『真夜中の悪魔』覚醒は唐突に訪れる。
呼ばれたように閉じていた目を開けて、伸ばした手の先に温もりがないことに横たえていた体を起こす。
かけられていた羽毛の布団がゆっくり肩を滑り落ちていく。それをぼんやりと目で追って……温もりがあるべき場所に視線を戻す。指先に感じた熱は温く、冷めきる前だった。といっても今は冬。実はここを出てさほど時は経っていないのかもしれない。
……疲れていた。そう、自覚することができるくらいには忙しい時期だった。だが、それは向こうも同じこと。雑務であると承知の上で、あいつにはいろいろと任務と称して仕事を振った。あいつにしか、キースならば上手くやるであろうという信頼も含めて、だ。事実、多生の問題は生じたものの、今は上手くやっていると聞く。
短時間の合瀬など、口にすればまるで恋人のそれだが、俺たちの関係とは。恋人というほど甘ったるくはないような気がして、明確な立ち位置、名称はつけてはいない。別に、そんなものは必要がないと……そう思っていた。
「あ~……起こしちまったか……って、おまえそのカッコ……」
寒かったからそうしたまでなのだが。
肩からずり落ちた羽毛布団を被るようにして寝室を出てきた。言われてみれば確かにおかしい。そんな些細なことを思考することができないほどぼんやりとしているらしい。
「なにをしている」
悩んだのは一瞬。そういえば己は下着しか身につけていなかったと思い返して布団という装備を外すことを止める。モコモコとした格好のまま、のろのろとキッチンに立つキースの側に寄る。見れば、アルミホイルの上に食パンが置いてあるのが目につく。そういえば……久方ぶりに時間が合って、会って、セックスをしてそのまま寝るという、怠惰の極みのような時間を過ごしたことを思い出す。ぬるま湯のような、ただ淡い快楽が体を包んで、解して……気持ち良さに身を任せて……寝た。そういえばなにも口にしていなかったな。
「はらが、へった」
羽毛布団に隠れているが、少しへこんだ腹は空腹を覚えてくるくる小さな音を鳴らしている。それが聞こえたのかどうなのか。少し困ったような顔でキースはアルミホイルの上の食パンを目で指す。
「おまえも食う?買い出ししてねぇからホントたいしたモンじゃねぇけど……」
座って待ってろ、と。布団越しに俺の頭を子供にするように撫でると、キースはアルミホイルと食パンをもう一枚並べる。俺の分らしい。
こうやって、キースの言うことを聞かずに料理をする姿を眺めることがある。邪魔にならないよう、少し離れて見る俺を怒るわけでも邪険にするでもなく、ただ困ったように笑って見る。こんなん見てなんか面白いのか、と。面白い、というより美しいと思う。煙草と酒以外じゃ包丁を握っていることが多いキースのゴツゴツとした手が、人並みだが……魔法のように料理を生み出していく様が美しい。和食のような繊細なものを作る時もある。お菓子のような、きっと苦手な分類だろう。きちんと分量を計り、レシピの通りに作ることもある。そういった決まりなどなく、心のまま、冷蔵庫の余り物のまま、気ままな名もない料理を作る時もある。その全てが美しいと、そう思っている。
「~~♪」
機嫌がいいのか。低い、聞いたことのない曲の鼻歌が室内を満たす。手元では、食パンのふちに沿ってマヨネーズがしぼられていく。そして、真ん中に生卵を落とす。溢れるのでは?と思ったのは一瞬。ふちのマヨネーズが上手いこと壁になって、卵はそのまま食パンを寝床のようにしている。
それをアルミホイルごとトースターへと放りこんでタイマーを捻る。その出来上がりを待たず、キースはコンロに片手鍋を置くと徐に牛乳を注ぎ込む。ホットミルクを作るつもりのようだ。確かに、寝る前に飲むのは体が温まると聞いたことがある。胃にも優しい。
温まった牛乳に砂糖を適当な量を掬って落とすと、取り出したスプーンでかき混ぜる。少し前に買った紫と淡緑のマグカップに分けて注ぎ……不意にキースがこちらを向く。
「ブランデー入れっけど、どうする?」
「ぶらんでー?」
ブランデー。噛み砕くように口の中でもう一度言って、少しだけ欲しいと告げればキースは了解~と軽い返事を寄越して自分用のカップには多めにブランデーを注ぐ。それはもはや酒では……?と言うより早く、トースターからチン、と出来上がりを告げる音が響く。
運んでやるから、とホットミルクのカップを持たされキッチンからリビングのソファへと招かれる。やや座り心地の悪いそこへ腰を下ろして、両手でマグカップを握り込む。火傷をするほどの熱さはなく、じわりと手に染み込むような温度だった。
「待たせたな。こっちは熱いから冷まして食えよ」
目の前に置かれた皿の上には、じゅわりと音を鳴らすマヨネーズと程よい半熟の目玉焼きを乗せたトーストがある。そこへ、この前買ったペッパーミルを持ったキースがニヤニヤとした表情を浮かべて現れる。なにをするのかと、やはりぼんやりとした心地で見上げる俺の前で、キースはペッパーミルを回してごりりとブラックペッパーを削って卵の上に振りかける。これは。
「悪魔のトースト出来上がり~ってな」
確かに……今、何時なのか正確な時はわからないが、これは夜分に食していい物質ではない。高カロリー極まりない。だが、この香り……少し焦げたマヨネーズの酸味と加えられたブラックペッパーの辛みを連想する芳ばしいこれに抗える者が居たら尊敬の念を抱くことだろう。
その前に喉を潤さねばと、くぴりと小さく開いた口でホットミルクを一口含む。程よい温度、程よい甘さのホットミルクが落ちた胃を、体を中からじわじわと温めてくれる。
すでにトーストに齧りついて舌鼓を打っているキースを真似てトーストを手に持ち……こちらはやや熱かったが、口の中が匂いにつられて出た唾液で溢れかえる前に齧りつく。ザク。サク。バターも薄く塗られていたらしい。バターとマヨネーズ、卵……そしてブラックペッパー。この組み合わせこそが悪魔の所業。不味いわけがない。油が多いと思った組み合わせだが、それをホットミルクが中和する。トースト、ホットミルク、トースト、トースト。交互に、そして夢中で食べ進めればあっという間にどちらもなくなってしまう。
「旨かったか?」
途中で食べる手を止めていたらしい。キースは半分ほど食べ進めたトーストを片手に笑いながら首を傾げる。その質問は愚問だ。
「旨かった。また作ってほしい」
「ははっ!アイアイ暴君サマ」
ふざけてそんなことを言って、キースは残りのトーストに齧りついた。