つみのみつ-第1話-つみ の みつ
欲しいものを手に入れるのに
手段なんか、選ばない
動機がなんであれ
誰のものであれ
ここまで落とせば
ここまで沈めれば
ほぅら、ね
これでもう
おれのもの
俺の嗜好が邪悪に狂ったのは、まず間違いなく蘭との別れからだ。
どれだけ純粋に相手を想っていたとしても、突如として別れはやってくる。
どれだけ誠意を持って接しても、決して切れない絆だと思っていても、運命の相手だと確信していたとしても。別れなんてものは無情にも突然やってくる。そうして根こそぎ奪って無に還していく。
それならばいっそ────。
純粋で一途で誠実な優等生を辞めちまえばいい。
極論に至った結果、息をするのが随分と楽になった。生きるのも、同様に。
蘭と別れたのはちょうど、高校の卒業式の直後だった。
その三日後に「僕では君の心にぽっかり空いた穴は埋められないかな」と控え目に想いを告げてきたのは、元喫茶店アルバイターでおっちゃんの一番弟子を名乗っていた胡散臭い笑顔のイケメン、公安のおまわりさんである降谷さんだった。
だがその時はとてもじゃないがそんな気分になどなれず、申し出を断った。
思えば彼は、最初からフラレる覚悟をしていたようだ。オレの断りを受けても、さして傷ついているようには思えなかった。いつもの様に腹が読めない笑みを浮かべてこめかみを掻き、「ちゃんとフッてくれてありがとう」と言った彼の言葉と表情が、記憶にささくれを残す。ささくれは残したが、それだけだった。別段俺は性嗜好に偏見はないし、同性に秋波を向けられるのも彼が初めてではない。幼少期から男女関係なく好意を持たれ、妙に熱っぽい眼差しを向けられて育ってきた為か、同性に性的な視線を向けられても嫌悪の類の感情は湧かないが、だからといってこれまでの人生で俺自身が彼らに性的欲求を持つことはなかった。
無事、志望校の東都大学にストレートで入学したオレは、顔も頭も抜きん出ている三人の仲間とつるむようになった。服部、黒羽、白馬だ。
大学にも慣れてきた五月の末、オレの傷心を癒したいと名乗り出てきた一年先輩の女性と付き合ったものの、なんの感動も感慨もないまま筆おろしを済ませ、肌を重ねる刹那的な快感と虚しさだけを覚え、ひと月後に別れた。ただの一度も、彼女を愛おしいと思えないままに。
それから暫くは、来る者拒まず去るもの追わず、熱意を持って愛を告げてきた相手と片っ端から交際し、体を繋げた。何も相手の性別は女性ばかりじゃない。年下、同い年、年上の同性もいた。流石に自分の将来のことも考え、警察関係やその周辺の人間と関係を持つことは無かったが、今後の人生においてあまり関わり合いになることが無さそうな相手とは関係を持った。遊び捨てたと言われないために、二週間から長くてふた月は交際もした。その何れも相手に何かの思い入れや愛着が湧いた故の交際などではない。そんな甘く優しいもんじゃない。ただ単に、ヤリ捨て、食い捨てと言われない為の交際であるし、大抵事件捜査にかまけて向こうが愛想を尽かすように事を運んだおかげで、向こうから別れを切り出され、『アナタの、キミの自由を許してあげられなかった狭量な自分の責任』と相手に認識付けさせてきたおかげで、口汚く罵られたこともなければ悪評を流されたこともない。
そのうち、ただただ言い寄ってくる人間と交際する事に嫌気がさした頃から、オレの中の清廉さはどす黒いものに染まって行った。
きっかけは、婚約者持ちの女性に言い寄られたことだ。
将来を約束した、地位も名誉も財力もある年上の男性と婚約していたその女性は、オレのバイト先の客だった。
都合のつく日だけヘルプでバイトに入って欲しいとサークルの先輩に頼まれて始めたダイニングバーのホールの仕事。人と接するのもお洒落な店の雰囲気も気に入っていたオレは、そのバイト先で色んな人間に言い寄られた。妻子持ちや、人妻。恋人持ち。一番忘れられないのは、婚約関係にある男女それぞれから夜の誘いを受けた事案だ。
その中でも、同じ男としても今の自分では太刀打ちできないほどのハイスペックな男性と婚約関係にありながら、オレをベッドに誘ってきた女性に────オレは、言いようのない高揚感を感じた。それでもその頃はまだ僅かな倫理観と罪悪感ゆえに何度か断っていたものの、彼女は引き下がることは無かった。言い寄られてからひと月後、彼女の誘いに乗って夜を共にした瞬間の、言いようのない高揚感と快感と、どす黒い欲と優越感は────ひとことで言って、中毒性の強いドラッグのようだった。
その日を皮切りに、オレは交際相手のいる人間にしか欲を持たなくなった。否、持てなくなった。だが、その興味も相手が自分に完全に堕ちて恋人や伴侶と別離してしまうと、途端に興味を失してしまう。我ながら最低な性癖を開花させた挙句に拗らせてしまったものだと失笑しか出ない。
そんなある日、とある要請を受けて赴いた現場に、久し振りに顔を合わせた人がいた。数年前、蘭と別れたばかりのオレに想いを告げてきたポアロの元店員────降谷さんだ。
降谷さんはオレに気づくと右手を軽く挙げて薄く微笑み、すぐに部下と思われる数人に意識を戻し、話し込んでいる。会わない間に何か心境の変化でもあったのか、生活環境や昇進が影響しているのか、随分と落ち着いて、妙に色香を纏わせていた。
────好い人でも出来た、かな。
少しだけ興味を惹かれ、向こうの話し合いが落ち着いた頃合に自ら挨拶に出向いた。
彼は近づいてくるオレに気がつくと、部下から二、三歩ほど離れ、こちらに歩み寄ってくれた。
「やあ。久し振り」
「ご無沙汰してます。今日要請を受けたのは捜一だったんですが……公安案件ですか?」
ならオレはお役御免かな、と右こめかみを掻くと、いやいやこちらから捜一に要請を出すように願い出たんだと意外すぎる答えが返ってきて目を丸くする。
「え……降谷さんが、ですか?」
「まあ、正しくは俺の更に上が、だけどね。君は優秀すぎるほど優秀だから」
そう笑いながらポケットに突っ込んでいた彼の両手が不意に引き出され、ほのかな風で目に掛かったオレの前髪を払ってくれた。その左手薬指に光る永遠の愛を誓ったリングを、オレは見逃さなかった。
「あれ? 降谷さん、いつの間にご結婚されたんです?」
そう問うと、一瞬「え、」と戸惑うように自身の左手薬指を見たあと、何とも曖昧に「あー……」と笑い頭を軽く掻く彼の反応を、一瞬も見逃さないように観察した。彼の場合、職業柄、イミテーションである可能性もあるからだ。もし仕事柄必要に駆られて身に付けている場合、その旨をオレには話すはずだと踏んだのだ。明確な任務や事案については口にしないだろうが、『ちょっと必要に駆られてね』などと言ったような暈しながらも暗に任務が関係していることを匂わせるはずだ。
だが、今の降谷さんの曖昧な濁し方を鑑みるに、恐らくは仕事には関係ない。極々私的な理由だろうことが分かった。
────へぇ……。降谷さん、『人のモノ』になったんだ?
バチン、と。オレの心の中で、イケないスイッチがONになる。
うっすらと口許に笑みを刷き、何気ない風を装い口を開く。
「おめでとうございます。いつ頃ご結婚されたんです?」
「ん? ああ……去年の暮れ、かな」
なんとも歯切れが悪いのは恐らく、過去にオレに想いを告げたことが関係しているんだろう。
「改めてお祝いさせて頂きたいので、お食事でもどうです?」
「え、いや祝いなんて良いよ。そう言うの抜きにして君と食事には行きたいけどね」
大体予測済みの返答に、内心笑みを深める。
けれど、あくまでも表向きは無邪気なひと回り年下の好青年を演じることを忘れない。
「あ、じゃあそれでも良いので是非! この姿に戻ってから降谷さんと食事するの初めてなんで、オレ、すごい楽しみです」
満面に笑みを浮かべて無邪気を装いそう口にすれば、満更でもなさそうに、抜群に顔の整った年上のハイキャリアは頬を掻く。
容易く連絡先を交換し、早速来週土曜に食事の予定を取り付けた。
「俺も楽しみにしてるよ。じゃあこの辺で」
何処までもスマートに右手を挙げ、軽く両手をスラックスのポケットに突っ込んで踵を返し、去っていく広い背中に、完全にオレは照準を定めた。
「悪ィなフルヤさん。ぜってぇ逃がさねぇから」
さて。アンタは何ヶ月持ち堪えられっかな。
完全にロックオンした背中が見えなくなっていくのを、純真無垢の皮を被って見送りながら、オレはひっそりと、嗤った。