠っていたときの強張りや気だるさを感じるので、どうやら夜中に無意識のうちに城を彷徨い歩いたわけでもなさそうだった。ますます自分の見たものが信じられなくなってくる。もしかしたら全ては自分の見た幻想に過ぎないのかもしれないと思いながらも、どこか生々しい虚脱感が残っていたのも事実だった。
     ふと、思い立ってベッドから勢いよく身体を起こす。そして身支度もそこそこに部屋の扉を開く。ギイと蝶番が軋む音がまだ薄暗い城内の廊下に響いた。
     階段をひたすら下っていく。昨夜歩き回ったはずの城内だが、こうして現実の中で見るとやはりところどころ欠けた石段や壁が目に入って、自分がこの場所を離れていた時間の長さを改めて感じる。寝起きの身体はまるで自分のものでないようで、逸る気持ちとは裏腹に足が重いのをもどかしく思った。だが、どうにか目的の場所まで辿り着く。
     階段を下りきって見上げた天井は高く、開けた視界に広がるホールを窓からの朝日が石造りの部屋を照らし始めていた。昨夜夢で見たときと同じように人気はなかったが、どこか得体の知れない不気味さは消え去っていて別の場所のようにも思えた。そのまま歩みを進めれば、目当てのものはすぐに見つかる。
     十五年前からその場所に置かれたままの『約束の石板』は、それを守る者がいなくなってもそのままの姿で立ち続けていた。長年人に触れられなかったであろう壁面はうっすらと埃を被っていた。顔を少し寄せて、昨夜したようにそこに刻まれた名を辿っていく。そして、昨夜見たものが紛れのない現実であることを確認する。やはり、という確信とそれを否定したかった思いが熱くなった目頭から溢れだしそうになって、思わず顔を隠すように俯いた。こつんと額に当たった石の冷たさは、沸き上がった熱を冷ましてはくれなかった。

       ◇   ◇   ◇

     それから二日後。
     デュナン城内は大統領を交えての視察に久しぶりの賑わいを見せていた。改装のために長年置かれたままの家具や調度品を一度運び出す必要があって、城下の住民に加えて年若い兵士たちが多く力仕事に駆り出されていたのだった。よく晴れた日であったから作業をするにはもってこいだったが、荷物を運び出すという重労働には暑すぎる陽気でもあった。皆が汗水流して働く姿を見て「自分も力仕事ならば」とつい手を貸してしまうのだが、その度に「大統領はそんなことをしないでちゃんと視察してください!」とミューズからのお付きの役人に言われて、しぶしぶ荷物から手を離す。そういったやり取りが何度か続いて、作業に取り掛かる住民や兵士たちも思わず笑い声を上げた。彼らにとってはなかなかの重労働であったはずだが、作業は和やかな雰囲気で進んでいった。
     少し日が傾いて暑さが落ち着いてきた頃になると、ほとんどの荷物は外に運び出されて城下の空き家に集められていた。大方の作業が終わって、手の空いた住民から城下町の酒場に集まって休憩を取り始めているようだ。城から街に通じる道に立っていると、作業を終えた若者たちが通りすがりに声を掛けてくれるのでこちらも「お疲れさま」と言葉を返した。
     ふと、背にしている城の方からこちらに駆け寄ってくる足音が耳に入ってきた。振り返ると丸眼鏡の若い男性が緩く巻かれた金髪を揺らしてこちらに駆けてくるのが見える。
    「大統領、少々よろしいでしょうか」
     軽く息を切らせながらそう話す彼は、グリンヒルで学芸員として働く青年だった。ニューリーフ学院で美術品について学び、まだ二十歳そこそこだがとても優秀で歴史に対する造詣も深いという。この古城に残された調度品の文化的な価値を判断するために今回の視察に参加したのだった。
    「ご相談したいことがあるんです。お時間よろしいでしょうか」
    「いいよ。ちょうど暇していたんだ」
     少し緊張した面持ちで話し掛けてくる青年に、少し微笑ましい気分になる。それから彼に連れられて、デュナン城のホールに辿り着く。こちらです、と案内されてやってきたのは先日心を乱されたばかりの『約束の石板』の前だった。思いがけずどきりとさせられたが、青年はそれには気が付かずに説明を始めた。
    「これも一旦外に運び出してしまうのですが。……改装が終わったら、大広間に先のデュナン統一戦争に関する展示スペースを設けようという計画があるのはご存じですよね」
    「ああ、それは聞いているよ」
     かつて軍議の間であった大広間に展示室を作ろうという動きがあったのはよく知っていた。せっかく保全のために改装するのだから建物も有効活用してしまおうというのは合理的ではあるし、この城を訪れる人が多くなるのは良いことだと思ったので許可をしたのだった。ただ流石に十五年前に自分が来ていた服のレプリカと銅像を置きたいと言われたときは全力で拒否させてもらった。
    「それで、良い機会ですからこの石板も大広間に移動させて一緒に飾るのはどうかという話がありまして」
     かつての英雄たちの名が刻まれた石板なんて、絶対に展示の目玉になるじゃないですか。若い男はそう興奮気味に語った。かの戦争に関する記録に関われるのだからと張り切っていた彼が「マルロ・コーディ氏のリオウ様に関する著作も一緒に置くべきです」と熱く語ってきたのは、記憶にも新しい。
    「リオウ様、どうでしょう。どう思われますか」
     期待を込めた眼差しで青年はまっすぐとこちらを見つめてきた。
    「『約束の石板』をここから移す……」
     確かにそれはもっともな提案だったのかもしれない。デュナン統一戦争下から置かれていたものなのだから、文化的価値のあるものなのだと言うのもよく理解できる。ただ、自分の感情がそれを良しとしなかった。はっきりと理由を明示しろと言われると難しいのだが。
    「せっかく提案してもらったのに悪いんだけど。これはこの場所にあってほしいんだ」
     せめて、僕の生きているうちは。そう付け加えた言葉は、少し離れた場所でがくりと肩を落としてみせた若者には聞こえなかったようだ。ただ、彼はすぐに「大統領がそうおっしゃるなら」と気力に満ちた返事をくれた。すぐにはへこまない意欲的なタイプらしいので安心する。
     必ずまたいいアイデアを持ってきます、と勇み足で去っていった青年を見送ると、整頓されたホールに古びた石板と自分だけとが取り残される。傾きかけた日を浴びる石板を見つめるとある思いが浮かんできた。この場所は──約束の石板の前は、今でも自分にとっては彼の居場所だと。長い時が経っても変わらないものがあってほしいと心から願った。


     再び外に出ると、昼の燦々とした陽気は影を潜め、すっかり暑さが和らいできていた。太陽が地平線まで傾いて空が橙色に染まり始める頃だった。ふと、城の入り口が少し騒がしいのに気が付いた。何事だろうと歩みを進めると、だんだん門のところで見張りを担当している若い兵士の声が聞こえてくる。
    「……すみませんが、大統領に直接お会いしたいというのは流石に……え、約束をしている?一体、それはどういう?」
     背の高い彼に遮られて見えないが、来訪者がそこにいるようであった。会話の内容からしても、それならば大いに心当たりがある。急いで駆け寄ると入り口のところに外套で身を隠した黒髪の青年の姿が見えてきた。彼は門番の兵士より先に自分の存在に気が付いたようで、
    「やあ、リオウ」
     と兵士の肩越しにこちらに声を掛けた。
    「ティルさん。お久しぶりです」
     軽く会釈をして呼び掛けに応える。その様子をぎょっとした顔で言葉もなく見つめる若い兵士の彼に少し申し訳なくなる。自分とそう年の変わらない少年が自国の大統領を呼び捨てにしていたら、それは驚くことだろう。
    「彼は僕の古い友人なんだ。ごめん、ちゃんと伝えておけばよかったよね」
    「いえ! こちらこそ、ご友人に失礼なことを……!!」
     まだ十代の半ばすぎといったところの若い兵士が、十八年前のトランの英雄を知らなくても無理はない。ひどく恐縮してしまっている彼を少しでも落ち着かせようと出来るだけ穏やかに話すよう努める。
    「本当、気にしないで。仕事、大変だろうけどあと少しだから頑張ってね」
    「あ、ありがとうございます!!!! 光栄です!!!!!!」
     彼の頭が勢いよく下げられるのと同時に元気の良いお礼の言葉が返ってきた。軽く手を振ってから、ティルを伴ってその場を離れる。それからしばらく石畳の道を歩いていると、隣を歩くティルが微笑んでこう言った。
    「久しぶり、か。たった二日ぶりなんだけどね」
    「それでも、現実で会うのは十五年ぶりなので」
     あの『夢』の中で彼と再会したときも生身の人間に触れているようだと思ったものだが、こうして現実の世界で出会うとあれはやはり彼の実体ではなかったように思う。
    「それは違いないね。元気そうで何よりだよ、リオウ」
     そう語るティルは姿かたちこそ十五年前と変わってはいなかったが、昔よりもさらにその笑顔は悲しくなったように思えたからだ。
     ティルを城下町を案内しながら、今回の視察がどうだとか最近の仕事がどうだとか他愛のない会話を交わす。すると程なく一軒の家の前に到着する。ここは視察の三日間、自分が寝泊まりするために用意してもらった場所であった。この城に着いて一日目の晩は管理人の突然の計らいでかつての自室で眠ることになって、せっかく整えてくれたベッドをふいにしてしまったのだが。
     小さな一軒家の扉を開くと、不在の間に掃除をしてくれたのだろう、整頓された室内が目の前に広がる。最低限の台所とテーブルと椅子が二脚、それにベッドと引き出しの付いた棚が一つだけの質素な部屋だが不思議と居心地は良かった。
    「とりあえず座ってください。お茶でも淹れますから」
    「ありがとう、じゃあお言葉に甘えて」
     入り口の程近くにある椅子に腰を掛けたのを見て、台所に向かう。せっかく備え付けられているのに、使わないままになっているのは勿体ないと思っていたところだったので都合が良い。水を汲んで火に掛けてから、用意してあった茶缶を開けた。
     
       ◇   ◇   ◇
     
     ほのかに花の香りが漂うカップを盆に乗せ、テーブルで待つトランの英雄の元へゆっくりと向かう。その途中で彼に見せるべきものがあるのを思い出して、片手で棚の引き出しを開いてそれを取り出しておく。テーブルにカップを置くと「ありがとう」と礼を言われたので、軽く会釈をしてから自分も向かい合うように椅子に腰を据えた。そして早々に本題を切り出してしまうことにする。
    「ティルさん、これを見てくれますか」
     目の前に座ったティルに一通の手紙を差し出した。それはどこにでもありそうな古びた羊皮紙が丸められて、朱の封蝋で留められたものだった。朱の封蝋は所々字か欠けて読みづらいが、『ビュッデヒュッケ』という地名らしきものがかろうじて読み取れる。
    「つい昨日のことです。グラスランド、と言っていいか分からないんですが。そこからこれが届いたんです」
     ティルはそれを受け取ってまじまじと見つめていた。
    「しかもですよ、この手紙を持ってきたのはフッチだったんです。大きくなったブライトに乗って、いや大きくなったのはブライトだけじゃなくて、」
     あのフッチがびっくりするくらい成長していたんですよとか、見習いの女の子までいて驚きましたとか、ブライトは本当に竜だったんだなぁとか、その時のことを思い出して矢継ぎ早に言葉を重ねてしまう。
     昨日、突然城下町の広場に降り立った白銀の竜によって、城は一時騒然となった。慌てて駆けつけるとそこには確かに翼を広げた竜がいて、その背には二人の竜騎士が座していた。一人と一匹は確かによく知る昔の仲間であったが、あまりの変わりようによほど衝撃が大きかったのも事実だ。その時のことを思い出して少し興奮していたのかもしれない。ティルは軽く相づちを打って話を聞いてくれたが、合間を縫って改めて問い直してきた。
    「君に宛てられたものなんだろう? それを僕が見ても良いのかい?」
     そう問われて話が反れていたことに気がついた。すみません、と軽く頭を掻いてから改めてティルで向き直る。
    「ティルさんにも読む権利はあると思います。少なくともこの手紙の差出人はそう思っていそうなので」
    「へえ、どういうことだろう。僕らの共通の友人がグラスランドにいたかな」
     言いながら、ティルは改めて手の中の手紙を観察し始めた。丸められた状態では差出人が誰なのか全く想像が付かないようだった。
    「共通の友人ではないし、それにグラスランドの人というとそれも違うというか……」
     正直、どう説明するかを図りかねた。自分にとっても存在を知っているという程度で、それほど深い知り合いという訳でもなかったからだ。だから率直にその差出人を伝えることにした。

    「その手紙を書いたのはササライという人です。ハルモニアの、神官将の」

     手紙の主は意外な人物であったのにティルは思わず瞠目したようだった。彼にとっては直接の面識があるわけでもなかったから尚更だろう。
    「ハルモニアの神官将が面識のない僕にも伝えたいことなんて、一体なんだろう」
     ティルが古びた紙をゆっくりと開く。するともう既に読んだ文面が光に透けてうっすらと見える。なんとなく、再び文字を見つめてしまう。紙の上を走るインクは色鮮やかで、つい最近書かれたものだということが見てとれたのだった。そうして、先日目にしたその手紙の内容を思い出していた。


     お久しぶりだね、デュナンの英雄殿。
     十五年前の戦場以来かな。
     もっとも、あのときは言葉どころか兵刃を交えることすらなかったけれどもね。
     君にとってかつての仲間であり、僕にとっても戦友となった彼にこの手紙を託したのは、君たちに伝えなければならないことがあったからだ。
     此度のグラスランドにおける戦争について、本国がもたらす情報は極めて限られているだろう。あまりにもこの国にとって不都合な部分があまりにも多いからだ。だからこれは神官将としてではなく、この戦争に居合わせた一人の男が君に宛てた個人的な手紙であると思ってほしい。
     仲間であった君たちには全てを知る権利があると考えた。だから、僕の知り得ることを全てここに記す。
     僕の弟──ルックについて。


     そう始まった手紙は、古びた羊皮紙にはあまり似つかわしくない流麗な字で綴られていた。ハルモニアにその存在を悟らせたくはなかったのだろうか、ササライの名前はどこにもなく──差出人の名はフッチから直接伝えられた──『ハルモニア』という単語すら極力排除して書いたようだった。その手紙には、つい最近までグラスランド一帯を脅かした戦争の内実についてが書かれていた。
     グラスランドにおけるハルモニアの侵攻、それに乗じた『真の紋章狩り』。それを提案したのは素性を隠してハルモニア国内で成り上がったルックであったこと。その後、ハルモニア自体も裏切り、彼が真の紋章を利用して自らの『真なる風の紋章』の破壊を目指したこと。対立していたグラスランドとゼクセンが手を取り、新たなる『炎の運び手』としてルックの計画に対抗したこと。そしてその戦いの末に彼が死んだということ。
     また、ルックとササライのハルモニアにおける出生のこと、そしてルックが恐らくその為に色濃く見たであろう『灰色の未来』──この世界の終わりについてが記されていた。
     それはただ淡々と事実のみが書き連ねられていたために、書き手がどのような思いでこれを綴ったのかを図り知るのは容易ではなかった。ササライ自身も自らの出生についてはつい最近その真実を知ったというのだから、どこかまだ実感の伴っていなかったのかもしれない。そう思い至ったところで、ティルが羊皮紙をそっと元の形に丸めたのが見えた。
    「……なるほど」
     彼はそれだけ言って丸めた手紙をテーブルに置くと、まだ湯気の立つカップを手にとって中身を口にした。それから考え込むように手に持ったカップの水面を眺めていた。しばらく、外の木々がざわめく音だけがその場を支配した。
    「僕はあいつを、ルックを絶望させたのかもしれません」
     長い沈黙に耐えきれなくなって、つい言葉が溢れ出た。その手紙を読んでから思っていたことだった。ティルがカップから目を離してこちらに顔を向ける。その張りつめた表情がひどく胸を締めつけた。
    「あの夢から覚めたあと、気が付いたんです。どうして最初にシュウとの記憶が思い出されたのかって」
     あの日見た『夢』はルックの回想だったはずなのに、どうして過去の自らの記憶が思い出されたのかは疑問に思っていた。そして、当時の記憶を辿ってあることを思い出したのだった。
    「十五年前、シュウとあの会話をしたすぐ後。一番最初に会ったのはルックだったんですよ」
     
       ◇   ◇   ◇

    「あれ、ルック? どうしたの、こんなところで」
     シュウに広間に押し込められて大量の事務仕事を終えた後、先に出ていった彼を見送りながらしばらく机に突っ伏していた。激しく体を動かした訳でもないのに疲れ果てて、すぐに動こうという気力はなかなか湧いてこなかったのだ。だが、そのまま広間で倒れている訳にもいかないので、そろそろ動かなければと気持ちを奮い立たせて部屋を出たときのことだった。廊下の壁を背に寄りかかるようにして、石板守の少年が立っているのを見つけたのだ。誰かを待っている様子にも思えたので、ついそう声を掛けた。
    「遅いんだよ。……アップルが後で書類をまとめて持ってこいってさ」
    「あ、ごめん。わざわざそれを伝えに来てくれたの?ありがとう」
    「……別に。通りがかりに頼まれただけだから」
     返ってきた言葉はいつも通り素っ気ないものだった。
    「ねえ、君はいま自分が歩んでいる道が、本当に正しいものだと思っているの?」
    「えっ、どういうこと? 流石に城の中では迷子にならないけど……」
    「そういうことじゃないよ馬鹿なの?」
     はぁ、とひどく呆れた表情であからさまに溜め息を吐かれてしまったのは心外だった。場を和ませようとちょっとした冗談を言っただけだったのに。
     ルックは横目でこちらを見ながら言った。
    「そうじゃなくて。君は『軍主』なんて呼ばれ良いように使われて、それで満足してるのかって聞いているんだよ」
     睨み付けるような視線と少し苛立ちを含んだ言い方が身に刺さるようだった。
    「良いように使われてるって……酷い言い方だなぁ」
    「でも、事実だろ」
    「確かにそうかもしれないけど……でも、この戦争を終わらせて皆が安心できる日が来るまでは、僕は自分の役目を果たさなきゃいけないと思ってる。それが今の僕に出来ることだから」
     これは偽ることのない本心だった。偶然居合わせただけの、元はハイランドの人間だった自分に出来ることは、受け入れてくれた人々のために力を尽くすことなのだと思っていた。この戦争を終わらせることが、都市同盟の、引いてはハイランドの人々の為になるのだと信じて疑わなかったからだ。
     ルックは自分から問いかけたわりにはふうん、と興味なさげな返事をした。
    「戦争が終わったら、今度は『王様』として担ぎ上げられるんじゃないの?」
    「まさか。ただゲンカクじいちゃんの息子ってだけで、ただ偶然同じ紋章を宿したってだけで、少し戦えるだけの僕が王様になんてなれるはずがないよ。もっと相応しい人がいっぱいいるじゃないか、テレーズさんとかさ」
    「あんたが『ただ偶然』って言っていることは、人々から見れば奇跡的な一致に見えるんだろう?」
     僕はそうは思わないけど、とルックは心底うんざりしたように吐き捨てた。
    「それに、あの軍師はあんたが『王様』になることも織り込み済みみたいだけど」
     さっきまでのシュウとのやり取りを聞いていたのか。立ち聞きなんて性格が悪い、と茶化そうとルックの顔を見つめて、思わずその言葉を飲み込んでしまった。

    「君は、それが運命なら受け入れると言うのかい?」

     こちらをまっすぐ見据えているはずの瞳は、自分の姿を全く映していないのだろうかと思うほど虚ろだったからだ。そしてルックの言葉からもなんの感情も伺い知ることが出来なかった。言葉を失ってしまいそうになったが、その沈黙と虚ろな視線に耐えきれないような気がして口を開く。
    「先のことはまだ分からないよ。僕はただ、今やれることをやるだけだから」
    「……そう」
     ルックはそれだけ言って、すぐに身を翻してその場から立ち去ってしまった。あの時どんな返答をすべきだったのかは、今でも分からないままだ。
     
     ティントのときもそうだった。耐えきれなくなって逃げ出したあの日。
    「リドリー殿は、戦死なされた」
     そう語るシュウの声だけが妙にはっきりと聞こえた。その後も彼の言葉は続いたが、内容は全く頭に入ってこなかった。
     パシン! と乾いた音が鳴り響く。じわりと頬が熱くなって、目の前の男に頬を張られたのだとそこでようやく気が付いた。
    「リオウさん………」
     フッチが心配げに声を掛ける。だが、それに応えるべき言葉も気力も失ってしまっていた。言葉を失った自分にどうすれば良いのか戸惑いを覚えたのか、そのままゆっくりとフッチは背を向けて去っていく。
     皮肉なほど穏やかな風が張られたばかりの頬に触れて、妙にはっきりとした感触が残った。頭が重しでも乗せられたように重く、まっすぐの目の前を見据えることすら出来ずにただ乾いた地面を見つめていた。

    「逃げるのもいいんじゃないか……」

     ふと、俯いた自分の頭上から言葉が降ってくる。ぽつりと洩らされたそれはどこか彼らしくない、優しい響きを持っていたような気がした。だが、意外な声音に顔を上げたときにはルックは既に後ろを向いてしまっていたからその表情を見ることは出来なかった。それから、ルックもまたこちらを振り向きもせず、そのままこの場を離れていった。その後ろ姿に掛けるべき言葉を失っていると、義姉が「ごめんね、ごめんね」と泣きながらただ同じ言葉を繰り返し始めた。そうしてその場でうずくまってしまった彼女の肩を抱きながら、先ほど掛けられた言葉をしばらく反芻していた。
     結局、自分には全てを捨てて逃げ出すことは出来なかった。それからナナミと共に虎口の村へ戻ったとき、集まっていた仲間たちがみな安堵の表情に包まれたのをよく覚えている。その中でただ一人だけ、どこか落胆したような、まるで全てを諦めてしまったようなルックの横顔が印象的だった。当時は違和感を覚えながらもその理由を明らかにすることはできなかったが、今ならそれが分かるような気がする。

     決められた道から外れようとしても、結局は元に引き戻されるのだ──これが『運命』だとでも言うのだろうか。
     あれは、そういう思いの発露だったのだと。

       ◇   ◇   ◇

    「……そう。そんなことが」
     ティルは話を聞く間持つだけになっていたカップを置いて、ぽつりとそう言った。
    「でも、それを言うなら僕だって同じだよ」
     十八年前に大きく変わってしまった自らの運命のことを思ったのか、彼はそう言って寂しげに微笑んだ。その姿がひどく悲しく思えて仕方がない。この人はよく笑うが、いつだってそれは悲痛なものが見え隠れしていた。それがはっきりと目に見える今はただただやるせない気持ちになる。
     だが、ティルはその悲しみを振り払うように軽く頭を振って、真剣な表情でまっすぐに前を見据えた。
    「だけど、たとえ絶望した先の選択だったとしても。ルックが『正しい』と信じた末の選択だったのならば、僕はそれを否定したくはない」
     その真摯な言葉に射抜かれるような心地がした。
    「それに『自分の手で未来を切り拓いてみせる』という思いは決して絶望でも自暴自棄でもない。紛れもない『意志』だと僕は思う」
    「そう……ですね」
     正直に言えば、ルックの選択は間違っていたんじゃないかと感じてしまう。もっとやりようがあったんじゃないかと思うからかもしれない。何故一人でどうにかしようとしてしまったのか、とも。
     ただ、それを「間違っていた」「そうすべきでなかった」なんて、他人が後から好きなように言うだけならいくらでも出来るのもまた事実だ。確かに歴史なんてそんなもので、負けた人々の『正義』は後から好き勝手に言われるものなのかもしれない。だが、思想は相容れなかったとしても、その思いは尊重すべきものであるということを自分はよく知っている。かつて自分の親友が抱いた『正義』もそういうものであったからだ。
    「僕もルックの選択は意味のあるものだと思います。……それがいくら『間違っていた』としても」
     ティルと言葉を交わした今でも彼のことは納得は出来ないが、その意志は理解したいと心から思っていた。はあ、と大きく息を吐くと喉の詰まるような息苦しさが少しだけ解消された気がする。なんとなく窓の方に顔を向けるとオレンジ色に染まった外の景色が目に入ってきた。
    「ただ、思うんです。ルックの選んだ道を僕が『間違っている』と感じてしまうように、僕が正しいと信じたことを人々に受け入れられなく日がいつか来るんじゃないかって」
     そしてここからは自分の問題であった。これまでどうにか留めてきた懸念が、今回のことをきっかけに堰を切ったように溢れてくるのを止められずにいた。
    「今はまだクラウスやフィッチャーも、かつての仲間がたくさんいますけど。もしこれから更に年月が経って、彼らを見送ってしまったら、自分を理解してくれる人がいなくなってしまうような……そんな気がするんです。そもそも彼らだっていつかは自分と道を違えるかもしれない」
     結局のところ、自分はずっと不安だった。十五年前に大統領になってから、いや、それよりも前からかもしれない。自分は人々の期待を裏切らずにいられ続けるのか、そう在ることができなくなる日がくるのではないかとずっと恐れていたのだ。
     溢れ返る心情を留めることが出来ずについ目の前の青年に吐露してしまった。この人は大統領となった今でも尊敬すべき先輩で、無意識に頼ってしまっているのことに気が付く。それではいけないと自戒していると、ティルはそんな思いを知ってか知らずか、取り乱した子どもを宥めるような穏やかな口調で語りだした。
    「ずっと変わらないでいることなんて、僕たちには出来ないよ。だって生きているんだから」
    「生きて、いる……」
    「そう。生きている限り人は変わるものだし、その流れを留めようとするのは傲慢であると僕は思う」
     声音こそ優しかったが、彼の口から『傲慢』という強い否定の言葉が出てくるのは意外だった。
    「確かに僕たちの老いは止まってしまったのかもしれない。だけど、心までは成長を止めてしまった訳ではない。だから自分が変わることを恐れる必要はないんじゃないかな。そして、同じように周りの人たちが変わることも恐れる必要はないよ」
     切々と語られる言葉をただただ聞き入ってしまう。
    「それに、次の世代を恐れることもないんじゃないかな。人の想いは変わるものだけど、誰かから誰かへ託されていくものでもある」
     僕たちはいろんな人の想いを託されてきたはずだよ、とティルが言った。そしてわずかに人々の声が聞こえてくる窓の外に目を向ける。
    「そして君はこれからも多くの人の期待と願いを託されていくんだろう」
    「それは僕がこの国を預かる身だからですか」
    「そうだね。でも、それでもだよ。もしそれが重荷になってしまったなら逃げてもいいんじゃないかな」
    「……逃げるのは、誰かの負担にはなりませんか」
     どうしても『逃げる』という言葉には及び腰になってしまう。かつての過ちがまざまざと脳裏に蘇るからだ。
    「それはまあ、そうだろうけど。ちゃんと段階を踏んで、誰かに少しずつ託していったっていいんじゃないかな」
     まあ、僕は何も言わずに逃げちゃったんだけどね。彼にしては珍しく少しおどけた口調だったが、それを笑うことはできなかった。
    「また、そういう言い方をして」
     この人は決して無責任に自分の役目を投げ出したのではない。自らの紋章の呪いが近しい人たちを脅かすのを避けただけなのだ。かつての自分とは違うことをよく知っている。そのせいか思いの外刺々しい言い方になってしまったようで、ティルがごめんごめん、と軽く笑って謝ってきた。どちらかと言えば過去の自分に対する戒めのようなものが溢れてしまったのだが、彼を咎めるように聞こえてしまったようで反省する。
    「まぁ、今回の件でまた僕たちは託されてしまったのかもしれないね。しかもかなり大きなことを」
     ティルはそう言ってテーブルに片肘をついた。
    「『灰色の未来』……もしそれが本当なら、僕らに出来ることはあるんでしょうか」
    「現状、どうすべきか対抗策は全くないのが厄介だな。いつ訪れるのかも分からない、それに誰かに話したところで信じてもらえるかも怪しい」
     それは確かなことだ。真の紋章の継承者の、それも一部にしか見えない紋章の記憶など、理解されるのは極めて難しい。自分もルックが伝えたことでなければ信じ難かったはずだ。
    「……ハルモニア。今まで避けてきたんだけどね、真の紋章に関する手掛かりがあるとすればあそこしかないようにも思う。だからあの国に足を向ける必要があるのかもしれない」
     これは自由に動ける僕にしか出来ないことだからね。ティルが仕方ないという風に眉を下げた。この人はどんなに困難なことでも自らのすべきことを探しているのだと思うと、自分もただ嘆いてばかりではいられないと思わされる。
    「そうなると、相手は『国』です。すぐには必要がないでしょうが、国家の後ろ楯が必要になるときがあるかもしれません。その時は任せてください」
    「頼もしいね、大統領殿」
     彼にそう言われると嬉しいので、やはり自分は後輩気質なのかもしれない。つい得意になって軽口を叩いてしまう。
    「できれば、大統領としてのやる気が残っているときならありがたいんですけどね。長期戦になりそうですが、あと二十年くらいの間なら隠居軍師だって引っ張り出してきますよ。ハルモニアにはハイイースト動乱でも散々痛い目を見てもらいましたから」
    「あはは、やっぱり君たちの関係は少し羨ましい気もするな。信頼ゆえに成り立つその関係が」
     それからしばらく二人で顔を見合わせて笑い合った。容易ならざる問題を目の前にしながらも、ただ諦めることなく前向きでいられるのは有り難いことだと思う。すっかり暗くなった外に、灯された街の明かりがほのかに浮かんでいた。
    「これから、きっと忙しくなりますね」
     まだ見ぬ明日を思いながら、ティルにそう声を掛ける。
    「お互い、知ってしまった以上は何もしないでいることはできない性分だろう?それにルックが命を懸けて伝えてきたことなら、尚更」
     命を懸けて伝えた、という言葉が改めて重くのし掛かってくるように感じた。
    「僕はあいつのこと少し恨みますよ。……風が吹く度にそのことを思い出してしまいそうで」
     また一つ、背負うべきものが増えたなと思った。生き続ける限りはその『荷物』は増え続けるものなのかもしれないが。十五年が経った今も、ジョウイのこともナナミのことも死んでいった大切な人たちのことは忘れはしない。そして、これからはルックのことも。一生忘れさせてはくれないというのは、呪いと近しいものに違いはない。
    「それもまた、ありがたいことだよ。たとえ世界が彼のことを忘れたとしても僕らだけは覚えていられるんだから」
     ただ、たとえ呪いのように一生背負っていくものであっても価値はある。
    「そうですね、そう簡単に『忘れない』ということは託された僕たちの特権なのかもしれません」
     生きる人が忘れない限りは人の遺志というものは生き続けるのだから。だから風の在る限り、僕は彼のことを忘れはしない。
     窓からの涼やかな風が僕らの頬を撫でて、そして消えた。 
     ティルは翌朝早くにまた一人で旅立っていった。ハルモニアに向かう前に一度トランに帰っておきたいとのことで、これからラダトに向かうという。
    「もともと一度帰る予定だったからね。思いがけず会えて良かったよ」
    「こちらこそ、いろいろとありがとうございました。ティルさんにはいつも助けてもらってばかりです」
    「困ったときはお互い様だよ。僕も君と話せたから前向きになれたんだと思う」
     ティルが肩をぽんと叩いてきた。
    「じゃあ、元気で。またいつか会おう」
     そう言って彼は手を振りながらしっかりとした足取りで城を発った。朝露に濡れて光る青々とした草原を歩んでいく背中をしばらく見つめていた。

     視察最終日の今日は予備日みたいなもので、ティルを見送ってからの一日はほとんどやるべきことがなかった。今回の視察で決まった計画を元にこれから保全のための改装工事が始まるという。そうすれば、この城の中もまた昔のようにたくさんの人で賑わうのだろう。期待に胸を膨らませる反面、少し破れかかった雰囲気に愛着のあったのも事実で、残った時間のほとんどをほとんど空っぽになった古城を歩き回ることに費やした。一人で城のあちこちを隅々まで訪ねると、名残惜しいという気持ちは幾分か和らいでいた。
     そうしている内にあっという間に時間は過ぎて、自分もこの城を発つ時がやってきた。長いようなあっという間だったような、あまりにいろんなことが目まぐるしく起きた三日間だった。城の入り口にはもう既に共にミューズへ帰還する役人や護衛の兵士たちが整然と待機している。この城の管理人の男もまた、見送りのために姿勢を正して自分のことを待っていた。待たせては悪いので少し早足で向かう。
    「ありがとう、世話になったね」
    「いえ、大統領。こちらこそわざわざご足労いただきありがとうございました。おかげでこの城も良い形で賑わいを取り戻してくれるでしょう」
     管理人は笑顔で恭しく一礼した。それから少し顔を寄せて小声で言った。
    「実はお伝えしておきたいことがありまして。今度、孫が生まれるんです」
     思わずえっ、という驚きの声が洩れてしまった。
    「そうなの? それはおめでとう」
     唐突に切り出された話題に面食らったが、おめでたいことには違いない。
    「孫かぁ……娘さん、昔はまだこのくらいの背丈しかなかったのに」
     言いながら、腰の高さのところで手を振ってみせる。目の前の男は照れたようにはにかんだ。歳を重ねてもこの笑い方は変わらない。その笑顔に重なるように十五年前はまだ白髪もなく若々しい兵士であった彼と、その腰に抱きついていた可愛らしい少女の姿が思い出された。
    「大統領、いえ、リオウ様。お願いがあるのです。どうか私の孫の名付け親になってはいただけませんか」
    「僕が?」
     突然の要望にまたしても目を丸くしてしまう。
    「昔から名前を考えるセンスがないって言われてきたからなぁ……」
     以前偽名を考えた時は散々な評価を受けてしまった。今でもちょっとしたトラウマだ。
    「ここでリオウ様とお会いできたのも縁だと思うのです。ですから、どうか」
    「参ったな、責任重大じゃないか」
     自分が名付け親になるなんて考えたこともなかったのでその責任の重さを果たせるかは不安にもなる。だが、どうしてもと懇願する彼の姿をみると無下に断るのも悪い気がしてきた。
    「男の子と女の子、どっちだろう。両方考えておかなきゃいけないよね」
     心を決めてそう伝えると、男はぱあっと満面の笑みになって「ありがとうございます」と頭を下げた。そして再び顔を上げてこう言った。
    「男の子か女の子か、そればっかりは出会ってからのお楽しみですな。娘はしきりに『元気にお腹を蹴ってくるから、きっと男の子だ』って言っていますけれどね」
    「あはは、おてんばな女の子だっているよね。でも、もしかしたら母親の勘ってやつかもしれないよ」
     そんな会話を最後に少しだけ交わして、大統領含む視察団はノースウィンドゥの地を旅立った。計らずも重大な約束してしまったせいで、ミューズへ帰ってからもしばらくはあちこちの本を引っ張り出してみたりアドバイスを貰いに行ったりして頭を悩ませることになったのは言うまでもない。そうして一週間は悩んだ末にどうにか男女の名前を一つずつ考えて手紙にしたためたのは、また別の話である。こうして、三日間の城の視察とその後のあれこれは幕を閉じたのだった。

       ◇   ◇   ◇

     大統領のデュナン城視察から二ヶ月後のこと。
     サウスウィンドゥの外れにある一軒家を一人の青年が訪れた。フードで顔を少し隠してはいたが、外套に身を包んだその姿はよくいる旅人らしいものである。ただ、供としている厳格そうな褐色の男性──こちらも外套を纏って素性をを隠しているようだったが──が鋭い目付きで辺りを見渡しているのが異質でもあった。彼がいかにも護衛であるという雰囲気を醸していたためにその青年がただの旅人でないことを暗に示してしまっている、と彼らを迎え入れた女性は感じていた。
    「リオウ様、私はこちらでお待ちしておりますので」
     褐色の男性は迎え入れを丁重に断ると、声を潜めて青年にそう言った。
    「ありがとう、ハウザー」
     リオウが感謝の言葉を述べると、ハウザーは軽く一礼してから身を翻した。家を背にして背筋を伸ばして立つ姿も、辺りに向ける鋭い視線も、閑静な住宅地には似つかわしくない光景ではあった。女性に招き入れられて室内に入ったリオウが「一人で良いって言ったんだけどね、あれじゃ逆にバレるよね」と眉を下げてはにかんだ。それにつられて女性も思わず口元を綻ばせる。
     リオウがフードを後ろに下げると、隠す必要のなくなった顔がはっきりと晒される。青年といって差し支えのない年齢のはずだが、少し跳ねた焦茶色の前髪のせいか、その顔立ちはよりあどけなく見えた。まだリオウが『大統領』ではなく『軍主』であった頃、幼かった彼女が父親の陰に隠れながら見た姿とほとんど変わっていない。
     女性が生まれたばかりの我が子の眠るベッドへと案内すると、リオウは慎重すぎるほどゆっくりと歩みを進めた。人の気配に赤子がその瞳をぱちりと開くと、
    「ああごめん、起こしちゃったかな」
     と申し訳なさそうにしていた。女性が大丈夫ですよと声を掛ければ、リオウはほっと安堵の息を吐いた。大統領と言うにはあまりに親しみやすい普通の青年らしい仕草を、母親である彼女は微笑ましく感じたようだった。女性は愛しい我が子の名を呼んで、その頭を優しく撫でる。
    「やっと会いに来られたよ」
     リオウは目を合わせるためにベッドの傍らにしゃがみこむ。赤子は突然の来訪者に円らな瞳を瞬かせたが、どこか興味深そうにじっと青年の顔を見つめていた。
    「まず、この国に生まれてきてくれてありがとう。君と、君のご家族にありがとうの気持ちでいっぱいだ」
     リオウはそっと手を伸ばし、まだ小さな手に指一本で優しく触れる。するともみじのような柔かな手が彼の指を握り返した。
    「どうか君は周りの人たちを愛し愛され、好きなものを見つけて、自分の信じた道を歩んで、元気に健やかに育つんだよ。君がその名を誇りに思えるよう、そして君の『未来』が明るく幸多いものであるためにも、僕も頑張るからね。どうかまた顔を見せてほしいな」
     少し開いた窓から新緑の香りを孕んだ風が舞い込んで、新しい季節の気配を部屋に運んでくる。

    「君に出会えて光栄だよ、───」
     
    「手紙、ですか」
     フッチは目の前に差し出された書状を目を向けた。少し古びた羊皮紙を巻いて麻紐で括り、赤い封蝋できちんと閉ざされている。赤い封蝋はビュッデヒュッケ城でよく使われているらしい、少し模様の欠けた古めかしいものだった。一国の神官将が用意したものにしてはあまりに庶民じみていたのでまじまじと見つめてしまう。
    「これは、僕が手にして良いものなのでしょうか?」
    「神官将という立場ではなく、ササライという男が個人的に宛てたものだからね。下手にハルモニアの物を使って本国に悟られることのないように、という意図もなくはないのだけれど」
     フッチが戸惑いを覚えているのを見て、目の前の男——ササライは簡潔に理由を述べた。
     ビュッデヒュッケ城の敷地から出て少し歩いたところにひっそりと佇む石板。昔から城にいた住人もその存在をつい最近まで知らなかったという。人々がとりあえず『石板の地』と呼称しているその場所に、フッチとササライは佇んでいた。いつの間にか現れたのか、それとも存在を認識していなかっただけなのかは定かではないが、ビュッデヒュッケ城に集った仲間の名が一人一人刻まれているそれは『約束の石板』と呼ばれるものだ。門の紋章戦争でもデュナン統一戦争でも軍主の下に一〇七人の宿星が集結し、その名が刻まれていったという。その双方に関わったアップルが城の住人たちにそう語った。
     と言ってもそれが人々にとって大きな役割を持つかと言えばそうではなかったので、この地はひっそり閑としていた。長きに渡る戦いが終わり、城が歓喜と祝福の声に包まれた今は尚更である。今夜は祝宴だというから、今日は一層その準備のために朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。料理にかかりきりになる者や会場の設営をする者に混じって、フッチもまた例に洩れず力仕事買って出て手伝いをしていた。合間を縫って竜洞騎士団へと帰還するための準備を始めていると、ササライが一人でやってきて「ちょっと頼みたいことがある」と声を掛けてきたのだった。用件を聞こうとするとササライは「人払いをしたい」とちらりとシャロンに視線を向けた。自分が除け者にされたことに生意気盛りの少女は駄々を捏ねたが、
    「ごめんね、お嬢さん。ちょっと彼をお借りするよ」
     ササライがにっこりと笑顔を浮かべて言うと、シャロンは渋々引き下がった。穏やかながらも有無を言わせない雰囲気があったので、彼女も従う他なかったのかもしれない。シャロンの恨めしそうな視線を背に受けながら、フッチはササライと連れ立ってこの地にやってきたのだった。
    「君は、トランの竜洞騎士団領に戻るのだろう?その前に一つ、頼まれ事を引き受けてくれないかな」
     城の喧騒がすっかり遠くなると、ササライはさも当たり前のことを言うようにさらりと言った。
    「デュナンの大統領に、この手紙を渡してほしい」
     デュナン。彼の口からその言葉が出てくるとは思っていなかったのでフッチは面食らった。大統領といえば確かにフッチもよく知る人間だが、ハルモニアの神官将が一国の大統領に宛てた手紙となれば責任の重さが全く違う。手紙というより国家間の親書と言った方が正しいはずである。まして、それをトランの人間である自分が預かって良いのだろうか。フッチは逡巡して手紙を受け取りかねた。そうして、冒頭のやりとりに戻る。
    「とにかく、これは私が君に託したいと思ったものなんだ。だからどうか受け取ってほしい」
     ササライはあくまで『個人の依頼』という体でこの手紙を渡したがっているようだった。
    「そこには僕が知り得る限りのルックのことを記したつもりだ。彼が語ったことの全て、それはハルモニアという国にとっては不都合なことも多い」
     ササライは目を伏せて語り始めた。普段浮かべている柔和な微笑みは消え、神妙な面持ちをしている。そうしているとかつての友人によく似ていて、やはり双子なのだなという考えがフッチの頭を過った。
    「ハルモニアの語る歴史に表立ってルックの名が現れることも、何故彼が真の紋章の破壊を成し遂げようとしたかも記されることはないだろう。トランには君自身が報告に戻るのだから良いとして、デュナン国には全てが正しく伝わることはないと思ってね」
     ササライは臥せていた目をゆっくりと開く。それから、再び手紙をフッチの目の前に差し出した。勢いに押されてフッチは思わずそれを受け取る。ただ、浮かびあがった疑問がつい口から溢れ出た。
    「確かに、おっしゃる通りだとは思うのですが……」
     しまったとは思ったが、勢いで出てしまった言葉を途中で止めるのも却っておかしいだろうと、フッチは背筋を正してはっきりとした声で問い掛けた。
    「どうして、あなたがそこまでしてくださるのですか」
     意外な質問だったのか、ササライは何度か目を瞬かせた。それからふっと自嘲的に笑った。
    「僕一人で抱えるには、あまりに大きなことのように思えてしまったのかもしれない。だから慈善のつもりではないよ。ただ……」
     そう語るササライの表情はいつもの自信と余裕に満ちたものではなく、力ない笑顔が少し痛々しく感じられるほどだった。
    「かつてルックの仲間であった君たちには、真実を知る権利があるだろう?」
     その言葉に胸が締め付けられる心地がして、フッチは思わず唇を噛み締めた。

       ◇   ◇   ◇

     竜騎士の青年が去った後、ササライは一人石板の地に佇んでいた。つい先ほど、手紙を受け取ったフッチが何かを堪えるような声で「ありがとうございます」と言ってしっかりとした両手で自らの右手を握ってきた感触がまだ残っていた。
     もう用も済んだのだからすぐにその場を後にしようと思いながらも、この『約束の石板』と言うらしい巨石がどこか気に掛かっていた。何物かも分からない存在に自らの名が刻まれているというのは得体の知れない恐ろしさを覚えたが、何故かこの場所から離れがたい気もしていたのである。自分の中に芽生えた感情の答えを探すかのように、ササライはそっと目の前の石板に触れた。手に感じるひんやりとした質感と風が草原を揺らすざわめきだけが感覚の全てを満たしたように思えた。
     ガサガサと一際大きく草を掻き分ける音が耳についたのはその時だった。風によるものではないと後ろを振り返ると、一人の少女が長い黒髪をなびかせながら慌てた様子でこちらへ駆けてくるのが見えた。白いスカートの裾に枯れ草が付くのにも構わず、息を切らせながら近づいてくる少女にササライは思わず目を丸くしていた。はて、一体こんな僻地に何の用だろうか。お互いの顔がはっきりと分かる距離まで近付いたところで、彼女は口を開いた。
    「あ……あれ?? わたし、また間違えちゃった???」
     困惑した顔でこちらを見つめてくる少女に、ササライはなんと声を掛けるべきか思案を巡らせた。そんな思いを知ってか知らずか、なおも彼女ひとり言葉を続ける。
    「そっか、でもそうだよね。やっぱり、そうだったよね」
     独り言にしては大きな声だったので話しかけているのかとも思ったが、要領を得ないその言葉はまるで自分自身に言い聞かせるようなものだとも思えたので、ますますササライは戸惑いを覚えるばかりであった。
    「えっと、あなたは……」
    「あっっごめんなさい!」
     少女は勢い良く頭を下げた。そのままの勢いで元気良く頭を上げたので、長い黒髪がふわりと舞い上がる。
    「わたしはビッキー! 特技はテレポート……かな?」
     少し乱れた髪を気に留めた様子でもなく、花の綻ぶような笑顔でビッキーは言った。
    「ビッキー……じゃあ、あなたがあの、」
     城に来た時期の遅かったササライにもその名前に覚えがあった。というより、一方的に知って興味を抱いていた人物だった。
    「私はササライ。見た通りハルモニアの……」
    「ササライさん、ササライさんね」
     ビッキーは彼の言葉を遮って、ササライの名を反芻した。
    「うん、大丈夫。ちゃんと覚えました!」
     自らの言葉を遮られることなどほとんどなかったササライは一瞬面食らったが、ビッキーにとって立場など重要なものではないのだろうと納得することにした。
    「あなたのことはよく聞いています。十八年前の門の紋章戦争ではトランの英雄ティルの率いる解放軍で、また十五年前のデュナン統一戦争でも同盟軍リーダー、リオウとともに戦ったのですよね」
     ササライが知っている彼女の経歴はこうだった。先刻話をしていたフッチもビッキーとは旧知の仲であるはずだ。
    「十八年前?? 解放軍??? デュナン????」
    「……あれ、違ったかな」
     確認のために何気なく問いかけた内容にビッキーが頭を悩ませていた様子だったので、ササライはおやと首を傾げたが、
    「あっ、でもティルさんやリオウさんはお友達です!」
     と、目の前の少女はあまりに屈託のない笑顔で言い切った。ササライは思わず苦笑する。
    「はは……それならきっと間違いないね」
     いくら彼女と同世代の人間とはいえ、一国の英雄を「友達」と言い切ってしまう胆力はどういうことだろう。いや、明らかに外見も中身も十代の少女であるビッキーが十八年前の戦争に関わっていたというのがそもそもおかしいのではないか?どうにも相手のペースに巻き込まれている。そのままではいけないとササライは咳払いを一つして語り始めた。
    「ビッキーさん、あなたのお話が壁新聞に載っているのを拝見したのです」
     ササライが彼女に興味を抱いたのは、一枚のある壁新聞に書かれた記事がきっかけだった。ビッキーが過去にルックとした他愛のないやり取り。「ピクニックに行こう」と誘ったらすげなく断られてしまった、けれどその後すぐルックは弁明に来てくれた。そんな他愛のないものだったからこそ、ササライはその目を疑ったものだ。
    「あなたのおっしゃるルックは、私が知っている彼の姿とは全く違うように思えた」
     ササライにとってルックとはまさしく青天の霹靂であった。十五年前、突然目の前に現れた自分と同じ顔の少年。相対したときに覚えた纏わりつくような不快感も、見知らぬ相手が自分のことを知っているという恐怖感もよく覚えている。あのとき直感的に「こいつは僕の平穏を壊す人間だ」と感じたのは間違っていなかったと思っていた。だから、この城にやってきて件の壁新聞を見たときに驚きを隠せなかったのも事実だった。ビッキーの言うルックはいかにも普通の思春期の少年といった風で、これが自分を長年悩ませてきた存在だとは思えなかったのだ。
    「過去のルックを知っているあなたにお聴きしたい。何が彼を変えてしまったのだと思いますか」
     だからササライは「ルックにもかつてはそういう人間らしい部分があったのだろう」と考えることで折り合いをつけた。それが十五年という時を経て、世界への憎悪という感情に飲み込まれてしまったのだろうと思うことにした。そして、そう考えると、何がルックを真の紋章の破壊という業へ導いたのか知りたいと思い始めていた。その答えそのものでなくても、かつてのルックを知る人間ならば近しいものを知っているかもしれない。ササライはそんな淡い期待を抱いていた。
     だが、続いたビッキーの答えは彼にとってあまりにも意外なものだった。

    「ルックくんは、……変わってなんかいないです」

     彼女は変わらず柔らかな微笑みを浮かべていた。しかしはっきりと、ビッキーはササライを見据えてそう言った。そのまっすぐな視線には非難の意図はなかったが、ササライは自身を縫い留められるような心地がした。
    「ルックくんは、怖そうで冷たそうでひどいこともいっぱい言う人だけど……とても優しい人なんです」
     ビッキーは何かを回想するように空を仰いだ。雲一つないどこまでも続く青が、彼女の視線の先に広がっている。
    「あの戦いのときもたくさんの人が亡くなってみんな悲しくて……グレミオさんやナナミちゃんがいなくなっちゃってわたしも悲しかったし、ティルさんもリオウさんも、みんなみんな泣いていました。あの時のルックくんは泣いてはいなかったけど……すごく苦しそうで」
     空を見上げたまま、ぽつぽつとビッキーは語った。彼女の言葉の中に出てくる名はササライには覚えのないものもあり、彼に聞かせようというよりは自らの記憶を辿ったままに語っているようでもある。だがビッキーの口調は遠くにあるものを手繰り寄せて懐かしむというような感傷的なものではなく、どこか臨場的な悲壮があった。彼女にとっては遠い過去の出来事も極めて身近なものなのだろう、とササライは感じた。
    「アップルちゃんもフッチくんも大人になってて、わたし、すごくすごくびっくりしちゃって……ルックくんは変わってなかったけど、昔よりずっとずっとつらそうだったから助けてあげたくて」
     でもわたしにはどうしたらいいか分からなかったから。ルックくんと戦うしかなかったんです。
     青空を見つめたまま語るビッキーの横顔にほんの少し翳りが浮かんだ気がした。ササライは掛けるべき言葉を失ってただ彼女の横顔を見つめることしかできなかった。ビッキーはササライに一度顔を向けると、ゆっくり石板の前まで歩み寄った。
    「もうルックくんはいないんだって分かってても、またここに来たらいるんじゃないかなぁって」
     そして石板の前でしゃがみこみ、そっと砂埃でざらついた表面に触れながら彼女は呟いた。
    「だからね、ササライさんがここにいるのを見たときびっくりしちゃって。……わたし、また間違えちゃった」
     わたしいつも間違えちゃうんです、と笑うビッキーを見て、ササライは再びやりきれない気持ちになった。
    「そうか……そうだったのか」
     何故この場所から離れがたかったのか、ササライはその理由が分かった気がした。この『約束の石板』とは、それほどまでにルックと縁の深いものなのだ。ただ彼が定位置にしていたと言うだけのものではなかったのだ。彼がそれまでの役割を捨てた此度の戦いの中でこの地を訪れたかは定かではないし、この場所が縁のある土地であるとは言えない。だがビッキーにとって、そして彼女だけでなく過去の戦争でルックとともに戦った仲間たちにとって『石板の前』とは特別な、ルックの居場所であったのは間違いないのだ。
     そう考えると、この石板がある意味では彼の墓標のようにも思えてきた。ひっそりと平原の片隅に立てられ、限られた人間しか訪れることのないもの。雨風に晒されて、いつかは風化してしまうもの。多くの人にとっては意味などなく、永い時を経れば存在を知る人すらいなくなるもの。
     正しい歴史とは常に勝者が作り出すものだ。否、勝者の作る歴史が正しいと伝えられるものだ。それぞれが『正義』を掲げて争ったとしても歴史に刻まれるのは常に勝者のものであり、敗者の理想は『悪』と断じられる。そして、勝者にとって不都合な事実は歴史にすら残されずにひっそり消えていくのだ。だからルックの名は、恐らく歴史には残らない。彼の存在はハルモニアにとってあまりにも不都合であるのだから。この誰にも守られず、ただ風雨に晒されていつかは消えるこの石板と同じ運命を辿るのだろう。
     そう考えるとササライはこの石板を直視することが出来なくなった。逃れるように背を向けると一気に虚脱感が襲ってきて、石板を背にその場にしゃがみこむ。その姿を見て、石板に向かう形で座っていたビッキーはくるりと体を翻して石板にもたれ掛かった。
    「ふふ、ここからの景色ってこんなに綺麗なんだ」
     そう言うビッキーの顔からは先ほど見えた翳りは消え、足を伸ばしてリラックスした様子を見せていた。
     どうして彼女はこんなにも穏やかでいられるのだろうか。かつての仲間と戦ってなお、こんな柔らかな微笑みを湛えていられるのだろうか。対して自分はといえば、長年自らを縛り続けた因縁を断ち切ったはずなのに、どうしてこんなに息の詰まるような感覚を覚えるのだろう。
     考えるほどに喉の閉塞感は増してくるようで、ササライはそれを吹っ切るかのように深く息を吸い込んだ。ハルモニア本国にいるときは感じられない、馴染みのない草と土の香りが今は心を少し穏やかにしてくれた。
     ササライは片膝を立てる形で石板に背を預けると、おもむろに懐から小さな金属の指輪を取り出した。左手に乗せたそれを手の上で転がすと、少し歪んだ円形は鈍く光を反射する。
    「それは???」
     動く度に煌めくそれに、ビッキーは興味を引かれたようだった。ササライはしばしどう切り出そうか逡巡したが、意を決して話し始めた。
    「崩れ落ちた儀式の地へカラヤクランとゼクセン騎士団とで調査に向かうということだったから、私も同行させてもらったんだ。……結論から言えば、我々にはルックも他の破壊者たちも発見することできなかった。特に『儀式の地』の最深部……最後にルックがいた場所は特に倒壊が著しく、立ち入ることさえ困難だったから無理もないことかもしれない」
     ササライは立てた膝に乗せていた左手を持ち上げて、ビッキーに指輪がよく見えるように近づけた。
    「ただ、そこでこれを見つけたんだ」
    「それが、その指輪?」
    「そう、これはルックが身に付けていた指輪。私の手にあるものと同じもの……」
     ササライは空いていた右手を掲げて見せた。中指には同じ意匠の、しかし歪みのない美しい形のままの指輪が輝いている。
    「これは元々はハルモニアで作られたんだ。杖の代わりの媒介として自身の魔力を放出するもので……まぁとにかく、この世界には数少ない貴重なものと思ってもらえれば」
     指輪に関する説明を始めたところでビッキーの頭にたくさんの疑問符が浮かんだのが見えて、ササライはつい笑みを溢した。ビッキーが頷いたのが見えたので、ササライは話を続けた。
    「ルックと対峙した際に彼がこれを手にしていることに気が付いた。そして、ハルモニアで神官将としての地位を与えられた時にヒクサク様から授けられたのだろう、とも思っていた」
     ルックが自分と同じ指輪をしていることに全く違和感を覚えなかったのは確かだった。それを気に掛ける余裕がなかったという方が正しいのかもしれない。
    「だけど、実際にこれを手にして気が付いたんだ。いくら倒壊に巻き込まれて傷が付いたとしても、このように内側に細かな傷が付いたり、増してこんな風に錆びついたりすることはない」
     ビッキーはササライの手の上の指輪に顔を近づけてまじまじと見つめた。倒壊の衝撃で少し歪んだ指輪の内側に、細かく刻まれた傷と黒ずんだ染みが目についた。
    「これは長年彼が持ち続けていたもの……恐らくはルックが生まれたときに与えられたものなのだと。彼が魔術師レックナートに連れられてハルモニアから逃げ出したときに、彼とともにこの指輪もハルモニアから持ち出された」
     彼は一つ息を吐いて、指輪へ向けられていた視線をビッキーに移した。
    「ビッキーさん、過去の戦いでルックはこの指輪を身に付けていましたか?」
    「うーーーーん……つけていなかったんじゃないかなぁ……ルックくんは杖を持って戦っていたから」
    「やはり、そうですか」
     ビッキーは視線を上げて記憶を巡らせた。ルックの手に指輪がなかったというその言葉は、ササライの表情を曇らせた。
    「この指輪には倒壊に巻き込まれた時に付いたと思われる傷の他にも、古い傷が多く付いていた。二度の大きな戦争で死線を潜り抜けたならばそれも必然だと思ったけれども、そうでないとすれば……」
     言葉を重ねながら、ササライは眉を寄せて自嘲的に笑う。
    「ビッキーさん、僕はね。この傷だらけの指輪を見ると思うんですよ。恐らく幼い頃の彼は、サイズの合わない指輪を与えられて、文字通り血の滲むような思いをしてきたのだろうと……ルックがいかにハルモニアで過酷な状況に置かれていたかということをね」
     彼は掌に爪痕が残るほど強く握り締めた。小さなはずの円環はその存在感を増す。
    「あいつは僕のことを『兄さん』と呼んだ。同じ生まれでありながら、何も知らずに生きてきた僕への皮肉だったんだろう」
     彼にとって忌まわしい記憶の象徴であったであろう指輪を身に付けていたのは、自分や『父』に対する憎しみを忘れないためだったのかもしれない。そう、ルックにとって自分とは誰よりも憎い存在だった。何も知らずにのうのうと生きてきた『兄』を許せなかったはずだ。
    「何故この指輪だけが見つかったのかは分からない。ただ僕は、これを見つけた時、『思い知れ』と言われたような気さえしたんだ」
     言葉を全て吐き切ると、途端に掌の中に握りこまれた指輪が重さを増したように感じた。指輪を握りしめたまま顔を落としたササライに、ビッキーは掛けるべき言葉を探してあちこちに視線を動かしていた。
    「ササライさん、わたしにもどうしてルックくんの指輪が見つかったかは、分からないです」
    「そうですよね。僕はどうしてあなたにこんな話を……」
     ササライは力なく頭を降る。これまでほとんど話したことのない少女に胸中を吐露してしまったことに気が付いて、いたたまれなさを覚えていた。
    「でもルックくんは、ササライさんがこれを持っていてくれたら嬉しいんじゃないかな」
    「えっ?」
     ビッキーは良いことを思い付いた、というように目を輝かせた。思いがけない言葉にササライは呆気に取られる。
    「ササライさんはルックくんのお兄さん、なんですよね?そうしたら大切な家族だから……自分が最後まで持っていたものなら、お兄さんに渡したいって思うかなって」
     ビッキーの快活な言葉を「そんなことあるはずがない」と一蹴したい気持ちが芽生えたが、彼女があまりに確信に満ちた表情でこちらを見つめてくるのでササライは頭を抱えることしかできなかった。整えられた前髪がくしゃりと指で崩される。
    「……あはは、参ったな。まさか、そういう見方もあるんだな」
    『家族』。生まれてこの方ササライは自分の家族のことなど考えたことなどなかった。血の繋がる人間の存在がないことを全く疑問に思わなかった訳ではない。ただ「物心の付く前に両親は死んだ」と言われればそういうものなのだろうと納得していた。それほどまでに家族に対する感情とは希薄なもので、重要なものだとは思えなかったからだ。思う余地がなかった。ビッキーはなおもまっすぐな言葉を重ねる。
    「きっと、ルックくんはササライさんに忘れてほしくないんじゃないかなぁって」
     この指輪にルックの遺志が残っているとして、彼女の言葉がそれに沿うかといえばきっとそうではない。ただそれでも、『忘れてはいけない』というのは間違いない。いかに歴史に刻まれなかったとしても、彼の感じた怒りや悲哀や焦燥の全ては紛れもない現実であるのだから。
    「でも、そうだな……それはあなたの言う通り、かもしれないな」
     ふと、最後にルックと相対したときの彼の言葉がササライの脳裏を過る。
    『兄さん。僕は、あなたがこの世界で一番憎い』
    『だが同時に唯一哀れみを感じる存在でもあるんだよ』
     彼が最後に見たのは、そう言って背を向けたルックの姿だった。あの時は意図を図りかねたが、もしかするとあの時のルックはササライに唯一の『情』を向けたのかもしれない。ビッキーの言葉は深く沈みこんで行き場の失った感情を掬い上げてくれたような心地がした。そして、この常識という尺度では測りきれない摩訶不思議な少女に救われたのだとササライは感じていた。そして恐らくそれは自分だけではなかったのだろう、とも。
    「でも……もしかしたらルックはあなたのような人にこそ、これを託したかったのかも」
    「えっ??? どうして?? ですか???」
     ビッキーはササライの言わんとすることが理解できず、ただただ困惑した表情を見せた。
    「でも、わたしはいいんです。だって風が吹く度にルックくんのことを思い出しますから!」
     だからそれはササライさんは持っていてください、と言いながらビッキーは固く閉じられたままのササライの左手を両手で優しく包み込んだ。折からの風が彼女の黒髪を揺らす。ビッキーはゆっくりと立ち上がり、その風を受け止めるように両手を広げた。
    「あなたのような仲間に恵まれたことに感謝します」
     ササライも腰を持ち上げてビッキーに感謝の意を述べた。社交辞令ではなく、心からの言葉だった。
     風の音に紛れて、聞き慣れた部下の声が自らを呼ぶのをササライは耳にした。神官将であることを忘れていた時間に別れを告げる時がやってきたのだ。
    「あなたに大地と風の加護があらんことを。……どうか、お元気で」
     右手を胸に当てて、ササライは自らの奥深くにある紋章の存在を確かめる。そしてそこから溢れ出す魔力をビッキーに向けるように右手を差し出した。溢れた力が光の粒子となってビッキーを包んで消える。
    「ありがとうございます! ササライさんもお元気で! じゃあ、わたしは皆さんを送らないといけないので行きますね」
     ビッキーは子どものようにこくりと頭を下げた。そしてくるりと体を翻して、軽やかな足取りで駆けていく。空気を孕んで広がった黒髪がだんだん離れていくのをササライはただ見つめていた。何故か、彼女にはもう二度と出会えないような予感を感じていた。ただ、異なる時間を歩んでいる彼女と言葉を交わした時間は欠けがえのない一瞬であった。その刹那に結ばれた繋がりを縁と呼ぶのかもしれない。
     風とともに駆けていった少女とすれ違ったディオスが戸惑いの表情をこちらに向けているのに気が付いて、ササライは小さく笑みを溢した。そして部下のもとへ歩きだそうとする前に、一度『約束の石板』を振り返る。最初に感じていた得体の知れない恐怖感は消え、ひっそりと佇む物寂しさと僅かな懐かしさがそこに横たわっていた。
    「僕は最後までお前のことを理解してやれなかったけれど。お互い、良い仲間に恵まれたとは思わないかい?……なぁ、ルック」
     ぽつりと溢れた言葉は瑞々しい草原の空気に溶けていった。静かに揺らいでいた大気が、一陣の風となって吹き抜ける。ササライは背に風を受けながら、前へと足を踏み出した。

    「僕はお前とは違う方法で、未来を切り拓いてみせるよ」

    ──終──

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    アンドリュー(鶏)

    DONE2025年5月30日~6月1日開催の『星の祝祭Ⅵ』に併せて公開の新作です。
    ビネ・デル・ゼクセに住む絵描きの少年とクリスのお話。

    この絵描きの少年は、ゲーム本編ビネ・デル・ゼクセのクリスの邸宅近くにいるモブの少年がモデル。名前などの設定は個人の妄想ですが、彼が絵を描いていてクリスに見てもらっているらしいセリフは本編で見られます。
    よかったら幻想水滸伝3のゲーム本編で確かめてね!リマスターほしいね
    女神の愛する庭で 少年が瞬きをしたそのとき、目の前の猫がごろんと転がった。白猫はとても心地よさそうな様子で青々とした芝生に四肢を伸ばしている。少年はあっ、と声を上げた。そして黒炭を持ったままの右手で、汚れるのにも構わず自身の金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。そしてまだ余白の多い自らのスケッチと眼前の白猫を交互に見た。集中して書き込んでいた背中側の毛並みは、今はすっかり芝生に埋もれて隠れてしまっている。というより、もはや彼が描き込んでいたポーズとは端から変わってしまった。少年は深いため息をついた。
     少年と白猫の出会いは数十分前のことだった。港町ビネ・デル・ゼクセ生まれのごく普通の少年──リアンは、その日路地裏で一匹の白猫を見つけた。緑の目をした真っ白の猫で、その細身でしなやかな身のこなしから雌の猫だろうと思われる。ほの暗い路地裏の、建物のすき間から昼下がりの陽光が差している一角に白猫はごろんと転がって毛繕いをしている。彼は白猫が逃げないように少し距離をとり、そして脇に抱えた自分の顔くらいの大きさのスケッチブックを取り出してその場にしゃがみこんだ。
    13250

    アンドリュー(鶏)

    DONEルックがセラ、アルベルト、ユーバーと出会ったときの話。それからほとんど言葉を交わすことのないまま彼らが別れたときの話。
    私の夢と願望を特盛りにしたルックの断髪ネタやレックナートさまとのやりとりも出てきます。

    記念すべき2冊目の同人誌。相も変わらずⅢと破壊者への愛だけはせいいっぱい込めました。
    彼らの業ごと愛している破壊者推しとして、個人的に書いておきたかったお話でもあります。
    邂逅Ⅰ: If one believes in the path before them,
    they follow it.
    As this is human nature.

     あるときは、栄華を極めた黄金の都が。
     あるときは、人々の手によって文化を興隆してきた大きな都市が。
     またあるときは、密やかに隠れながらも生活が営まれてきた小さな村が。
     自分の記憶にある場所も、まだ見知らぬ場所も。その『夢』の中ではただ平等に、安らかに、静かに停止していた。確かにそこにあるはずなのに、生命の存在も色彩も流れるはずの空気も全く存在しない灰色の世界が瞼を閉じるたびに眼前に広がってくるのだ。かつて、隆盛を誇った都や都市が戦によって荒廃する様を見たことがある。自分勝手に拓いておいて自分たちの手でまたそれを壊す人間の心理に共感こそしなかったが、それでも人の手によるものであったからその在り方は理解できた。しかし『これ』は違う。人の手による破壊でも、自然が猛威を振るった跡でもなく、そもそも純然たる破壊ですらなく。ただそれまで脈打っていたはずの鼓動を止められたような、そもそも『生命』という概念が奪われてしまったような。そんな光景だった。
    50147

    アンドリュー(鶏)

    DONEⅢED後の大統領2主が15年ぶりにかつての本拠地を訪れるお話。
    (2主→リオウ、ぼっちゃん→ティル)
    Ⅱ軍師組やぼっちゃん、フッチなどが出ます。タイトルと時系列で察せられるかもしれない、あの人の話でもあります。

    令和になって突然小説を書き始めたわたしの、人生初同人誌だったりします。Ⅲの結末への愛と祈りをせいいっぱい込めました。
    そういう意味でも個人的に思い出深くて好きな作品です。
    風の在る理由 斜陽が草原を明々と染める中に草の香りを孕んだ風が舞っている。デュナン共和国、サウスウィンドゥ市に続く街道を青年はただ一人で歩いていた。風が優しく包み込むように過ぎて行って、彼の黒髪を包んだバンダナが宙に舞う。
     突然、穏やかだった風が鋭さを増して青年に襲いかかった。一瞬の出来事であったが、その風に立ち止まった彼──ティルの表情は少しばかり翳ったように見えた。
    「……そうか」
     街道の先にあるデュナン湖を見据え、ティルはぽつりと呟いた。
    「君も、逝ってしまったんだね」
     彼はしばらくその場で風に吹かれるまま佇んでいた。そしてまた、一人でゆっくりと街道を進んでいく。これから訪れる夜を思わせるような冷たさが降り掛かってくる。風はただひたすらに彼の背を押すような追い風だった。
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    アンドリュー(鶏)

    DONEⅢ本編5年くらい前の赤毛軍師兄弟の話。
    シーザーから見た兄の話と、アルベルトから見た弟の話の2本立て。
    実在する某超有名推理小説が作中に出てきますが、ゲーム本編にもロミジュリとかが脚本として出てくるのでいいかなと思ってやりました。細かいことは気にしないスタンスで見ていただけると嬉しいです。
    いつか来る瞬間のためにⅠ.いつか来る瞬間のために 目の前の本を開くと黴臭い埃の匂いがした。鼻の奥と喉がむずがゆくなって、ごほごほとむせ返る。舞い上がった埃が窓から射し込む午後の陽光に白く照らされていた。

     シーザー・シルバーバーグは生まれ育った家の自室でひとり机に向かっていた。目の前には先ほど開いた一冊の本と、広げられた一枚の紙。開いたままのインク瓶の隣には、なかなか書くべきことが思いつかずに投げ出されたペンが転がっている。開いた本から舞い上がった埃に出鼻をくじかれたシーザーだったが、めげずに開いた本を文字を追い始める。ある国の興亡が記された何十年も前の歴史書はところどころページが黄ばんでいて、書かれている言葉遣いもそれはそれは古めかしいものだ。普段の彼なら望んで手にしないようなその本は、彼の家庭教師が手渡してきたものだった。指で一行ずつ、ところどころ掠れた文字を辿る。が、開いたページの次もめくらないうちに十二歳の少年は椅子の背に勢いよくもたれかかった。
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    アンドリュー(鶏)

    DONE幻水1のエルフたちがエンディング後に自分達の故郷に帰るお話。
    幻想水滸伝1のエルフたちは四者四様といった趣で個性豊かですが、彼らに共通して眼前に横たわっている悲しみあるのだと思うとなんだかしんみりしてしまいます。特にあんなに明るいスタリオンにもおそらくは表には見えづらい切なさや寂しさがあるのかな、なんて思いながら書いた作品です。
    また会う日まで 戦いは終わった。
     けれど僕たちの戦いはまだ終わらない。
     ひとりのエルフの青年は、焼け落ちた故郷の大樹を見上げた。焼け焦げた枝々の隙間から見える空が真っ青だったから、その暴力の跡がひどく浮かび上がってくるようだった。
     『赤月帝国』というひとつの国が滅び、この地が『トラン共和国』と称されることが決まった頃のこと。解放軍の一員としてその終焉を見届けた青年──キルキスは、戦いのさなかに喪われてしまった故郷を訪れていた。度重なる争いに訪れる時間すらなかったのは事実だけれど、やはり生まれたこの地の変わり果てた姿を見ることを避けたい心があったのもまた事実だった。それでも、今は向き合わなければならない。エルフの、いやこの世界で暮らす存在の一員として、新たな生活のためにこの一歩を踏み出さなければならない。この地に残る同胞たちの無念に引き込まれそうになるのを、キルキスは自身を鼓舞することでそれに耐えようとしていた。
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