ぬかるんだ獣道を力いっぱいに踏みしめて、白波は走った。
天からは轟々と雨が降り注ぎ、仕立ての良い着物はあちこちが裂け、雨と泥にまみれて肌にまとわりつく。
もう、何時間走っただろうか。あるいは、数十分すら経っていないかもしれない。時間など、気にしている余裕は無かった。
とにかく遠くへ、見つからない場所へ、ただそれだけを考えて、人目の届かぬ道を選んで疾駆した。
荒れた木々の間をすり抜けるように駆けるうち、いつの間にやら身体のあちこちに擦り傷が刻まれ、雨に晒された指先は冷えきって感覚を失っていた。
もはや両の脚の動きは骨を鉛にすげ替えられたかのように鈍く、一歩踏み出すだけで白波の気力をごっそりと削り取った。
それでも、白波は走り続けた。
己を叱咤して、がむしゃらに脚を動かした。
それもこれも、全てが蒼生のためだった。
白波の胸にあるのは、ただ一つの純然たる熱情。
薪をくべずともいつまでもごうごうと燃え続けるそれは、二つの乱で全てを失った白波に、唯一残された生きる標だった。
「復讐」という一念が、限界を越えて白波を突き動かしていた。
「っは……蒼生がッ、僕を……殺さな、て、言……なら」
木の根に足をとられて、白波の身体が大きく傾いだ。
もはや受け身をとる力もなく、そのまま地面に倒れ伏す。
べちゃり、と耳障りな水音がして泥が跳ねた。
もはやまともに閉じる余裕もない口に泥が入り込んで、不快な苦味が広がる。
「僕はッ……絶対に生きて、生きて、生き延びて……」
それでも白波は、泥を噛みながら独白した。
こうして自分を鼓舞せねば、今にも折れてしまいそうだったから。
じゃり、という屈辱的な感触を噛み覚えながら、白波は雨が目に入るのも構わずに天を睨みつけた。
「僕を生かしたことを、後悔させてやる――蒼生」
言い切るや否や、白波はぷつりと意識を手放した。
本来なら、正義に敗れた悪役の物語はそこで幕を閉じる――筈であった。
△
「あのー、これ、痛いんだけど?」
時は遡り。
竜人族の牢に繋がれた白波は、足に繋がれた枷を指してへらへらと笑った。
見張りをする竜人族の男は、片眉をぴくりと跳ねさせた。しかし、口は真一文字に閉ざされたまま動かさない。
「ははっ、そうあからさまに無視されると、悲しくなってしまうなぁ」
白波は大して傷ついた様子もなく大袈裟に首を傾げて、「竜人族用の枷に無理やり繋ぐもんだからさぁ、重いのなんのって」と軽薄な口調で語り続ける。
ぐらりぐらり、おちょくるように身体を傾がせて、彼は代わる代わる言葉を投げ掛けた。「竜人族って、案外がさつな種族なんだな? だから人間族にいいように翻弄されるんじゃないか?」「こーんな里に閉じこもってないでさぁ、もっと外に目を向けなきゃ」……まるで見張りの竜人族の逆鱗を探っているような、無遠慮な言葉選びだった。
見張りの男は、今にも掴みかかりたくなる衝動を抑えてぐっと黙った。
白波がこちらをおちょくるような言動をしてくるのは、牢に繋がれた初日から変わらぬことであるし、律儀に付き合う方が無駄というものだ。
そう自分に言い聞かせて、男は己を宥めるように長く息を吐いた。
長のため、仲間のためと、許されるならばこの手で喉をかっ捌いてやりたいほど憎い男の見張りに名乗りを上げたのは男自身だ。
見張りとは、何も白波を逃がさぬようにするばかりが役目ではない。義憤に燃える同胞から憎き白波の身柄を守ってやることも、男に課せられた職務の一つだ。
故に、自分が白波に翻弄されてやる訳にはいかない。大恩のある領主一族のため、大切な同族のため。人一倍種族の絆に厚いこの男は、決意を新たに拳をきつく握り締めた。
それに――と、男は牢の中で静かに笑う白波に目をやる。
自棄になって牢の中で道化のような振る舞いをするこの男の瞳の奥には、確かに理性の光が宿っていた。
何を狙っているのかは定かでは無いが、白波が目的を持って自分を挑発しているのは傍目にも瞭然であった。
「見張りさんはさぁ、そんなに僕のことを生かしておきたいの? 毎日毎日、十分な食事まで与えてくれてさ」
「……」
「お陰様で、僕は傷一つなく健康に生きてるよ。不自由なのはこの片目くらいのものだ」
そこで言葉を切って、白波は一瞬躊躇ったのち、喉を震わせた。
「っは……本当に浮かばれないね。無駄死にってやつじゃあないか――劉帆共は」
△
それからの顛末は、そうくだくだしく語るまでもない。
刹那にして気色ばんだ見張りの男は白波の命を奪うべく刃を振り回し、暴れ、何事かと駆けつけた他の見張りに取り押さえられて……それで収集がつくかと思われたが、なんと男はあの狭い空間で竜化までして僕に爪を伸ばしてきたのだ。牢獄は一瞬にして上を下への大騒ぎになった。
余程忠誠心の高い男だったのだろうか。
騒ぎの中であちこちの牢がひしゃげ、白波を戒めていた楔は砕け、彼は幸運にも──最悪の場合、一息に殺されることすら想定して賭けに出たのだが──自由を得た。
そうしてさっさと逃げ出してきた、というわけだ。
牢に囚われていたのは何も白波一人だけではない。この騒ぎに乗じて脱走を試みる罪人や、日頃の鬱憤を晴らすように暴れる者……事態の収集は混迷を極めた。
いくら大罪人とはいえ、力ない人間族の白波の追跡は後回しになる。
その読みが当たり、白波は人の目の届かない森の奥深くへと逃げ込むことが出来た。
白波にとって、一生あんなに狭くて自由の無い牢に繋がれて、蒼生が作る未来を見届けるだなんて真っ平御免だった。
それでも蒼生が生きろと言うのならば、願い通り生き延びて奴の作る未来にありったけの泥を塗ってから華々しく死んでやる。白波が望むのはそれだけだった。
その望みの果てが、寂れた森の中で人知れず犬死にとは、冴えないことこの上ないが……まぁ無為に永らえるよりはマシかと、薄れゆく意識の中でそう己を納得させて白波は命を手放した、はず。
そのはずだったのだ。
しかし、予想に反して白波は再び目を醒ますことになった。
いつの間にやら腕や脚にぐるぐると包帯を巻かれ、清潔な布団の上に身を横たえられている。
「……?」
ここは?、と声を出したつもりだった。
しかし喉からは枯葉を擦り合わせたような音が漏れるばかりで、ろくな声が紡げなかった。
それを知覚して、やっと、己の頭が灼けそうなほどの熱を持ち、ガンガンと鈍い痛みを発していることに気が付いた。
――最悪だ。熱、出てる……。
そう自覚した瞬間、この場所がどこだだとか、自分を布団に寝かせたのは誰だだとか、そのような些事を弄する余裕は霧散してしまった。
白波は、ゆるゆると緩慢な動作で頭まで布団を被り、胎児のように身体を縮こまらせた。
白波は、風邪を引くのが人一倍嫌いだった。逃げ場のない簡素な寝室の中で、己の惨めさをこれでもかと突きつけられることになるからだ。
白波がむざむざ床に伏している間にも、蒼生や紅蓮は鍛錬を重ねて僕を突き放していく。
白波が三日足掻いて習得した剣技を、蒼生は一日で大人顔負けの練度で操れるようになるのだ。
本当なら、白波には一日だって休んでいる暇は無い。
たった一日の遅れが、致命的な程に僕と蒼生の間に距離を作るのだから。
それが分かっているのに、身体は動かない。気持ちばかりが急いて、けれど、どうしようも無くて。
ただ寝ているだけなのにぜいぜいと汗をかくこの身が情けなかった。
親しいと思っていた師や教育係は、白波の見舞いより蒼生たちの指導を優先した。
気まぐれに誰か覗きに来たと思ったら、「蒼生様は丈夫なのに、白波様はそうでもないんですね」だとか、「蒼生様くらい活発にしていたら、風邪を引くことも無かったかもしれないのに」だとか、「風邪がうつるといけないので、面会はさせられませんが、蒼生様も心配していましたよ」だとか、本当に、くだらなくて煩い話を、べらべらと捲し立てて去っていく。
風邪の時は、頭が重くて、食欲も全く湧かなくて。
ただ布団でじっと蹲って波が去るのを待っていたいのに、使用人は決まって昼と夜に僕をわざわざ揺り起こして、笑顔で、具材がたっぷりと乗ったお粥を差し出すのだ。
浮いた肉の僅かな脂の香りが胃の腑をぞわりと擽って、その度に僕は堪らず口を抑えた。
けれど、僕が辛く思っていることに気付いたやつは、ついぞ一人も居なかった。
「蒼生様はこれをもりもり食べて風邪を治したものです」と、その一言を付け加えるのだけは、忘れなかったくせに。
(嫌なことを、思い出した……)
いっそ眠って思考を手放したかったが、燃えるような熱に苛まれてそれも叶わない。
ざわざわと波立つ思考に、生理的な涙がじわりと滲んだ。
結局僕はどこまでも蒼生に囚われたままだ。
人間領から遠く離れても、奴に刻まれた呪いは褪せず僕を苛み続ける。
畢竟、僕は生涯こうして生きてゆくしかないのだ。
僕は僕の人生すら好きに出来ない。
蒼生の手のひらで勝手に踊って、踊り狂って、やがて脚が壊れるまで誰にも鑑みられることは無いのだろう。
「はは、ははは……」
何のことはない。風邪で弱気になっているだけだ。
熱が引いたらまた復讐の炎が灯り、元の自分を取り戻すことが出来るだろう。分かっている。分かっているのに。
それなのに。……今はただ、どうしても、どうしようもなく、死――
「――おや、目が覚めたのですか?」
白波の思考に割り込むように、低く落ち着いた理知的な声が、緩やかに鼓膜を揺らした。
びくり、と反射的に肩が跳ねた。
誰だ? いや、考えるまでもない。ここの家主だろう。
「あ、伺いも立てずに部屋に入ってしまって、すみません。寝ていると思ったものですから……」
「……」
白波の体調はボロボロだ。この状態で外に叩き出されたら、寄る辺のない白波は今度こそ野垂れ死んでしまうだろう。
今後どのように身を振るにしても、風邪が治るまではこの家で療養していく必要がある。
だから、この家主らしき男の問いにも、いつも通りにこやかに「白波」らしい無垢な笑顔で応じてやらねばならなかった。
けれど、どうしても口が動かない。
結局布団から顔を出すことすら出来ないまま、白波は己を守るように膝を抱えていっそう縮こまった。
「……えぇと、重ね重ねすみませんが、熱を測りたいので、お布団を取っても良いでしょうか?」
「……」
「あのぅ……」
布越しにも、男が困ったように身じろぐ気配が伝わってきた。
あぁ、心象を悪くしている。不快に思われて家を叩き出されたらどうしよう。そうしたら、復讐なぞついぞ叶わなくなる。
白波は重く接着した口を何とか開き、はく、と息を吐き出した。
しかし、喉を震わせることは叶わず、ただ熱っぽい吐息が無為に薄暗い布団の中に消えた。それが精一杯だった。
「うぅん……」
小さく悩んだ男が、そろそろと布団に近づいて来るのが分かった。
らちがあかないので、手ずから布団を剥がして熱を測ろうというのだろう。そうしてくれるならありがたい。
今の白波には腕を上げることすらも重労働だった。
陽が目に染みるのは堪えるだろうが、抵抗する気はない。
どうぞ好きにしてくれ……と、白波はぎゅっと身を固くしてその時を待った。
……。
…………?
しかし、いつまで待っても白波は薄暗闇に包まれたままだ。
その変わりと言わんばかりに、布越しに白波の背に暖かな手がそっと触れた。
「よし、よし……」
とん、とん、と一定の拍子で背を柔らかく叩かれる。
初めての感覚だが、不思議と泣きそうなほど心地良い。
……なんだ、これは?
「ふふ、風邪の時は何かと億劫になるものです。患者さんは安静にしているのが第一。よく心得ていますね」
とん、とひとつ背を叩かれるたびに心の奥で固く蟠っていた何かが解けてゆく。
見も知らぬ男に心を開く僕ではないのに、弱っているせいか、久方ぶりに真っ直ぐな思いやりに触れたせいか、僕はいつの間にか膝を抱えていた腕をふっと解いていた。
「さて、風邪を治すためにも栄養を摂って頂きたいのですが……薬膳粥は食べられそうですか?」
「……」
生憎、今もって食欲は全く湧いてこない。
粥を一口飲み込めるかどうかも怪しいところだ。
白波はじっと黙っていた。
「……それでは、果物はどうですか? 擦り下ろした林檎などは、胃に優しいかと思いますが」
「……」
それくらいならば、なんとか口に出来るかもしれない。
白波は、こくりと頷いて――自分は布団にくるまったままだったと言うことに気付いた。頷いたところで相手に見えるはずがない。
改めて声で主張するしかないかと、口を開きかけて……
「それは良かったです! ならば、雨水に頼んですぐ擦ってきてもらいましょう」
……と弾んだ声が振ってきた。
白波の僅かな身動ぎで意図を察したというのだろうか。
よく人を見ている男だ。不思議と顔に熱が集まるのを感じる。いや、不思議でもなんでもない。自分は今熱を出しているのだから。
……というか、うすい、っていうのは何だ。人名か?
どこかで聞いたことがあるような気もするが、霞がかった今の頭では記憶を上手く手繰れない。
それが人の名であろうが無かろうがどうでも良い筈なのに、何となく胸がもやもやして白波は眉を顰めた。
「では、私は雨水に言伝を伝えて来ま……、えっ?」
男が立ち上がりかけた気配を察して、白波は咄嗟に彼の着物の裾を掴んでいた。
ぱさりと布団が捲れ、陽がじわりと白波の目を灼く。
自分でも何故男を引き留めたのか分からなかった。身体が先に動いてしまったのだ。
自分でも自分の行動が理解できないくらいだ、男はさぞ困惑しているだろうな……と、その顔を仰ぎ見て、白波はびしりと固まった。
(……嘘、だ)
まず白波に降り注いだのは、そんなことが有る筈が無い、という当惑。
次いで、そんな疑問全てを押し流すほどの、強烈な歓喜であった。
ぶるり、と背筋が震える。
有り得ない。しかし、僕が見間違えるはずが無い。顔も、気配も、纏う静謐な雰囲気も、何もかもあの頃のままだ。
――でも、こんな都合の良いことがあるのか?
熱に魘された思考は、要領を得ないまま急速に回転する。
(だってあの人は僕が引き入れた鬼共のせいで行方を晦ましたはずで、それだけは唯一ずっと僕の罪で、あの人を巻き込むつもりなんて無かったのに、あの人は騒がしいところが苦手だから宴にも出ないだろうって、薬への関与の疑いをかけられても直ぐに晴らしてみせるだろうって計算して行動したのに、鬼共が好き勝手に暴れて、だから次はこんな失敗が無いようにって忍まで雇って、絶対に僕の言うことだけを聞けと厳命して、それで、それで……)
じわり、と汗が浮かび、背中が総毛立った。じくじくとした興奮が腹の奥から湧き上がる。胸が痛いくらいにばくばくと鳴っていた。
気が付けば、口からぽろりと声が零れていた。
「な、……なぎ、さ……?」
「? ……私の名前をご存知なのですか?」
その人がこてり、と不思議そうに首を傾げた瞬間の悦びは、きっと誰にも分からない。
生きていた。生きていてくれた。
それだけじゃなく、僕がもう駄目かと死を覚悟したその時に、手を差し伸べてくれた。
僕の人生で唯一、真っ直ぐな思いやりを向けてくれた人。
「白波」を見てくれた人。
あの頃の美貌を一切損なわぬまま、幾度もの乱を経ても魂の輝きに一切の曇りもつけず、彼は凪いだ海のように凛と座っている。
――凪左。
彼は、僕の初恋を奪ったその日のままの姿でそこに在った。