神アス-勘違い
アスラン=BBⅡ世は、他者への好意を隠さない人間だ。
直截な愛の言葉を投げかけることこそ不得手だが、彼の振る舞いは並のラブコールより雄弁に愛を語る。
サタンと師の他に理解者を得られず孤独な半生を過ごしてきたアスランにとって、好意や愛情は黄金よりも価値のあるものだ。
それゆえ、たとえ伝えた好意が跳ねつけられる可能性があったとしても、胸に抱いた好意を打ち明けずにいるほうが罪深く、また耐え難いと感じる性質であった。
そんなアスランであるから、自身の恩人たる神谷への接し方といったら、好意が実体となって目に見えるかのような激甘っぷりであった。
朝起きれば蕩けるような笑顔で「朝餉の刻だぞ、カミヤよ。清めの儀を行うがよい」とかいがいしく神谷の背を起こし、神谷が朝食に合わせて紅茶を淹れれば言葉を尽くして讃え、神谷の外出に際して好物の入った栄養満点の弁当を持たせ……。
……と、羅列すればきりがないが、Café Paradeの面々をして「流石にもう付き合い始めたんだよね? まだ? 嘘だぁ…」と言わしめる行為の数々が、即ち神谷とアスランの日常なのだった。
こうして四六時中悪魔の愛情に漬け込まれ、おまけに胃袋まで掴まれてしまっている神谷はといえば、「アスランと一緒に暮らすのはとても楽しいよ」とのほほんと笑うばかりで、「さすが神谷ですね。ええ、ほんまに」と幼なじみを呆れさせたりもした。
一方アスランはそんな神谷に対して何を思うでもなく、ニコニコと機嫌良さそうに鼻歌を歌って洗濯物を干し、今日も彼の好む糧を精製する。神谷はそんなアスランにお礼を言って紅茶を淹れる。
そんな毎日が緩やかに続いていた。これからも、ずっとそうなると思っていた。
つい、ほんの先刻までは。
「──アスラン、君が好きだよ。どうか俺と一緒に、ずっとここで幸せになってほしい」
「…………はッ!? ぇ、そ、なぁっ……!?」
アスランにとって、人に手渡した好意とは「返ってこないのが当然のもの」だった。アスランの「好き」は常に一方通行だ。
無論、Café Paradeや事務所の面々は好意を受け取りっぱなしにするような不義理はしなかったが、アスランにとってはそちらの方がむしろ特殊なこと。
渡したものは返ってこないのが当たり前。ましてや、恋慕の情など尚更のことだ。
故に、アスランは混乱した。
アスランにとって、神谷からこんな言葉が発されるなんて予想外どころの騒ぎではなく、まさに驚天動地の出来事だったのだ。
アスランは神谷が好きだ。親愛、敬愛、情愛……愛と名のつく温かな感情の全てを、神谷に抱いている。
しかし、アスランが無理解に晒されていたおよそ十数年の歳月が、素直に「我もカミヤのことが好きだ」と返すことを阻んだ。
「かかかカミヤよ、混沌に魅入られたか!? はっ、もしや悪しき風に体躯を蝕まれ……!」
まず疑ったのは、熱でも出してうわ言を言っているのではないか、という可能性。
すぐに体温計を、と翻しかけた手が、ひとまわり大きな手に絡め取られた。
がっしりとした、でも繊細で暖かな両手にまんまと囚われて、アスランは思わず身体をよろめかせた。
「いきなり驚かせてすまない、アスラン。俺自身、自覚するのに随分と時間がかかってしまったみたいだ。……でも、本心なんだ」
真正面からいつになく真剣な眼差しで見つめられる。心臓が早鐘のように打ち、今頃自分は耳まで赤くなっているだろうことが鏡を見ずとも想像できた。アスランはいよいよ混迷の極地に立たされる。
──い、一体何故? カミヤは多くの民を光に導く、幸福の徒。我のような闇の一族に魅入られることなど、万に一つも有り得ぬ。これが一時のうわ言ではないと言うならば、何か、理由がある筈だ。我と甘き契りを交わさねばならぬ、深遠なる理由が──。
新たな憑依儀式の生贄――演技の練習台――か? 否、それならばカミヤは一言断りを入れる筈だ。
血族から何者かと疾く甘き契りを交わすよう迫られており、カムフラージュのために仕方なく? 否、我らは偶像。民を導くことを使命とした身。断りの文句など幾らでも思くだろうし、第一相手に我を選ぶ理由がない。
恋人という存在への単なる好奇心? 否、カミヤならば望めば我などより優れた魔力を持った、素晴らしき伴侶を射止められよう。
思考回路が焼き切れそうになったその時、アスランの頭に天啓が舞い降りた。火事場の馬鹿力というやつか、急に頭が冴えたのだ。目の前に立ち込めていた暗雲が一気に晴れたような心地だった。もっとも、その先に見える道が正しいものかは別として。
──そうか! カミヤは親愛と恋慕の情を取り違えているのだ!
アスランにとっては、なんとも納得のいくひらめきだった。
アスランは神谷に対して親愛を飛び越した深い感情を抱いているが、神谷も己と同じ病を患っているとは到底思えない。
アスランは「なるほど、カミヤも存外愛らしいところがあるのだな」と胸中で呟き、一人頷いた。
なんせ、カミヤはまだ若い。いかに人望に恵まれていようと、幼き頃より異国を巡ることに執心していたそうだから、そういう情緒が育っていなくとも不思議はない。
アスランはにわかに年上の余裕を取り戻し、胸を張った。
「承知した。汝の瞳から幻惑の靄が晴れるまで、我は仮初の紅き契約者として汝の隣に在ろう」
「……ええと。アスラン、それは──」
神谷は、ここでアスランが何か思い違いをしていることに気が付いた。
咄嗟に否定の言葉を紡ごうとして──すぐに、いや、と思い直した。この様子だと、自分がいかにアスランに対して本気であるか語って聞かせたとしても、きっとこの可愛い悪魔はとてもそれを信じられないことだろう。
神谷は幸福の化身たらんとアイドル活動をしているが、ただの二十一歳の男でもある。
たった一つボタンの掛け違えがあったからといって、好きな人が告白をOKしてくれた千載一遇の機会を棒に振れるほど達観してはいなかった。
既成事実、なんて乱暴なことはしたくないけれど。
俺がどんなにアスランを愛しているか、大切に思っているか、それを恋人として執拗いくらいに示してやれば、かの意固地な悪魔もその心を溶かしてくれるかもしれない。
「……うん。じゃあ、これからは恋人として。改めて宜しく頼むよ、アスラン」
かくして何も知らぬアスランは、「年上としてカミヤの情緒を育て、導いてやるのだ」とでも言わんばかりのむふんとした顔で「うむ!」と拳を握った。
🍝
「アスラン、ほっぺたにソースがついてるよ。ははっ、ううん、可愛いなと思って」
「疲れてるのか? なら、紅茶を淹れよう。アスランだけのための、特別なブレンドティーだよ」
「荷物を貸してごらん。いや、俺が持ちたいんだ。そうしたら、ほら……こうやって手が繋げるだろう?」
「──大丈夫だよ、アスラン。何も怖いことはないさ。さぁ、安心して俺に身体を委ねて……」
「──ぬあぁぁぁぁーっ!?」
ベッドから跳ね起きたアスランは、急いで己の着衣を確認した。
それから指の腹で滑らかなビロードの寝巻きをさらさら撫でて、引っ張って、アスランはやっと胸を撫で下ろした。
どうやら、最後のものは夢だったらしい。
「我は……悪しき淫魔に魅入られてしまったのやもしれぬ……」
思わず顔を覆ったアスランの横で口をむにゃむにゃさせて眠る神谷の、なんと純真な表情よ。
夢の中とは違ってしっかり寝巻きを着込んですやすやと眠る彼氏(暫定)に、アスランは己の欲がますます恥ずかしくなった。
(いくら寝所を共にしているからと言って、この為体……。)
歳上としてカミヤを導くと意気込んだはいいものの、現実はそう甘くはなく……否、甘やかされすぎて勘違いしてしまいそうになるのだ。
このままでは、我が身がいつ失態を晒してしまうか分かったものではない。一刻も早く、カミヤから幻惑の霧を払わねば。
「……と、いう理由なのだ。我は進退を如何にすべきか、堕天使サタンの託宣を授けん……!」
さて、深刻な眼差しで相談を持ちかけるシモベに困ったのはサタンである。
サタンは幼少の砌よりアスランと共にあった。それ故に、誰よりも彼の気持ちを理解していると胸を張って断言出来る。
だからこそ、どう考えてもあの男はお前と同じ気持ちなのだから、素直に想いを打ち明けて疾く幸せになるべきだ、と言ってやりたかった。やりたかったのだが、事はどうやらそう簡単ではないぞとも推測できてしまい、口を噤む。堕天使サタンはインテリである。今回はその賢さが仇となった形だ。
――行動あるのみ、であるぞ。我がシモべよ。
結果、このような当たり障りのない助言に落ち着いてしまう。嗚呼、すまぬ、我が愛しいシモべよ。
しかし、汝にはまだあの男の愛を手放しで受け容れるだけの器が育っておらぬ。
これまで精製術の師の他に一人の理解者も持たず、精製の道に進み知己を増やせど、闇の魔力に呼応する者は現れず。
人の世界においてずっと孤高であったこの子には、一生を共にする伴侶から向けられる無償の愛というものを信じることは、まだ難しいだろう。
ここで汝の心の臓を晒け出せと言うのは容易だが、ああ、赦してくれ。我の託宣によって汝が苦しむところは見たくないのだ。
だってアスランはまだたった26年しか生きていない幼子であるわけだし。そんな子が悲しくて泣いちゃう姿を見たらサタンの胸が潰れてしまう。
サタンは666年を優に超える時を生きる大悪魔であるので、人とは時間の感覚が少し違っていた。
ついこの間つかまり立ちをしたと思ったらもうよちよち歩きが出来るようになったのかい、と驚くような感覚で、ついこの間フランベが出来るようになったばかりなのに、もう世界一の賞を獲ったのかい、と言うのがサタンである。あらゆる面でスケールが違っていた。
「行動あるのみ……うむ、流石はサタンだ!」
一方で、助言を受けたシモべの顔は明るく輝いている。
その純真な笑顔に、変な方向に拗れなければいいが、とサタンは願うことしかできなかった。
さて、決心したアスランの行動は早かった。
行動あるのみ……つまり、自分から神谷に働きかけて「アスランと付き合ってみたけど、やっぱりなんか違ったな」と思わせればいいのである。
アスランは夜なべして作戦を考えた。
その名も、「紅き契約には相応の代償が伴うと魂に刻み込まん」作戦。俗世の言葉に訳すと、「アスランから恋人っぽいスキンシップをしたら神谷も目が覚めるよね」作戦である。
これも全てカミヤから幻惑の霧を祓い、真の幸福を掴んでもらうためである。己の胸中に巣食う痛みは無視して、アスランは作戦のプランを練った。
あとはもう、決行するのみである。
「か、カミヤよ……」
「うん? どうしたんだい?」
時は休息日。幸運なことに二人のオフの日が重なったので、かねてより神谷から「アスランに料理を教えてもらいたいな」と希望されていたこともあり、本日は漆黒精製術教室の開催と相成ったのである。
絶好の作戦日和である。カミヤには悪いが、これも未来の彼の将来を案じればこそ。
前菜のカリフラワーのポタージュの鍋をかき混ぜる神谷に、アスランはどう切り出したものかと言葉を詰まらせる。
あの、その、と口ごもるアスランを見て何を思ったか、くすりと笑って「ポタージュ、美味しくできているかな。君の教え通りにやったから、間違いはないと思うんだが」と話題を変えた。
――こういう得がたい優しさがアスランの心をたまらなく締め付けるのだ。
自分はこのような男と暮らしを同じくし、同じ志を抱いて歩んで行けることを堪え難く幸福に思う一方で、なおさら早く手放してやらねば、とも思う。神谷は、アスランの手の内に収めていて良い人間ではない。
アスランはそっと気合いを入れ直し、息を吸った。
「……気になるなら、味を見てみるか?」
「えっ、いいのかい? なら、小皿を持ってくるよ」
「否、それには及ばぬ」
アスランは喜色顕わに身を翻す神谷を制止すると、キッチンボードのカトラリーボックスからスプーンを取り出して、ポタージュを一匙すくった。
そのまま手を神谷の口元まで持ち上げて、
「せっ……聖なる口付けをするがよい、カミヤよ」
と、促した。いわゆる「あーん」の格好である。スキンシップを増やすと意気込んでおきながら、気恥しさに耐えかねて目を逸らしてしまったのはご愛嬌だ。
さぁ、どうだ。大の男に雛鳥のように糧を分け与えら!ては、さしものカミヤも不服に思うのではないか?
ちら、とカミヤの面を仰ぎ見ると、想定通りにというかなんというか、常に紳士然とした表情を崩さない彼にしては珍しく、ぽかんと口を開けて驚愕を顕にしていた。
どうやら作戦は成功である、とアスランが確信した瞬間、
「ありがとう。頂くよ」
神谷の薄い唇が匙をとらえ、まだ湯気をたてる白いスープを口内に招き入れる。「なッ、は、ぇっ」と驚愕の声を上げてスプーンを取り落としそうになったアスランの手を、一回り大きな掌が優しく支えた。
強く押さえつけられているわけではない。しかし、しなやかに見えて雄々しく骨ばった手に囚われると、アスランは金縛りにあったかのように身動きが取れなくなってしまう。
これは、惚れた弱みだ。アスランは神谷の手が好きだった。あんなにも温かき紅き涙を精製する、魔法を宿した彼の手が。
篠突く雨の中でCafé Paradeに迎え入れられたあの日。契約をと申し出たアスランに「よろしく頼むよ」と差し出された掌の、雨で冷えた身体にさえじりじりと焼き付いた優しい温度は、今でも明瞭に脳裏に描き出すことができる。
「か、カミヤ、カミヤ。し、白き泉はもう匙には残っておらぬぞ」
「あ、……あぁ、すまない。どうも、アスランがこうして食べさせてくれたのが嬉しくて……浮かれてしまったみたいだ」
スープ、美味しかったよ。やっぱり君は教え方が上手いね。
続けられた賞賛は、もはやアスランの耳には入っていなかった。
――カミヤが我に匙を差し出されて、何を浮かれることがあるというのだ!?
アスランは混迷に混迷した。社交辞令かと思い込もうとしたが、アスランの知る神谷幸広という男はこのような社交辞令を言う男ではないと分かっているので、それもできなかった。
(こ、この調子で、我は神谷にこれ以上の甘き接触を仕掛けるなど、可能なのか……?)
アスランは自分に自信がなくなっていた。己の神谷への免疫耐性のなさに呆れてもいた。でも仕方がないのだ。だってあの雨の日に自分はとっくに彼に心の臓を握られているのだから。
作るのは冷製スープにしておけば良かったと、アスランは今更ながらに後悔した。
……
サタンは呆れていた。我が可愛いシモべが、あの光の化身カミヤにあまりに弱すぎる、ということにではない。こやつらの、やたらもだもだとしたスキンシップに呆れているのだ。
「あーん」や手繋ぎだけでお互い照れて固まっているようでは、今後どうするつもりなのか。
シモべは気付いていなかったが、「あーん」された時のカミヤの頬の色づきようといったら、その喜色満面な面持ちといったら、思い出すだけで砂糖を吐きそうな心地である。
その調子で、閨ではどうするつもりなのか……と考えようとして、やめた。アスランはまだたったの26だ。そういう話はまだ早い。せめてあと100年は清い付き合いでいてもらわねば、とサタンは一人頷く。
実のところ、神谷とアスランがお付き合いを一歩進める上で、一番高い壁となるのはサタンなのであった。この子が欲しくばお父さんを倒してから行きなさい、という具合である。もっともそれが現実問題として立ちはだかるのは、まだしばらく未来の話であるのだが。閑話休題。
とにかく、サタンは重い腰(実際の重量の話ではない。サタンはシモべと共に定期的に運動をしているので、非常にスリムなのだ)をあげた。
シモべがカミヤに翻弄されて茹でダコになる前に、些少な手助けをしてやらねばならぬと決心したのだ。
誇り高き闇の一族の末裔が、光の勢力筆頭のような男に掌で転がされっぱなしではいけない。今こそ反旗を翻す時だ。
サタンは一人頷き、こっそりと魔力を練り上げた。