『Eyes speak more eloquently than lips.』「っくは~~~ぁあ」
肺の奥の奥から絞り出すような声を上げて。喉を通り抜けた強い炭酸に喉を炙られたのか。目尻に少し涙を浮かべながらキースは発売したばかりとかいうビール缶を片手に天を仰ぐ。
「あ~~……この一杯のために人間ってのは生きてんだな」
「そんなわけがあるか」
同じビールを喉に流しながら、ついノリのようにツッコミを入れてしまう。キースにとってはそうかもしれないが、俺にとってビールはビールだった。確かに、少しの残業の後……目の前には満開に咲いた桜があり、気温は寒くも暑くもない適温。いや、少しばかり暑いと感じるのは着ていた服がまだ真冬のそれと変わらなかったからだろう。残業後特有の気怠さと渇きを覚える喉、という条件を満たしたこの酒はいつもより旨い、ような気がする。
着込んでいたジャケットを脱いで、側にある遊具……キースと訪れていたエリオスタワーが一望できる裏通り。立地の関係なのか、それとも忘れられてしまったのか……普段から人があまり来ない小さな公園にある錆びた音を鳴らすブランコに乗せる。キースはそんな俺を冷めた目で見ながら目の前の低い鉄柵に腰を下ろしている。
「おまえ、これの良さがわからねぇとか人生の半分は損してんぞ」
「別に酒が不味いと言っているわけではない。世には酒が飲めない人間もいる。だからお前の言うこれのために生きている、というのは当てはまらないだろう」
「ガチレスどーも。じゃあ聞くけど、オレが寿司嫌いーとか、別に食わんでも生きてけるって言ったら?」
「人生を損しているな」
「マジかよ全部かよ」
その価値基準どーなってんだよ。と、キースはケタケタと笑いながらビールをあおる。浮いた喉仏が上下し、手に溢れたのか。缶の水滴が手を伝い、その喉仏を滑り落ちていく。
「あ?どーした?」
「別に」
「ふーん……」
残り少ないビールを一息に飲みきり、キースは空き缶を地面に置くとゆっくりとした歩調で俺の前に立つ。
大きな体の向こうには、夜闇に浮かぶ美しい桜がある。爛々と文明の利をフル活用して建つエリオスタワーの光が見える。それらを浴びて、キースの澄んだクリソベリルの目が、暗がりを見つめる猫のような目が……少しだけこの状況に居心地の悪さのようなものを感じている俺を覗き込んでいる。
ビールを口にしているだけだった。動く喉仏が美しいと思った。そこを流れ落ちる水滴を目で追って……無防備に晒された鎖骨に到達した時、己の何かが燃えたような気がした。
吹く風がどういうわけか体温を上げた己の体をゆっくりと冷やしていく。俺は……そう。きっとどんなにくだらない理由でも、生きている、それを謳歌しているキースに……欲情した、のだと思う。疲れているのだろう。きっとそうに違いない。
「ったく……そんなツラして別にもクソもねぇんだよなぁ……」
「なに、」
何が。ただその一言を口にするより早く、滑り込んできたキースの唇が己のそれと合わさる。触れるだけの軽いキス。だが、離れていくキースの目には愉しそうな嬉しそうな、それでいて獲物を見定めた獣のような獰猛な色が浮かんでいた。
「明日の予定は?」
「……昼から、会議がある」
「なら大丈夫だな」
「なにがだ」
「ナニだよ」
「潰すぞそのナニを」
「はぁ?んなツラしてるヤツに潰すとか言われる筋合いなくね?」
「煩い黙れ」
「たまには素直に誘えねぇのかよ……まぁ、」
『Eyes speak more eloquently than lips.』
風が吹く。突風にも似たそれが、辺りに散った桜を紙のように巻き上げる。さながら舞台装置の吹雪の中に二人きりで立っているかのような錯覚を覚える。
視界の中で、キースの唇が動く。風の音が煩くてその音を拾うことができない。できなかったが、目は口ほどものを言うという日本の諺がある。キースは、口があまり上手くはない。言葉が足りず、誤解を生むことも多い。直球で言葉を投げるのも苦手だ。昔は目を合わせて話すことすら避ける節があった。
人と交わることを怖がっていた。そっと、こちらへ手を出して、引っ込めて。それにしびれを切らしたディノが少し強引に手を引いて連れ出した。初めは急に出された陽の下に怯えるように身を縮め、威嚇し、言葉少なげにこちらを遠ざけようとしていた。
言葉が足りない代わりに、隠れていない存外澄んで綺麗なあの目に感情が乗る。怒りも哀しみも、嘆きもなにもかも。その目を……俺は、正面から覗き込むことが、できなかった。あの時、キースと『話し』をしていたら……今でもそう思う。俺もキースも、互いから視線を外していたから。足元に落ちた影ばかりを見つめて話をしていたから。
「キース」
風が止む。舞い散る桜の向こうに在るキースの目を覗く。その心を覗き込む。ギラついたその目が、待てのきかない獣のように光っている。けれど、名を呼ばれて、主人に従うようにじぃっと、次の言葉を待っている。
ゆっくり、手を伸ばす。その顔の輪郭に触れる。夜風に当たりすぎたのか、少し冷えている。きっと、俺も同じようになっているはずだ。
「目を」
輪郭に触れた手で、その親指で少し皺が目立つようになったキースの目元をなぞる。年が過ぎた。互いに欲に溺れ、燃え上がるような恋をする若さは過ぎた。だからこそ、内側にチリチリと火種のように燃えるものを小出しにして誘うしかない。キースは今も昔もそんなまどろっこしいことはしないが。俺は……まだキースに対して臆病、なんだと思う。
「……それで、どうする?」
何を、とは言わない。それは全て目が語っているから。クスクスと笑いながら、わかっているくせに俺が望みを口にするのをずっと待っている。ツラがどうとか宣いながらも、言葉という確かなものが欲しいのだ。この子供のような大人は。
「……寄越せ」
尖った顎を掴んで寄せる。まるで噛みつくような口付けに、それでも満足したのだろう。キースは唇を塞がれつつもクスクスと愉しげに、満足げに笑っている。
背中に回った両腕が、少しきつめに俺の体を抱き締める。冷えた互いの温度が少しずつ、混ざって同じになっていく。
「わかった」
茶化すでもなく、キースは真摯な響きをもって俺の欲に答えた。