ゼロイチの湯-第1話-ゼロイチの湯
運命の出会い、というやつが
まさか自分にももたらされるだなんて
いったい誰が予測できたことだろう
1.番台の天使
「え……。今日から一ヶ月、ですか」
「申し訳ないです、降谷さん。ちょっとうちのマンションのバスルームを手掛けたメーカーさんの商品にリコールが出ちゃいましてね。そのリコール対象がドンピシャでうちのマンションが使用しているシステムバスなんですよ。どうやらそのリコール対象がバスタブらしくてですね、それを丸々取っ替えるのに一ヶ月はバスタブ使えないんです。幸いうちの近所には最近話題の銭湯がありましてね。なんて言うんです? リノベーション? と言うんでしたか? もう百年は続いてる歴史ある銭湯なんですが、昨年有名な建築デザイナーにリノベーションを依頼したらしくて、めちゃめちゃ綺麗でオシャレに生まれ変わったんですよ。私も詳しくは知らないんですが、その銭湯、今すごく人気があるみたいで、連日沢山のお客さんが入っているのだとか」
「銭湯……ですか」
「あ、もちろんこの一ヶ月の銭湯やスーパー銭湯などの風呂代はまとめて請求してください。後からになりますがきちんと支払われますので」
「いや、まあそれは構わないんですが……。たまにはいいかもしれませんね。いい機会だと思ってそのオススメの銭湯に行ってみます」
集団での風呂など、警察学校以来だなと少しばかり感傷に浸りながら降谷は管理人からくだんの銭湯の簡易的な地図を受け取り、仕事に向かった。
一日の業務が終わり、一旦帰宅する。
バスタブの取替工事は防犯の関係上、家主が在宅の日に行われるとの事だったので、降谷宅の工事は七日後に予定されている。取替工事自体は一部屋につき半日程度で終わるようなのだが、何せここは都内でも有数のタワーマンションであり、部屋数もピカイチである。全部屋のバスタブの取替工事を考えると、一ヶ月ないしそれ以上かかるのも頷けると言うものだ。
ドサリとリビングのソファに座り、チラリとバスルームの方角に目を向ける。
「銭湯、か」
今日は湿度も気温も高く、ずいぶん汗をかいた。いつもなら真っ先にシャワーを浴びにバスルームに飛び込み、サッパリ汗を流してから晩ご飯作りに取りかかるのだが、今日からしばらくはそれも叶わない。一旦腰を下ろしてしまうと再び外出するのも億劫だが、このままべとついた体では満足に休むこともできまい。そこでふと、今朝がた管理人から渡された銭湯の地図が描かれたメモをスラックスの右ポケットから取り出して広げる。
「…………………………行ってみるか」
管理人の話では、つい最近リノベーションされて随分人気のある銭湯らしい。リノベーションされたということは、昔ながらの銭湯ではなく最近のモダンな様相なのだろうか。少しだけ楽しみに思いながら降谷は立ち上がった。
管理人の簡易ながら的確な地図のおかげで、一度も迷うことなく目的の銭湯にたどり着くことができた。
なるほど。著名な建築デザイナーが手掛けたらしいとひと目でわかる外観はモダニズムと昭和レトロがナチュラルに融合したオシャレなものだった。
生成色のヘンプ素材の暖簾には、毛筆タッチで『ゼロイチ』と力強く書きなぐったようなフォントで印字されている。
ふと銭湯の出入口で立ち止まり、その外観を眺めている降谷の脇を、続々と客たちが暖簾をくぐって銭湯に入っていくことから、相当繁盛しているであろう事がうかがえた。よし行くか、と暖簾をくぐり、いざ店内へ。
コンクリートと木の融合。
店内入ってまず目につくのが、何やらブースのような番台。
どうやらカウンターにもなっているのか、ビールサーバーまで備え付けられている。
だが、きちんと古き良き銭湯文化も継承しているようで、番台の脇には懐かしい瓶入りのフルーツ牛乳や牛乳、コーヒー牛乳も揃えられている。
ブースのような番台には、この銭湯オリジナルデザインのタオルやサンダル、手ぬぐいなどが販売されているところまでをチェックしていると、不意に声をかけられる。
「いらっしゃいませ」
「! あ……」
そう。まずは、その声。夏空の爽やかな空気を纏わせた風鈴の音のように、爽やかさと凛とした芯の強い美声に思わず顔をあげた降谷は────そのまま目の前の人物に目と思考全てをうばわれて、見惚れた。
まるで触れたらとけてしまいそうな程に白く、キメが細やかな肌。
ス、と筋が通り、程よい高さの鼻梁。
吸い込まれてしまいそうな程に美しく蒼い瞳と、それを縁取る豊かで長いまつ毛。
理知的で聡明でありながら、どこか人を狂わせる魔性を秘めた表情のその人は、番台に座り、妖艶な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
────て、天使がいる……。
その瞬間、降谷は脳天に雷撃を受けたような衝撃を受けた。
ぼう……と見惚れて動かない降谷に対し、クスリと小さく笑った番台の天使は、ヒラヒラと降谷の目の前で手を振って見せる。その動きにハタと顔を上げると、目の前に天使の整いすぎた顔があり、思わず「ヒュッ」と息を飲んでしまった。
「大丈夫ですか? まだ風呂に入る前からのぼせました?」
「え、あ……いや……すみません。外の暑さにぼうっとしてました。大人一人、おいくらですか?」
極力声が裏返ってしまわないように気をつけながらそう尋ねれば、天使はニコリと笑って「大人五百円です」と答えてくれた。顔だけでなく、声までどストライクで、降谷の聴覚を酔わせてくれる。気を抜くとすぐに見惚れて魂を飛ばしそうになるので非常に危険である。うっかり魂を飛ばしてしまわないように財布から五百円硬貨を取り出しかけ、どうせならばとこの店オリジナルの手ぬぐいとバスタオルも購入しようと思い立つ。
「あの、このバスタオルや手ぬぐいって、この店のオリジナル商品ですか?」
「はい。常連さんにデザイナーされている方がいらっしゃって、リノベーションに伴い本格的に僕が跡を継ぐとお話したら、色々デザインしていただいたんです。その方に建物や内装もデザインしていただいたんですよ」
「なるほど。現代らしいスタイリッシュさと和が上手い具合に融合されていて、格好いいですね。バスタオルと手ぬぐいをいただけますか?」
「ふは。格好いいお客さんに褒められると嬉しくなっちゃいますね。ありがとうございます。バスタオルと手ぬぐいですね。微妙に柄域が違いますので、お好みの柄をお選びください」
「!」
もしかすると社交辞令かもしれないし、営業トークかもしれない。それでも、この天使のような青年に自分の容姿を褒められた降谷は、生まれて初めて己の容姿に感謝した。
自分で選んだバスタオルと手ぬぐいと共に、ロッカーの木札を渡され、軽く館内の説明と共にまだ新しいパンフレットを手渡される。ちょうどそれら一式を受け取る間際、そっと白く形良い彼の指先が降谷のそれに触れ、何事もなかったかのようにふわりと離れる。そのわずかな接触にドキリとして思わず顔を上げて彼を見れば、意味深な艶笑をまとわせて可愛らしく小首を傾げると、「ごゆっくり」とあの爽やかで聴覚を酔わせるような声で言った。抑えきれないほど高鳴る鼓動の理由など、説明するまでもなく分かりきっている。
脱衣所も風呂場も、それから本格的なサウナまで、文句の付けようがないほど素晴らしかった。若い世代から昔からの常連客であるお年寄りまで、誰ひとり気後れすることなく、それでいてちゃんと現代の風を感じさせる古き良きものと現代のマリアージュが、より自然に馴染んでいた。
ドレッドヘアーの日に焼けた若者と、シミだらけの八十代くらいの常連のお年寄が肩を並べて湯船につかり、何かを語り合っている様に、思わず頬が綻んでしまう。一時間ほどかけて湯船とサウナを楽しんだ降谷は、湯上りの軽装を身につけ、銭湯の醍醐味である瓶入りのフルーツ牛乳でも飲むかとブースに向かうと、そこにはちょうど降谷と同じぐらいのタイミングで風呂から上がった客たちが少しばかり列を作り、何かを待っている。その列の先頭で弾けるような笑顔を振りまきクルクルと手際よく立ち働いているのは、先程の番台の天使だ。見れば片手にビールジョッキを持ち、サーバーから美味しそうなビールを注いでは客に手渡している。どうやらツマミの枝豆もオマケで付けているらしく、可愛らしい小皿もカウンターに出している。客たちは次々にそのジョッキを右手に、小皿を左手に持つと、奥の立ち飲みスペースのカウンターに移動して行く。
────ビールか……。あの子が注いでくれたビールなら、格別に美味しそうだな……。
フルーツ牛乳を飲むつもりが、列の最後尾に並んだ頃にはスッカリジョッキの生を頼む気満々になっていた。手際がいい番頭は次々に客をさばいていき、あまり待たずに降谷の番になる。そこで青年は「あ」とどうやら降谷に気づいたようで顔を上げ、ニコリと笑みを深める。
「どうでした? うちのお風呂」
「最高でした。風呂の種類もたくさんあって、サウナも本格的で、涼むテラスまで完備されていて……通い詰めそうです」
「ふは。お気に召していただいて何よりです。────何飲みます? ビールも色々種類そろえてるんです。普通の生、黒ビール、ホワイトビール。あとは昔ながらの瓶入り牛乳とか乳飲料、炭酸系、スポドリってとこですかね」
「凄いですね。まさか銭湯で生ビール呑めるなんて。ホワイトビールお願いできますか?」
「畏まりました。ホワイトビールだとピンチョス付きなんですが、ご要望に合わせて枝豆に変更することも可能です」
手際よく冷蔵庫からキンキンに冷えたジョッキを取り出すと、手馴れた様子でサーバーからホワイトビールを七対三の黄金比で注ぐ様に見惚れながら、「ピンチョスでお願いします」と勝手に口が動いていたのだから、大したものである。
支払いを済ませてジョッキとピンチョスが盛られた小皿を受け取ると、空いている立ち飲みのカウンターの右端を陣取ることにした。
程なくして隣に湯上りの中々の美女がやって来ると、「ココ、いいですか?」と思わせぶりな笑みを浮かべて尋ねてくる。別に断る理由もないので軽い会釈で返せば、やたらと距離を詰めて来るわ「ここ良く来られるんですか?」だの「私、今日が初めてで……。おひとりですか?」だの矢継ぎ早に質問を放り投げてくるので辟易としてしまう。出来れば番台の天使をツマミにしてゆっくり呑みたかったのだが、こんなにグイグイくると分かっていれば隣に座ることを許可しなかったのになどと思いながらチラリと番台に視線を向けると、常連と思しきガテン系のガッシリとした筋肉質な男性と談笑している天使を目の当たりにしてしまい、つい先程知り合ったばかりだと言うのにツキリと胸に痛みを覚える。この痛みの原因が何かなど、明言されずとも分かる。
降谷の胸の痛みなど知ったことかとばかりに、番台の天使はその常連客の筋骨隆々とした二の腕にさりげなくタッチしながらコロコロと鈴音を転がすように可憐に笑う。降谷とて筋肉質な方ではあるが、彼の筋肉はどちらかと言うと機能的でしなやかなボクサータイプである。対して現在、楽しげに番台の天使に羨ましくもボディータッチを受けてデレデレと鼻の下を伸ばしている──様に降谷には見える──男性は、見るからにレスラータイプのガッチリとした骨太の筋肉である。
────ああ言うのがタイプなのか……?
そこまで思いかけて、ハタと我に返る。
────例え彼の好みのタイプがレスラータイプのガチムチだったからと言って何だって言うんだよ。しっかりしろよ降谷零!
その日は半ばヤケッパチでホワイトビールを流し込むと、まるで親の仇のようにピンチョスを頬張り、これっぽっちもなんとも思っていませんとばかりに空いたグラスと小皿をカウンターブースに持っていくと、ちょうど常連のガチムチと話を終えた所だったらしく、こちらに顔を向けた番台の天使は両手で降谷からグラスと小皿を受け取り、その受け取る瞬間に意味深にツウ、と褐色の指先をなぞり、思わず息を飲んでバッと彼の顔を見る降谷に、あのゾクリとさせられるような艶やかな笑みを浮かべて「どうでした? お口に合いましたか?」とあの爽やかで聴覚を殊更に愛撫してやまない美声で問うてくるのだから、たまらない。
「ええ。ホワイトビールもピンチョスも、とても美味しかったです」
「良かった。……ずいぶん軽装ですが、ご近所さんですか?」
コテ、と右側に小首を傾げながら問い掛けてくるなんてギルティな可愛さである。内心野太く『!』と唸りつつも表面的には爽やかな笑みを浮かべ、ええと答える。
「この近くのタワーマンションです」
「うわ。タワマン住みとかすごいカッコイイ。最近引っ越してこられたんですか?」
「いえ。入居して二年になります。ここにこんな素敵な銭湯があることも知りませんでしたし、家の風呂で十分かな、と思っていたんですが……」
「何をきっかけにウチを?」
そんな会話をしながらも、次々と訪れる客に木札を渡し、入湯料の精算をし、ビールを手渡しているのだから凄まじく有能である。その仕事の速さに感心させられながら降谷は答えた。
「実はマンションの浴槽にリコールがありまして。急遽取替工事が行われることになり、困っていたところに管理人さんからこちらの銭湯を教えていただいたんです」
「そうだったんですか。……でも残念だなぁ」
「へ?」
本当に残念そうに苦笑を浮かべ、サイドの髪を耳にかける仕草がとても様になっていて、いちいちドキリとさせられる。これが全て計算され尽くしての仕草だったとしたら、相当の小悪魔だ。
「お客さん格好いいからこれから常連さんになってくれたらいいなって思ってたんですけど……取替工事の間だけの期間限定なんですもん」
「っ!」
あまりの愛らしさに一瞬、三途の川をバタフライしかかった。すんでの処で胸を押さえたい衝動を抑え、仕事で培ったポーカーフェイスで爽やかな笑みを浮かべる。
「はは。またまた。口が上手なんですね。そういう君だって相当キレイな顔立ちをされているじゃないですか」
「新一です」
「へ……?」
「俺の名前。工藤新一です。お客さんのお名前は?」
「あ……っと」
一瞬、ここで本名を出してしまってもいいものか逡巡したものの、もう潜入捜査を退いてからずいぶん経つことと、今や素性を知られて困ることもないのでフワ、と微笑んで答えた。
「降谷です。降谷零」
「フルヤ、レイさん。ふはっ」
「え?」
突然おかしそうに吹き出した天使……もとい新一に不思議そうに聞き返せば、無邪気な笑みを浮かべたまま彼は続けた。
「レイとイチで、まるでウチの銭湯の名前みたいじゃないですか。だから勝手に運命感じちゃいました」
「っ!!」
────何この天使……。
降谷零。三十二歳。警察庁警備部警備企画課課長補佐。この年にして初めて、恋とは淡く始まるものではなく、まるで奈落に落ちていくように急転直下するものなのだと言うことを知った、とある夕刻時の初夏。
第1話・完